白河夜船に乗って

北西 時雨

第1話

「ごめん。僕には……無理だ」

 言い終わるか終わらないかのうちに、僕はその人に背を向けて金曜の繁華街へ歩き出していた。


 僕、木下隼人きのしたはやとは我ながらどうしようもない人間である。

 不器用で、要領が悪くて、傷つきやすい。

 なんとか今のところ犯歴がつくこともなく、大学を卒業して就職しているが、本当にそれだけだった。

 友人はそこそこいるが、別段多いわけでもなく、頼ったり頼られたりするのは上手くできなかった。

 恋人は、いたことがない。


 好きな人は、いる。もうずっと、長い間、好きな人。


 初めて二階堂にかいどうさやかに会ったのは、小学生の頃だった。

 都会から僕のクラスに転校してきたさやかは、垢抜けた感じの社長令嬢だった。小学生が見ても、上品な服を着て高級な物を持っていたさやかは、男子から見れば高嶺の花であり、女子から見ればやっかみの対象だった。さやかは、いつも独りだった。

 当時、面倒なポジションとして定評のある学級委員をやらされていた僕は、何かと「転校生」の世話をさせられた。そんな中で少しだけ、話す機会があった。逆に言えば、それだけの関わりだったのだけれど。

 行きも帰りも送り迎え付きで寄りつけるような状態じゃなくて。校内であんまり話していると目立つし。

 それでも、授業の合間に話をするのは楽しかった。

 さやかは随分おとなしい子で、静かに本を読んでいるかぼんやりしていることが多かった。話しかけるとこちらを向いてにっこり笑ってくれた。

「二階堂さん」

 と呼びかけると、

「さやかって呼んでくれていいわ」

 と小さな声で言った。校内は人の目があったから、なかなかそんな風に呼べなかったけれど、嬉しかった。

 けれど、仲良くなるほど、「自分はあまりさやかと仲良くなってはいけない」と考えることが多くなっていた。さやかは深窓の令嬢で、お嬢様過ぎた。

 本当はさほど真面目じゃないくせに受験勉強をし、中高一貫の男子校に進学し、さやかから離れようとした。

 穏やかな雰囲気の私学でクラスメイトはいい奴ばかりだったし、それなりに楽しかったけれど。どこか、寂しかった。


 いつからか、さやかが夢に出てくるようになった。


 さやかはいつまでも最後に会った姿のままで、一緒にいる僕も小学生だった。

 ある時は、誰もいない放課後の教室でずっとしゃべっていた。日が陰り、教室は夕日の色で染まっていた。さやかとその夕日を眺めながら、他愛もない話をしているのだった。その夕日はずっと沈まない。なぜかそう思わせた。

「隼人君は、好きな子っているの?」

 突然尋ねられた質問に、僕は俯く。

「それは……」

 ちゃんと答えなくては。そう思って顔を上げると、さやかはいなくなっていた。

 慌てて教室中を見渡し、廊下に出る。ガランとした校内。僕以外の人影はない。

 走り回って探しても見つからない。見る見るうちに影が伸び、夕日が沈んでいく。

 日が落ちたら、見つからなくなる。

 何故かそう思っていて、必死に探している。

 それでも見つからなくて、日が落ちて、真っ暗になる。

 そこで、目が覚める。


 ある時は、学校帰りでさやかが横を歩いていた。いつもの通学路で、公園に寄り道したりわざと遠回りをしていたりした。

 道は、記憶とは違って妙にちぐはぐだった。

「それじゃあ、私あっちだから」

 ある分かれ道で、唐突にさやかが言った。

「ああ、じゃあ」

 僕は反射的にそう返して手を振っていた。さやかがくるりと向きを変えたのを見送って僕も背を向けたところで気が付く。

 さやかは歩いて帰ってなかった、いつも迎えが来てたのに。

 変だと思って振り返っても、もうさやかは見当たらなかった。

 分かれ道の先に行っても、見つからなかった。

 そこで、目が覚める。


 高校を卒業して、隣県の大学に進学し一人暮らしを始めた。

 遠くへ出かけることも、飲みに行くこともするようになって。上手くもないのにバンドを始めたりなんかして、知り合いや友人も増えた。周りは異性の話題を出してくることが多くなった。

 僕は男子校にいた割りには女性が特別苦手になったわけでもなかったけれど、それでも特別仲良くなれたりするわけではなかった。

 さやかにはずっと会っていなかった。最後に会った姿のまま、よく夢に出るようになっていた。夢の中のさやかはいつも僕に微笑みかけてくれるけれど、必ず最後にはいなくなって、探しても見つからなくて、どこにもいない……ってなってから、目が覚める。


 実家に帰って久しぶりに小学生の頃のクラスメイトと会う機会があった。成人式の後の同窓会だ。

 わざわざホテルのラウンジか何かに予約を入れたらしい。立食式のパーティで、酒の入った連中が騒いでいた。

 僕は、最初の乾杯だけしたあと、たまに見かける昔の友人に声をかけるだけで、あまり輪の中に入れないでいた。

 壁際の椅子に腰かけてワインを飲みながら、会場を見渡した。

 ふと、角の椅子に目が留まる。

 マリンブルーのワンピースを着たほっそりとした女性が座っていた。手元のケータイで何か打っている。ふっと顔を上げて周りを見渡したあと、こちらと目が合った。

 お互いそのまま見つめ合っていた。僕から近づいた方がいいのだろうか。でも、人違いだったら?

 先に動いたのは向こうだった。椅子から立ち、こちらに歩いてくる。

「もしかして……隼人君?」

 小首を傾げて尋ねられた。

「あ、ああ……」

 なんとかそう答えると、

「わぁ! やっぱり! 私、さやか。二階堂さやか。覚えてる?」

 さやかはそう言って満面の笑顔になる。

「ああ……」

 僕はうなずいて返事をするので精一杯だった。さやかのことは、一日だって、忘れたことなんて無い。

 さやかは僕の隣に座ってそのまましゃべっていた。中学は学区内の中学校に行ったこと。高校は女子高にいて、今はその附属の女子大にいること。高校では友達が沢山できて、大学でも楽しく過ごしていること。

「隼人君、中学は私立に行っちゃったでしょ? 何も言わずにいなくなっちゃったから、けっこう寂しかったんだよ?」

「あの……ごめん…………」

 そんなに悲しそうに言わないでほしい。

「ううん、大丈夫。別に謝ってほしいわけじゃないの。それに、こうしてまた会えたから、よかった」

 さやかのケータイにメールの着信ランプが付く。それに気づいたさやかが「ちょっとごめんね」とケータイを開いてメールを確認する。

「ねぇ。メアド交換しない?」

 なんとか勇気を振り絞ってそう聞いた。さやかは顔をほころばせ

「うん! いいよ」

「え、あ! ちょっと待って」

 僕は慌ててケータイを取り出して操作する。あまり活用しないアドレス登録に少し手間取った。


 それからさやかとのメールは続いていた。必要最低限の連絡をするとき以外には使わないメールをちゃんと返せているのが自分でも驚きだった。

 メールをしている間はとても楽しくて。つらいことも悲しいことも大切なことも、全部忘れてしまうような気がした。

 少しして、メールの文面から分かったことがあった。

 さやかには恋人がいた。

 どうも、高校生の頃に両親に紹介された人らしい。社長令嬢らしい、やはり相手もどこかの金持ちの息子で、今は社会人をしているのだとか。休みは少なくなかなか会えないが、会えるときは優しくしてくれて、一緒に食事をしたりプレゼントをくれたりしたとか。

 そんな話を聞いていた。


 そんななか、僕は眠る前にさやかに会いたいと思うと夢にさやかが出てくるようになっていた。

 ある時は、喫茶店で二人っきりでお茶を飲んでいた。

 とりとめのない話をして、カップをつかみ、コーヒーを飲む。

 カップを置いて、さやかの座っていた方を見ると、さやかはいなくなっていて、テーブルに飲みかけの紅茶が置いてあった。カップの中で、紅茶の水面がゆらゆらと揺れているのを眺めて目を閉じて、目が覚める。


 僕は飲み会は苦手だった。

 と言うより、一度に沢山安酒を飲まされると、酔って騒がれるのが苦手だった。

 酒に弱いわけではないし、酒自体が嫌いなわけでもない。

 それで、バンドの仲間に連れられて行ったバーに行くようになった。

 人気が少なく落ち着いた雰囲気で、たまに一人だけでも行くようになった。

 一人だけで行っても、たいてい「あいつ」がいるのだが。

「よぉ! 相変わらずモヤシみたいな顔してるな!」

 そいつは既に出来上がっていた。

「おいおい、まだ日が沈んだばっかだぞ」

「気にするこたぁねえよ。店は開いてた!」

 その酔っぱらいの名前は浅野翔太あさのしょうた。バンド仲間から紹介してもらった、自称ミュージシャンで自称ジゴロ。

 適当に注文して翔太の隣に座る。

「で、お前がまたここにいるってことは新しいのを引っかけに来たのか?」

「そーそー。よさげなのがいるんだよー。まだ来てないけど」

 翔太は「ミュージシャンは金が要る」などとテキトーな理由を付けては女の家に上り込んだり貢がせたりしていた。翔太いわく、「お金はあるけど少しさみしい感じの女性の心の隙間をお埋めする簡単なお仕事」などと言っているが。

「お前……そのうち刺されそうだな」

「おー? この俺をそんじょそこらの男と一緒にしてもらっちゃあ困ります。恋は賭け。大事なのは賭けることと引き時ってことさ」

「そんなギャンブラーな人生は送りたくないな……」

 翔太の言うことはそこそこ面白いが、たまについていけない。

「まーったく。お前なんかスーツとか着ちゃって。何真面目ぶっちゃってんのん?」

「就活だ」

「あー。君も世間の荒波に飛び込んでいくドMちゃんの一人なわけか……お兄さん尊敬スルヨ」

「勝手に言ってろ」

 注文していたシャンディガフが出てきて、一口飲んだところで、ケータイにメール着信がある。

 ケータイを開いて確認する。さやかだ。

「お! 愛しの彼女からメールですかい?」

「彼女じゃないよ」

 メールの要件は、今度ある同窓会のお知らせだった。

「でもー。君チョーニヤニヤしてる」

「え」

 それはまずい。

「彼女じゃないならー彼女にしろよー」

「向こうにはすでに恋人がいる」

「かまうものかー。恋は下剋上こそ燃えるのさ」

「そうラブソングみたいに上手くはいかないよ」

 返信はどうしようか。

「上手くいかなくてもいいのさ! 当たって砕ければいいのさっ!」

「他人事だと思ってテキトー言いやがって……」

 返信を考える。さやかが行くなら、行ってもいいかもしれない。


 どこかの公園。ブランコとベンチしかなく、人の気配がない。

「あ、あの! ずっと好きでした! 私と付き合ってください!」

 目の前のさやかがそう言って頭を下げてきた。

「僕も……です」

 ずっと、前から。

 さやかはパッと顔を上げ本当に嬉しそうに笑った。

 僕は眩しいのと恥ずかしいので見ていられなかった。黙って手を握ろうとして、……空を切る。

 公園には僕独りしかいなかった。

 やっぱり、ダメだ。力が抜けてベンチに座り込む。

 空を見上げて、手を額に当てて。

 そこで、目が覚めた。


 その夜もいつものバーに僕は来ていた。

 指定席のように同じ席座った翔太が目ざとくこちらを向け声をかけてくる。

「やぁ! 迷える子羊よ。今宵は俺の歌を聴いて癒されてみないかい?」

「遠慮する」

 だいたい、こいつが歌うのはロックだ。とても癒されそうにはない。

「さて、隼人君。社畜になった感想を聞かせてもらおうか」

「そんな根詰めて働いてねえから」

 なんとか社会人になって、数年が経った。幸いなことに、昨今世間を騒がせているブラック企業でもなく、忙しくはしているし大変だけれど、やりがいはあるし上司にも恵まれている。

「ああ……君は既に調教済みという塩梅なわけですね。おいたわしや」

「違うわ」

 世間に傾くスタンスはなんとかならないのか。コイツの場合は無理か。

「ほーらー。愛しの彼女とはどうなったんデスカ!」

「だから彼女じゃねえっての」

 さやかは無事大学を卒業して、父親の関連会社に勤めているとか。恋人とは別れずに続いているようだ。メールも細々と続いている。

「つまらん! 実につまらないよ!」

「お前の言う『面白い』は破滅一択だろうが」

 ここのところ、金の持っていない女でも風俗女に仕立て上げて尚且つ巻き上げる手法を身に着けた翔太はずいぶん調子に乗っているように見える。

「野郎を破滅させる趣味はない。別に美味くねえし」

 男性に対しても女性に対してもひどい発言だ。

「なにか! 君の周りに女性の影はないんですかっ?」

「えー……」

 いない、と思ったら、

「一人、変? なの……がいる」

「お! どんなのだ? 美人か?」

「まずはそこかよ……」

「大事なことだ!」

「えーあー……」

 正直に答えるべきか……?

「まぁ……美人だ」

「オオオオオ! え? なに? 会社の人?」

「同僚だな」

 その女性、神林夏海かんばやしなつみは部署の同期だ。「神林女史」と称される、勝ち気で強気、バイタリティ溢れるキャリアウーマンで、自他ともに認める美人だった。

 外見もあってモテるが本人は鮮やかとも言える勢いで振り続けている。

「やっべーすげークールビューティじゃん」

 それが一部始終を聞いた翔太の感想だった。

「で、君とその子は仲良いの?」

「良い……っていうより、なんか嫌われているような…………」

「なんだそれ。お前みたいに顔に『無害』って書いてあるようなのが嫌われることってあるの?」

「なんだその印象。それに、無害でも嫌われることだってあるだろう、たぶん」

 どうも気に障ることがあるのか、何かと突っかかってくる。トロイだとか目つきが悪いだとか口下手だとか。

「成程。神林ちゃんは木下ちゃんのコンプレックス総押し攻撃をしかけてくるのね」

「ちゃん付けはやめろ……」

「うーん……。その子、ほかの男の子にもそんな感じなわけ? 合コン行ったり、告白されたりするんでしょ?」

「合コン……は分からないけど、告白されたらここ最近は断ってるみたいだ。他の男に対しても、そんなグチグチ言わないんだがな」

 翔太が腕を組んで考え込む。

「ほー。……あれだな。その子は隼人君に気があるんダナ!」

 何を言うかと思えばそんなことか。

「んなわけないだろ」

 美人が僕に気を持つわけがない。他にもっといい男が世の中に入るんだから。

「乙女の純情を否定するのはよくないぞ!」

「決めつけるのもよくないだろ。てか乙女って年かよ」

「レディはいくつになっても恋する乙女さ。覚えておくといい」

「そうかいそうかい」

 女史は少々面倒だが、突っかかってこなきゃ優秀でいい人だ。会社に今のところ大きな不満はない。

 たまにさやかからメールがきてそれに返信するのが楽しみでもあるがさみしくも感じる。返信しているところを翔太に見られるとからかわれる。その夜も、飲んでいる最中にメールが送られてきて、翔太にからかわれた。


「木下君」

 ある日、デスクに向かっていると、神林に話しかけられた。

「今、手空いてない?」

「空いてはいるけど」

「ちょっと手伝って」

 何を頼まれるかと思ったら、ちょっとした力仕事だった。段ボール箱を指定された場所に運び入れる。

「はい、ありがと。お疲れ様」

 神林はそう言って、自販機で買ってきた缶コーヒーを渡してきた。

「いえ。ども」

 休憩所に座り渡された缶のプルタブを開けて飲む。隣に神林が座って話しかけてきた。

「ひ弱そうなのに、それなりに力はあるのね」

「はぁ」

 ひどい印象だ。

「曖昧な返事ね。あれでしょ、頼りなさそうとか言われて女の子にもモテないんでしょ」

「別に……」

 大きなお世話だ。

「じゃあ、金曜日とか週末は一人さみしくおうちに帰るってわけ?」

「まぁ」

「じゃあ金曜の夜は空いてるわね? 今週の金曜、仕事終わってから駅の近くに新しくできたレストランに行かない?」

「は?」

「何? 予定でもあるの?」

「ないけど」

「じゃあいいわね。残業しないでよ?」

 言いたいことだけ言い残して、ヒールを鳴らして去って行った。

「いいって言ってないんだけど……」

 僕の独り言を聞く人はいない。別に断る理由もないけれど。


 その夜。さやかからメールがあった。

 自宅に帰り、ベッドに腰掛けケータイを開く。

 本文は一行。

 「結婚します」……ご丁寧に、あちこちにハートマークが散っていた。

 僕はケータイを開いたまま、ベッドに倒れこむ。さやかからのメールには、気付いたらすぐ返信を打つのに、何も思い浮かばない。

「さやか……」

 さやかに、会いたい。

 ……僕はまた、さやかの夢を見る。


 返信が送れないまま、金曜になった。仕事をこなし、退社する。横に神林がいた。

 神林はずっとそのレストランはちょっと名の知れたイタリアンだとか、口コミの評判が良かっただとか、そんなことをずっと話し続けていた。

 実際のレストランは人が沢山いたけれど、神林が予約をしていたのかすんなり席に着けた。

 オススメだというコース料理を注文し、食前酒を飲む。

「木下君って自分のことモテないって思ってるとこあるよね」

 含み笑いをしながら、そんなことを言ってきた。

「でも、他の女の子たちからの評判は悪くないわよ。頼み事も嫌がらずに引き受けてくれるし、人の悪口言ったりしないし、親切だし」

「はぁ……」

「あれ? あんまり喜ばないのね」

「いや……なんというか、『悪くない』ってだけで『良い』ってわけではないし」

「後ろ向きねー。生きてて疲れない?」

「……人から後ろ向きだと言われなければ」

「面白い答え方」

 料理が運ばれてきて口をつける。どれも少し味が濃い目だったが美味しかった。

「恋愛には興味がない感じ?」

 時折神林からの質問が飛ぶ。

「今まで誰かと付き合ったことないし」

 そう答えると、神林は心底驚いたように目を見開いた。

「今時いるのねぇそんな人」

「悪かったな」

「やだそんな怖い顔しないでって。別にけなしてるわけじゃないんだから」

 神林は手のひらをひらひらと振る。

「女の子には興味とか、そういうの? もしかして初恋もまだとか?」

「……好きな人なら、いる」

「へぇ。どんな人?」

 催促されて、さやかのことを少し話す。

「その人を捕まえようとか思わなかったの?」

「僕では、釣り合わないと思ったし、今はもう相手がいる」

「そんなの分からないじゃない。相手がいたって振り向く可能性だってあるわよ」

「もう遅い」

「どうして」

「こないだ、メールが来た。その恋人と、結婚するって」

 しばらく、二人とも黙ってしまった。周りの談笑する声や食器のぶつかる音が耳に入る。

 神林が急に笑い出したので、僕はギョッとなってしまった。

「なーんだ。じゃあ、最近落ち込んでたのはそういうことだったの」

 食べ終えたデザートの皿が下げられて、神林がテーブルに肘をつき少し身を乗り出すようにして近づいてきた。

「なら、私と付き合わない?」

「は?」

 一瞬何を言っているか分からなかった。

「木下君、失恋の痛みを癒すのは新しい恋や相手が一番よ。木下君のこと、前からいいなって思ってたし、私も今は誰とも付き合ってないし」

「ちょっと待って。誰とも付き合ってないって、君がずっと他の人からの誘いを断り続けてるからだろ」

「だって、私に寄ってくるような男って、外見とか体目当ての男ばっかり。私は繁華街を歩くためのアクセサリーじゃないわ。妙に自信ばっかりあって、私が何か言うと『俺に任せろ』なんて言っちゃって、私が仕事やキャリアを優先するのが悪いことみたいに言うのよ。『君に苦労はかけない。君の欲しいものくらい買ってあげられるし、結婚したら家に入ってもらう』だなんて、冗談じゃないわ」

 アルコールの力もあってか、神林はいつもより饒舌だった。

「私は、私のやりたいことにケチつけられたくないの、しかもただの男に。プライドばかり高い男なんてもうこりごり。その点では、木下君はちゃんと相手のことを尊重できるいい人よね」

 唐突に自分の名前が出てきてびっくりした。

「そんなの君の勝手なイメージじゃないか」

「あら? じゃあ貴方も私のキャリアに文句を言うの?」

「そうじゃないけど……」

「じゃあいいじゃない。ね、お試し期間だって思ってもいいじゃない。物は試しよ。まぁ、できれば私は早目に結婚したいから、そのままズルズルお付き合いっていうのは御免被りたいけど」

 神林は僕の返事を待つように上目遣いをする。

 僕は小さくため息をついた。

「言いたいのはそれで全部?」

「え?」

 キョトンとした神林の顔を見て、僕はフッと笑った。

「じゃあ、もう出ようか」

 さっさと会計を済ませ、外に出る。

「ちょ、ちょっと! 木下君! 私の話聞いてたっ?」

 早足で出る僕を追いかけるように神林が口を開く。

「聞いてたよ」

「なら返事は! 待ってほしいなら待つけど」

「いや、待たなくていいよ」

 道端で止まって、神林の方を見る。

「ごめん。僕には……無理だ」

 神林が何か言いかけたが、聞こえなかった。そのまま背を向け、金曜の繁華街の中を歩く。


 真っ直ぐ家に帰ってもよかったのに、足はなぜかいつものバーに向いていた。

 馴染みのベルを聞きながらドアを開けると、翔太が複数の女性に囲まれて酒を飲んでいた。

「お! よぉ隼人! わが戦友よ」

「お前は楽しそうだな」

「おう楽しいさ。お前も飲むか?」

 人に、特に女性に囲まれるのは苦手だが、たまにはいいかもしれない、などと思えた。

「そうだな」

 バーテンにテキーラを頼んで席に着く。

「おやー? 隼人君がテキーラなんて珍しいじゃないですかー。飲みたい気分とかいうやつかい?」

「そんなところだ」

「よーっし。じゃあ景気付けに俺のとっておきの武勇伝を聞かせてやろう!」

 調子のいい翔太に調子よく女性たちが騒いでいる。

 僕は度数の高いカクテルを飲み進めていた。かわるがわる隣に誰か来て、話をしたような気がするが、酔いが回ってくるうちに誰が誰か分からなくなっていった。


 感覚的に、これは夢だ、と思った。

 僕は自宅のベッドに横になっていて、窓際を見ていた。

 部屋は朝日に照らされているように眩しくて、妙に白っぽかった。

 窓の前にさやかが立っていた。真っ白なワンピースが、開けられた窓から入ってきた風に揺れていた。

 起き上がってそばに行きたいのに、指先すら動かない。

「さ……やか………」

 かすれた声で名前を呼ぶ。さやかはこちらに向いて微笑んだまま、動かない。

 逆光でよく見えないが、さやかの口元が動いて、何かを言っているようだった。

「さやか…………なにを言っているの……? 聞こえないよ……っ」

 目尻から涙がこぼれた。叫びたくても、どんどん息が浅くなっていく。

「さやか……さやか…………」

 部屋の中の光が眩しくなっていて、目を細めた。


 目を開けて一番に目に入ったのは、ベッドの天蓋だった。

「頭痛い……」

 シーツに額を押し当てながら記憶を掘り下げる。レストランからバーに移動したことは覚えてる。それから学生の時以来の深酒をした。それから、えっと。

 そもそも……、自宅のベッドに天蓋はついてない。ここは、どこだ?

 寝返りを打って、目の前の光景に飛び上がる。

 見知らぬ女性が下着姿同然の格好で椅子に座って煙草をふかしていた。

「あら。目、覚めた?」

 僕が動いたのに気付いたその女性が声をかけてきた。余計動揺が広がる。

「あの、僕は、どうしたのでしょうか」

「酔い潰れたからここまで連れてきたの。駅前のホテルよ」

 僕が次の言葉に言いよどんでいると、

「本当にそれだけよ。まだ、ね」

「まだって……」

 僕がため息をつくとその女性は自虐的に笑った。

「女性の名前を呟きながらうなされてたわよ」

「うっわ……」

 すごく傷心中って感じだ。しかも、よく知らない人に見られた。

「てか、あなた誰ですか」

「あらやだ忘れたの? 隣で飲んでたのに」

 顔を見てもよく分からないが、このハスキーがかった声に聞き覚えがあるような気がする。

「失恋したの?」

「そう……なるんでしょうか」

 そもそも、どこからが恋だったのか。

「次の人は考えられないかしらね」

「そう……ですね。そうかもしれません」

「真面目さと誠実さが売りなのかしらね?」

「それは……分かりません」

 誠実とはなんなのか。

「恋、ってなんでしょう」

 と呟くと、

「特定の相手に強く惹かれること。恋慕うこと」

 随分辞書的な回答が返ってきた。

「でも。……結局のところ、本当の意味で恋をしている人って、少ないのかもしれないわね」

 その女性はそう言って、再び煙草をふかし始めた。紫煙が悩むようにゆらゆらと上っていく。

「僕のこの気持ちは、恋だったんでしょうか」

「あなたがそうだと思ったら、そうなんじゃないの?」

 僕はそう、思えるのだろうか。思える日が来るのだろうか。

「この気持ちに終わりが来るのでしょうか」

「終わらせたいなら、すぐにでも終わらせられるかもしれないわね。終わらせたいのなら、だけれども」

「どうなのでしょう」

 どこから始まっていたのかも、わからないくらいなのに。

 ……頭が痛い。

「あな、た、は……」

 また意識が曖昧になっていく。

「何かしら?」

「あの……すみません。また、少し寝ます」

 そのまま返事を聞く前にまた目を閉じて、願った。


 静かに眠りたいと。

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白河夜船に乗って 北西 時雨 @Jiu-Kitanishi

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