6.

 ポロックなんか問題外。ルイス・ブニュエルやリチャード・カーンの映画、舞台の上で動物の臓物を掛け合うウィーンのアクション・パフォーマー、後期のビートルズが奏でる不協和音。

 生まれてこの方、マティアスはアバンギャルドというものの存在を許容こそすれ、何らかの感性を揺さぶられたことなど一度としてなかった。便器に番号を振って美術品だと言い張る人間に、イルゼ・コッホの人革製ランプ・シェードを否定する権利などあるのだろうか。


 そんな彼が、大聖堂と目と鼻の先にあるモダンアート美術館へ足を運んだのは他でもない。会見の場所として相手が指定してきたせいだった。あんたそんなものに興味があるとは思わなかったよ。返信メールによっぽどそう記そうと思ったが、バソコンのモニターを覗き込んだヘレの言葉に結局止めた。「おまえ、子供みたいな性格だって誰かに言われたことないか」。



 ただ話をするためだけに12ユーロという入場料を払うのは癪なので、待ち合わせの一時間前には美術館へ赴いていた。「ショートケーキ」と称される、褐色とクリーム色で構成された三角形の建物は、甘いものを格別好まないマティアスの食欲もかき立てる。

 そう言えばホテルを出て以来、道すがらのコーシャーで買ったコーヒーとベーグルしか口にしていない。血糖値を上げるために、それこそ菓子でも腹に入れてくれば良かったと少し後悔した。


 受付で渡された次回の特別展示のチラシを手に、白い階段を上る。こんなところにすき好んで訪れる連中がいるなんて。信じられないことだが、フローリングと白い壁が特徴的な最初の部屋だけでも、そこそこに人が入っていた。半分以上は観光客だろう。「モダン」を体現する空間はあるのに隙がない館内には、英語や聞き取れない言語がぽろぽろとこぼれ落ちていた。


 分からない。自らが特別無知ではないと考えるマティアスですら、理解に苦しむことばかりが周囲に満ちている。

 イタリア人はせっかちだ。アウディは排除されたものの、誰かに付けられている気配は--少なくとも、そう妄想させるだけの不安要素は--一向に消えない。せっかくの旅なのに、ミリアムの表情はどこか沈んでいる。


 誰も彼も、物事を抽象的に、やたらと長文で表明しようとするから悪いのだ。小学校の頃書かされた「最近あった楽しい出来事を、レポート用紙三枚分の作文にしましょう」式に。

 好きなら好き、気に入らないものは気に入らない。かったるい御託など並べ立てず、簡潔に言ってしまえば、どれだけすっきりすることやら。ゲームのルールは心得ていたが、それを振りかざすのは敵に対してだけ--ここに、敵はいるのだろうか。


 展示物へ感銘を受けているふりを貫き、マティアスは頭上へ目を向けた。クリーム色の壁に頭から突っ込んだ馬の像。抜け出そうと後ろ足が宙を蹴っている最中の下半身を、そのままプラスチックでコーティングしたかのような趣き。

 これの意味が分かると自認する輩の中に、もがいている馬というものを目にしたことのある奴がいるとは思えない。思い出すだけで汗が滲みそうな光景。地面にどうと倒れ、土を掻く蹄。汗ばむ肌と荒い息。利口そのものの澄んだ目が、慈悲を乞う。父親はまだ乗馬ズボンの土も払っていないマティアスに猟銃を渡し、言い放ったものだった。「おまえは悪くない。だが、務めは果たせ」。



 フローリングの上でこつりこつりと響くぎこちない足音が、意識を現実へ引き戻す。音の方角へ目を向けることなく、マティアスは次の展示室へと進んだ。黒いパネルで仕切られた白い部屋。まるで迷路の如く経路は決められており、そのくせ誰をも孤独にするような。


 部屋の中心あたり、双子の少女が写されたモノクロのポートレート前で足を止める。丸めたチラシごと後ろ手に組み、見入っているふりをしていると、足音がようやく追いついてくる。完璧な演技だ。男が本当は健脚の持ち主であることを、マティアスは知っていた。

「ダイアン・アーバスが好みかね」

「むしろ嫌いです」

 写真へ目を向けたまま、マティアスは答えた。

「彼女の写真は、不穏だ」

 断言の口調に、ゲラーマンはそれ以上の意見を戦わせようとしない。以前会ったときに比べて、白髪が増えたようだ。それを取り繕うでもなく自然に流し、仏僧のように穏やかな眼差しを眼鏡越しに投げかける。

 その物腰もあるし、身につけているのはサヴィルロウ仕立てらしいかっちりしたスーツだ。初対面の時、マティアスはこの男がイギリス人だと思い込んだ。だがあちこちで小耳に挟んだ噂を信じるならば、認識は誤りであったらしい。というか、彼の正確な素性について知るものは同業者の中でも誰一人としてなかった。


 知られているのは、彼が口の堅い相手にならば、それが例え若造であっても侮ることなく取引を行うと言うことだけだった。


「助かりました。わざわざ来てくれなくても良かったのに」

「たまたま近くへ回る用事があってね。ここは好きな街の一つだし」

 ローレンス・オリヴィエのように完璧なクイーンズ・イングリッシュが、静寂に顔をしかめさせないほどの声音で放たれる。

「フランクフルトほど興味深く、いびつな街もそうそうありはしない。栄えある伝統も、恐ろしい戦火も、何一つ知りませんよという顔で未来へ走り抜けようとする天の邪鬼なところが。常に罪の意識へ捕らわれているこの国の中では、希有な存在だ」

 軽く体重を掛けられるたび、金属製の杖が甲高い軋みを上げる。年相応に骨ばった白い手に浮かぶのは染みではない。このケロイドは偽物でも何でもなく、杖の持ち手を握りしめるたびに皮膚が醜く引きつった。

「君は確か、この国の生まれではなかったね。訛りは残ってるな……ずっとジュネーヴ育ち?」

「14までは」

 白々しい言いぐさだ。鼻を鳴らすのは、年長者へ敬意を示すという意味で流石にしなかったが。

「何もかもご存じなんでしょう。貴方は物だけでなく、言葉ですら易々と手に入れる」 

「まさか」

 僅かに顔を傾け、ゲラーマンは微笑んだ。

「ただの偶然だよ。それにしても、縁とは不思議なものだね。初めて私を訪ねてきた君は、君の祖父君が独裁政権から逃れる為に一家を連れ、私の師を頼ったときと同じ年頃だった」

 セピア色に色褪せ掛けた写真の中で、少女たちの笑みが輪郭をなくす。そうですか、か何か、いかにも気のない風を装った自らの声は、空調の音にさらわれて口に出す端から消えていく。

「巡り合わせを神に感謝すべきなのでしょうね」

 ゲラーマンの口角に寄せられた皺は悪意どころか、どこか親近感すら覚えさせる物だった。だから口角がひくりと痙攣したのを見られたところで、構いはしない。マティアスはすぐさま、唇を大振りすぎる過ぎる笑みで上書きした。

「それとも、礼を述べた方がいい?」

「いいや。むしろ師は、自らの仕事が中佐の命だけを救い、信念を奪ったのだと憂いていたよ。家族を守る為とは言え、中佐は祖国を捨て抵抗を諦めた自らに耐えきれず、最後は」

「それは、俺も良心の呵責を覚えなければいけないことですかね」

 切り取られ、閉じこめられた乙女たちの立ち姿が、ぐっと焦点を絞る。


 どうやら、これは試験らしい。いっそ愉快な気分になって、マティアスは手の中でチラシを軽く振った。

「両親も周囲の人間も、事ある毎に罪の意識を植え付けようとした。自省こそが、良く生きる道だと。姉なんかは素直だから、その術中に見事はまってる。だが俺はそうじゃない。なにせ不肖の息子ですからね」


 父は叱った。おまえほど傲慢な人間はこの世にいないと。母は嘆いた。おまえは罪悪感というものを、私の腹の中に置いてきてしまったようだねと。

 罪を感じるとするならば、それは罪を感じないことについて。それすら、しばらく経てば紫煙のように薄まり消えてしまう。


 そしてマティアスは、そんな己の性質について恥じたことなど、一度としてありはしなかった。


 自らでも完璧だと分かる笑みを維持したまま、マティアスはゲラーマンに向き直った。

「父によると、俺は祖父に瓜二つだそうです。祖父は意志が強く、常に己の信念に従って突き進んだ人物だったとか」

 手汗を吸ったチラシが、掌の中で極限まで絞られる。今不快感を覚えることがあるとすれば、そのくったりとうなだれる光沢紙の感触だけだった。

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。ただもしも俺なら、一度捨てたが最後、祖国など二度と振り返らなかったでしょうね……良心なんて、知ったこっちゃない。そんなもののために、自らの掴んでいるものを手放すなんて、許せる訳がない」

「それは信念でも意志でもない、若ささ」

 相変わらずゲラーマンの瞳は、慈愛に満ち満ちたものでしかなかった。曇りの一つもない遠視用レンズの奥で、目尻を笑みの形に下げる真似すらしてみせる。

「そういうはちきれそうな気持ちを眩しく感じるようになったのは、どれくらい昔のことかな」

 どうやら試験は男の満足する結果と共に終了したらしい。ゆっくりとスーツの胸ポケットに差し入れられた手が、小さな鍵と共に引き出された。

「怖い物などないんだろうね。世界が自らの手の中へあるかのように感じて」

「そこまで子供じゃありませんよ」

 ありふれたディンプルキーには、緑色のタグが取り付けられている。丸いプラスチックに記されたフランクフルト中央駅の文字を目で確認し、マティアスは受け取った物をポケットへ滑り込ませた。

「純情でもないし。金は受け取って頂けましたね」

「十分な額を」

 杖を慎重に持ち上げ、ゆっくりと身動きの準備を整えながら、ゲラーマンは言った。

「ああ、それから例の男たちについても、一応調べはついた。メールで送ってある」

「そんなに早く?」

 僅かに屈められた後ろ姿に投げかけたのは感謝のつもりだった。だが肩越しに首を捻った男の目は、東洋の仏像のように全ての感情を振り落としていた。

「君たちが何をしているかは聞かないが、気をつけたまえよ。あのトマト王については、良くない噂しか耳にしない」

「オルメタなんて名ばかりですか」

 写真に向き直り、マティアスは溜息を漏らした。

「まあ、成功と悪徳は双子の兄弟だと言いますからね。この女の子達みたいに」

 最後に目にしたゲラーマンの眉は片方だけがつり上がり、さながら賢者のような形をしていた。

「よく見てごらん。彼女たちの正体を」

 言われるままに顔を近付け、マティアスは目を見開いた。道化の如く可愛らしい服装へ身を包んでいるが、その被写体の顔には隠しきれない老いが刻まれている。夜の裏通りに佇む双子の小人。100歳の少女。

 コートまで着込んでいるのに、背筋を寒さが駆け下りた。



 息苦しくなるような美術館を後にし、駅のロッカーから荷物を取り出していたら、時間はもう4時を回っている。腹が減った。今日の夕飯は何にしよう。旧オペラ座にあるカフェ・ロッソでリコッタ・チーズケーキをぱくつきながらそう考えている自らに気付いたときは、流石に呆れざるを得なかった。


 ついつい、油断してしまう。オープンテラスでわざわざ、ビル街から背を向ける席を選んだせいもある-ーこの街にいる限り、天に向かってにゅっと突き出す銀行タワーから逃れるのは至難の技だった。

 今耳に届くのは車の排気音ではなく、溢れる噴水の涼やかな音色。目の前に広がるのは摩天楼ではなく、格調という言葉を体現する為に作られたか如く旧然とした街並み。広場へ沿うようにして、マティアスが小さい頃から慣れ親しんだ石造りの建物がむっつりと立ち並んでいる。この暗さを嫌う人間も多い--己の中の影と結びつける故に。

 本当は、自らもその一人なのだろうか、と考え、即座に否定する。あの何でも知った風を聞く男の言う通りだ。厳密に言えば、そもそも自らはこの国において異邦人なのだから。痕跡は生まれるずっと前に拭い去られた。見えないものに、ありもしないものに気を割かれるなんて、馬鹿げているにもほどがある。


 そう、いい加減妄想から解放されなければ。アウディが消えた時点で気持ちを切り替え、目先の事に集中すべきだったのだ。この後のことが済んだら真っ直ぐホテルへ戻り、受け取った荷物を点検しよう。決行は明後日の夜。余裕があるわけではない。


「お待たせ、高いところが好きなハンサムさん」

 掛けられた声に顔を上げる。視界を覆うTシャツの柄は今日も思い切り変形している。偉大なる膨らみ、母性よ永遠なれという訳だ。

「こっちこそ迎えに行かなくてごめん。すぐ分かった?」

「うん。素敵なカフェ」

 くるりと柔らかいブロンドの癖毛を弄びながら、小柄な方の女は向き合う席へと腰を下ろした。垂れ気味の目元を一層下げ、ふんわりと笑みを浮かべてみせる。

「いっつも凄くお洒落な店ばかり選ぶのね。ドイツ人ってスターバックスに入らないの?」

「女の子誘うのにシアトル系は失礼だろ」

 コーヒーを自らの方へ引き寄せながら、涼しい表情を浮かべておく。

「ラッヘル……ああ、いつも間違うな。君の国じゃレイチェルって発音するのか」

「どっちでも構わないわ。あなたの発音、とても綺麗よ」

「どうも。君のドイツ語だって様になってきたぜ」

 言葉と三脚の椅子が動き、ようやく席に落ち着きが戻ってくる。早速メニュー表を広げるレイチェルと違い、もう一人のミス・ニューヨークは両膝の上に手を乗せ畏まったまま。上背のある人間特有のしんねりした上目遣いは、周囲の状況を戸惑いも露わに観察していた。

「ジューン、君も何か頼んだら」

「その、ドイツ語読めないの」

「発音はそんなに綺麗なのにね。どこで習ったって?」

「あ、ええ。ひいおばあちゃん」

 切り揃えられた前髪の向こうから、ぎょろりと藍色の瞳が向けられる。

「ライプツィヒに住んでたの。小さい頃は、夏休みになる度遊びに来てたわ」

「アメリカから東ドイツに? 君のお父さん、外交官が何かだったの?」

 訪れた沈黙はほんの短いものだったが、徹底していた。


 突如、ジューンがびくりと背筋を伸ばす。続いて響く朗らかな笑い。レイチェルはほんの少し舌足らずな口調へそぐわない、流れるように柔らかな声を持っていた。

「ねえ、ちょっと。人の事何歳だと思ってるの? ベルリンの壁なんか、私たちが赤ちゃんの時に崩壊してるわ」

「ああ、こりゃ失礼」

 結局マティアスは、感じた違和感をコーヒーと共に飲み下した。女の嘘なんて、一々気に留めていたらきりがない。

「つい自分の感覚でさ。それに、知り合いで東ベルリン出身の奴がいて」

「この前一緒にいた人?」

 レイチェルは尋ねた。組み合わせた手の甲の上で、長い睫毛が蝶のようにぱたぱたと瞬く。

「彼も連れて来れば良かったのに……こんな良い女二人を独り占めだなんて、悪い事だと思わない?」

「生憎、彼は売約済みでね」

 途端浮かぶ落胆、正直で大変宜しい。思わず苦笑いを浮かべ、マティアスはフォークを下ろした。

「ああ、そう言えばベルリンのフェスはどうだった。誰が来てたんだっけ」

「色々。一番盛り上がってたのはやっぱりダイ・アントワードかな」

 レイチェルが話を振れば、ジューンはカーディガンの裾を引っ張りながら、憂鬱そうに目を伏せた。

「私に聞かないで」

「あ、そっか。あんた嫌いだったわね」

「彼ら、ライブ・パフォーマンスが凄く良いって聞くけど」

「何だか怖いじゃない」

 化粧気など禄にないにも関わらず、ジューンの唇は異様に赤く、扇情的に盛り上がっていた。

「あちこちに喧嘩売って。売名にしてもあんまりだし、何がしたいのか分からない。この前PV見たけど、あれ、病気だわ」

「音楽に怖いも何もないわよ。前の方だったし、最高にノれた。手を伸ばせば届きそうなところにNinjaがいたのよ」

 陶酔しきったように目を閉じ、襟刳りから覗く鎖骨の辺りを両手で触れる--少し過剰なほど自己評価の低そうな友人と違い、レイチェルは自らが他人にどう見られているかを熟知していた。

「ほんの2メートル足らず。『ピットブル・テリア』をプレイしてるとき、目があったわ」

「別にそれほど好きでも無い癖に」

 ぽそりと呟いた後、ジューンはここにやってきて以来、初めてマティアスの瞳の位置まで自らの目線を持ち上げた。

「あんなおっかないアフリカのラッパーより、ここを観光するほうがよっぽど楽しかった。綺麗な街ね」

「本当にそう思う?」

 頬杖の上からそう投げかければ、ゆっくりとした瞬きが返される。まるで疑問を投げかけられたこと、そのものが疑問であるかのように。曖昧に微笑み、マティアスはコーヒーを啜った。

「いや、この街は中途半端だから。新しい時代を目指すにしても、古き良き時代を残すにしても。アスファルト・ジャングルを名乗る割にビルの数が少なくて何だか唐突な感じがするし、伝統を重視するにしては木造の家も空襲や取り壊しでなくなってるし。長く住んでるとそうでもなくなるんだろうけど、初めて来たときは、ちょっと居心地悪く感じたな」

「私はそう思わなかったけど」

 長めの袖口に引っ込もうとしていた指が動きを止める。ジューンの言葉は相変わらず口の中で自己完結し、背後の噴水に打たれ掻き消えてしまいそうな頼りなさげだった。しかし声の小さなものが、訴えるべき意見を持っていないとは限らない。

「というか、きっと初めて来た場所だから美しく思えたんだわ。誰かの小説に……カポーティだったかしら、あったけど。ニューヨークに来たおのぼりさんは、薄汚れたコニー・アイランドで食べるネイサンズのホットドッグも、歩くのも大変なブロードウェイの人混みも、みんなこう感じるんだって、『わあ、これは最高だわ』」


 ぽかんとした顔で見つめるレイチェルなどお構いなし、話は懸命に紡がれる。気付けばマティアスも椅子へ座り直し、笑み一つ浮かべず耳を傾けていた。

「いつでも、いつまでも、そんな気持ちでいられたら幸せよね。意味もなく怖がったりなんかせずに……そもそも、怖がる必要なんか無いのかもね。何も知らずに、無謀なら」

 ただでも潤み気味の瞳が、限界まで焦点を失う。本人はもしかしたら、己の口上に聞き手を求めていないのかもしれない。

「何でも初めて見るみたいな気持ちで、めいいっぱいわくわくして、目を輝かせていられたら……」

 そこでようやく、注目に気付いたのだろう。見る見るうちに頬を真っ赤にし、にこり、と赤ん坊のような顔をくしゃくしゃにする。

「現実は、そう上手いこといかないけど」

「カポーティですって」

 困惑の果てに訪れる逡巡の後、レイチェルは半ば裏返った声を上げた。

「あんた、何様のつもりなのよ」

「興味深い意見だな」

 心の底からの賛辞と共ににっこり笑いかければ、ジューンの顔に溜まっていた熱は耳まで回ってしまった。じっと見つめて楽しむより、見ないふりをするのが男としての嗜みだ。すっかり忘れ去られていたメニューを取り上げ、マティアスは席をぐるりと見回した。

「さて、注文と行こうか。君たち、キルシュは苦手?」

「うーん、でもどちらかと言えば、お腹空いちゃったな」

 机の下からはみ出す、色褪せていないブルージーンズに包まれた脚は、体躯との比率で言えば十分に長い。それなのに太ももの肉付きはあまりにも蠱惑的なのだ。ゆっくりと組み合わされた先端に見えるのは、予想外。スニーカーではなくヒールのあるサンダルを履いた旅行者。

「ここの上はレストランだっけ」

「あそこはちょっと気取りすぎてるな……ああ、そうだ。最高に夜景が綺麗な店を知ってるんだ」

 自らでも笑ってしまいそうなほど陳腐な誘い文句だた。幸いなことに女たちも彼と同じく、ゲームのルールを心得た人種であるらしい。形は違えど間違いなく好意を表す笑みが二つ、投げかけられる。


 だが順調な滑り出しを経てもなお、朝起きてから今までの間、道に吐き捨てられたガムのように頭へこびりついて取れないもの。それがどこにくっついているのかも、何を表しているかも分からない。

「その後、どこかのハコにでも。今の季節、夜は長いからね」

「期待するわ」

 擦り寄せられた身の中で一番最初に触れてくるのは掌とシャツ越しの胸。一瞬の期待を見越されたらしい。見上げてくるレイチェルの口元が、いたずらっぽくつり上がる。

「思いっきり、遊びましょ(Play Hard)」


 そう、今はそれがいい。不安など忘れて、初めての時を楽しむのだ。


 スタートのフラッグを振る代わりに、マティアスは両手に抱えた花へ均等に笑みを振りまいた。

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