5駅 秋のにおい


「‥お、秋の匂い。」


汗も落ちきったジョッキを、重たそうに置いて遠野は言った。

思わず、くんかっと鼻を動かしたけれど漂うのは、店じまい直近の屋台からの揚げ物匂いと、多分香水も負けた汗の匂いだけだ。


突然に気がついてしまった自分の汗臭さ。流石に可愛げがないような気がして、思わずおしぼりで首元を拭いたら、クッ!と噛み殺した笑い声に酔いが少し飛んだ。

まただよ。私と言う人は。


「‥なによ。」

「いや?」

「暑くない?まだまだ。」


18時からやってるビアガーデン。

駅ビルの屋上で、もう随分昔から夏の間やってるそれは、この辺りで働く人のちょうど良い飲みの場だ。

このビルのすぐ下は地下鉄だし、JRの駅もすぐそばだ。

降りれば駅だと思えば、割と気軽に酔える。


男性3000円。

女性2500円。

飲み放題で、唐揚げとポテトと枝豆が付いてる。

おつまみの追加は有料だ。



「秋の匂い?普段、暑い暑いって外回り嫌うくせに。もっと味わいなよ、夏を。」

「味わってんだろ、今。わざわざ暑いとこでビール飲んでんだから。」


ふてくされたように、唇を尖らせて言い返した。

この人がこんな甘えた言い回しをするようになった事を、多分私は喜ばなければならない。


ジョッキの雫で濡れた指を、てきとうに拭うと遠野は頬杖をついた。その目の見るものは、予想通り私ではない。


確か、7月初めだったと思う。


同期入社の遠野が、突然私を呼び止めた。

入社して一年。仕事もやっと慣れてきた。

私と彼は研修の時こそ同じように、みんなで飲みに行ったりしていたけれど、配属部署が違ってからは、たまに顔を合わせる程度だった。


なのに。

「なぁ、飲みに行かねぇ?」

「へ?あぁ、うん。いいよ?」

そんなやりとりから、今に至る。


あの時、私の心臓が大暴れしたんだよ。

で、待ち合わせた店に、あなたしかいない事を知った時、破裂したんだよ。


わかってないでしょうけど。



知らなくていいけど。





「‥どんなの?それ。」

「なにが。」

「秋の匂い。今言ったじゃん、お、あきのにおい〜って。」


遠野を真似て、頬杖をつく。

ちょっと憂いた顔も大げさに真似て口調を寄せたら、今度は拗ねた。


「お前なぁ。そう言うのがダメなんじゃねーの?」

「あんたは嫌いだもんね、こう言うノリの女は。」

「いや、そうじゃなくてさぁ。俺の前ではどんなでもいいけど、お前の事だから多分、例の好きな男の前でもそんなふざけんだろ?」

「そんな事ないよ?私だって、好きな人の前でなら、努力はするよ。」


どうだか、と遠野は笑った。

ふふ、っと。


その笑顔がみたいのよ。

だから、いくらでもふざける。


「‥秋の匂い‥どんな?って、言葉にすんの難しいわ。」

「草の匂いみたいな?」

「夏だろそれ。」

「焼き芋の匂いとか?」

「嗅ぐか?普段。まぁ、そんな感じ。」

「結局芋ですか。」


ぬるいビールが酔いを誘う。

色とりどりのパラソルがついたアルミ製のテーブルは、終電近い夜の気温に沿ってか、生温い。

人肌のようで思わず手のひらを当てた。

遠野の頬杖ついた肘から、私のこの手に体温が伝わればいい。


あぁ、もう。これは、酔ったな。

なんだこの思考。


「あぁ、これこれ!ってなったら教えるよ。また来年、くりゃいいじゃん。」

「あ、そ。」


飲み放題のくせに大して飲まなかった。

残業おわらせて、終わりかけのビアガーデンにギリギリ滑り込んだのに。

私ばっかり元を取ろうとビールを煽り、ポツポツと話す彼の声を聞いていた。



夏の始まりに、こいつが私を誘ったのは私の部署の先輩に恋をしたからだ。

だったら、まっすぐに好きだと言えばいいものを、躊躇いにためらって拗らせた挙句に私を誘い先輩の近況を聞く。


そんな茶番に私は。


彼の声を聞くためだけに、付き合ってきた。


なのに、今日に限って。秋の匂い、とか言う。

先輩の話じゃない遠野の感覚に触れた。

それに破裂したはずの心臓が鳴って、私は私の拗らせた気持ちに、嫌気がさす。


「また、来年も‥。」


遠野の言葉を反芻して、空になった枝豆のさやを見つめる。確か、このテーブルに来た時は、まだ青々としていたのに。


茶色い空っぽのゴミに、いたたまれなくなった。




今日、先輩が年内限りで寿退社すると聞いたのだ。



「終電やばいわ。帰るか。」

「遠野。」

「ん?」


泣いてもいいよ?とか、言えたら何か変わるのだろうか。


「首元すーっとした。これ?秋の匂い。」


ぶっ!と遠野が吹き出して私は、くしゃくしゃな目尻に満足する。


「それ!お前今、おしぼりで拭いたからじゃん!女だろ。せめてそこはハンカチだろ!」

「先輩みたいに、汗拭きシート持ち歩こうか。」

「うるせぇ。手ぬぐい巻いとけ。」


私の頭を、ペシペシ叩いてまた唇を尖らせる。


私が女っ気だしたら、あんたはもう会わないでしょ?

こんなふうに、おじさんばっかりのビアガーデンに、当たり前のように連れてかないでしょ?

先輩のこと、泣きいってグズグズして見せたりもしないでしょ?

ほんのちょっとひんやりした夜風に、秋の匂いだ、なんて呟いて見せたりしないでしょ?


わかってるよ。



だから私は、遠野の前ではおしぼりで首も拭く。



「じゃぁね。」


手を振って、帰途につく。


彼は気がついたのだろうか。


あの丸い電飾も、ハゲたパラソルの色も、油っぽい唐揚げも枝豆も波型のポテトも。

すぐにぬるくなるビールも、汗だくのジョッキも、それが作る水の輪も。


重たそうにもつ手も、頬杖つくと潰れる頬も、ふわふわな髪も、大笑いしたら眉間によるシワも、憎まれ口も、バカじゃねえのって呆れるのも。

嫌がりながらもちゃんと外回り行って、日焼けした腕も。


必死に忘れまいと目に焼き付けてた私に。


それから、この駅ビル含めた一帯が、年明けからの再開発事業でなくなることに。


私と遠野の夏は、このビアガーデンで始まり終わる。

また来年は、多分ない。





最終電車で駅に着くと、ひんやりした風が吹いた。

あいつが言う、秋が来たのだ。

どこで鳴くのか、鈴虫の声もした。


どうせなら、と悪足掻きのLINEをした。


鈴虫鳴いてる。秋見つけたわ。


待ち合わせの時間連絡以外で、稼働したことなかった画面に、初めて。


すぐに既読になった。


読んだらしい。

けど、それだけだ。




夏は終わった。

秋が来たのだ。

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地下鉄、一駅分。 おととゆう @kakimonoyuu

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