第51話

 東西の棟を結ぶ、渡り廊下の下辺りに辿り着くと。男はそこに立っていた。

 細い雨に濡れながら――土色の髪と髭を持ち、軍服に身を包んだ、大木のような男。

 五年前までは父と呼んでいた。あるいは呼ぶだけならば、それはほんの少し前まで父だったはずだ。

 だが今は……

「ディミーターの、親玉……」

 少年が呟くと、その魔物はゆっくりと視線を向けてきた。

 周囲には十を超える兵士たちの死体が転がっている。魔物の企みが他の兵士にも伝わっていたのだろう――そして捕縛に来た者を全て返り討ちにした、というところか。

「少し手間取りすぎたか。まあいい、ひとり増えただけのこと」

「……もう、何も言うことはない。ただあんたを殺す。それだけだ」

 少年は真っ直ぐに剣を構えた。切っ先の向こうに敵を見据える。そしてそれが、自分と同じように刃を向ける。

「我らディミーターの野望、止められはせん!」

 ふたりは同時に地を蹴った。

 先に攻撃を見せたのは司令官の男。大柄な身体と、それに見合う長大な剣のリーチを生かし、少年が懐に飛び込んでくる前に袈裟懸けに剣を振り下ろす。

 少年はその間合いの寸前で辛うじて止まった。そして刃が通り過ぎるのを待ってから、改めてもう一歩を踏み出して剣を突き出す。しかしそれは明らかに威力がなく、少し身をずらすだけで避けられた。

 次の瞬間、少年は肉薄した男に腹を打たれ、後ろへ弾き飛ばされていた。転がって、三回転目でうつ伏せに止まる。四つんばいのように起き上がると、男は追撃を見せず、その場に留まっていた。

 謁見の間のような不意打ちを警戒したのだろう。しかし少年の目には、単なる余裕としか見えなかった。

「ナメるな!」

 激昂しながらまた地を蹴る。男の方は、今度は先手を取らなかった。少年に打ち込ませ、それを剣で受け止めてから、肉薄したところを素手や足で弾き返していく。

 それは援護を警戒しつつ、体力を奪って確実に仕留めるという戦略だったかもしれないが――一見すれば、父親が息子に剣の稽古をつけているようでもあった。

 硬質な剣戟の音と、鈍い殴打、そして芝生を転がる音が繰り返される。

 少年は徹底的にやられていた。少なくとも――少女が想像の中で思い描いたような技量も、強さも持ち合わせず、ただ獣めいた気迫だけで立ち向かっては受け流されるという姿だった。

 並大抵の子供よりは優れた資質は持っているが、筋力が特別にあるわけではなく、それを数倍させる技術を会得しているわけでもない。戦闘術も持たず、数度斬り結び、相手の打撃を一度は躱すことができたとしても、次に繋がることはない。飛び退いたところを一撃されて、また吹き飛ばされる。

 ただ殺意が先行し、狂気に突き動かされて闇雲に刃を振るう。

「くそ……殺してやる、あんただけは必ず殺してやる!」

 そこに助けが必要かどうかは――難しいところだった。

 もし彼を助けるとすれば……それは彼の父親殺しを煽っている、ということになるのではないか? そう考えると、安易に助けるのも気が引けた。

 しかし――助けなければ、少年は確実に死ぬだろう。

「がふっ! ぐ、ぅぅ……!」

 何度目か、蹴り飛ばされて、少年は早くもボロボロになっていた。絶え間ない殺意だけで身体を動かしているが、呼吸も荒い。立ち上がるのも、剣を構えるのも緩慢だった。

「殺す……あんただけは、絶対に……!」

 灼熱色の瞳に狂気を宿し、魔物じみて繰り返しながら、少年は駆ける。左から力任せに振り払う一撃は、立てた剣で簡単に止められた。少年は半円を描くように剣を回転させると、今度は右から同じように打ち込む。しかしそれほど大きな動作で隙を突けるはずもなく、同じように止められる。そして今度は男が攻撃に転じ、少年の顔面を肘で打とうとして――

 その瞬間、男の額の横を何かが通過した。雨粒を裂いて飛来したそれは……矢だ。

 男はその援護射撃を素早く理解し、飛び退いた。同時にそれを追いかけるように、次々と矢や、槍が地面に突き刺さる。

「ッチ、またしても……!」

 断続的な不意の援護に、男はほとんど体勢を崩していた。最後の一本の矢を避けた時には地面に手を付くほどになっており、それが致命的な隙だと理解して怒りに歯噛みする。

 しかし――少年はそこに追撃を仕掛けていなかった。

 それどころか、援護のあった場所を探るように周囲を見回し、凄絶な激昂に叫ぶ。

「誰だ、どこからやりがった!」

 それは明らかに、援護をした何者かに向けられていた。姿なき助っ人に対し、彼は怒声を張り上げる。

「誰だか知らねえが、余計なマネをするな! 俺はここで死んでも構わねえ、俺が死んだらお前がやれ! けど俺が死ぬまでは手を出すんじゃねえ!」

 と、そこまで言ったところで、少しだけ声のトーンが変わる。狂気じみた憤慨から、それは口惜しさの滲む、泣き声の絶叫のようにも聞こえた。

「こいつは、俺が殺さなきゃならないんだ――俺が殺してやらなきゃならねえ! 他にどんな贖罪があるっていうんだ!」

 そして再び、剣を構える。男は当然、もう立ち上がっている。渡り廊下の影に半分ほど身体を沈めながら、恐ろしいほどの邪悪な瞳を向けて。

「殺す、殺すと、うるさい人間だ……殺せるものか。我ら崇高なるディミーターを、殺せるものか!」

 瞬間。男は動きにくい拘束具を脱ぎ捨てるように、自分の皮膚を破り捨てた。

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