シュークリーム奇譚

髙橋螢参郎

第1話

 おれは気付かぬ間に、どうやら世に言うパラレルワールドとやらへ迷い込んでしまったようだった。

 一見同じに見えてもどこかが違う世界、というやつだ。あまりに古典的で使い古された題材だが、小説や映画でしかなかった壮大なSF世界の一端を今、現実に垣間見ているには違いない。

 なのにそういった自覚を得るまでに一週間を要し、その間普通に飯を食い、会社へ通い、夜も粛々と真っ直ぐ帰っては妻だけを抱く安穏な生活を、SF小説をたしなむ程度には読んでいたおれが何故おめおめと続けていたのだろうか。

 ようやくの休日、いつも通り最寄りのコンビニエンス・ストアへ立ち寄るまで何の疑問も抱けなかったのが悔やまれるが……

 いや、おれはまだ随分と早く気付けた方なのかも知れない。それくらいの、人によっては永久に気付けぬほど些細な違いしかなかったのだ。だが読書家としての僅かばかりの矜持も彼方へぶっ飛ばすほど、ここはおれにとって最悪の世界だった。

 紙パックに入った飲料の立ち並ぶチルド・コーナーのその隣に、本来コンビニエンス・ストアにとって欠かすべからざるものが全く見当たらないではないか。

 最初は近隣店舗に比べて何と行き届いていない店だとつい憤慨してしまったが、車を走らせ他の系列店からも揃って姿を消しているのを確認した時、おれは心の底から烈しく戦慄した。

 この世界のどこにも、シュークリームというものが売っていないのだ。

 何をその程度、と感じる人間の方が圧倒的に多数派なのかも知れないが、幼少から馴染んでいたおれにとっては死活問題だ。結局は兄貴が継いだものの、実家が洋菓子屋というのもあっておれは小さな頃から売れ残りを与えられ続けてきた。

 よくある子供向けの童話だとその場合食い飽きて嫌がるものだが、これを適材適所と言うべきなのか、体質的にもおれは洋菓子全般とウマが合っていた。いくら食っても太らなければ、カツやビフテキなど多少くどいものでも翌朝に胃が凭れる事すらなかった。今でこそ流石に無理をしようとは思わないが、当時はケーキ屋の息子に相応しい逸材としてさぞ重宝された事だろう。

 そしてそんな売れ残りの中でも仕込みの都合で一際数の多くなるのがプリンと、件のシュークリームという訳だ。

 おれは生クリームももちろんだが、あのシュー皮というやつがこの上なく好きだった。実家はパイ風のパリッとした歯応えのあるタイプだったが、冷蔵庫で一日も経てば多少しっとりとしてくるものだ。よってコンビニエンス・ストアで手軽に買えるものに多いやわらかな皮も満更じゃない。特に昨今のものは量販品と侮るなかれ、どこの系列のコンビニエンス・ストアも急速にそのレベルを上げてきているのだ。

 中でも特に気に入ったプライベート・ブランドなども二、三あるが、どれもそんじょそこらの下手な菓子店よりうまいから手に負えない。菓子を作る才能のそこまでなかった次男坊ではお墨付きとするにも些か説得力に欠けるやも知れないが、是非一度試して欲しい。

 閑話休題。とにもかくにもこれまで容易に手に入ったシュークリームが掌を返したが如く完全に霧消したのには少なからず閉口したが、ひょいとつまめる菓子など店になければ手間を惜しまず焼き上げればいいと考えるだろう。おれとて兄貴の陰で本職になる機会は逸すれども、多少の覚えはある。

 しかし、事態は底を抜けてより最悪だった。

 数軒目のコンビニエンス・ストアで痺れを切らしシュークリームがないのを店員に文句を付けたところ、警察に通報されかけたのだ。

 衆目の視線が一斉におれを捉えたのは知ってはいたが、あれは単に大声でがなるクレーマーを厭っていた訳ではなかったらしいと、車で遠くへ逃げおおせてからやっと気が付いた。

 家に帰り早速調べてみると、どうやらシュークリームが売っていないのはこの世界に存在しない訳ではなく、いわゆる御法度品扱いな様だった。

 そのくせケーキやアイスクリームは何ら変わるところなく普通に売られていたのはどういう了見かさっぱり解らなかったが、つまりはお上がそう言っているのだからこの世界ではそうなのだろう。げに恐るべきは集団心理である。

 ともあれ、おれは公共の場で店員に向かって

「マリファナがどうして売っていないんだ!」

 とごねたのに等しい事になる。そして皮肉にも、カウンター奥に見慣れぬ銘柄の煙草が多いと感じたその内のほとんどが、合法化された紙巻きのマリファナだという事だった。

 まるでビリヤードで玉を突き出したかの如くおれの世界と立ち位置がそっくりそのまま入れ代わった訳だが、煙草すら吸わないおれには何の面白みもない。百害あって一利なし、だ。

 おれは何故、よりにもよってこんな世界に迷い込んでしまったのだろうか。

 先にも言ったが、何一つ普段と変わった事などしてやしない。にも拘らず、前回コンビニエンス・ストアに行った日から今日に至るまでの一週間で世界は劇的な変化を遂げてしまった。自分が知らず知らずの内に洗脳かロボトミーでもされたのではないかしらん、と自意識を疑ってみるも、事態はそこまで個人的な事ではないように思えた。

 そう、やはりここはパラレルワールドだ。千六百五十五年にフランス人、フランソワ・ピエール・ド・ラヴァレンヌの著作にその名が出て以来、シュークリームは形を変えながらも洋菓子史の一翼を確かに担うものとして君臨し続けてきた。その王道の系譜たるや、一朝一夕で糊塗し切れるほど浅くはない。

 第一おれはその過程を全く見聞きしていないのだ。いくら才能のない凡庸な男だとしても、そんな大事件を黙って見過ごすなど昼行灯が過ぎる。故に、図らずもおれは平行世界論の生き証人となった事をまず確認した。

 だがそんな事はどうでもいい。結局完全に行き来できなければ真の証明にはならないし、ここは前と違う世界なのだと認識するにつれて、全てが少しずつ良くなっている様な気さえしていた。以前の世界に同じく社会生活を送る上で不都合な事が一つもなければ、心なしかこちらの方が景気もいい。その延長なのかも知れないが、妻も随分とおれに優しかった。

 そんな都合のいい考えは全て錯覚で、姿見の如く壮大な比較対象を得てしまった反動だとは内心理解もしていた。しかし何もここまで来て自分に言い訳をする必要もない。能動的に元の世界へ帰る方法の見当も付かない以上、上手く折り合いをつけてやっていく外ないだろう。大人というものはどこでもその連続なのだと、おれは半ば諦観にも似た努力を一応続けてはみた。

 だがだめなのだ。二週間と経たない内に訳もなくいらいらとするようになり、集中を欠いては会社でつまらないミスを繰り返した。そうなるとストレスは一層募るばかりだ。終いには良き夫として近所でも名高かった筈のおれが、家で妻に当たり散らすまでになった。

 気晴らしにマリファナをやってみたりもしたが、甘くもなければ腹にも溜まりはしないのがばかばかしくなって、もの欲しそうな顔をした高校生にやってしまった。嫌がる妻を休日の昼から強引に抱いても、あの生クリームの限界まで詰まった張りのある生地の事をふと思い出すと近頃垂れ始めた乳に必死でむしゃぶりつく自分の姿が急に間抜けに思えてしまい、そこでしおれた。

 たかがシュークリーム如きに、とおれもいよいよ感じてしまうのだが、これまでの人生でこんなに超長期間シュークリームと離れた事自体がなかったのだ。どんな症状が起こっても無理からぬ事、としか言えないだろう。そんな特殊な状況下に置かれた人間は、おそらく前例がないのだから。

 まさかとは思うが、本当にあの菓子には中毒症状を誘引する何かが含まれていたのかも知れぬと、終いにはおれまでこの世界に感化されかけてしまう始末だった。そんな筈はない。あれはただの乳脂肪分と小麦だ。


 シュークリームが食べたい。

 いつ爆発してもおかしくないほどの衝動を抱えながら、おれは仕事帰りに歓楽街をさまよった。

 やり場のないエネルギーというものはいつだって非常に厄介なものだ。おれは菓子作りと本を読む事以外に趣味らしい趣味を作ってこなかった上、その菓子も生クリームを手に付けるところまではいきながらもこいつをシュー皮に詰められないと考えると、尚の事歯噛みしてしまう。

 一度妻の居ぬ間にシュークリームの密造をも試みたが、我が家は交通量の多い通りに面していて、その先数百メートルには改装された警察署が犯罪者はおろか付近住民までも威圧するかのようにそびえ立っている。普段は特に何とも思わなかったが、こうなるとその存在が忌々しくて仕方がない。

 到底この渇きは癒せぬと思うが、腹いせの意味も込めて久し振りに女でも買うかと裏通りへ入った時、おれは漂ってくるマリファナの強い匂いにはた、とある考えを巡らせた。やはりというか、元を辿るとビルの半地下に埋め込まれたクラブから、ノイジーな音楽と共に流れてきている。

 おれは自分の正しさを確信すると、普段なら絶対に入る事のないクラブの門を叩いた。煙の最中だというのに思いの外しゃっきりした若者の群れをかき分け、おれは店の奥に押し入った。そこで待つ甘美な香りを、飢えに飢えたおれの野性の嗅覚は確かに嗅ぎ当てたのだ。

 外から完全に死角となっているVIPルームでは、男女数人がこそこそとシュークリームを貪っていた。

 誰一人としてマリファナなどキメてはいない。煙と匂いによる、ただのカムフラージュだ。やはり禁止されていないものをしたところで何も面白くはないというのが、彼らの行動規範として変わらずあるのだろう。

「何だあんたは」

 とリーダー格らしき長髪の男がこちらに詰め寄ってくる。おれの世界ならシュークリームとは到底無縁そうな巨漢だが、急いで食べたのか口角には生クリームとカスタードの交じり合ったのが付いている。気圧されてしかるべきところも、汚さずきれいに食べられぬひよっこなど恐るに足らない。

 おれはそう言えば自分がスーツ姿のままだった事に気付き、相手の警戒心を弛める為にもネクタイを外し上着を脱いだ。

「おれにもそいつをくれ。金ならある」

 それでもこの平凡なサラリーマンを警戒しているとでもいうのか、なかなか首を縦には振らなかった。おあずけを喰らったおれはじれったくなって、がちがちと歯を鳴らし震えていた女の手からシュークリームをひったくってやった。

「おいっ!」

 どすの利いた長髪の制止にも構わず、待ちに待ったその一口を電光石火の勢いで頂戴する。

 感動と背徳の再会に味も一入だったが、口を動かし舌をなめずっている内におれの思考がみるみるうちに冷静になっていくのがわかった。

「何だこれは!」

 おれはあの時コンビニエンス・ストアの店員に怒鳴った声の三倍の大きさで一喝すると、長髪の胸倉を掴んで壁に叩き付けた。反射的な事とはいえ自分でもこんな度胸と膂力を持ち合わせていた事には驚いたが、それどころではない。

「何だこのくそまずいシュークリームはと聞いている!」

 マリファナの煙を吸って頭がぼんやりしているのを差し引いてもひどいものだった。まずクリームはべちゃべちゃで油っぽく、一昔前のバター・クリームを彷彿とさせる。これが中身からしてドーム型球場と見紛うくらいすかすかなのだが、むしろ却ってその方がいいくらいだ。どこで誰がどう作ったのかは知りたくもないが、こんな駄菓子のでき損ないを人間に食わせようという神経がまずどうかしている。

 それに何だこの皮は。まるでふやけた段ボールだ。さくっとしなければいくら噛んでも味すらしてこない。とにかくこれまでの人生において食べてきた玉石混淆のシュークリームの中でも間違いなく最低最悪だと、シュークリーム愛好家としてのおれの名にかけて言い切ってもいい。

 更におれを絶望させたのは、これだけ文句を言ってやっても若者どもが何の反論もしてこなかった事だ。無論金がどう、というのはぶつぶつとほざいていたが、だまれだまれ。おれはマリファナだとかそういうものをこちらの世界に来て初めてやったが、クラブ・カルチャーと切っても切れないドラッグでのトリップだとかそういうものに対する程度の低さを、皮肉な事にここにいるどうしようもない奴らが全て証明してしまったではないか。

 お前らは紙についたねばねばを指で擦り、ちょっと煙が出たからって喜んでいる駄菓子屋前の洟垂れぼうずと本質的に何ら変わる事はない。ものがいいだとか悪いだとか大人が本来物事を嗜む上で気にしてしかるべき拘りを一切放棄して、その結果くそまずい最底辺のものを売人からいい値で握らされ利用されているだけだ。ああ、わかったぞ。普段の世界では想像もつかなかったが、おれがお前らを嫌いな理由はそういうところだ。

 間抜けな若者どもも流石にそこまで言われると怒れてくるのか、徐々にではあるが口々に不平を漏らし始めた。それを聞いて慌て出したのがどうやら売人であるらしき口にクリームの付いていない数名だったが、こいつらも旨いシュークリームなぞまるで知らないのだろう。そう考えると、悪いのはやはりこの世界であるように思えた。

 それとこちらに来て悶々とした日々を送る間、おれはシュークリームが食えない事に加え、もうひとつ不満に感じたところがあった。

 どうせないのなら、何故最初からなかった事にならなかったのだと。そうであれば俺がフランス人に成り代わってシュークリームを一から創造する事もできたのだ。

 そうでないのに何故おれはこの世界に飛ばされてきたのかという自問自答が烈しく続いていた中で、今ここにようやくひとつの答えを導き出した。

 いよいよ売人が吊るし上げられリンチにかけられようとしている中、おれはいつまでも止まぬざわめきをまずは鶴の一声とばかりにかき消した。

「お前らよく聞け! おれは今日お前たちに、真のシュークリームが何たるかを伝える為にやってきた! 先に言った通り、そこにあるシュークリームは菓子どころか家畜のえさだ! おい、そこのお前!」

 おれは既に拳を二、三発売人に浴びせかけていた長髪の男を指さした。

「今一度聞く。お前はその家畜のえさをこれまで心の底から本当に旨いと思って食っていたのか」

 男は答えあぐねていた。どうやら人間の味覚については大差ないらしい。おれはその事実にひとまず安心すると、演説を続けた。

「そうだ、お前らはただそういう雰囲気に流されてシュークリームの何たるかも知らず貪っていただけの豚だ! そんな非合理的な行動にわざわざ高い金を払って搾取されるなど愚の骨頂としか言いようもない! そこの売人を締め上げたくなるのももっともだが、お前ら豚にはそんな資格もない!」

 この臨界点すれすれを渡る瞬間に分泌されるアドレナリンとやらのせいなのか、おれは自分でも信じられないほど饒舌になっていた。

「悔しいか! 悔しいと感じるなら合格だ! そしてこれからは本当にいいものだけを食え! その為にはよく努力し、よく連帯せねばならない! そしてよいシュークリームを手にするのが、よい人生というものだ!」

「何をどう努力すればいいんだよ!」

 と若者の一人から声が上がった。本来ならお前らなんぞ知ったこっちゃないのだが、これもうまいシュークリームの為ならば致し方あるまいとおれは胸を叩いた。

「任せろ、おれは何のとりえもないただのサラリーマンだが、よいシュークリームの見分け方だけは知っているつもりだ。まずは協力して警察の目が届かぬ秘密の作業場を拵えろ。あとは材料と簡単なお菓子作りの道具さえ揃えてくれればいい。そうすれば少なくともそこの皿に乗っているごみの百万倍は旨いシュークリームを教えてやる!」

 蔓延した煙を一瞬にして吹き飛ばすかの如く、おれの言葉に怒号にも似た歓声が上がった。随分と大きな事を言ってしまったようにも思えるが、事実としてプロでもないおれですらもう少しましなものは作れる。これからは忙しくなるぞと、おれは長髪の男や売人と固く握手を結んで回った。


 その日を境におれの異世界での最低な生活は急変した。

 あの場に居た若者のみならず繁華街でくそまずいシュークリームを買わされていたごろつきどもを加え、カンパを募り調達した材料と最新型のオーブンを数台、街の廃工場へと何とか搬入した。

 牛乳や卵、薄力粉は一般家庭でも変わらず使われているだけあってさほど苦労はなかったが、問題は効率だ。禁止されているのにそれを量産する機械が流通しているとは到底思えなかったし、かと言っておれが講師となってお菓子教室よろしく教えて回るのも些か悠長過ぎた。

 案の定、試しに焼かせたところ多くの者が失敗した。各分量についてはおれの秘伝レシピを使ったので中身のクリームについて問題はなかったのだが、どちらかというと若者どもが人の話を聞かないというのが第一にして最大の課題だった。

 シュークリームをうまく焼く為にはある常識というものがあって、おれは口を酸っぱくして注意したのだが、若者どもは結果ばかりを急ぎ過ぎてそいつをシュー皮ごとぱっくりと破ってしまうのだ。それでもクリームの味はあのごみに比べれば上々、と満足している。こいつらはいずれは人に出すものだという事まで考えられないのか。

 それでもひとまずは文句を垂れながら付いてきてこそいるが、そこまで統制の取れた利口な集団ではない。ここはひとつわかりやすい結果を出す為にも、おれは何人か元気を持て余している者を選び街のパティシエを拉致してこさせた。

 協力を固辞するならば情報漏洩を防ぐためにもリンチをと考えていたが、縄もなしに連れてこられた彼らはいやに協力的だった。

 それとおれが何人かは女のいるものと期待していたのとは違って、ほぼ例外なく屈強な気骨の男たちばかりだ。見れば道中に香り付け用のラムをまるっと一ビン空けてしまったものもいる。おれの世界では女の子の憧れる職業の筈だったのだが、シュークリームがマリファナの世界ならば無理からぬ話だろうか。

「お前がシュークリームを作れと言うのか」

 実に話の早い事で、先ほどの顔を赤くした元パティシエだという髭面の壮年が酒臭い息を吐きながら言った。おれは気圧されぬようやたら深く頷いてみせた。

「かつてそう誘ってくれた男は何人かいたが、今では皆揃って塀の中だ。それだというのにお前は何故そこまでシュークリームに関わりたがる。金か」

 おれは黙って首を横に振った。

「シュークリームはシュークリームだ、金じゃあない。シュークリームに久し振りにありつけたと思ったら、カスみたいなシュークリームばかりで却って欲求不満になっちまった。こいつらに一番いいシュークリームを頼む。おれからはそれだけだ」

 元パティシエはそこまで聞くとおれの手をやたら傷だらけの手で固く握った。由来を聞けばかつて当局の拷問に耐えた跡だという。何故奴等がそこまでするのかはよく解らなかったが、本来のシュークリームを知る者としてはそんないわれもある筈がない。気付けばおれの心にまで闘志が燃え広がっていた。

 この一度立ち昇った気炎を絶やさぬ為には、言葉を越えた何かが必要だ。そう考えたおれと元パティシエたちは急ぎ人数分のシュークリームを拵えると、皆にひとつずつ配って回った。

 そして全員で円陣を囲むその最中で、おれは長らく待ち望んだまともなシュークリームを剣の代わりとばかりに天へと掲げた。

「生まれた世界が違おうと、例えこの国が禁じようと、天地神明に誓ってこの味に罪はなければ、変わりもない。それを今、ここに確かめよう」

 そう言って一口頬張るとやっとあの味がしたので、おれは朗々と音頭をとったのが一転、不覚にも咽び泣いてしまった。シュークリームを知らなかった若者たちも口々に今まで食べていたのは何だったのだと目を覚まし、それを作った職人も新たな世代の胎動にいかつい顔を一時綻ばせていた。

 まるで少年時代に読んだ三国志に名を連ねる群雄英傑が如く、おれは激動というものをこの一身で感じているのだ。円熟しきったおれの世界ではもう到底味わえないであろう感動と情熱が、カスタードに含まれた洋酒の香りと共に心血を焦がした。


 若者たちもこの儀式を境に新生し、シュークリームの解放をスローガンに士気を高め組織としての体面を徐々に為していった。

 腕力のあるものは材料の調達と搬入に勤しみ、手先が器用なものはパティシエたちの元で職人としての研鑽を重ね、コネのあるものは完成したシュークリームを安価で街に流した。

 人間の舌はどこよりも正直だ。悪貨が良貨を駆逐する事があっても、良いシュークリームが悪いシュークリームに劣る訳がない。おれたちの活動はヒヤシンスの如く水面下で根を伸ばしていったが、それでも結実とまでは至らなかった。

 白日の下で何か決定的なイベントを起こさねば、おれたちはいつまで経っても日陰者扱いだ。元々デモ行進などは別の団体によるものがある程度定期的に行われていたが、社会不適合者のたわごとなどとされてあまり世間の興味関心を引いてこなかったようだ。

 このように一度刷り込まれてしまったバイアスの払拭というものは困難を極める。おれに長髪こと中村、元パティシエを始めとする選び抜かれた主要メンバーたちは連日連夜シュークリームを片手に卓を囲み一計を案じたが、議論は平行線を辿る一方だった。

 その中でも名を『プロフィトロール』『クリーム・パフ』などといったものに改めるという中村の出した案には流石に閉口した。それではまるっきり薬物と同じである。歴史を繰り返すまいと、おれは断固としてノーを貫いた。

 あくまでシュークリームの側に後ろめたい点は何もない。そう主張する為には何よりおれたちが今いかに健やかであるかを証明する必要があるだろう。そう強く説いてやると、中村はその通りだと机を叩いた。

「WHOだって煙草やマリファナよりシュークリームの方が安全だって調査結果を発表しているっつーのに、何やってんすか日本は! フランスじゃあ単純所持はとっくに合法化っすよ? 役人どもは頭固過ぎなんすよね」

 ん? とおれは首を傾げてしまった。

 またどこかでそっくりそのまま聞いた事のあるようなフレーズだ。そういう問題なのかというズレのようなものはどうしても拭えなかったが、ともあれ世の権威がそうであるのならば排除するに越した事はないだろう。おれは何とか頷いて無理矢理納得した。

 しかしよくよく考えればおかしな話だ。果たして世の中で定められた悪というものは、本当に絶対的なその実害に基づいて定められているものなのだろうか。

 過去にアヘン戦争で苦汁をなめさせられた中国が臥薪嘗胆とばかりにマリファナを始めとする薬物を取り締まるのは理解できる。筋の通った話だ。

 だがそれは明らかにイギリスという国の策謀であり、当の大麻ですら本来ならあの麻袋の麻の一種でしかない筈だ。植物自体には何の罪のいわれもない。ただ偶然人間に作用するからこそ目の敵にされるのである。麻に意思があればいい迷惑と感じる事だろう。

 そしておれが一応この世界の差異について図書館で調べてみたところ、かつてシュークリームを機に動乱が巻き起こった事など、日本はおろか世界中どこの歴史を紐解いても見当たらなかった。当たり前の結果ではあるのだが、却って空恐ろしくなるばかりでもあった。

 シュークリームとマリファナ、入れ替わった二つを究極的に括ってしまえば、これらは揃ってただの嗜好品である。それを分かち片方をイエス、片方をノーとしたのは歴史の大河の上での事とは言え、同じ人間の誰かの仕業であるという認識に誤りはない。むしろ見えざる神の手とやらを信じてしまいたくなるほど残酷な事実を、おれはこんなところに迷い込むことで始めて理解する事ができたのだ。多くの凡人に等しくおれにあったのは、興味があるかないかというごく個人的な区別だけである。

 少なくともマリファナがこの世界で許されているのは、その明らかな証左ではなかろうか。おれはかつての自分の身勝手さを恥じるとともに、おれがこの世界で真に為すべき事を単なる熱狂を越えて見つけた気がした。

 そんなこんなでおれは自らの使命を果たすべく昼夜問わず東奔西走したのだが、気付けばまず当たり前のように会社へ行く時間が削られていた。

 これまでの会合はいかにも密会らしく夜が中心だったのだが、何分人脈が人脈なので末端のものになればなるほど所謂ロクデナシが多くなる。彼らの多くは生活のリズムというやつが退廃的、いや壊滅的だった。

 おれは会社にいた頃からそうだったが、自らが関わるプロジェクトについては全ての事に神経を張り巡らせなければ気が済まぬたちなのだ。そういう訳でひっきりなしに構成員と個別に面談を重ねていった結果、もはや会社はおろか家に帰って寝る事さえもいよいよ物理的に不可能と言わざるを得なかった。

 ある日おれは意を決して時間をまとめて取ると、南米の革命家の如く伸びに伸びた髭を剃りに我が家へと戻ってみた。とっくに引き払われているものと覚悟はしていたが、予想に反して何もかもが恐ろしいほどそのままだった。

「何をしにきたの」

 妻は居間に独りでいた。本来なら会社に行っているであろう昼間に戻ってきたおれを純粋にたしなめるような、まるで慈母の如き響きだった。

「髭を剃りに」

 彼女は随分やつれた様子でそう、と言ったきり深くは聞いてこなかった。おれもそれで安心して、本当に髭を剃りに洗面所へと向かった。

 鏡に映ったおれの顔も随分と他人のように思えた。そう言えばマリファナがシュークリームを弾き出したように、この世界にもおれというやつが元々居て、そいつが今おれの代わりをしているのだろうか。髭を残さず剃り終えて洗顔クリームをなじませても、この違和感はどうしても拭えなかった。

 居間に戻ると、彼女は黙ったままタオルを手に待っていてくれた。おれはそれを「ありがとう」と受け取って、最後に一つだけ質問した。

「シュークリームは、好きか」

 あの真面目だったおれをもう目の前に認められなかったのだろう。彼女は泣きそうな顔をして首を振った。

「あなた、そんな事をやっているの」

 努力というものは社会通念に沿って正しく行われる場合にのみ努力と呼ばれる。それに批准しない活動は情熱の有無すら問われはしないのだ。

 良き夫がうって変わって放蕩と享楽の限りを尽くすロクデナシと近所で後ろ指をさされるのに、おれの妻よりやや繊細なきらいのあった彼女には耐えられなかったのだろう。

 おれは妻がシュークリームが好きだと言ったから結婚したのを今更になって思い出した。誰も人の代わりなどできぬが、自分で自分の代わりをする事すらおれには難しかった。まだ見ぬおれも四苦八苦しているに違いない。しかしそもそもおれというやつはマリファナどころか煙草も苦手だったのだ。勝手な言い分だと頭では解っていても、妻を幸せにしてやって欲しいと心から願う。

 ともあれ、元よりほとばしる情熱の前に家庭は邪魔でしかなかった。彼女には累が及ばぬ事を祈って、おれは家を後にした。これもまた随分自分勝手な考えだとは思うが、男の一人でも上げておいてくれればまだ良かったのに。


 これでいよいよ無頼の徒となったおれは、シュークリームの早期解放を実現する為にデモで勝負に出る事とした。

 渋谷のモヤイ像前を集合場所に参加者を募り、そのまま山手線沿いに原宿、代々木、新宿と警察の先導の下に北上。最終的には都庁まで練り歩くだけ練り歩いて集会もせずにおとなしく解散だ。

 というのが公に提出された計画概要である。実際にはこれにおれたちの作ったシュークリームの配布が加わる。先導する警察官は当然こちら側の人間だが、それを込みにしても最初から完走など目論んではいない。よくて原宿、あわよくば休日の代々木公園だろう。あとはその場に居合わせた人々の加勢に期待する外なかった。風のうわさに聞けばシュークリームは今、学生の間でもかなり浸透しているらしい。おれたち自体はせいぜい百余人だが、彼らが付いていると思えば心強い。

 おれはもう余計な事を考えるのをやめにして、この前日の夜はシュークリームの数を少しでも増やす為だけにひたすら手を動かした。

 夜が白々と明け始める頃、仮眠を勧められるも眠れなかったおれは缶コーヒーを片手に空を見つめていた。冷たく清新な空気が体を満たしていくのがわかる。ねっとりと絡みつくホイップクリームの香りを吸い過ぎた後では、こういうのも悪くはなかった。

「やっぱ、眠れないっすよね」

 その内に中村がおれの隣に来て座った。

 前の世界に変わらず居たのであれば、おれはこういった類の人間とは一生友人にはなれなかった筈だ。そんな大男が口の端にクリームを付けていたのが全ての始まりだと考えると、世界の境界さえもはやどうでもよく、まどろんで見えた。

「ああ。だが真の勝利はもっと先にある。明日はその為の負け戦だとは知っていても、おれは期待してやまないよ」

「実際若いやつらがこことは別に、学生を集めて何か企んでるみたいっす。きっとそっちも上手い事やってくれてますよ」

 そう言って中村が人懐こい笑いを見せると、おれは今更になって悪い事をしたなという気持ちになった。

「家族はどうしてる?」

「さあ。何も持たずにこっちへ出て来たもんすから。よくわかりません」

「そうか」

「おれの事なんて気にしないでくださいよ。そんな何もないおれに居場所を与えてくれたあんたの事を、今ではマジでリスペクトしてんすから。とにかく勝手にやろうって、そんで悪い事何でもやってやろうって。たったそんだけの理由であのゲロまずいシュークリームを我慢して食ってたなんて。あーあ、本当バカでしたよね、自分」

 おれは苦笑した。

「でもおれ、ここに来てみんなと一つの事やれてマジで嬉しかった。今日だってパティシエのおっさんにぶん殴られながらクリーム混ぜて。やってらんないすよね、大の男同士で。でも、それがスゲー楽しかったんです。ああ、おれもこんな汗かいて人並みの事やれたんだって。試食させてもらった時も、おれはこの旨いシュークリームを作り上げるのに貢献したんだぞって。そしたら何か涙出てきちまって。あ、やべ、まただ」

 再び咽び泣き始めた中村の肩を、おれは黙って叩いてやった。中村はそんなおれの手を取り両手で固く握り締めると、深々と頭を下げた。

「全部あんたのおかげだ、ありがとう」

 確かにおれがこの世界に来て今思いがけずこうしているように、ほんの少しのきっかけで人生は大きく逸れてしまう。願わくば元の世界では、中村が真っ直ぐ菓子職人への道へと辿り着けているようにとおれは祈った。


 そして遂に運命の朝が来た。

 おれたちは更なる躍進の一歩を歩み出す為にモヤイ像の周辺へと時刻をかなり早めて馳せ参じたが、その事が結果的に自らの身を救った。

 迎え入れてくれたのが多数の支持者ではなく、盾を手に大挙して押し寄せる機動隊の一個分隊と放水車だったからだ。

 そしておれは怒りに打ち震えながらも、次の行動を早急に指示する必要があった。とは言っても元々配布が露呈した時点でそれ以上強情を張る事など考えてもおらず、詰まるところ逃げの一手の外には何もなかった筈だった。

 だが先陣を切って機動隊のもとへと駆け出していく男の姿があった。

 中村だ。涙を流し敵陣の中で揉まれながら長髪を振り乱す姿は、まさしく諸葛亮に訳もなく疎んじられた魏延文長その人だった。

 おれの采配が一瞬遅れたせいで、多くのものがシュークリームを捨てた握り拳だけで彼に続いた。おれも彼らの情熱に報いなくてどうすると身を乗り出したが、傍らに居た元パティシエたちに数人がかりで羽交い絞めにされた。

 為す術もなく蹂躙されていく若者、そして理想たち。

 おれは携帯電話で写真を撮り続ける通行人どもを睨みつけた。お前らの心にもしひとかけらでも炭火のようなものがあってそいつを燻らせているのなら、今すぐ出て行って機動隊を殴ってくれ、もしくはおれを拘束するこの腕を外す手伝いをしてくれ、いや、そのテープを越えてこちら側へ来いと、おれは声がかすれるまで延々と喚き散らした。だが、誰一人として応えるものはなかった。

 おれたちは敗れたのだ。


 隠れ家を引き払った後で宛てもなくさ迷い歩く道中、おれはごみ箱に差し込まれていた号外で死者が一人出た事を知った。そこに挙がっていたのは他でもない中村の名前だった。今度はおれが慟哭する番だった。

 逮捕者数十名、死者一名を以って能天気な若者どももようやくヤバさとやらを悟ったのか、気付けばおれに付き従う人間はもう若くないパティシエどもと、中村と志をともにしていた特に熱狂的だったごく一部の若者の、合わせてせいぜい十余名だった。

 おれたちは寝袋だけを担ぎ、来る日も来る日も終わりの見えない逃亡を続けた。やり場のない気炎の逃がし方を知っているかのように、たった一人の女は何も言わず夜毎おれたちに体を預けてくれた。おれたちは彼女をシュシュと呼んで代わる代わる愛し合った。もうどうしようもなかった。

 それでも「どうするのだ」と既に枯れていたらしい元パティシエだけがおれにしつこく尋ねてきた。おれは自らの事情を明かし、異郷の地にまで来てシュークリームを食べたいという自らの我執が、結果的には中村を殺したのではないかと訴えた。

 全てを説明し終える間もないまま、おれは元パティシエにぶん殴られた。

「それではお前が真に奴を見捨てた事になりはすまいか。シュークリームを食べたいと願う心は、もはやお前一人のものではない。いつかもし中村が生まれ変わりこの地に戻ってきた時にもまた、同じ道を歩ませるのか」

 あの剛直な髭面の男がおれの胸倉を掴みながら泣いていた。

 元パティシエだけではない。おれやシュシュを始め、皆が一様に泣いていた。シュークリームは既にただのシュークリームではなくなっていたのだ。おれたちはシュークリームの為最後まで断固として闘い抜く決意を新たにし、また歩き始めた。

 そんな折、南米のシュークリーム密売組織から誘いが来ていたのをおれたちは受諾した。どうやらあの時渋谷駅に散らばるままになっていたシュークリームを組織の人間が拾っていたらしく、技術供与と引き換えに匿ってくれるという約束だった。きな臭さは最後まで拭えなかったが、何よりおれたちはまず自分たちからしてしばらくシュークリームを食べていなかった。

 首領の話を聞くと警備の都合上、山奥の農村を模した工場に潜伏していろとの事だった。これにはもちろん二重の意味があったが、おれたちに与えられた選択肢はここに至る途上であまりに少なくなっていた。

 おれたちが送られたのは工場とは名ばかりののどかな山村だった。

 原料用の生クリームは別途搬入されてくるものの、農家の牛も痩せ細り住民の生活は極めて困窮しているように見えた。あくまでカモフラージュでありおれたちの警護も兼ねているとの事だったが、身の丈に合わない機関銃を担がされている少年兵を目の当たりにするとこいつらの言う事はいよいよ信用できなかった。

 シュークリームを作るおれたちにはもちろんそれなりの家があてがわれたが、シュシュと元パティシエの発案でおれたちはそこを出て村人の家で生活する事とした。

 やはりと言うか、工場の為に用意されたものは非常に質が悪く、しかも完成されたシュークリームは相変わらず高値で売りつけられているようだった。

 そんなシュークリームに飽き飽きしていたから、おれたちは闘ってきたんじゃないか。できあがった粗悪なシュークリームをひとつ取って齧ってみても、あの嫌な味しかしてこなかった。

 それでもパティシエたちは黙々とひどい生地を捏ね、どうしようもないクリームを練り、やるかたなくオーブンを熱した。一番何かを言いたいのは職人である彼らだろうに、感情を押し殺すように無言を貫いていた。そうして仕事を続ける姿はまるで機械だった。

 このままでいいのか。

 再びそう思い始めたおれたちは、わずかばかりに得た端金で日本から卵、砂糖に薄力粉、終いには乳牛を密かに取り寄せた。この状況に甘んじる事はできないが、とりあえず誰にも邪魔されない場所だけは与えられたのだ。原点に立ち返ってうまいシュークリームでも作って食おうと、おれは提案した。

 何分木の鬱蒼と生い茂った山の中だ。お世辞にも環境が十全とは言えなかったが、おれたちは熱いコーヒーを淹れて出来上がったシュークリームを楽しんだ。

 考え得る限り最高の素材を取り寄せて、最高の奴らと作ったのもあるが、誰にも咎められず広い空の下で食う久方振りのシュークリームは本当に旨かった。

 おれたちは遠まきに眺めているだけだった少年兵を招き寄せた。随分と警戒されていたらしかったが、何、麻薬なんて入ってやしない。お裾分けを細い腕で受け取り恐る恐る口にすると、二口目で残りを全部平らげてしまった。

「見ろよ、クリームで髭ができてる。お揃いだ」

 おれが元パティシエの髭を指して笑ってやると、少年兵は気付いたらしく口を慌てて拭った。言葉こそ通じなかったが、おれたちは二個目のシュークリームですぐに打ち解けた。

 たとえシュークリームを手にできなくとも、それが子供たちに銃を持たせていい理由にはならない筈だ。そんな事を考えると、どこの世界も随分と矛盾を孕んでいるような気がしてやるせなくなった。

 そこにある材料の質があまりにも悪ければ、誰が作っても大差ないのだ。それなのにおれたちを錬金術師か何かと勘違いしているんじゃないかと、本当に旨いシュークリームを口にしながらおれたちは空笑った。ただつられるがままに笑ってみせていた少年兵が哀しかった。

 その内にシュシュに子供ができた。誰の子かはわからなかったが、間違いなくシュークリームが好きな子供になるだろう。そしてゆくゆくはここを組織から買い取り、おれたちの子孫がシュークリームの千年王国、王道楽土を築き上げる。それだけでこれからも生きてゆけるような気がした。

「いい考えね、それ!」

 この夢を身重で横たわるシュシュに話すと、彼女も随分と喜んでくれた。日本に居た時よりだいぶふっくらとした手で大きくなったお腹をさすると、まるでおれの方をあやすように言った。

「お父さんの分まで、いっぱいシュークリームが食べられるといいね」

 ここに来て様々な体験を経てきたおれだが、流石にその告白は聞き流せない。

「まさか、中村とも?」

「うん。だって時期を考えたら、間違いなくそっちだもの」

 これにはおれも苦笑せざるを得なかった。全く、大したやつだ。おれなんか居なくても、お前がこいつらを引っ張っていったかもな、中村。

 おれは彼女の寝屋を後にして、煙草の代わりに懐から取り出したシュークリームを一齧りした。酒なんか入っちゃいなかったが、最高の気分だ。

 その最高の気分のまま、今度はおれたちが集会場と呼んでいる、組織に与えられた屋敷の一室へと足を運んだ。おれたちもこのままじゃいられない。

 そこでは元パティシエを中心に据える形で、既に卓が囲まれていた。

「シュシュは大丈夫そうか」

 元パティシエの質問に頷いてやると、彼は「そうか」とまるで初孫を思いやるが如く柔和な笑みを一瞬垣間見せた。しかしおれが机の上に広げられた地図を認めるや否や、彼はすぐに副官としての顔を取り戻した。

「組織に提供してもらった政府軍の行動計画書を基に、警らルートを書き込んだものだ。ここは相変わらず逸れているようだが、それにしても最近は羽音を近くに聞く。用心に越した事はないだろう」

 おれにも思い当たる節はあった。007でも送り込んでいるのなら別だが、情報の精度があまりにも高過ぎる。その上でかくも定期的に収集させてくれるほど政府軍のやつらは間抜けだろうか。第一筒、というのは双方向に抜けているものだ。

 不意におれの脳裏を警官側の協力者だったはずの男の姿が過ぎった。顔すら思い出したくもないが、やつはおれたちを売って賞与か休暇でももらったに違いない。そんな個人レベルの怨嗟というのももちろんあったが、おれたちのような輩が現れぬ限り彼らの爆発的な出世も見込めなかった筈だ。兵隊は公務員ゆえ食うには困らぬだろうが、狡兎死して走狗煮らる、だ。恒久的に平和ならばあまり良い扱いもされはすまい。

「ここのところ、他に襲撃を受けた工場はあるか」

 元パティシエは首を振った。

「散発的な小競り合いはあるが、制圧には至っていない。いたちごっこだ」

「やばいな」

 千年王国などと悠長な事を言っている場合ではなかったらしい。

 そう思うが早いか、突如空に光るライトが目を眩ませたかと思うと、次の瞬間にはミサイルが煙の尾を引いて東の空へと飛んでいった。

「バカ野郎! そっちはだめだ!」

 おれたちは散り散りに逃げ延びるセオリーなど忘れ、バルコニーに殺到した。

 ついさっきまでおれが居たシュシュの寝屋から爆炎がもうもうと上がっていた。臨月だったのだ。いくら機敏なあの子でも無理だろう。

「うおおおおおおおおお!」

 もはや声にもならぬ咆哮を上げて屋上へと飛び出して行ったのは元パティシエだった。対戦車ロケットを両肩に一本ずつ担ぎ上げ、憎きヘリコプターを一撃、返す刃で軍用車両を一台乗員ごと吹き飛ばし、炎の中で再び男泣きした。

 しかし政府軍の規模はここから眺めるだけでも単なるパトロールといった様相ではない。これでは立派な掃討作戦だ。物陰からマズルフラッシュが無数に瞬いたかと思うと、ただ独りで仁王立ちしていた元パティシエがボロ切れのようにへたりこんだ。

 計られた。やはり予定調和を演出する為だけにおれたちはここに置かれていたのだ。日本から逃れてきたお尋ね者を一斉検挙したとあれば、それは軍にとっても間違いなく一大イベントだろう。面子を保ち、しばらくは溜飲を下げる事もできる。

 それ自体がこの国を延々と長引かせる為のマッチポンプであり、シュークリームというのは結局一手段にしか過ぎないのだ。混沌を産み出すだけの、ただの道具。そこに情緒纏綿といった類のものは一切必要とされていない。

 あの時の二の舞だけは演じてはならないと、おれは唇を血で滲ませながら何よりも先に残ったメンバーへ言い聞かせた。一人でも生き残れば勝ちの安い戦だと。おれたちは集会場の冷蔵庫からシュークリームを一つ取り出すと、別れの杯とばかりに分かち合った。いずれ会いに行くのだからと、涙ながらに口へと押し込んだ。

 次に二、三人毎にチームを組ませて、それぞれが全く別のルートを通るように指示した。とにかく一人を残りの人間が逃がす事だけを考えればいい。おれはそう言い残すと、誰も伴わないまま正面玄関へと突っ走った。

 そして包囲していた大軍勢を前にして、大将首はここだとばかりにおれは親指を自分に向け、空を切ってやった。やつらはこっちの気でも狂ったかと一瞬戸惑っていたようだったが、それでいい。少しでも長くここで釘付けになってくれ。

 おれはここを死に場所とばかりに半狂乱となってやつらに喰らい付いたが、情けなくもすぐに銃把で打ち倒されてしまった。そうだ、おれは元々ただのサラリーマンだったのだと今更ながらに気が付いてしまったのには、流石に笑えなかった。

 地面に転がらされたおれをまず待ち受けていたのは、あの少年兵だった。

 少年兵は無残にも弾の嵐に右半身を食い千切られ、おれと同じ視線の高さにいる。甘いシュークリームをあどけなく頬張っていたあの少年の事を思い出すと無性に腹が立ってきたが、こいつらにおれの言葉はわからないし、こいつらの言葉がおれはわからない。しかしおれは構わず叫んだ。

「シュークリームが好きで何が悪い!」

 お前らも気付いていないだけなのだ。ただ少し物事が大き過ぎて、全容の見えにくいだけで。


 日本に連れ戻されたおれを出迎えたのは、もちろん優しい妻ではなく報道陣の焚く眩いばかりのフラッシュと以前にも増してガラの悪そうな若者たちだった。

 どうやらおれたちがデモを起こしてから南米に潜伏していたまでの間、こちらでもそれなりに取り上げられていたらしい。『反逆のカリスマ』などとやつらの掲げていた紙にはおれのキャッチ・コピーと思しき文句が並んでいた。

 黙れクズどもと舌を出し中指を立ててやったら、やつらは歓声を上げた。ああ、間違いない。クズにもなり切れない本物のクズどもだ。翌日の新聞の一面には痩せこけた元サラリーマンのクズのファック・サインが載る事だろうが、せめてモザイクをかけずに目を見開いて物事を見極めて欲しいと願うだけだ。

 当たり前だが、獄中でシュークリームなどといった洒落たものは出ないだろう。破壊活動防止法だのと、シュークリームでは到底為しえない罪を散々並べ立てられたおれは、かつての仲間がクズどもから集めたカンパで幸運にも一時保釈される運びとなった。

 おれはただ、シュークリームを食べたかった。それだけだったのだ。

 かつてと同じようにスーツを着て、おれはモヤイ像の前に誰も伴わないまま立ち尽くした。中村と、その妻子の為にも花を手向けなければならない。

 おれは粗末な紙に包んだとっておきのシュークリームを懐から取り出すと、それをまずは天に向けて掲げた。こいつは元パティシエの焼いた最後の作品だった。

 計算では、それだけで周囲の良民たちは恐れおののく筈だった。

 警察を呼ばれ、取り押さえられる前にシュークリームを急ぎ押し込みうまい、と叫ぶ。その証明こそがおれからしてやれる別れの儀式である筈だった。

 だが掲げる姿はおろか、そいつを口にしてシュークリームはうまい、最高だと大声で触れて回っても道行く人々は誰も何も言いはしなかった。

 おい、こいつはシュークリームだぞ。お前らが大嫌いなご法度品だぞ、おれはそれを白昼堂々こうして見せびらかして、あまつさえうまいとまでほざいているのだぞ……

 おれは元の世界に戻ったのかと一瞬考えたが、今となっては何も変わらなかった。そんな些細な事は、こいつらの気まぐれの総和でしかないのかも知れないのだから。そして、ふとシュークリームをうまく焼く為の常識を思い出した。

 シュークリームは高温と低音に二度、温度を変えて焼くのがコツなのだ。そうすれば皮を背中からぱっくりと割らずに済む。

 神か何者によるものかは知らないが、おれは確かに二度焼かれたのだ。しかしそれを知ったところで、おれ如きにできる事はあまりにも少な過ぎたではないか。

 願わくば、もう一人のおれには早々に気付いていて欲しい。こちらのおれには、もうどこにも行く宛てなどないのだから。

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シュークリーム奇譚 髙橋螢参郎 @keizabro_t

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