ゴールデン・デイズ

まゆみ亜紀/八坂はるの

ゴールデン・デイズ

 沢渡さわたり夏南かなんはふしぎな子だった。彼女は四月の仮入部期間もずいぶん遠くに過ぎ去った六月のはじめ、部室長屋のひなびた一角にある文芸部室に現れた。先輩がみんな卒業してしまい部員はわたしひとり、いかにも根暗な先輩ひとりの部活に入ろうという奇特な新入生はおらず、ひとりぼっちのわたしはそのときすっかり油断していた。読みかけの中原中也によだれを垂らさんばかりに寝こけており、おそらく、わたしは初対面の沢渡夏南に奥歯の治療跡まで包み隠さず見せてしまったのではないかと思う。彼女は優しくもそれを指摘はしてこなかったのでさだかではないが。

 揺り起こされて起きたら、見慣れないセーラー服の少女がいたので驚いた。入部希望だというのでもっと驚いた。いまのいままで現れなかったわけを、

「いつもたどり着けなかったんです。迷ってるうち子連れの野良猫に出会って遊びに付き合っちゃったり、野球部がなくしたっていうボール探しに付き合ったりして時間切れ。今日やっと気づきました、わたし、曲がるべきところで曲がらずに通り過ぎてたんです」

 と説明されたときにはただぽかんとしてしまった。

 それがこの印象的な後輩との出会いだったわけだけれど、わたしが出会ったのは彼女自身ばかりではない。

 沢渡夏南はきんいろの言葉を持っていた。

 小説を書くんです、と言って見せてくれた紙束には、ワープロで打ち出された文字たちが几帳面に並んでいる。題を読んだ瞬間、脳裏で光芒がはじけた。目の底をあかるくするようなその感覚にとまどうあいだにも、視線は文字の上をすべり、そこから光を受け取っている。言葉がきらめいていた。朝焼けのような夕焼けのような、きんいろに。昼間の高い太陽とはまたちがう安寧をふくんだ色だ。

 それがただただ、まばゆい。これまで見てきたなかでも稀有な色だと思った、だから言葉は自然に出た。すてきね。引っ込み思案でどもり癖すらあるわたしにしては、上出来だったと思う。


 夏南が入部して文芸部員はふたりになり、活動内容も少し変わった。なにせ先輩がいなくなってからはわたしひとりだったので、気が向けば部室に行ってだらだらと活動し、気が向かなければ家に帰る。ようはその日のわたし次第だった。けれど後輩がいるのではそうもいかない、活動する曜日を決めて、たとえば底本を決めて小さな読書会をしてみたり、ビデオを持ち込んで映画を見てみたり。ときには夏南の書いた小説を読んで批評のまねごとのようなこともした。

 夏南は話し方に独特の間があって、それがふしぎと心を和ませる。性格は明るいけれども血気盛んというほどではなく、人づきあいの苦手なわたしにも親しみやすい相手だった。わたしたちは放課後をともに過ごして少しずつうちとけていった。そして。

思乃しの先輩の書いたお話も見せてくださいよ」

 〝読み専〟を名乗るわたしに夏南がそう言ってきたのは、彼女の入部からひと月と少し経ち、あすにも夏休みを迎えようという七月下旬のことである。

 わたしは面喰らい、顔を引きつらせた。

「わたしの書いた話って……よ、読み専なの知ってるでしょ」

「うそです。わたしが来るまでなにかごそごそ書きものしてるの、知ってるんですよ」

 気圧されて大仰に目をそらしてしまう。図星だということが、ばれてしまっただろう。

 ……夏南の言うとおり、わたしも小説を書いていた。彼女のようにワープロを持っていないから、大学ノートに鉛筆で文字を連ねて。ただし、だれにも見せたことはない。

 自信がないのだ。どうしてなのか自分の言葉は〝見えない〟から。だれかに見てほしいと、思ったことがないではない。けれどそれがひどく錆びついていたり、鈍い色をした言葉であったら、と思うと臆病風が吹いて、わたしは卒業していった先輩たちにも小説を書いていることは隠していた。

「先輩の書いたお話が見たいな」

 ずい、と隣の椅子から身を乗り出してくる。わたしは後ずさったけれど、その距離をも詰めて夏南はわたしを見つめる。

「読んでるものも幅広いし、わたしの作品へのコメントも参考になるし。……あと、ふだんの言葉づかいがきれいだから」

 きっと面白いものを書いてるって、思うんですけど。軽やかな笑みとともにそう言われ、ごくりと喉が鳴った。机の引き出しにそっと手をしのばせる。そこには今日も夏南が来るまで広げていたノートが入っている。

 ためらいを振り切れずにうつむいていると、机の上に夏南の手が乗せられた。待っている。待っているのだ――わたしの話を。

 気がつけば引き出しのなかからノートを取り出して机の上に置いていた。待ち受けていた手はすぐさまノートを取り上げていく。

 机をはさんだところに立っている夏南がノートを開き、視線をはしらせるのを見てとって、心臓がうるさく鳴りはじめる。もう、胃袋が口から出そうだった。やっぱりやめておけばよかった、夏南のことだからどうしても見せたくないと言えば聞いてくれただろうに。いまからでもノートを取り返そうか、そんなことを考えたそのとき。

 ふっと、夏南がほほえんだ。

「先輩の言葉は、端正ですね」

「……たんせい……」

 それはどんな意味の言葉だったか。夏南はノートから視線をはずし、わたしを見ておかしそうな顔をした。さぞまぬけな顔をしていたのだろう。素敵ですよ、と彼女は言った。そうして一語一語噛み締めるように、気に入った表現を読み上げていく。

 気恥ずかしさより、驚きが先立った。彼女の口をとおすと、わたしの言葉であってもきんいろにかがやいた。口唇がくっつく、はなれて音を産む、そのたびにこぼれ来る金の粒子がある。けれどもそれは、いつも読んでいる彼女の言葉とは、わずかに色を異にしているように思えた。

 その色を見極めるよりはやく、夏南は講評を終えてしまう。焦燥が沸き起こった。まだ、まだだ。待って。もっと聞きたいことがある。

「あの、な、なにか……気になるところとか。直したほうがいいところとか」

 跳ねる心臓をなだめながらどうにか言葉を搾り出すと、夏南はちょっと意外そうに目を丸くした。それから思案顔になる。

「そうですね――」

 ノートに視線を落として伏し目がちになると、まつげの長さが目立った。後れ毛を耳にかけながら、彼女はさらりさらりとページをめくってゆく。

 そして、開いたままのノートを机の上に置き、ていねいに気にかかる点を教えてくれる。自分ならこう直す、という案も。そのたびに、かすれた鉛筆の文字の上に、黄金こがねがこぼれた。わたしはその色にみとれていた。

 それからは、日々の活動のなかにおたがいの作品の合評会が入るようになった。夏休み中も日を決めて集まり、お互いにつづった物語を読み合う。

 ときに感嘆して褒め合い、ときに議論を交わしあって、わたしのなかの言葉は急激に変化していった。自分でもじっくり考えて書いていたつもりだったけれど、やはり他人の目は思いもしないものを見つけだす。

 そればかりではない。夏南の書く物語にふれていると、だんだん彼女の好みがわかるようになってきた。彼女らしい言葉、表現、話運び。それを咀嚼するうち、わたし自身のなかにもあたらしい言葉が生まれた。それを夏南に見てもらって、また、変化が産まれて。

 ときに悔しい思いをすることもあったけれど、たしかに満ち足りていた。ひとりで気ままに過ごしていたときにはないものが、そこにはたしかにあった。

 いまにして思えばそれは蜜月だったのだろう。

 ……けれど、世の常として。蜜月は、かがやかしい日々は、長くは続かない。

 あまりに唐突に、その日は訪れた。二学期がはじまってしばらく経った十一月のことである。夏の暑さはすっかりなりをひそめ、冬の足音が聞こえはじめていた。

 転校する、と聞かされた。それも海外、戻ってくる予定はいまのところない、という。

「父の仕事の都合で」

 そう、文芸部室にやってきて告げた夏南は、割り切っているように見えた。聞けばいわゆる転勤族で、おさないころからさまざまな土地を転々としてきたという。

 わたしは、といえば、生まれたときからこの町に住んでいて、そんな生活は想像もできない。ましてや海外なんて。そんな遠い場所にいま目の前にいる彼女が行ってしまうことは、ひどく現実感がなかった。

 けれど同時にこう思う自分もいる。ああ、あなたにはそれが似合っているような気がする、と。出会ったときからそうだった。こんなひなびた場所まで来なくたって、野良猫子猫に野球部のボール、彼女には出会うべきできごとがたくさんあったのだから。曲がり角に気づいてここにたどりついたのはほんの偶然だったような気がする。

 なにぶんふたりきりの部活動なので、送別会を開くにしても格好がつかない。夏南もふつうでいいと言ったので、けっきょく、出発の直前のその日もいつもどおりに過ごした。ただ、やっぱりおたがいに少ししんみりとしてしまって、それぞれの書き物もせずに交わす会話は湿っぽく途切れがちだった。

 そのうちに、下校時間を告げる校内放送が響く。こんなところまで、いつもどおりだ。

 夏南が荷物をまとめて立ち上がる。わたしは言った。

「わたしはまだ少しだけ残っていく。……置きっぱなしの本とか、そろそろ持って帰ろうと思うから」

「そうですか。じゃあ、ここで」

 お世話になりました、思乃先輩。

 そう言って、夏南はわたしに背を向けた。ひるがえるセーラーカラーに名残惜しさを見たような気もしたけれど、それは彼女ではなくわたしの感慨だったのかもしれない。古びた文芸部室のドアを開け、彼女は出て行った。

 窓辺に立って外を見ると、やがて長屋の出入り口から彼女がすがたを現す。と、そのとき、雲が流れて斜陽が顔を出した。

 校庭が、そしてこの部屋までもが、きんいろに染まる。紺のセーラー服を着た背中が、そのなかにかすんで見えなくなっていく。

 ふと、脳裏に言葉が浮かんだ。断片的なそれはひとつの文になり、物語のはじまりをかたちづくってゆく。たしかにわたし自身の言葉だったけれど、沢渡夏南と出会い、議論することなしにはきっと産まれ得なかった言葉だった。一年前のわたしには書けなかった言葉。

 くちずさむ。いまやわたしの口からも、彼女の金色はこぼれてくる。血肉にしみついた彼女の言葉の面影がごく小さな雲母きらになって、宙に踊っては消えてゆく。

 ――わたしたちはいつだって一度にふたつのものと出会う。まず、あなた自身と。それから、あなたのつむぐ言葉たちと。

 夏南。出会えたことを、幸運だったと思う。ほんの短い時間でも、このさきまた会うことがなくても。大丈夫、それでもいい。きっとわたしが言葉をつむぐ限り、あなたはわたしのなかに生き続けるだろう。つながっていられるだろう。


(了)

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