第52話
歪に千切られた皮の下から――王女と同じ、黒い肉塊が現れる。
それは人型をした、けれどのっぺりとした体表を持つ鈍い不定形の生物だった。
人間の内臓を黒い泥で作ったらこのような生物になるのかもしれないと思える。それでも一応、人間の顔だった辺りには眼球と口があった。間接の類はない。それらしい場所が細くなっていたりはするが、手足は今までの拘束を抗議するように膨れていた。
「ルォォオアアアア!」
男――いや、魔物が吼える。
不定形生物然とした見た目のわりに、力は信じがたいほど強かった。少年との距離を一気に詰めると、武器を捨てた素手を大きく振り被り、叩き付けてくる。少年は間一髪、横に大きく飛び退いて難を逃れたが……腕の叩き付けられた地面は、芝生ごと陥没していた。
「ォォオオオオ!」
「くそ……!」
魔物は吼え猛りながら、容赦なく少年を追い詰めていった。長い腕を振り回し、叩き付け、少年はもはや逃げ回るだけで手一杯になる。
しかも魔物は単純な力技だけではなかったらしい――少年は地面を薙ぐような一撃に対し、後ろへ飛び退いてから、そのことに気が付いた。
着地したのは渡り廊下の真下、完全に暗闇が支配する空間である。そして真っ黒な塊が、同時に影の中に入り込んでくる。
渡り廊下の幅は兵士の緊急的な通用にも使われるため、十人ほどは並んで走れるほど広く作られている。今はそれが不運でしかなかった。
影の中で、最初の一撃を避けたのは勘だった。影の外へ出ようとすればやられると思ったのが的中したらしい。しかしそれは逆に、より深く影の中に入り込む結果となってしまう。夜は暗く、明かりもそこまでは届かず、完全な暗闇の中、敵を捕捉することもできない。
見えない中で、次もまた勘で避けられるはずはないだろう。少年は今すぐにでも、魔物が強靭な腕を振り回して自分を粉々にするような気がしてしまう。
「くそ! 俺は……!」
そして致命的な一撃だろう強い風圧、威圧をどこから感じた瞬間――それが叩き付けられるより一瞬早く少年の右足元に何かが突き刺さった。ざくっと地面を抉るその音に、少年は咄嗟に飛び退いた。次の瞬間、槍を砕くような音を響かせながら、魔物の一撃が地面を叩く。
少年が何事かと混乱していると、さらにまた足元に何かが飛来する。咄嗟にその反対に飛ぶと、また直後に恐るべき迫力を持つ拳が通過した。
(あれだけ言ったのに援護射撃を……いや、違う?)
何度となく少年に向けて、恐らくは矢や槍が次々と降り注ぐ。それは完全に少年の動きを追従し、狙いすましているようで――
(俺を殺して、自分でやろうってのか? ふざけるな!)
右に行けば矢が刺さり、左へ跳べば槍が降った。魔物はそれを叩き潰すように、暗闇の地面を抉ってくる。
地面を激震させるような魔物の一撃と、姑息な狙撃。少年はその両方を避けるため、神経を注がなければならなかった。
少なくとも狙撃は、完全に回避することが困難だった。頬が、腕が、足が、僅かずつだが裂かれ、不快な痛みと血の感触を与えられる。そのたびに僅かずつ、確実に体力を奪われた。
「ォオォアッ!」
「く、そぉ!」
毒づき、ほんの鼻先を通り過ぎていった拳の風圧に青ざめる。
何度目だろうかと、数える気にはならなかった。隣には常に死があり、浅く裂かれた皮膚の痛みがそれを明確にしていた――未だ魔物の風圧に怯む鼻頭を長大な剣が掠め、そこに一本筋の血が滴る。
死ぬ。
飛び退きながら、少年は確信した。自分の背後に立つ、死神を知覚したのだ。鋭い刃を持ち、それを首筋に押し当ててくる暗殺者。
(いや――)
その時。少年は自分の確信に反抗した。
背後には紛れもなく、死神が立っている。首筋を掠め、自分の背後に突き刺さった銀色のナイフ。
その色は、間違いなく判別できたのだ。薄れた雲の隙間から月が顔を覗かせ、差し込ませた微かな光を反射する銀色として。
雨が止んでいることもわかった。王宮が、その形だけはまだハッキリと残していることも。
そして……影から抜け出してくる、敵の姿も。
「ルォァアアア!」
慢心していたのか、それとも度重なる回避に躍起にやっていたのか――大口を開けて吼え、身を屈めて腕を突き出そうとしている敵が、月明かりに浮かび上がる。
「――ッ!」
少年は咄嗟に、無我夢中で剣を突き出した。
迫り来る敵とぶつかるようにして――その刃が敵の口腔内を貫く。
「グルィォォオオ……ッ!」
刃は口から、頭の方まで貫通していた。
魔物は激痛に悶えるように、剣を刺されたまま大きく仰け反る。そして断末魔の悲鳴を上げながら……仰向けに倒れた。
剣が地面と敵とを縫いつけて。露になってきた月が影を消し、墓標のようなその姿を照らす。
「っは、ぁ……はぁ……」
少年は息を荒げながら、その場で尻餅をつくようにへたり込んだ。空っぽになった手を見下ろし、動かない敵の亡骸を見つめる。
彼はしばし呆然として……やがて身体を折り曲げて、祈るように組んだ手を自分の目頭に押し当てた。
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