7.
ドアを開けた瞬間耳をつんざいた悲鳴に、また何かやらかしてしまったのかと思った。だが今回、ミリアムを脅かしているのは己以外の男。タンゴでも踊るように密着し、もみ合う影が月明かりに浮かび上がる。頭の芯が、きゅっと極限まで縮こまったかのようだった。
手にしていた小さな花束を投げ捨て、ヘレはまっすぐ二人の元へと突き進んだ。
男が振り向くよりも早く横っ面へ拳を叩き込み、ふらつく猶予すら与えず肩を掴む。書見机へ額が叩きつけられるのを望んでいたかのように、狼藉者は抵抗の一つも見せなかった。女には手を挙げる癖に。その事実が、腕へ一層の力を籠めるための原動力となる。
「ヘレ!!」
瞬時に上がった熱で何もかもがくぐもって感じる中、まっすぐ飛び込んでくる声、肩へ縋りつく手の冷たさ。ミリアムの叫びはほとんど哀願に近く、肋骨の隙間に平たいナイフを差し込まれたかの如く感じさせられる。
「やめて、お願い……何でもないの、ちょっと興奮しただけだから」
「興奮?」
自らがまともな言葉を口に出来たのは、奇跡に近い。もつれそうな舌はおろか、体中の粘膜という粘膜が焼けるかのようだった。
「襲われそうになっておいて? 馬鹿を言うのもたいがいにしろ!」
「ごめんなさい。でも、本当なのよ……カール、大丈夫?」
机の上へ這いつくばるようにして伏せていた男は、文字通り潰れたような呻きを発した。天板に爪を立てる指を一本残らずへし折ってやりたい。腸を煮えくり返らせるヘレを後目に、ミリアムは元夫の肩に手で触れた。
「鼻血出てるわ、何か拭くものを」
「新しい男か、道理で近頃……」
「違う、彼はマティの友達……動かないで」
肩が触れ合うような場所をすれ違っても、ミリアムの目には自らが映っていない。その事実がとどめだった。まだ堅く握りしめたままだった手から、力は自然と抜け落ちる。
ポロシャツの襟元に寄った皺と、その中で上下する緩んだ肉体を見下ろしながら、ヘレは心の中で荒れ狂う嵐にもみくちゃにされていた。
彼女を守りたいと思った。敬意を払って接していたつもりだった。それは言い訳に過ぎなかったのかもしれない。
らしくもなく紳士的に顔を背けていたツケが、こんな形でやってくるなんて思いも寄らなかった。そうきっぱり口にすることが出来るのか。
出来はしない。その事実からは、少なくとも目を逸らしえはいけない。小走りで戻ってきたミリアムの後ろ姿を見つめたまま、ヘレはようやくのことで腹を括った。
「やっぱり、ずっと会ってたんだな」
「こっちに来てからの話よ。これで2度か3度」
ミリアムの視線は、ふんわりと柔らかいホテルのタオルに向けられている。それがまだらな赤に染まれば染まるほど、彼女の目は辛そうに眇められた。
「今日までは、本当に顔を見て話をするだけだった」
「マティは知ってるのか」
「知る訳ないでしょう」
ふらふらと立ち上がった男を支えて、机に凭れさせる。当たり前のように介助を受け取る身体をもう一度引き倒し、歯を叩き折らないためには、ありったけの忍耐を要した。
「あの子が知ったら、どんな騒ぎになってたか」
「これは夫婦の問題なんだ」
男のぽっかり開いた口から、震える息と言葉が垂れ流される。
「あんたは構わないでくれ」
「黙れ。おまえと彼女はもう夫婦じゃない」
ミリアムの動きはさりげなかったが機敏だった。詰め寄れば竦む男を背中で隠すよう、ヘレの前に立ち塞がる。
「気を遣ってくれて本当に有り難う。でも本当に、私たち二人の問題なの」
瞬間、ヘレは気が付いた。
本当にひっぱたいてやりたいと思っていたのは、この愛らしく、世界で一番気だての良い女性のことなのだと。
「大丈夫、本当に大丈夫だから」
「ミリー」
押し止めようと伸ばされた手を掴み、ミリアムの顔を覗き込む。見開かれた瞳の中に映る自らの顔は、犯行に及ぶ直前の強姦魔もかくやというほど硬直していた。
「よく聞け。君は世間を舐めて掛かってる甘ちゃんで、信じられないほど傲慢だ」
一言詰る文句を放つたびに、自らの体温が一度下がるような錯覚に襲われる。それでもヘレはこれまでのように、あまりにも可憐なまま凍り付く目鼻を恐れたりはしなかった。
「全能の神にでもなったつもりか。君なんかに、人一人の運命を変えられる力はない」
「そんなじゃない!」
きっと眼前の相手を睨み付け、ミリアムは手を奪い返した。
「そんなこと! 私はただ、彼の力になりたくて」
「いい加減に気付け、君の優柔不断さが、こいつを余計悪い方向へ引きずり込んでるんだ」
「ミリー、その男を追い出せ」
「黙って、カール」
「俺に命令するな」
ふがふがとタオルで遮られようとも、腹周りに適正体重より10キロ近く余分な脂肪が巻いていようとも、男の不遜さは隠しようがなかった。血と汗と脂でてかる顔の中、奥まった目が場違いな不機嫌に歪む。
「言ってやれ。本当のことを」
「黙ってって言ったでしょう」
勢いよく振り返った弾みに、ぱっと散った髪が月の光を反射して爆発するように輝く。
「本当のことって何なの。私たちは友達同士ってこと? 無理よ。男と女の間ですもの」
「つれないこと言うなよ」
投げ捨てられたタオルが床の上で丸まる。机の上で据え直し、腕を組んで、すっかり亭主気取りだ。思い切り固められることで、自らの手指の皮膚がちぎれそうなほど引きつれるのをヘレは感じていた。
「あんなに楽しく過ごしたこと、忘れた訳じゃないだろう。お高くとまった一族から逃げ出して。おまえ、あの時本当に幸せそうで」
「もう終わった話じゃないの」
一度ぐっと息を詰めてから、ミリアムは反論を唇から押し出した。
「私、やっぱり逃げられないのよ……逃げなければならないものでもない」
末尾辺りはほとんど呟くかのようだったが、最後まで言い切る。そのためにどれだけの決意によるものだったかは、横顔を染める苦痛の色から簡単に読みとることが出来た。
「ううん、逃げる訳にはいかないわ」
「はん、結局おまえもあいつらの仲間って訳か」
厚かましさを絵に描いたようにわざとゆっくり立ち上がり、男は吐き捨てた。
「金を守るために逃げ出した、自尊心ばかり強いお貴族の一味。奴らが子供にどんな刷り込みをしてるかなんて、おまえやおまえの弟を見れば一目瞭然だよ。甘ったれたお嬢ちゃん」
月明かりの下、ただでも青白いミリアムの顔色が一層色を無くしたと分かる。彼女が足下に転がっていたものを拾い上げた瞬間、ヘレはその得物が何かをはっきり認識していた。
それが男の頭へ叩きつけられるのを止めなかったのは、理性が目を瞑ったからではない。降り下ろされるミリアムの腕は迷いなど微塵もなく、止める暇すら無かったと言うだけの話だ。
ブルゴーニュ・ワインの空瓶は、映画で用いる飴細工の偽物よりも簡単に砕け散る。頭を押さえ、男は一歩、二歩と後ずさった。
踏みとどまる胆力すら持ち合わせていない。よろめきのままにベランダの手すりへぶつかった身体は、そのままゆっくりと真後ろへ倒れ込む。
男のつま先が視界から消えるのを、ヘレとミリアムは何の手出しもせずに見守っていた。
先に理性を取り戻したのは、より凶悪な仕打ちを男へ施した方だ。手の中に残ったワインボトルを取り落とし、ミリアムは両手で顔を覆った。
「ああ、私、なんて事を」
「落ち着け、ミリー」
悪臭を放ちそうな存在が消えたベランダから目を引き剥がすと、ヘレは立ち尽くすミリアムの両肩を掴んだ。
「今から僕が見てくる。君は何も心配しなくていい」
はかっていたかのように着信音を響かせたスマートフォンは、出もせず消してしまうつもりだった。だが幸いなことに、液晶にはこの町で唯一と言える味方の番号が表示されている。
『今ホテルに入ろうとしたら、くそったれ男が姉貴の部屋から降ってきたぞ』
「息はあるか」
『ちょっと待て……ああ、問題ない』
マティアスの声は、心底残念そうに深々と吐かれる。
『幸か不幸か植え込みの上で伸びてる。やったのは君?』
逡巡はほとんどしなかった。立ち竦むミリアムに視線を投げかけ、頷く。
「ああ」
『そうかそうか』
電話の向こうで思い切り頷いているのだろう。しゅう、と鋭い息の音が、電話回線を伝って届けられる。
『もっと早くに、こうしとくべきだったんだ』
後始末はマティアスが請け負うと言ったので、ヘレはまずミリアムをソファに座らせた。この前ヘレが動かした時のまま、背もたれはベランダへ背を向ける形で鎮座している。
酒でもあればと思ったのだが、目に付いたのはベッドサイドに置かれたエヴィアンのガラス瓶だけ。グラスに注いで差し出したとき、受け取ったミリアムの手はまだ震えを帯びていた。
「今すぐ下に駆けつけるべきよね、本当なら」
「その必要はない」
ことさらきっぱりと言ってのけ、ヘレは傍らに膝をついた。
「マティが病院へ連れていく。3階から落ちて死ぬ人間なんていない。ひどくて骨折くらいだ」
「でも」
「ここにいてくれ」
本当によく似合っているフレアスカートを、彼女の華奢な手は引き毟るように握りしめている。薄い布ごと掌で包み込みながら、ヘレは青ざめた顔をじっと見つめた。
「そして、話して、答えてくれ」
興奮が残っているのはこちらも同じ事。自らが今作る声音が、同じ部隊の人間に怪我の様子を聞くときと全く同じものだと気付いたとき、合点と共に情けなくなった。非常事態でもなければ、彼女と堂々言葉を交わすことすら出来ないなんて。
グラス半分ほどの水を流し込むまで、ミリアムは新たな何かを語り始めようとしない。そのほんの短い時間に、感情が濃縮される。薄く開いた唇から覗く舌も、真正面からヘレを見つめ返す瞳も、煮えるような熱をはらんでいた。
「ならお願いだから、頭ごなしに否定しないで」
「約束する」
力強い頷きに、掌の中で指先の力が僅かに緩む。膝の上まで降りてきたグラスが手の甲へ触れ、自らの体温の高さを嫌と言うほど思い知らせた。自覚することは、冷静になるための一歩だ。
「ここに来てから会うようになったって言ってたけど、本当に?」
「ええ。会おうと言われたことは、ウィーンでも何度かあったけど。あんまり頻繁だから、居留守を使わせる職場の人にも申し訳なくて」
何故今このときに、彼女の唇は大きな湾曲を描くのだろう。秘密の共有を誘いかけるその顔は本来胸を騒がせる類のものだ。なのに今このときは落ち着き始めていたヘレの神経を縛り上げ、鞭打つ役割しか果たさない。
「マティには言わないでね。この旅行から戻って新しい仕事を見つけたら、ちゃんと私の口から話すつもりなの」
「あの窓の防犯対策も」
「もう必要なくなっちゃったわね」
ははっ、と少年のような笑い声は、開け放たれたままの窓から流れ込む外の気配を軽々飛び越える。
「瓶の中身が入ってたら、カールは間違いなく死んでたわ。私、自分がこんなにも凶暴だと思いもしなかった」
「それでいいんだよ」
骨の小さな彼女の膝を揺するようにしながら、ヘレは言った。
「今までが堪えすぎてたんだから。思い切りぶつかっていかないと、奴みたいな男は気付かない」
「そうね。私、結局最後まで彼に本音を晒け出せなかった」
夏を感じさせるには少し早い夜風が、柔らかい金髪を撫でる。ミリアムは乱れを気にかけることもせず、顔全体で涼を体感しているらしかった。薄く閉じられた瞼が、闇の中で白く浮き上がる。
「結婚して半年目くらいだったかしら。実家に親戚が集まったとき、ミュンスターから来た伯母がカールに向かって言ったの。『最初はどうなることかと思ったけれど、ミリアムをあんたに譲ってやったのは正解だったみたいね』……譲ってやった、ですって」
「お高くとまった一族って訳か」
「ええ。帰りの車の中で彼、それはもう怒り狂って。なのに私、そんなことで怒るなんて馬鹿らしいから止めてって、涼しい顔で窘めたの……本当は、自分だって胸がむかついてしょうがなかったのにね」
グラスの表面が熱で曇りそうなほど、握りしめる手には力が込められていた。
「あの時素直になって一緒に腹を立てなかったのが、間違いの第一歩だったのかも。悔やんだのは別れた後の話。それからは、少しでも彼に共感しようとしたんだけど……でも、結局はそれも嘘。あんな情けない愚痴、とてもじゃないけど同情できないわ」
従順な犬のように足下で跪くヘレの瞳から、何を読みとったのだろう。口元に微笑を湛えたまま、目元は今にも泣き出しそうに歪められた。
「そう、冷たくて、馬鹿で……傲慢な女でしょう?」
そんな顔で縋るなんて、本気で愛したくなってしまうではないか。その声が心底から己を求めて呼んだならば、か細い体を引き寄せていたかもしれない。その瞳が己の姿を本当に映していたならば、震える唇に口付けていたかもしれない。
爪を立てて引き裂かれたかのような胸を、ヘレは嘆息の後ろに力ずくで押し隠した。
「そうかもしれないな……」
ますます崩れる表情を見ていられずに、目を伏せる。それがとてつもなくまずい対応だと、理解しきっているにも関わらず。
「けれど、ミリー。あいつは君が懸命に偽れば偽るほど、更に求めようとする。どう考えても、それはいけないことだ……ただ君の努力を享受するだけなんて」
ミリアムの身体に、再び緊張が張り巡らされようとする。気の利いた言葉でほぐしてやるなんてこと、とてもじゃないが出来やしない。
「僕は好きだよ。マティだってそうさ。心配したり、どう扱っていいか分からないときはあっても、嫌いになる事なんて。嘘をつく君も、傲慢な君も、どんなときだって……そんなこと、絶対に」
もちろん、こうして出口のない迷路で途方に暮れ、そのくせ決して抜け出そうとはしない君だって。
絶頂へたどり着くことなく、徐々に弛緩していく肉体。ヘレが再び顔を上げたとき、やはりミリアムは涙の一粒すら流していない。まだ頬の火照りは残っていたが、ふふっとこぼれ落ちる笑いは、普段と何も変わらぬ柔らかなもののように聞こえた。
「すごく熱烈に口説かれた気がするわ」
「そんなつもりは……」
今度はヘレが首までのぼせる番だった。
「まさか、いや、そう、違うそうじゃない」
あたふたと身を離そうとして、まだ彼女の手を握りっぱなしだったことに気づけなかった。引かれるままに上半身を傾け、ミリアムは目を瞬かせる。挑むようなその笑みは、機嫌が良いときのマティアスが浮かべるものと瓜二つだった。
「あら、違うの?」
「ミリー」
「残念。今度実家へ遊びに来てくれるって話も、ご破算って訳」
「そんな極端に走らなくても……行かせてもらうよ、この仕事が終わったら」
「仕事ね」
意味ありげな呟きは、心臓を簡単に跳ね上がらせる。間違いなく事実の断片を嗅ぎ当てているにも関わらず、ミリアムが彼の仕事について追求をしたことはなかった。むしろ、この駆け引きを面白がっている節すらある。秘密の共有においては、お互いの手の内を全て晒け出さないこともまた刺激の一つなのだ。
「とにかく、良かった。いつになることやらと思ってたのよ」
何だか騙されたような気がしなくもないがーーどうでもいい話だ、彼女の顔がぱっと輝くのなら。
「カースタントマンって、馬にも乗るの? 貴方は荒れてる種馬(スタリオン)を乗りこなすってマティが言ってたから、お手並み拝見するわ」
「馬? それはちょっと……ああ、半年前まで乗ってた三菱のスタリオンなら、高速のランプでぶつけて」
「乗れないのね?」
「乗れない」
「じゃあ教えてあげるわ」
額に下りてくる柔らかい感触。何て子供だましなんだろう。何て胸をときめかせるんだろう。
「これで、楽しみが増えた」
耳朶を打つ弾んだ吐息にぐらつかされないため、ヘレは今日一番の渋面を浮かべるしかなかった。
甘ったるいキス一つで骨抜きになった身体は、ビル風と夜風の連合にあっけなくよろめく。
「おい、大丈夫か」
背後で機材の点検をしていたマティアスの声は、心底の不安に満ちて屋上に広がった。
「しっかりしろよ。この日を待ち望んでたんじゃないのか、本番を」
「ああ」
その一言で、気難しげな皺を刻んでいた顔から熱と表情が霧消する。ヘレは一番上まで閉めていた作業着のボタンを一つ外し、影打ちでもするようにその場で軽く飛び跳ねた。
普段は夜空との間で立ちはだかるビルの明かりも、今は眼下で精一杯虚勢を張るのが関の山。見上げた月は流れる雲に飲まれては現れ、いかにも気まぐれな態度。針で開けたような星の光のみが、じっと二人を見守り続けていた。
いや、一つだけ瞬きを阻害するものがある。顔を戻せば視界の殆どを覆ってしまう巨大な影。さすがにこの時間帯ともなると、オフィスビルとして機能するコメルツ銀行タワーからも人は去り、整然と並んだ窓には歯抜けのような照明が灯るばかりだった。
中から見つかることはないだろう。恐らくは外からも。下界を歩く人間は、地表を割って現れる悪魔を探すのに必死で、天使の飛び交う頭上へ目を向ける暇などないのだから。
思わぬハプニングのおかげで、お目当てのビルに忍び込んだのは日付の変わる半時間ほど前になってしまった。前近代的なほど、警備の甘い建物だ。清掃会社のユニフォームを着た男たちに、守衛は身分証を求める真似すらしなかった。
今更ながら伊達眼鏡を胸ポケットに落とし込み、マティアスは立ち上がった。片手に握る救命索発射銃は、もう銛までちゃんと装填されてある。
「おっと、よく思い出せよ」
手を伸ばしたヘレから、銃身を短めに切り詰めた散弾銃といった見かけのそれを遠ざける。ちっちっと鳴らされる舌は緊張と冗談がない交ぜのもの。完璧すぎて逆に不自然な笑みが、唇を覆う。
「軍で射撃の成績が良かったのはどちらだ? 500メートル離れた廃ビルの窓から、君に銃を突きつけようとした警備員の手を撃ち抜いたのは?」
「おまえだな。早く頼む」
マティアスの唇は、いかにもふざけた態度でひん曲がる。彼が傍らを通り過ぎたとき、ヘレは思わず鼻を蠢かし、内心嘯いていた。人のことをあげつらう癖して、自分自身は髪から女の香水や化粧品の匂いをさせてるんだからな。
屋上のちょうど北端までまっすぐ向かったマティアスは、自らと胸まである金属の格子柵をザイルで結びつけた。柵に片手をかけたとき響いた僅かな軋みで、この場所の高度を再認識したらしい。一瞬息を詰める。
降下訓練でもそうだが、高所に来たならばあまり身体を傾け、真下を覗き込むのは得策と言えない。姿勢を保ち、己のやるべきことに集中しろ。飛び降りることの先について考えるのだ。
SASとの合同訓練で、鬼軍曹に散々怒鳴られたのを思い出したのだろうか。すぐさまマティアスは顔を持ち上げた。今から斬首台に上がる王よりも毅然としたまま柵を乗り越え、身を乗り出す。銃の構えに関して言えば、やはりヘレよりも余程様になっているのだ。
「思った通り、幅が狭い」
照準器を覗き込んだ肩が持ち上がるのは、銃床を固定するためでも、ザイルの先でふらつく身体の均衡を保つためでもない。
「ワイヤーは一本しか打ち込めなさそうだ」
「構わない」
上半身に装備した縛帯を調整し終わった後、ヘレは言った。
「中国の山岳地方に住む人間にとっちゃ、こんなこと日常茶飯事だ」
背を向け銃床を頬につけたままだったから、マティアスがどんな表情を浮かべていたかは分からない。ただぽつりと呟かれた言葉だけが、風に巻き込まれてこちらに送り届けられる。「君、中国人じゃないだろ」。
射程距離は十分なのに、用心深いマティアスは火薬式の製品を注文した。小気味良い破裂音と衝撃が、張りつめていた身体とザイルを揺らす。
双眼鏡で確認すれば、銛は見事にビルの壁へ突き刺さっている。逃げるよう柵のこちらへ戻ってきたマティアスは、会心の笑みを浮かべながらも残りの作業を手早く終えた。
「忘れ物ないか。手洗いには行ったか」
「大丈夫だ」
滑車を通し、ワイヤーの先端を柱に括りつけ、ナップサックを背負わせ、マティアスの声は僅かに弾んでいる。自らと違い、彼は楽しみを隠そうとするそぶりすら見せない。
「最終確認だ、一等軍曹。制限時間は1時間。ガラスを破るのに30分、金庫を開けて書類を探し出すのに15分。時間超過したら、その時点で帰還すること」
「マイク確認」
「上官の話を遮るなよ」
そう窘めたところで、気付いたのかもしれない。黒い作業着から覗くヘレの首筋が、寒気でも感じているかの如く粟立っている事に。
感情の上では極限まで高揚しているはずだ。なのに、いやだからこそマティアスの浮かべた笑みは、今になって笑みの形を崩した。ごまかすように、耳に取り付けたハンズフリーイヤホンのスイッチをぽんと押し、アーと間の抜けたステレオ音声を聞かせる。
「さて、それではいよいよ賽は投げられるって訳だ」
「マティ」
「うん?」
「いや。何でもない」
まっすぐ延びるワイヤーを軽く引っ張って確認し、柵に足を掛ける。振り返ることはしなかったが、ぽんと肩を叩かれ「気をつけて」と掛けられたマティアスの声音は、一聞すえれば歌うように高かった。
一度がくりと身体が落ちて、傾く。このビルディングの屋上と銀行タワーの目的地は、階数にして5階分ほどの落差があった。
これだけの高さがあると、まるで頭から下へと引き込まれるような感覚に陥る。輝く街の断片に飲み込まれ、そのまま闇の一部に溶けてしまいそうな。
だがそのスリルを有り余ってなお、全身で切り裂く夜風が心地よい。たっぷりとグリースを塗られた滑車が唸りを高めるにつれ、血がふつふつと煮え立つ。
弁護士の事務所が入った建物は、三棟で構成されるコメルツ銀行タワーのうち北西を向いているもの。彼らが拠点とするビルとほぼ並列した状態で建てられている。マティアスの放った銛は、タワーの壁面を削るように飛び、窓の上部に食い込んでいる、はずだった。
宙を疾っていた体は、もうビルに肉薄していた。肩が激突するよりも先に、ヘレの右足は壁を蹴る。上半身が外へ向かって大きく弾かれた。
同じ動作を数度繰り返し、目的地へたどり着く頃には突いた両腕で体を支えられるほどまでに滑車の速度を落としている。同化するほど壁に身を張り付かせ、ヘレは10秒ほど動きを止めた。息が整ってから、そっと囁く。
「到達した」
『了解。あと57分』
その声を合図に、ヘレはナップサックを開いた。
窓ガラスは高さ2.5メートル、幅5メートルと言ったところ。よく磨かれ、内側から白いブラインドが掛けられている。目を凝らさずとも、左上部の片隅に振動探知機の丸い端末が張り付けてあるのが見えた。
ヘレはまず、大きめの魔法瓶の蓋を開いた。屋上で直前までマティアスが煮詰めていたエマルジョンは、まだ細かいあぶくを白い表面に浮かび上がらせている。
保険会社で多少はまともに仕事をこなしている証に、調剤は申し分なし。一メートル四方ほどが囲まれる枠を刷毛で描いても、液体は垂れることなくガラスの表面に止まる。
次に取り出した機械はミリアムのヘアドライヤーと瓜二つの形だが、噴き出すものの温度で言えば二倍以上の差がある。デジタル表示が最大値の摂氏450度になっていることを確認し、スイッチを入れる。
風の音に紛れてくれると思ったが、工業用熱風機はかなり大きな稼働音を建てる。ドライヤーなんてもの、幼い頃の風呂上がりに母親へ捕まえられて、無理矢理掛けられて以来お世話になっていない。噴気口をガラス面に触れ合うほど近付けながら、ヘレは腕の時計を確認した。2時前。行動開始より7分経過。悪くない。
『あの後、ミリーとどうだった』
「別に」
突如耳に流れ込んできた声は、先ほどとまた別の期待に染まっている。口の中に湧いてきた苦虫を噛み潰し、ヘレは答えた。
「あんな状況で何をするって言うんだ」
『そうだな、ワインでも飲んで、ちょっと踊るか……あ、ブルゴーニュ・ワインは君が捨てたのか。2時間は二人っきりだったろう』
「彼女を落ち着かせるのにそれくらい掛かった。今頃ベッドで大人しく眠ってるはずだ」
『で、君はおやすみのキスもせずに出てきた訳だ』
意識を取り巻く含み笑いに手がぶれ、熱風機がガラスの上でこつんと音を立てる。
『君らしいと言うか……ああ、カールは大丈夫だよ。一晩入院させて、明日の朝には追い出される。これ以上余計なことをしたら訴訟手続きに入るって脅したら、震え上がって二度と口を開こうとしなかったよ』
「ミリーも安心するだろう」
『なあ、本当のことを言えよ』
まだ憎たらしい笑いを持続させながら、マティアスは声を潜めた。
『カールの額にはワインボトルの破片が刺さってた。ただ、医者の話じゃそんな強い衝撃が与えられた訳じゃなかったそうだ……ミリーがやったんだろ? あの阿呆にお仕置きしたんだ』
「違う。僕が殴った」
ことさらきっぱりと言ったものの、ヘレはマティアスが信じるものとは思っていなかった。
「別に誰がやろうとも構いはしないだろう。結果は同じだ、災いの種はなくなった」
『それはそうだな。ああ、良かった。これで俺も枕を高くして眠れる』
姉思いの弟。少し過剰すぎるきらいのあるくらいに。
もしも彼に、ミリアムが何故瓶を振り上げたか話せば、どうなるだろう。先を危惧したこともあるーー何せ彼女が足を挫いた際には、ハンムラビ法典でも許容されていない過剰な制裁を犯人に加えたほどだから。
だが実を言うと、ヘレは内心優越感を覚えていたのだ。マティアスに知らせない、自らの中でのみ保管される彼女の秘密。先ほど自らで口にした通り、結果から考えれば些細な出来事。
『そうだ、例のアウディに乗ってたマレットども。この国じゃないくてオランダの人間だった』
「どうでもいい話だな」
『結構名の知れたバウンディ・ハンターらしいんだが。死体安置所や病院にそれらしいものが運び込まれてないところからすると、あのまま逃げたらしい。しかも、職務を放棄して』
「何故僕たちを追う」
『仮説は幾つかあるけど……そろそろ乾いたか』
もう一度時計へ目を落とした後、ヘレは機械のスイッチを切った。ポケットからガラスカッターを取り出し、既に同じエマルジョンを塗布してある針の先で軽く叩いてみる。透明になったエマルジョンには、ほんの僅かに痕が残っただけだった。
車や機械のエンジン部に塗られるこのエマルジョンの役割は制振。原理上は、窓ガラスを破壊する際に発生する振動を軽減させ、警備部門へ知らせるセンサーを無力化するはずだった。
カッターを食い込ませる瞬間は、流石のヘレもシャツの脇に汗を滲ませた。窓に取り付けられた端末は本体が見えず、一体どういう反応を示しているのかは分からない。守衛室は一階だから、ここまでたどり着くのに10分ほどだろう。
カッターの柄に人差し指の力を込め、引き下ろす。きりきりと音を立て、針はエマルジョンの上を滑った。下のガラスにも、切り込みを与えたことだろう。
『どうだ』
「問題ない」
定規を使う必要はなかった。人一人通るだけの穴を開けることが出来きれば。
ふと、針の先端がガラスとは違う硬さを探し当てたことに気がついた。少し弾力に富み過ぎている。
「マティ。PVB(ポリビニルブチラール)だ」
『やっぱり挟んであったか。化学強化ガラスは頑丈だし、ちょっと手抜きを期待してたんだけどな……時間はある、続行だろ』
「ああ」
一重、二重とカッターで線を引き、ガラスを削り取る。出来上がった小さな溝へエマルジョンを流し込んでから、中の樹脂と二枚目のガラスを切断すればいい。時計の針が示す猶予は42分。まだ大丈夫、まだ--
ワイヤーから垂直に吊されたこの状態では、あまりにも動きづらい。ヘレは太腿に手を伸ばすと、締め付けていた縛帯を外した。ガラスを蹴って体を水平にし、カッターを操る。徐々に頭よりも高い位置へ持ち上がる足が、吹き抜けるビル風にふらふらと揺れる。脇の下と腰でのみ固定された縛帯が僅かにずれ、頭へ血が一気に流れ込んだ。
『ヘレ、何やってるんだ』
「届かない」
『届かないこと無いだろ。イーサン・ハントじゃないないんだから、馬鹿な真似はやめろ』
明らかに上がった声のピッチで、まだ何か喚こうとする予定らしい。ヘレはイヤホンのスイッチを切ると、作業に没頭した。
本体から完全に分離してもなお、ガラスはがっしりとはまっていた。体を垂直に戻し、ワイヤーを両手で掴む。
そろえた両足を思い切りガラスへ突っ込ませることで、びいん、と厳しい振動がブーツ越しにも伝わってくる。
壁面に食い込んでいた銛がぐらりと揺れたのは、振り子運動を4度も繰り返した頃だった。銛も、ガラスも、あまり響くようならまずい。頭ではそう理解している。それでもヘレは動きを止めなかった。
10幾度目に蹴りつけたとき、ようやくガラスの右側に手を差し込めるだけの隙間が出来る。体を中に押し込めるだけずらすには、ありったけの力を要した。
猫が細い場所を通るときは、ヒゲを使って自らの体格と照らしあわせるとか。この穴は顔こそ通ったが、肩を入れるときには少し作業着が引っかかった。まだ熱の残っている切り口が、二の腕や腹へ微かに痛みを残す。
タイルカーペット張りの床へ足を下ろしたときには、今まで風に叩かれ倒立していた頬が発火しそうなほど熱かった。部屋の中は静まり返っている。スリープ状態になったパソコンの電源スイッチだけが、闇の中で橙色の光をちかつかせていた。
足を踏み出せば、思い切り引っ張られた滑車が、銛に何度も衝突している。構わず行こうとしたのがいけなかった。がくんと体が後ろへ仰け反り、ヘレは思わずその場でたたらを踏んだ。
体の末端から、何かが抜け落ちていく感覚。窓の外でごんと重たい音が響き、振り返る。窓辺に駆けつけたとき、既にワイヤーは輝く闇の中へずるずると引きずり込まれていた。
イヤホンを起動すれば、待ちかまえていたようにマティアスの怒鳴りが耳を突き抜ける。
『君は馬鹿か、このくそったれ童貞野郎!! 一緒に落っこちたんじゃないかと思って、心臓が止まるかと思ったぞ!!』
「無事だよ」
縛帯と繋がった滑車は、階下の窓へ掛かるぎりぎりの位置で揺れている。たぐり寄せながら、ヘレは至って平静な声を受話機器ごしにぶつけた。
「次からは、もう少し頑丈な機材を用意してくれ」
『俺のせいだって言うのか! 窓を外すにしても、もう少しマシな方法があっただろう!……君、本当に怪我はないだろうな』
「ああ。そっちからワイヤーを回収してくれ。発見された様子は?」
『ないよ、ああ……どうするんだ。帰る手段がなくなったぞ』
「用意してあるから問題ない。とにかく今は、金庫を開ける」
『用意だと? 一体何を……』
「集中したい。切るぞ」
『やめろ、二度と切るんじゃない』
不明瞭な唸りをもうしばらく唱えた後、結局マティアスは口を噤んだ。
窓から向かって左、ロートレックか何かの複製画の下に埋め込んである金庫は、貴重品を守ると言うよりはクライアントを信頼させるために据え付けられているのではなかろうか。何度か確認した通り、四角い板のような磁石式の鍵を差し込んで開鍵するものだった。
ナップサックに縛帯と滑車を放り込み、道具を取り出す。まずマグライトを灯し、口にくわえる。ゴムスポンジの板、シール状の両面着磁石を20枚。
金庫のプレート部分に磁石をくっつけるところから作業は始まる。縦に2列。横は製造会社によって多少の差はあるが、今回は1列につき9枚で事足りた。
磁石をナイフで切り、引きつけられたものとは対極の面をゴムスポンジに貼る。それまで沈黙を保っていたイヤホンから、徹底的に感情を排除したーー少なくとも、本人はそうあろうと努力しているーー囁きが聞こえてきた。『あと22分』。
答えることなく、即席の鍵を溝に差し込む。造作もない。かちりと音が響き、灰色の金庫は売女よりもあっけなく口を開けた。
飾りものだろうという認識はあながち外れてもいない。書類は思わず眉を顰めるほど手当たり次第に投げ込まれており、枚数も少ない。
全部取り出しても、手で抱えられるほどの厚さだ。一際古びた紙のファイルなら、簡単に見つけだすことができた。中を開き、確認する。歯で固定されていたライトを軽く上向け、サントロに与えられた情報が記載されていることを確かめる。
「手に入れた」
道具と書類をナップサックに詰め込み、ヘレはマティアスに伝えた。ほっと吐き出された息が、機械の作る微かなノイズへと混ざる。
「今から脱出する」
『だから、どうやって……中から出るつもりなら、ちょっと待て。出来れば避けたかったが、火災報知器を鳴らして』
「おまえはそこを出ろ」
用意したスーツに着替え、ゴーグルをはめる。次の一言を口に出したとき、既にヘレはビルから身を乗り出していた。
「降りたら連絡する。迎えにきてくれ」
『おいヘレ、人の話を聞け……ヘレ?』
足でガラスを蹴り、宙へ飛び出す。浮遊感は一瞬のもので、すぐさま落下が始まった。夜の輝きの中へ。無理矢理光り続ける虚構の中へ。
いや、正確に言えば滑空と言うべきか。実のところ、ヘレのウィングスーツ経験は、これまで両手の指で数えるほどしかなかった。そのどれもが、遮蔽物のほとんどないネヴァダの砂漠上空で行われたものだった。
これでも、飲み込みの早さで言えば軍時代から定評があった。滑車での移動など子供だましに思えるほどの風圧、流れる景色。何の命綱も持たない体が飲み込まれる。どこへ?
どこだろうと、かまいはしない。この瞬間を味わえるのならば。
タワーとマティアスが待機していたビルの狭間をすり抜け、立ち並ぶ店舗を眼下に。幾らこの辺りが治安の悪さに比例する人通りの少なさでも、いい加減限度だ。30秒も直線飛行を行わないうちに、ヘレは四肢を開き体を左に傾けた。軌道が曲線を描くにつれ、速度が僅かに緩まる。
ほんの10数メートル下に迫った石畳の模様すら判別できるようになった頃、パラシュートを開く。ビルの影となった細い路地には、車が通る気配もなかった。
思ったよりも勢いを殺しきれなかったが、伊達に降下訓練をこなしていたわけではない。キャノピー(傘)の端が街路樹へ引っかかったものの、歩道の上へ転がり着地したときは、特に傷も負ってはいなかった。
パラシュートを回収しているとき、ぽかんとした顔で見守るホームレスと目があった。銃を突きつけるか金を突きつけるか。結局ヘレが突き出したのは人差し指だった。口元に持っていき、しっと子供のように警告する。
とんでもないエンジンの吹かし方で来訪を主張するBMW。ローターが傷みそうなほどの急ブレーキで停車すると、マティアスは飛び出すような勢いで運転席から降りてきた。大きな口を開き喚こうとしたところで、周囲の人目に気付いたのだろう。ぎょろりと目玉を動かし、ヘレを睨みちぎる。
ヘレが宥める時間はなかった。引き抜かんばかりに腕を捕まれ、助手席に押し込まれる。ホームレスはまだ、キリストの光臨に遭遇したかのような顔でこちらを眺めていた。
「マティ」
「黙れ」
「成功したぞ」
「もう勘弁ならない!」
密室の中で、マティアスが遠慮することなど無かった。
「前から薄々感じてたんだ、今日ようやく思い知ったよ! やっぱりアフガンで、あのまま君を置いて来れば良かった!!」
「あのとき負傷してたのはおまえだろう」
「フランス語が話せない君なんて、あっと言う間にタリバンの餌食になってたさ! 一体何度俺の寿命を縮めれば気が済む!!」
「悪かった」
スーツを脱ぎながら、ヘレはいつも通り謝った。そう、毎度の話だ。この後の展開は簡単に読める。
「本当にすまなかった。だが二度としないとは言えない。これは僕の病気なんだ」
病気、との言葉に、マティアスの肩から力が抜ける。
「それで、おまえも感染してる……だろう?」
「もういい」
見つめ返す眼差しに、マティアスが応えることはなかった。しかめっ面と共に顔を正面へ戻し、短く吐き出す。
「もういい。このくそったれめ」
これは決まりきったやりとりだ。もちろんお互いに、受診の必要があるとは更々感じていない。治すつもりもない。
しばらく唇をむにゃむにゃと蠢かした後、マティアスはギアを入れた。横顔にはまだ不機嫌が湛えられたままだが、これもやがては消えるだろう。
「次からは、何をするかちゃんと相談してくれ。準備ってものがある」
「分かった」
「信用してないのか。相棒だろ」
相棒。ふてくされたような言いぐさと共に放たれても、それは十分面映ゆいものだった。思わず顔を逸らし、ヘレは頬を掻いた。
「そうだな。すまなかった」
本心からの謝罪に、薄暗い車内を覆っていた静寂が、ようやっと柔らかさを増した。
車が去る姿を見送るホームレスに、振り返りざまもう一度沈黙を強いるポーズを見せたのが最後だ。二人はこの街を後にした。もう一度、名物の腸詰めを食べたいと気まぐれを起こすその時まで。
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