第53話

 少女はただ、天井を見上げていた。

 見慣れた天井。ただし他の誰にも見ることができない、真っ暗な屋根裏部屋の天井。

 そこに、今はあの夜のことが浮かび続けている。

 ――少年は戦いのあと、冒険者に戻っていった。元より王国の兵になる気はない、全ての目的は果たしたのだからと言って。

 その目的――父親を探すという目的は、確かに果たされたのだろう。しかしそれならば、彼が冒険者でい続ける理由はなんだろうか? 少女はそう考えてしまうのを止められなかった。

 彼は、まだ世界を巡り続けると言った。そう話したのだ、あの夜。自分の剣も抜かぬまま、ただ王都に背を向けて歩き出しながら、影から現れた少女に向かって。

 なぜそんな話をしたのだろうか? 名前すら知らないはずの少女に、自分の未来など。

 それでも少年は、そうとだけ告げたのだ。他には何も言わず、何も聞かず、そう告げて去っていった。

 思えば少女も、彼の名前を聞くのを忘れていた。彼の顔すら思い出せない。しっかりと見ることはできなかった。彼は去り際も俯いて――少女と同じように俯いていた。

 ただ……少女はその背に、一言だけ声をかけることができていた。物心がついてから初めて発する声で、緊張に震えながら、強い感情に後押しされながら、彼に言ったのだ。

「私は、あなたの味方です!」

 それを少年が聞いたかどうかはわからない。少女は彼が見えなくなるまでそこに立ち尽くし、他にどうすることもできない自分を叱責し続けていた。

 そしてまた、こうして誰もいない真っ暗な屋根裏部屋に戻ってから……小説を書き始めた。

 主人公は変わらない。ハーリット・ヘレディ。父親を探し、幸福と平穏を取り戻すため、一途な冒険を続ける少年。書きかけだったその物語を、少女は改めて綴り始めていた。

 せめて彼がいつの日か、望むものを手に入れられるようにと。

 その時……ぽつりと紙に雫が落ちた。ふと気付けば、外ではまた雨が降っている。

 雨粒が屋根を叩く音が降り注ぐ。少女――シア・カリウスはもう一度屋根を見上げた。古い家だ。雨漏りでもしたのかもしれない。

 しかし彼女が見上げる間、雫が再び落ちることはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

屋根裏部屋の小説家 鈴代なずな @suzushiro_nazuna

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ