花とゆりかご。相容れぬが故

皆麻 兎

本編

パソコンを開けば、世界中のあらゆる情報を得る事ができる。そして、SNSといったサービスの広まりによって、人は顔を合わせなくても交流が出来る術を得た。それでも、人と人が出会い、五感を以て何かを得るのは今の社会でも必要なのは変わりない。また、俺はそれこそが生き物が生きていく上で必要な行動として最適であるのを、本能が知っていた。

一方、顔を合わせない交流が増えた事でよくつぶやかれる事。俗にいう「愚痴」には、「毎日が退屈だ」・「つまらない」。ましてや、「何か起きてくれないか」とまで呟く人間も少なからずいるだろう。しかし、俺は思う。「何も起こらない。普通である事」が、どれだけ幸せで恵まれている事なのか。平穏な毎日を送る彼らには、その実感を理解する事もできないのだろうと―――――



「おはよう、慎太!」

「おお…暖乃か…」

朝、キャンパスでの登校時に、友人であり恋人でもある大和田暖乃が、後ろから声をかけてくる。

気配を感じ取れなかった俺は瞬時に振り向いたため、彼女は少し驚いたような仕草を見せた。“本来なら”この事に対して悔やむのが当たり前だが、今の俺にとっての優先順位が一番高いのは、暖乃だ。そのため、気配を感じ取れなかった事に関しては、とりあえず横に置いておく事にした。

「あーもう!一限目から英語だなんて、面倒だよねー!」

「はは…。まぁ、この北海道の地に西洋人の語学ってのも、何だか複雑だけど…法則覚えてしまえば、簡単っしょ!」

「むー…。慎太はどの科目も不得意がなさそうだからそう言えるんだろうけど、英語が苦手な私としては、簡単ではないの!」

俺の言葉に頬を膨らませながら、彼女は言う。

「へーへー…。あ、そうだ」

暖乃の愚痴を聞き流しながら、俺はある事を思い出す。

「まぁ、頑張れば今夜は…楽しい鍋だろ?」

「あ…!」

俺の言葉を聞いた彼女は、自分が何を言いたかったのかを理解したようだ。

そうして、満面の笑みを浮かべながら口を開く。

「そうだね!まだ11月とはいえ、夜は寒いしね…!楽しみだなー♪」

「…じゃあ、今日の授業もけっぱらなきゃな?」

「うん!そうだね…!!…って、慎太」

自分の肩くらいしか身長のない彼女を見下ろして言ったつもりだったが、彼女の意地悪そうな笑みを見て我に返る。

「“けっぱら”じゃなくて、“頑張らなくては”…っしょ?」

「あはは、つい…。でも、“っしょ”はお前も使っているんじゃねぇか?」

暖乃に北海道方言を思わず使ったのを指摘されるが、少し悔しくて自分も言い返す。

「“っしょ”は語尾に使われるだけだし、皆知っている言葉だからいいの!でも、やっぱり方言使われると、何言っているのかわからなくなるから嫌なの!」

とても低レベルな話をしているのはわかっているが、こんな途方もない会話が俺たちの日常茶飯事だ。

俺は北海道生まれの北海道育ちだが、彼女は違う。生まれは北海道なのは同じだが、中学・高校を東京で過ごしたため、標準語が身についているようだ。少なくとも小学校の頃は道南にある親の実家付近に住んでいたため、方言は話せない訳でもない。それでも、俺に標準語を話させようとするのは、つきあい始める際、俺が「とある約束を守ってもらう」に対する彼女からの「要望」だからだ。

生粋の北海道民である俺が標準語をしっかりと話すのは容易ではないが、彼女は嫌がる事も面倒とも思わず、親身になって教えてくれる。元々暗記や知識を身に着けるのは得意な方なので、割とすぐに覚える事ができたのである。そのため、俺が求めた要求よりもずっと軽くさえ感じるのだ。


そうして、一日が終わり、夜になる。月明かりが照らす中、俺は札幌市内にある自宅にいた。

「うし、完成!」

「わお…美味しそうだね♪」

俺は、出来上がった鍋をこたつの上に敷いた鍋敷き代わりの布の上に乗せた。

近くには暖乃がいる。今日は二人で久しぶりに、鍋を作って食べようという約束だったのだ。

「いただきます!」

「…いただきます」

両手を合わせて、俺達は暖かい豆乳鍋を食べ始める。

黙々と食べる中、最初に沈黙を破ったのは、暖乃だった。

「狼と…」

「…暖乃…!?」

彼女が口にした言葉に、俺は普通以上の反応を見せる。

「狼の本能と、人間の理性の両方があるのって…どんなかんじ…なのかな?」

「…っ…!!」

俺に対し、真っ直ぐな瞳で問いかける暖乃。

普通の日本人であるはずだが、彼女の黒い瞳は何か逃れられないような「何か」を感じてしまう。

 アイヌの血を引くから…か…?

俺は心の中でそう思いながら、彼女の問いに答える。

「今は制御できるようになったが…中学・高校の頃はとりわけ、抑えるのがきつい時期でもあった…。暖乃が知るように、エゾオオカミの血を引く俺は…人間と同じ“感情”がある故に、その起伏によって、狼の部位が視認できるくらい見えてしまう事もある」

「中学・高校…か。人間にとって、最も思春期といえる時期…。確かに、不安定にはなるよね…」

「…そうか、お前も…」

彼女の憂いに満ちた表情を見た途端、俺は複雑な表情をしながら俯いた。


その後、夕飯を食べ終えて片づけも終わらせた俺達は、床に就く。布団が一式しかないという理由もあるが、恋人同士である俺らが一緒に寝るのはごく自然な事として受け入れられている。

 暖かいな…

暖乃を後ろから抱きしめながら、俺はいつもそう思う。身長が150㎝しかない彼女は、175㎝ある俺の体にすっぽりとはまってしまう。まるで、抱き枕を抱えて寝ているようなものだ。

「…慎太」

すると、か細い声で俺の名が呼ばれる。

どうやら、まだ眠りについていなかったようだ。俺が抱きしめている腕の力を緩めると、彼女はゆっくりと体を動かしながら、顔を自分の方へと向けて来る。

「…眠れないのか?」

「…うん」

そう答えた彼女の瞳が、少し潤んだような気がした。

普段は明朗快活な女子大生だが、時折見せる弱気な部分。「彼女のどこが好きか」と尋ねられたら、そこを答えるだろう。

「…でも、不思議だよね。慎太と一緒にいると…」

「なんだよ、いきなり…」

「だって…」

俺が苦笑いを浮かべると、彼女は口を濁しながら話し続ける。

「中学・高校時のいじめ以来、誰からも…両親すらも、触られたくない…って思っていたのに…不思議」

弱弱しい声ながらも、その真っ直ぐな瞳は俺を確実に捉えていた。

「俺も…不思議だらけだ」

「慎太…?」

俺は低い声で呟きながら、暖乃をゆっくりと抱き寄せた。

声が小さかったため、俺の呟きが彼女の耳に届く事はない。

「…もう寝ようぜ。眠れないっていうなら、お前が寝るまで、俺がこうしてやるから…」

「慎太…。ふふ、くすぐったい…」

俺はゆっくりとその髪を撫でる。

彼女は猫みたいに気持ちよさそうな笑みを浮かべる。そんな表情を見た俺は、「これなら大丈夫そうだ」と悟り、何も言わぬまま、彼女の頬にキスをした。

「…おやすみ、暖乃」

「おやすみなさい…慎太…」

そう互いに挨拶した後、彼女は瞳を閉じる。

髪の毛を優しく撫でながら、彼女が眠りについたのを確認できた後、俺も瞳を閉じたのである。



それから時間が経ち、デジタル時計の数値が夜中の2時を回った頃―――――――

「わおーーーーーーーーーーん…」

窓の外から、犬の遠吠えが聞こえてくる。

普通の人からすれば、それは単なる「犬の遠吠え」にしか聴こえないだろう。しかし、俺にとっての「その声」は違った。

遠吠えを聞いた俺は、すぐに瞳を大きく見開いた。この場にいるのが自分一人だったら、反射的に飛び起きるだろうが、今日は暖乃がいる。そのため、彼女を起こさないようにそっと起き上った。

「…いってくる」

独りごとのように言ったものの、視線は布団の中で眠る彼女にあった。

それと同時に布団の中にある細い指が僅かに反応していたが、部屋が暗いのもあってそれは流石に見えなかったのである。


戸締りをして外を出た俺は、ある場所に向かって歩き出す。そのスピードは次第に早くなるが、変化するのは走るスピードだけではない。スピードがあがるにつれ、現れる耳・体毛・しっぽ。その姿は狼そのものだった。いくら夜中とはいえ、道路内を走るのは人目が付きそうだし障害物も多いので、狼になって移動する際は、大抵は建物の屋上を次々に飛び越えていくのが普通だ。こうして、ある一定の日の夜、俺は「狼」として成すべき事をするために夜中の札幌市内を走り回るのだ。


町の中心部から少し離れた山まで到達する。速度を落としてゆっくりと進んでいくと、そこには3匹ほどの狼がいた。しかし、その3匹とも自分が持つ黄色っぽい体毛や尾の先端が黒いという特徴とは全く異なる者達―――――すなわち、日本国外に生息する狼達だった。

『ホロケウ(アイヌ語で“狼”)…。お前、また人間の女と戯れていたのかよ』

俺が彼らに近づくと、黄褐色・灰色・黒が混じり合った色の毛を持つ狼の声が響いてくる。

『だから、俺は日本人として“慎太”って名前があるんだっての!!』

その狼に対し、俺は反論する。

因みに、目の前にいる彼らも、自分と同じで人間と狼の血を引く「人狼」に当たる。昼間は“人”として生活しているため、体から人間の匂いが漂ってくるのは、日常茶飯事だ。しかし、鼻の敏感な人狼(かれら)にとって、俺から発する臭いはあまり快く思われていないようだ。

『…呼び名の事は諦めろ。日本でいうお前らエゾオオカミは本来、“アイヌの民と共存していた種族”として我々の間で定着している。故に、唯一の末裔であるお前を、ホロケウと呼ぶのは当然の事だろう』

俺らが言い合っている中で、リーダー格である灰色の狼が言葉を発した。

『…“名は体を表す”って言葉が日本にはあるけど…ホロケウは、まさに“表さない”よね。その“ゆりかご”の意味を持つ名前…』

すると、遠目で見ていた茶色い狼が呟く。

『…うるせぇな…』

俺は、今の言葉で、少しふてくされた気分になる。

狼なので表情の変化はわからないが、小馬鹿にされているような気がしたからだ。

『さて…。無駄話はさっさと終わりにして、行くぞ』

灰色の狼は俺らにそう告げて、その場から走り出す。

使命――――――という単語は大げさに聞こえるかもしれないが、俺らにとってはそうでもない。人狼である俺達は、自分たちも含める狼一族全体の繁栄のため、より暮らしやすい土地を探すなど生きるための策を尽くすのが使命だ。特に人狼は人間社会に溶け込み知恵を得る事が可能なため、重要視されている。

ただし、そんな中でも俺は特に重要な使命を持っていた。



 血を絶やさないためにも、同じ人狼の雌との間に子供を産むこと…か

翌日、大学の食堂で昼食を食べながら、俺は自分の使命の事を考えていた。この使命を持つ理由はただ一つ。自分が人間の間では絶滅したとされる北海道の亜種・エゾオオカミの唯一の末裔だからだ。自分が死ねば、本当の意味でエゾオオカミは絶滅してしまう。それは、結束力の高い狼族としてもあまり好ましくない状況のため、俺は大学卒業後の進路は決まっているも同然だ。普通の人狼だったら、生活の都合上で人間とかかわり合う事が多いので、人間との間に子供を設ける事は禁止されていない。しかし、人間との間に生まれた子供は時が経つにつれて、狼の血が薄くなるらしい。そのため俺だけに限らない話だが、絶滅寸前の種族に対しては、亜種は違っても同じ人狼同士で夫婦にならなければならない。

 …幼い頃から、嫌というほどに己の立場は教えられてきたから、よく解っている。…だが…!

心の中で嘆きながら、俺は自分のおでこに手を当てて俯く。

この時、脳裏には暖乃の顔が浮かんでいた。


「そんなに好き…なんだナ。その娘の事ガ…」

「あ…!」

「隣…いいか?」

その時、聞き覚えのある声に対して顔をあげる。

俺の目の前には、茶髪で碧眼を持つ留学生がラーメンを乗せたトレーを持って立っている。

「り…じゃねぇ。クレスタ…いいぜ」

俺は、そのクレスタという外人に対し、そう口にする。

すると、留学生の青年は自分の隣に座った。

彼は、年齢は1学年上だが、留学生なので友人同然のようなものだ。しかし、それは「昼間」における関係であった。

『…俺ら人狼だって、人間と同じように心がある。だから、異性に対して興味関心を持つ事は悪い事ではない…。だが…』

彼はラーメンを食べながら、俺に精神感応能力・テレパシーで話しかけてくる。

本人が自分でいうように、彼も自分と同じ人狼族の一人。また、昨夜会っていた同胞の中でもリーダーに当たり、灰色の毛を持ち五大湖やカナダに生息する亜種――――ネブラスカオオカミだ。また、人狼の能力として、相手が考えている言葉を聞き取れる力がある。これは狼に変身している際の会話に利用できるし、人間の姿をしている際にも効果を発揮できる。ただし、好き勝手に相手の考えが読める訳ではなく、会話と同じでやろうと思った時にだけ能力が発揮されるのだ。

『いくらあの娘がアイヌの血を引くとはいえ、お前と一生を寄り添う事は…許されない』

『頭では…解っているんだ。俺は、あいつと結ばれない運命だって事…』

俺は俯いたまま、クレスタの言葉に応える。

実は偶然ではあるが、クレスタは暖乃と面識がある。どうやら、彼らには共通の友達がいるらしい。そのため、俺の恋人でもある彼女がどんな外見・性格・生い立ちなのかをある程度把握しているのである。

「それでも、俺にとってのあいつは…!!!」

気が付けば俺は、心の中での会話を忘れ、己が抱える想いを声に出して言い放とうとしていた。

「“運命の女性(ひと)”…か…」

俺が心の中で考えている事を読み取ったクレスタが、憂いを帯びた表情でそっと呟く。

「あいつだけなんだ…。俺が普通じゃないと解っても、側にいてくれた奴は…!!」

そう口にする俺の胸は、締め付けられるように苦しい。

それは当然だ。これだけ愛しい。大好きという気持ちが強いのに、結ばれる事は許されない。多分、こっそり駆け落ちしようとしたら、同胞によって引き離されるか…最悪、彼女は殺されてしまうだろう。

『…それに、仮に人狼(われわれ)が認めた所で、今度は娘の親族が許さないのでは?アイヌ人にとってのお前たちエゾオオカミは、“神”として崇められている神聖な存在なのだカラ…』

「…っ…!!」

追い打ちをかけるようなクレスタの言葉に、思わず唇を噛みしめる。

「…そろそろ、次の授業が始まる頃だ…。俺は行く…」

俺は逃げるようにして、その場から立ち去る。

『とりあえず、今すぐにとは言わない…。だが、近い内にあの娘とは別れた方が、互いのためだぞ…』

食堂を出ていく際、次第に小さくなっていく同胞の声は、俺の心に深く突き刺さった。



「そっか、風邪…か。悪いな、吉田」

『ううん、大丈夫だよ!ただ…』

「ただ…?」

数日後、俺は携帯電話で電話をしながら、街中を歩いていた。

電話の相手は暖乃の親友であり、バイト先が同じの吉田みち子という女子大生だ。吉田の彼氏が俺と面識がある事から、仲良くなった相手だ。しかし、彼女やその彼氏は、俺が狼の血を引く人間だという事は知らない。

『あの子、体調悪い時はいろいろとふさぎ込んだりするから…轟木君。よろしくね』

「…ああ」

少し意味深な言葉を口にした吉田に対し、首を縦に頷いた俺は、通話を終了させた。

携帯電話をGパンのポケットに押し込んだ俺は、歩くスピードをあげて、そのまま走り出す。

人狼は運動能力が高くて寒さに強いという特性があるが、人の姿をしている際は肌や体感温度は人間と同じ。また、12月上旬という寒さだから当然、手袋をしていない指は冷えてしまう。白い息を出して指を冷やしながらも、俺は急ぐ。「すぐ会いに行って、お前を安心させたい」と強く想う俺にとって、北国・北海道の寒さは大した問題ではないのであった。


「このかんじは…インフルエンザではなさそうだな」

「そっか…ありがとう、慎太」

その後、俺は彼女が住むアパートに到着していた。

戸を開けてもらった際は出迎えてもらったものの、俺の指示ですぐに布団に入り込ませた。その後、俺は冷えた右手を彼女の額に当てた後、インフルエンザによる高熱ではない事を悟る。

「触っただけで解るなんて…慎太がいれば、医者いらず…かもね」

「…体温に関しては、敏感だからな。俺ら人狼は…」

布団にうずくまりながら、彼女は冗談半分でいう。

それに対して複雑な想いはありつつも、彼女のために必死で笑顔を作った。

「…にしても、風邪は風邪だ。早い所治して、バイト代わってくれた吉田にお礼を言いに行けよ?」

「ん…そうだね…」

暖乃の頬に触れながらそう口にすると、彼女はようやく穏やかな笑みを見せてくれた。


 …さて、お粥でも作ってやるか…

暖乃が眠りについた後、俺は彼女の部屋の台所を借りてお粥を作る事にした。

 ふさぎ込む…か。今日は、“この間”みたいにひどくなさそうだから…少し安心したな…

作業をしながら、俺は独り考え事をしていた。この時、俺はその“この間”――――暖乃が以前、体調不良になった際の事を思い返していた。


「もしもし…暖乃か?」

その日、携帯電話にかかってきた番号が暖乃のものだったので、俺はすぐさま通話ボタンを押した。

しかし、彼女の第一声はすぐには発せられなかった。

『…来て…』

「え…?」

30秒程経過してようやく、彼女の肉声が携帯電話越しに響いてくる。

しかし、その声は小さくてはっきりとは聞き取れない。

『うちに来て…。今…すぐに…!!』

「暖乃…!!?」

電話なのでどんな表情かはわからないが、声音からしてただ事ではないのはすぐに分かった。

その直後に電話が切れ、何か嫌な予感がした俺は、今日のように走り出す。本当は人狼(どうほう)からの呼び出しがあったのだが、この時の俺はそれどころではない。メールで断りの連絡をした直後、真っ直ぐ彼女の家に向かった。

「暖乃…?」

家に到着後、戸は施錠されていなかったので、ノックだけして静かに入った。

部屋の中は明かりがついていないため真っ暗だ。しかし、人狼である事もあり、夜目には慣れている。そのため、部屋の隅っこに蹲っている彼女をすぐに見つける事ができた。

「慎太…」

俺の存在に気が付いた暖乃は、ゆっくりとこちらへ振り返る。

「一体、何が…っ!?」

何があったのかと訊こうとした瞬間、胸に軽い衝撃が走る。

「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

「…っ…!!」

感じた衝撃は、彼女が俺の胸の中に飛び込んできた故のもの。

そして、己の胸の中に飛び込んだ少女は、狂ったように絶叫する。

俺は敢えて何もしないまま、その場の成り行きに身を任せた。それは、俺の方へ振り返った際に頬を伝っていた涙が地面に落ちる瞬間を垣間見ていたからだ。彼女が中学・高校時代にイジメを受けていたのは知っていた。しかし、吉田の話だと、優しい心の持ち主であった暖乃は、周囲の人にそれを悟られまいと明るく振舞っていた。しかし、それが心の中の均衡を悪化させてしまったのだ。大学に入る事でイジメとは無縁の生活になったが、心に負った傷が消えた訳でもないし、時折夢に見てしまう事もあるそうだ。

「…暖乃」

彼女が俺の胸の中でひとしきり泣いた後、涙をぬぐいながら口を開く。

 怖がらなくていい…。俺が…俺が側にいて、お前を…守るから…!

その時彼女の唇にしたキスが、つきあい始めてから最初だった。親が子供を安心させるような優しいキス――――――――それは言葉で何か言うよりも、彼女にとっては救われた瞬間であったと、俺は思いたい。


「…美味しい」

その後、お粥を作った俺は、彼女にそれを振舞った。

小一時間眠ったせいもあってか、顔色も少し良くなってきていると思われる。

「そういえばさ…」

「ん…?」

お粥を食べ終えた後、何かを思い出したかのように暖乃が口を開く。

「みち子がさ、慎太の事を“すごくおおらかで包容力がある”…って言っていたのを思い出したんだ」

「へぇ…」

思いもよらぬ一言に対し、俺は瞬きを数回する。

「“慎太”…って、アイヌ語で“ゆりかご”って意味っしょ?だから、“名は体を表す”んだなぁ…って」

 人狼(なかま)には、逆の事言われたがな…

一方で、内心ではそんな事を考えていた。

自分の性格や名前の由来とかを深く考えた事はなかったが、名前に関しては俺がエゾオオカミの末裔である以上、そう考えるのが普通だろう。

「そういうお前の“暖乃”だって、“花”…だろ?」

「…みち子には、“あんたの場合は名前と全然違うよね”って言われたけどね」

「…んな事ねぇよ」

この時―――――俺と彼女の台詞を口にしたのは、ほぼ同時だった。

言葉では言い表せないような感情が内にあった俺は、気が付くと暖乃の上に覆いかぶさっていたのである。

「あ…悪い」

俺が彼女の上に馬乗り状態になった際、その頬が真っ赤に染まっていた。

それを見た俺は、すぐに我に返る。この瞬間がなかったら、俺はきっと本能の赴くままに行動していたのかもしれない。

「ううん、大丈夫…。あ、そうだ」

頬を赤らめていた暖乃はそっぽを向いてしまったが、照れ隠しするかのように言葉をすぐに発した。

「せっかくだし…添い寝して?」

まるで予想外の甘えにより思わず噴出しそうになったのは、言うまでもない。


 さっきは少し、危なかったな…

彼女の隣に寝転んだ後、俺はふとそんな事を考えていた。狼としての本能は大学に入ってからは抑えられたのだと思っていた。これが普通の恋人同士であれば、特に問題はない。しかし俺の場合、この行為はその場は良くても、後に地獄が待っている。それは重々承知している事実だ。

俺は黙ったまま、暖乃の寝顔をのぞき込む。

穏やかな息遣いで眠りにつく少女。華奢な肩と肉体。その細い喉は、狼の能力を持ってしまえば、簡単に噛み砕けてしまう。

 だが…逆に、俺が彼女を傷つけてしまう可能性も、なくはない…

そんな考えがよぎった時は必ず、不安が襲い掛かってくる。

愛しく思う気持ちが強い分、比例するかのように広がる不安。何かの拍子で本能のままに暴れてしまう可能性が自分にだって少なからずある。

同胞の話だと、怒りといった負の感情で我を忘れ、仲間を傷つけたり死なせてしまった人狼のケースは少なくはない。

故に、自分が彼女の側にいる事が本人にとって幸せなのだろうか―――――――そんな考えすらよぎってしまうのであった。


「…慎太」

「暖乃…起きていたのか?」

「ううん…。夢…見てたんだ」

「夢…?」

その単語に、俺の心臓が強く脈打つ。

しかし、彼女の表情が穏やかなのを見た所、自身に関する恐ろしい夢ではなさそうだった。

「制服を着た男の子が、泣いていた…夢…」

「制服…」

暖乃が夢の話を教えてくれたが、そこで違和感を俺は覚える。

彼女は「男の子」と言う。制服を着ているという事は、暖乃自身を見ているのかと考えそうだが、男が泣いている夢というのは、不思議な心地がする。

「怖がらなくて…いいんだよ?」

「…っ…!!?」

暖乃は、真っ直ぐな瞳で俺を見つめながら、頬に優しく触れる。

何故かこの時、無性に泣きたくなる衝動に駆られる。しかし、恋人の前で醜態をさらしたくなかったので、俺は必死になって涙をこらえる。そのため、自分の瞳は少なからず潤んでいた。同時に、俺は悟る。彼女が夢の中で見た「男の子」は、「俺」だという事を―――

「…ずっと一緒にいられないのは、私も解っているよ。でも…でも、今だけは…」

「暖…」

憂いを帯びた表情をした彼女は、そのまま目を細める。

名前を呼ぼうとした刹那、何をするつもりかを直感で悟った俺は、その先の言葉を口にしなかった。

頬に触れる、彼女からの優しいキス。柔らかくて暖かいその感触は、俺の中に広がっていた不安を一瞬で消し去ったのである。


その後、俺は珍しく、彼女よりも先に眠りについた。

彼女もうとうとはしていたが、先にうたた寝していた分、この時だけは起きていた。

「寝ちゃった…か…」

暖乃は不意に独り言を呟く。

眠りについた俺の表情を見つめながら、腕を伸ばして俺の頭を撫でる。その頭には、狼の耳が少し突き出ていた。しかし、耳だけではない。腕や顔には体毛があり、一見すれば二足歩行の狼男のような姿をしていた。

普段はこんな状態で寝てしまう事はほぼないのだが、この時は違った。暖乃のおかげで不安感が一時的に抜けたからかもしれない。

普通の人間だったら、こんな異形の姿を見れば怖がって近寄ろうとすらしないだろう。エゾオオカミを“神”と崇めていたアイヌの民ならば尚更だ。しかし、彼女は違う。

「慎太が私の事を想ってくれているように…私にとっての貴方も、世界に一人にしかいない、唯一無二のヒトなんだよ…」

俺の寝顔を見ながら呟く彼女の瞳は、今にも泣き出しそうになるくらいに潤んでいたのである。

しかし、この時の台詞は、眠っている俺の耳に届く事はなかった。

そんな俺達がいるアパートの外では、絶えず降る雪景色が広がっていたのである。



俺が暖乃のアパートにいた日の夜、とある山奥には灰色の狼姿になったクレスタと数匹の狼が、夜の札幌を眺めていた。

『リーダー…。という事は、“あいつ”を日本に呼び寄せるんですか?』

『ああ…』

群れの内の一匹が、クレスタに声をかける。

彼は後ろへ振り向く事もなく、その言葉に同意した。彼の脳裏にはおそらく、俺や暖乃の顔が浮かんでいるのだろう。一方で、人間の“恋人同士”という存在が如何なるものかもおおよそ知っていたため、その心境は複雑だった。

『無理やりあの二人を引き離そうとすれば、我らの間で諍いが起きるだろう。それによって無駄な血を流す訳にもいかないからな…。“あいつ”なら…』

『“記憶を操る事ができる同胞”…か。同じ人狼族にも、いろんな奴らがいるんですね』

『亜種は違えど、俺達の歴史は長い。自然破壊が進むにつれて減少はしているものの、先祖返りのような力も持つ者は少なくはない…』

そう呟く灰色の狼は、眼下に広がる景色を見つめながら考え事をしていた。

俺はまだこの時には知らなかったが、人狼族の中には特殊な「力」をいる者が時折いる。「力」といっても、そんなに大層なものではない。

自分もどんな能力かは知らないが、先祖の中で特殊な「力」を持つ者がいたらしい。俺達エゾオオカミが重要視されている理由も、おそらくはそこにあるのだろう。

不意に、狼達の視界には真っ白い雪の結晶がちらつく。クレスタはこの時に大きなため息をつき、氷点下にまで下がった気温差により白い息と化した。

『人も狼も…時代と共に変わりつつあるが、この空だけは、変わらないな…。それに、雪は…悲しき何かを連想してしまう…』

この先、俺も彼と同じような台詞を口にすることになろうとは、当時は微塵も考えていなかったに違いない。



その後、月日は流れる。クレスタ達が話していた“記憶を操る事のできる人狼”が来日し、何も知らない俺や暖乃はその男に会い、互いの記憶を消されてしまう。

俺も彼女も、ただその日一日が終わる時、お互いがお互いの側にいられるだけで幸せだったのだ。それ以上の何かは求めていないし、要らなかった。

「お前が一族を少しずつ増やす事に成功すれば、英雄になれるんだ」と、幼い頃に言い聞かされた事があったが、そんな地位や羨望なんてどうでもいい。

彼女が全てだった――――――――しかし、記憶をかき消された事によって、そんな想いすら浮かばなくなってしまうのであった。


大学卒業後、俺は然るべき相手と結婚をし、子供を授かる事となる。仲間たちが望む状態にやっとなりえ、新しい命が授かった事に対しては、心底嬉しかった。しかし、感情が露わになる度に感じる違和感。何故か胸にぽっかりと穴が開いたような虚無感がするのだ。

それを感じた直後は大抵、感情が冷めていて、「相手に何かしてあげよう」という気持ちも失せて何もしたくなくなる。

「…最近、おやすみのキスも抱擁も…手を繋いでくれる事すらなくなった」

妻が電話で同胞と話しているのを目撃しても、見て見ぬふりをしている自分がいた。

皆が望む通り、同胞の雌と結婚をし、俺の血を継いだ子供が生まれた。その子が成長し、新たな相手を見つけるまで見守るのが決まりだ。しかし、今の俺ではその子が運命の相手を見つけるよりも先にどうにかなってしまいそうだった。



そこから更に数年が経ち、俺は人知れず山の中でその生涯を閉じた。原因は転落死。しかし、エゾオオカミの姿で発見されたため、人間達は驚いたであろう。絶滅したと思われた狼が一匹だけ残っていたという事実に。

肝心の俺自身は、心が荒れ、自傷行為が胸に開いた穴を塞いでくれるような感覚に陥る事を知ってしまい、己を傷つけ続けたなれの果てだった。そのため、発見された死体の損傷が激しかったとされる。

しかし、皮肉な事に死を迎えて初めて、俺は消された記憶を思い出した。

『記憶とは、その場で“忘れさせる”事はできても、完全に“消去”できるものではない』―――――いつに日だったか。誰かがそんな事を言っていた気がした。

しかし、それが誰かを思い出す事もなく、俺の魂は本当に大好きな者の元へ向かうのであった――――――――




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