第14話 猫耳娘

岩の精霊が言っていた泉は、先程の場所から目と鼻の先にあった。


静寂の中、木々の間にぽつんと広がった空間の真ん中で、スポットライトのような夜明かりを浴びてきらきらと輝く泉は、どことなく雅びやかな感情を抱かせる。


木々を抜けた僕は大きく両手を伸ばすと深呼吸をした。泉から漂う清らかで心地よい空気が体内を駆け巡り、不安と緊張で疲れきった心をやんわりと癒してくれる。


キュルルも僕の真似をしているのか、体を伸ばしてプルプルと震わしながらキュッとした表情を浮かべている。


「どうやら、事なきを得たようじゃな。」


岩の精霊は周囲の安全を確認し胸を撫で下ろしたようだ。


「うん。さっきまでの出来事が嘘のように静まり返ってるね。痛っ…」


気が緩んだのか、逃げる途中であちこちに付けた傷が痛む。


「お主傷だらけじゃのう。

そこの泉は切り傷に良く効くと昔獣人族が言っておったぞ。」


「そうなの?」


「まぁワシは自分で試す事ができんでな。本当かどうかは知らんがのぅ。」


岩の妖精はまるで他人事のような仕草で戯けて見せる。


「そうなんだ。

どちらにしても埃だらけだし汗も流したいから、ちょっとだけ水浴びをしても良いかな?」


「構わんぞ。既に日も暮れておるし、多少時間が遅れても大差ないじゃろう。」


「ありがとう。」


そう言うと、僕は焚き火の用意をした。

本来ならキュルルの力を借りて火を起こすのだけど、今日は自分の力でやってみようと思う。


僕は目を閉じて右手を前にかざすと、積み重ねた枝葉の中心で炎が燃え上がるイメージを浮かべながら力を込める。


すると手の平から温かい何かが放たれる感覚がした後、積み重なった枝葉の中心で小さいながらも火の手が上がった。


「おおっ。」


思わず歓喜の声を上げる僕。

キュルルは祝福するように焚き火の周りをぴょんぴょんと飛び跳ねてくれた。


「ふむ。昨日よりは上達しておるの。関心関心。」


何故か上から目線の岩の精霊。

しかし達成感からか上機嫌の僕は全く気にする事もなく、


「じゃぁ、汗流して来るね。」


と、パンツ一丁になって泉に飛び込むのであった。


泉の水は軽く身震いする程度に冷たかったが、不思議な事に全く傷口にはしみなかった。


「確かに不思議な感触の水だな。」


切り傷に効く水と言えば有名なのは温泉水だけど、温泉独特の匂いや感触とは違った。


もしかしたらファンタジーの世界でよくある回復の泉のような水質なのかも知れない。

試しに傷口に馴染ませてみたけど特に目に見えて傷が治る訳でもなかった。


「回復の泉じゃなくてただの迷信かもしれないな。」


僕はすっかりファンタジー思考になった自分を笑うと、改めて汗を流し始めた。



水浴びを行った後、僕は脱いでいた服を軽く水洗いし、焚き火の側で乾かす。


一仕事終えてのビール代わりに水を飲むと、石の水筒は空になった。


「ねぇ、この泉の水って飲めるの?」


焚き火の前に置いた石の肩当ての上に胡坐を組んでいた岩の精霊は泉の中央付近を指差すと、


「この泉の中央から湧き水が出ておるぞ。

飲むなら直接湧き水を汲むのがよいじゃろう。」


「うん、わかった。水深は大丈夫かな?」


「縁よりは深いじゃろうが、お主の身長だとせいぜい腰のあたりじゃろうて。」


「そうか、なら大丈夫そうだね。ありがとう。」


僕は石の水筒を片手に再度泉に入っていく。

岩の精霊が言っていた通り、中央付近でもそこまで水深が深くなる事は無かった。


湧水の湧き出る場所を探すのは難しく無かった。

何故なら明らかにその周辺だけ水面がリズムを刻みながら盛り上がっていたからだ。


僕は水深に注意しながら足を滑らせないように近づき、湧き水の中に石の水筒を突っ込むと一気に流し込んだ。


石の水筒に十分水が入ったのを確認し、味見を兼ねて口に含んでみると、癖も無くまろやかで美味しい。


僕は満足して石の水筒の蓋を閉めると、何処からかブクブクと気泡が弾けるような音が聞こえる気がした。


夜明かりを頼りに水面を見渡すと、泉の奥から気泡が近づいて来る。


「ん?なんだ?」


気泡は蛇行しながらも確実に僕に近づいて来た。


僕が慌てて身構えると、目の前の水面が見る見るうちに大きく盛り上がり、豪快に水飛沫を上げながら魚を咥えた素っ裸の猫耳娘が飛び出してきたのだった。


「わっ。」


僕は突然の出来事に吃驚して思わず声を上げる。


口に咥えられた魚がぴちぴちと跳ねる中、満足そうに目を細め採ったぞポーズを決める素っ裸の猫耳娘。


あまりの迫力に僕は何もすることができず、瞬きをする事も忘れ、ただその裸体を直視していたのだった。



そして目が合う二人。



「にゃーぁっ。」


慌てふためく猫耳娘。

咥えていた魚がぽろっと落ちて、本当の意味で水を得た魚はすいすいと泳ぎ去って行った。


「にゃーぁー。」


今度は魚を逃がした事にショックを受けたのか悲しそうな鳴声を上げる猫耳娘。

暫くの間、去っていく魚の方向を見ていたが、ゆっくりと振り返ると泣きそうな表情で僕を睨み付ける。


「にゃーにゃ、にゃーにゃーにゃー。」


「えーっと…」


きっと何か言葉を話しているのだろうけど、僕には猫が鳴いてるようにしか聞こえない。


僕は手の平を胸の前に出して横に振りながら、ばつが悪そうな顔をしたまま後ずさる。


猫耳娘は毛を逆立てるような剣幕で、目に涙を溜めたまま一歩一歩歩み寄ってくる。


「にゃーっ。」


次の瞬間、水の中にも関わらずもの凄い速さで飛び上がると、僕の背後を取り首に腕を回し喉元に鋭い爪を突きつける。

一瞬の出来事で僕は猫耳娘のなすがままにされてしまった。


「にゃーにゃー。」


「えーっと…」


困った事に何を言っているのか全く分からない。

鳴声や表情から何となく魚を逃がした責任を追及されている気はするのだが、僕の言葉を猫耳娘が理解する事は僕が『にゃーにゃー語』を理解出来ないのと同じで無理だと思う。


「うーん、困ったな…」


実は、先程から猫耳娘の胸の膨らみが僕の背中を刺激し続けている。

お尻には猫耳娘の腹部の感触が、内股には太股の感触がする。

僕も健康的な男子なので基本的には大歓迎な体勢ではあるのだが、喉元にギラギラと輝く鋭い爪が突きつけられているのと、別の意味で動く事ができない状態に陥っているのは少々考え物である。


「にゃー、にゃにゃにゃにゃーっ。」


猫耳娘が僕の耳元で囁く。

相変わらず何を言ってるのかは分からないが、低い声のトーンからしてあまり歓迎すべき内容では無いと思う。


言葉も通じずお手上げ状態の僕を救ったのは意外な出来事だった。


「はっくしょーんっ。」


長いこと泉に浸かって体が冷えたせいか、僕は何の前触れも無く大きなくしゃみをする。

体はくの字に曲がり、突き出たお尻が猫耳娘のお腹を跳ねのけた。


「にゃっ。」


僕と密着していた猫耳娘は、突然お尻でお腹を押されて体制を崩してしまう。


「あっ、ごめん。」


僕が反射的に謝り振り向くと、運悪く左腕の肘が猫耳娘の横顎を直撃した。


「あっ…」


思わず目を覆ってしまいそうな鈍い音と共に猫耳娘は豪快に水飛沫を上げて仰向けに沈んでいった。


今までの騒々しさがまるで嘘だったかのように静まり返った中で、気泡だけがプクプクと水面を揺らしていた。


「はっ?」


我に返った僕は猫耳娘を引き上げる為に息を止め潜った。

泉は夜明かりに照らされているものの水中は薄暗く視界を頼りに探すのは無理そうだった。

一度浮上した僕は機転を利かせ、気泡を目印に片手で泉の底を探ってみる。


カチコチとした石の感触を数回感じた後、ぷにぷにとした心地良い感触に巡り合う。


僕はその感触を失わないように両脇を抱き抱えると、浮力を利用して一気に体を引き寄せ救い上げた。


猫耳娘の口元に耳を近づけると、すぅすぅと呼吸している事が確認できる。


「大丈夫みたいだな。」


僕は、猫耳娘の腰と太股に手を回しお姫様抱っこをすると、そのまま岸に向かって戻っていくのであった。

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叶わなかった鉄槌を今利子をつけて 磊磊磊落(らいらいらいらく) @rairairairaku

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