六十一日目:それでも王女は生きていく

「さあて、機嫌はどうだ? 楽にしてろよ」

 冒険者は昨日と同じようにゾンビのロビンと二人がかりで、縛り上げられたわたしを檻からずるずると引きずっていく。その行く手には、借りきったらしい村の倉庫。広々とした床に描かれているのは魔法陣。



「あの冒険者は魔物使いです。それも、ちょっと外法に手を染めていましてね」

 昨晩の夢の中でアガレスは言った。

 ――魔物使いの外法とは?

 魔物を手なずけ使役する冒険者。そこにどのような禁忌があるというのか。

「あのゾンビ、不自然でしたでしょ? いえゾンビそのものが不自然と言えば不自然なんですけど」



 わたしは魔法陣の上に転がされた。少し離れたところにもう二つの魔法陣があり、三つで正三角形を構成している。その片方に、ゾンビが足を踏み入れた。



 ――確かにそうでしたね。背中に翼を生やし、触手も備え、呪文を使った上に、戦闘となると異様に素早くなりました。

「つまりあれが、あの冒険者の研究の成果ですよ」

 ――魔法か何かで、魔物に特殊な能力を付加するということですか?

「惜しい。もう少し強引な手です」



 わたしとロビンがそれぞれの魔法陣に完全に入っていることを確認すると、冒険者は呪文を唱え出した。西部では耳慣れない、恐らくは東方の言葉。

 それと同時に足元の魔法陣が光り輝く。床に描かれていたはずの紋様が回り始め、わたしの身体を飲み込んでいく。

 目を転じればゾンビのロビンも同様に、魔法陣の中に吸い込まれていくところだった。



「モンスター同士を合成させるんですよ」

 アガレスの言葉にわたしの理解が追いつかない。

「呪法の一種で二体のモンスターを溶かし、粘土細工のようにぐちゃぐちゃにして一体化し、それぞれの持つ長所や特性は生かしたまま新たなモンスターを作り出す。無理矢理一つにされる当事者の意思を除けば、実に合理的で優れた手口ですな」



 自分で料理をした経験はないが、料理しているのを眺めるのは好きで、しばしば城の調理場へ足を運んだことがある。

 今のわたしの身体は、たぶんその時に見た一塊のバターのようになっていることだろう。熱せられた鍋に放り込まれ、あっという間に溶け出して、他の材料と混ざり合っていく。熱こそ感じないものの、わたしは間違いなく身体が溶けていくのを、また他の存在と混じり合っていくのを、感じていた。



 昨晩そう聞かされて、わたしは直前にオクタヴィアが手を叩いて喜んでいたのを思い出した。たぶんあの娘はわたしが何と合成させられるのかも聞いたのだろう。

 一方わたしは自分で推測した。最も強い手駒とその次に強い手駒。より困難な局面に挑む上では、この二つを足すのが最善の選択のはず。

 つまりわたしは、ただの醜いドラゴンよりもなお無惨な存在になるわけだ。

 ――心は、どうなるのです?

 身体に関しては諦めもつく。どの道、今の身体に未練などない。むしろ強化されれば生き残る確率が高まるのだから、容貌などどうでもいい。

 それでも、心が変わってしまうのは恐ろしかった。

 アガレスは、おもむろに口を開いた。



 魔法陣の中で肉体が混ぜ合わされているわたしのすぐ傍に、誰かがいる。

 ――姫様姫様リネット姫様

 わたしを呼んでいるわけではない。その声は、ただひたすらに一途である。

 死者は生前の妄執に支配されると聞く。ゾンビの中に宿っている魂のかけらは、死ぬ間際に心を占めていた意志に衝き動かされて、骸となった後も動き続けようとしたのであろうか。

 ――食べ物食べ物

 ――食べる寝る交わる産む食べる寝る交わる産む

 周囲には他の思念も屯していたが、いずれもより単純な衝動しか持ち合わせていなかった。色々足し合わされてはいても、あのゾンビの中心にはロビンがいたということか。

 ――ロビン。

 わたしは、ロビンの思念に寄り添った。



「心も混ざり合う模様ですね。流されるがままにいれば」

 ――それはつまり、流されまいとすれば、わたしはわたしで在り続けられるということですか?

「はい、おそらく」



 モンスターを合成するのにかかる時間はほんの一瞬。つまりその間に触れ合ったわたしとロビンの心の逢瀬もほんの刹那。

 しかしわたしにとっては、一生忘れられないほどの濃密な瞬間だった。

 ――姫様、ご無事でしたか!

 ――ええ。あなたたちが助けに来てくれたのですもの。

 ――よかった。本当によかった。

 ――ありがとう。あなたたちのような家臣を持てたことを誇りに思います。……いえ、あなたという人に出会えたことを。

 心が重なり溶け合っていくがごとき、恍惚の一瞬。

 そのまま一つになってしまえれば、あるいは最も幸福だったのかもしれない。

 でも。

 ――さようなら、ロビン。

 わたしはロビンの心のかけらを己から引き剥がした。この精神世界で強力な意志を発揮できるわたしは、他の魂を次から次へと押し潰し、粉々に砕き、無に帰していく。

 ――姫様

 ――あなたの魂に誓って、わたしは人間に戻ります。あなたが敬愛したリネットに戻り、あなたの墓前に改めて伺います。だから、今はひとまずお別れです。

 ああ、これもまた建前だ。

 わたしは単に怖いのだ。ゾンビや触手と混じった結果、自分がリネットでなくなるのが恐ろしいのだ。それをこんな言葉で飾り、自分の選択を美化しようとしている。

 ――姫様、どうかご無事で。

 なのにロビンは、無垢な声音でわたしに言うと、おとなしく粉々に砕かれていった。

 ――ロビン。

 わたしは、ひとしずくだけ涙をこぼした。



「今も述べたように、精神世界では心の力がものを言います。他者を強く拒絶し消し去るくらいの意気込みで望めば、合成されても心まで変容させられることはないでしょう」

 アガレスはわたしに明日の心得を説くと、座っている鰐の上で足を組み替えた。

「もっともその場合、魔物使いに不審がられる危険性はありますね。忠実な魔物と足し合わせたはずなのに反抗的な態度を取ったりしたら、怪しまれること請け合いでしょう」

 ――モンスターの身体に慣れた次は、猟犬としての生活に慣れる必要があるわけですね。

 わたしがドラゴンの身体でため息をつくと、アガレスは慰めるように笑いかける。

「まあ、今は辛抱していれば、そのうち言葉をしゃべれるモンスターになれるかもしれませんよ。その時にうまくやれば、『リネット王女』の身体を取り戻すことだってありえない話じゃありません」

 妖しくもどこか人の良さそうなその笑顔を見ているうちに思い出した言葉を、ふと話題に出した。

 ――あなたに関して『慈悲深い』とする評がありますね。

「そうですね。とんでもない勘違いだとは思いますが」

 ――けれど今回、わたしは何度かあなたの慈悲に助けられてきたように思います。先ほどの助言もそうですが、この身体にされる直前直後の警告、や、励まし……

 言いかけて、改めて意識した。

 この出来事のほぼすべてを仕組んだのはアガレスであることを。発端であるオクタヴィアと末端で直接わたしを虐げた自称魔王の間に位置してはいるが、オクタヴィアの漠とした恨みに具体的な形を与え、ダークエンペラーに予言という形で詳細な示唆を与え続けたのはこの悪魔であることを。

 そして思い出す、初めて出会った時に聞かされた魔族の糧についての情報。

「おわかりになったようですね。わたくしの『慈悲』の意味が」

 ――ええ。



 気がつくと、わたしはそれまで立っていたのとは別の魔法陣の上に立っていた。全身を縛っていた鎖も存在しない。

 自分の身体を見下ろし、覚悟していたにも関わらず、その新たなおぞましさにやはり愕然としてしまう。

 爛れ、腐れ、いくらかは骨まで剥き出しになったドラゴンの死体。それが妖力によって動いている。

 ドラゴンゾンビ。それが今度のわたしの身体だった。

「ちょっと身体を動かしてみな」

 魔物使いは気軽に声をかけてきた。

 腐汁を垂らし今にももげ落ちそうな前肢を、試しに持ち上げ振るってみる。と、それは生きたブラックドラゴンだった時を大きく上回る速さと勢いを有していた。危うく床を壊してしまいそうになる。炎も問題なく吐けた。

「後は、背中の翼の具合も見たいな」

 言われて初めて翼の存在を意識する。ドラゴンの巨体を持ち上げるに足る大きな翼――もちろんそれも腐りかけだけど――が生えていて、羽ばたかせるとふわりと宙に浮いた。

「それと、魔法」

 生まれてから一度も習ったことがないにも関わらず、わたしは特段意識するまでもなく、昨日ゾンビのロビンが用いたのと同じ魔法を一通り発動させることができた。この腐った脳のどこに記憶されているのやら、つくづく不思議に思う。

「で、隠し武器の麻痺毒ガスと触手」

 喉の奥に炎を生む器官とは別の存在を感じる。そちらへ意識を切り替えて吐き出すと、紫色に濁り果てた煙が猛烈な勢いで発生した。

 最後に腹に力を入れると、メバのそれによく似た触手が飛び出し、わたしの意思に従ってぬらぬらと蠢いた。

 エルスバーグ王女リネットが、つくづく化け物に成り果てたものである。

「さ、行くぜ。昨日の洞窟を隅から隅まで探索して、王女様を見つけ出す。それさえ済めば後は魔王の居城に乗り込んで成敗するだけだ」

 自分がすでに王女を見つけているとも知らない冒険者に連れられ、わたしは倉庫の外へ歩み出た。

 すると、倉庫の屋根からふらふらと飛んで来たものが、わたしの皮膚にたかる。今のわたしにとっては小さな、でも人の掌くらいは大きな、蜂や虻を連想させる不気味な虫。

「へえ、デビルワスプか」

 魔物使いはわたしにへばりついているそれを見て言った。

「なかなか珍しい魔物じゃないか。基本的に人間を強く警戒するはずなんだがなあ……」

 そんなことを言ってる間にも、虫はわたしの身体を這いずり回る。

 そして、首筋から顎を回り込んで鼻先に出たところで、わたしと目が合う。

 それだけで、閃くものがあった。

「自分から寄って来るモンスターなんてそうそういないし、とりあえず連れて行くか。何と合成すればいいかはよくわからんけど」

 わたしが前肢で叩き潰すよりわずかに早く魔物使いが言い、今のところは『ご主人様』に逆らうのもためらわれるわたしとしては、この虫を殺すわけにもいかなくなった。

 矮小な虻は、わたしの身体を好き勝手に歩き回り、時折腐った皮膚をぺちゃぺちゃとさも美味そうに舐め上げていく。

 こんな姿になってまで、オクタヴィアはとことんわたしに嫌がらせをしたいようだ。それでも極力こちらの前肢や尾や翼に打たれなさそうなところを選んで飛び回る辺りが実に浅ましい。

 もっとも、浅ましさではわたしも大差ないことに思い至り、内心で苦笑する。

 ならば、浅ましかろうがとにかく生きると決めた以上、つまらぬ虫に煩わされるくらいは甘受しよう。これしきのことも辛抱できないようでは、王女の姿を取り戻すなんて夢のまた夢だ。

 不快な感覚に耐えながら、わたしは昨夜アガレスと交わした最後の会話を思い出していた。



 ――あなたの『慈悲』の意味。それは、例えば今回なら、わたしを簡単に絶望させてしまわないため。無気力で空虚な、感情に乏しい存在にしてしまわないため。

 なぜなら魔族は、生物の感情を食するから。とりわけ激しい感情を好むから。

 養う家畜の質が落ちないように、丹念に世話をする。それが悪魔の『慈悲』。

 ――明日起こることを今告げたのも、そのため。わたしが魂まで変わり果てることを恐れると期待して。あのロビンみたいにわたしが薄ぼんやりした存在になっては、餌がまずくなると考えたからでは?

「まったくもって仰せの通りです。基本的に貴女の感情をいただくのはここを領域とするアモンですが、あれは今の貴女の心の有りようがずいぶんお気に入りのようでしてね。わたくしとしても恩を売っておくのは得策というわけで」

 アガレスは、悪びれもせずおどけた一礼をよこした。

 まさに、悪魔。

 どれほど憎んでも憎みたりない悪魔。

 そうした憎いという気持ちすらもこの者にとっては滋養となるのだろう。

 だから嫌がらせに、というわけでもないが、わたしは敢えて首を垂れた。

 ――……ですが、それでもわたしはあなたの慈悲に感謝します、アガレス。

「え?」

 戸惑った顔。もしかしたらこのぺらぺらとしゃべり無意味なまでによく笑う悪魔がわたしに初めて見せたかもしれない種類の顔。

 ――あなたが教えてくれなければ、明日わたしはわけもわからずロビンと一つになり、鈍重な魔物になっていたことでしょう。それを運良く免れたとしても、ロビンの心と触れ合う機会を虚しく逸したことを悔やみ続けたことでしょう。いえ、それ以前、王宮から洞窟にさらわれた時や、ロビンが人としての命を落とした時、あるいはブラックドラゴンと身体を入れ替えられた時、絶望に陥ってとうに狂い果てていたかもしれません。だから、それらのことに関しては、感謝いたします、アガレス。

 と、アガレスは明後日の方向を向いて、珍しくも激しい口調で言い返してきた。

「貴女をここまで破滅させた相手に向かって何を言っているのですか? そんなつまらぬ言葉を吐くのは、おやめいただきたい!」

 ――?

 なぜここでアガレスが怒りを顕わにするのかわからない。まさか好意に類する感情を向けられたら害毒になるというわけでもないだろう。これまでわたしたちは、お互いに表面的なものに過ぎないと承知した上ではあったが、穏やかな、一種の敬意に近いものを示しながら、こうして夢の中で会話し続けてきたのだから。

 ……あるいは。

 ひょっとしてアガレスは、自らの為した行為が感謝などに値しないと認識していればこそ、こうしてわたしの謝意を拒絶するのだろうか。

 もちろん、これは人としての――少なくとも精神的にはまだ人としての――わたしが勝手に想像した感傷に他ならないのだろう。しかし、己が振る舞いの罪深さを自覚し、それがゆえに被害者から忌み嫌われることを望みこそすれ感謝などされたがらない、されたら拒んでみせる。……そんな姿は、魔族としてはひどく露悪的な気がする。

 それではまるで、むしろ潔癖すぎるがゆえに自らの悪行を誰より自らが許せないというような……。

 ――魔族は、

「何です?」

 ――人の喜怒哀楽を糧とするならば、そしてもはや死を無闇に撒き散らさないつもりであるならば……魔族は、人を喜ばせ楽しませることでも生きていけるのではありませんか?

「…………今さら、遅いですよ」

 アガレスは、いつものへらへらとしながらも整った顔を醜く歪め、吐き捨てるように言った。

「我々は貴女方を利用し、食い物にする。それが定められた関係です。今さらどの面下げて、殺した者たちの子孫相手に愉快な道化を演じろと?」

 アガレスのその言葉は、わたしの推測を否定するものではない。「今さら」。「殺した者たち」。それらが、この悪魔の抱える罪の意識を物語っているように思えてならないのだ。

 もっとも、これはすべて今しがたわたしが思いついたことに過ぎない。確認しようにも、嘘つきかもしれない人に「あなたは嘘つきじゃありませんよね」と訊ねるようなものだろう。

「そんなことはどうでもよろしい。どうせ貴女は人でなくなったのだから、余計なことなど考えることもない。元に戻れれば別ですがね」

 だからわたしは、それ以上真偽定かならぬ魔族の心情に分け入ることはせず、ただアガレスの言葉に乗ることにした。

 ――そうですね。わたしは元に戻ってみせます。

 魔物使いの道具となり魔王に挑み倒れるか。その前に他のモンスターと合成されて自我を失い愚かになるか。首尾よく魔王を倒せても、自分が『リネット』だと納得させることができずに終わるか。はたまたそれをわからせたとしても、元に戻る手段が得られないまま、おぞましい姿の元姫君として未来永劫王宮の地下牢にでも監禁されるか。

 わたしが元に戻れる見込みなどどれほどあることだろう。それでも、諦めることだけはしたくなかった。

 ――要求を、一つ。その暁には、夢の中でのこの姿も元に戻していただけませんか?

「いいでしょう。その時にはもう一度貴女の夢を訪れると約束しましょう」

 わたしに視線を戻し、完全に平静を取り戻したアガレスが言う。

 ――待っていますわ。

「これっきり二度と会うことはないでしょうがね」

 アガレスが唇の端を吊り上げる。わたしはドラゴンの顔なので笑えなかったが、心の中で笑みを返してみせた。

 この悪魔ともう一度会いたい。言葉を交わしたい。そう強く願った。

「では、さらばです」

 アガレスは一礼すると、闇の中に消え失せた。

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アガレスは慈悲深く、なれど尊厳を破壊する 入河梨茶 @ts-tf-exchange

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