Middle Phase 11 ~長銃兵~

 ネズミのように飽きれるほどに臆病で、ヒグマのごとき偏執的な獲物への執着心を持ち、キツネを思わせる狡知と、仕留める機を待つためならば目の前で母親がレイプされたとしても動じぬ大樹のような精神を持ち合わせた者こそが天性の狙撃手だ――内線の続く東欧のクロドヴァで、非公式な記録ではあるが255人の兵士を射殺し、256人目に自分の頭を撃ち抜いて最後とした天才的狙撃手が残した言葉である。

 かの兵士の言葉が正しいのであれば、"穢れた紅"が『盗賊』の首を踏み砕くまで、傍観に徹した『長銃兵』マークスマンは優秀な狙撃手だと言えるだろう。

 無策で援護に入るのは容易い。

 だが、一度狙撃で仕留め損ねた相手だ。こちらの狙撃に対して警戒しているだろう。オーヴァードには、遠距離攻撃に対して即座に反撃する異能を持つ者もいる。その異能を"穢れた紅"が持ち合わせている可能性は限りなく低いが、皆無では無い。

 先程の奇襲は『学者』が算出した狙撃成功率99.45パーセントのタイミングだ。もはや現時点での成功率は84パーセントまで落ち込んでいる。狙撃手にとって、この数字は『当らない』に等しい。

(――それに、この場所は既に知られている。居場所を知られた狙撃手など良い標的マトでしかない。ここはもはや、離脱するべきだろう)

 あの路地を一望出来る上に、なおかつ誰かに見咎められるリスクが少ない――このビルが狙撃ポイントとして選ばれた大きな理由だったが、"穢れた紅"と"刃紋燕"の暗殺に失敗し、前衛である『盗賊』ロバーが機能を停止した今となっては、利点はもはや無いに等しい。

 『長銃兵』の判断は素早く、決断は迅速であった。

 "穢れた紅"の反撃を受けている『盗賊』を見捨てることを採択し、非常階段へと向かった。

「死活監視エラー。ユニット『長銃兵』より『議長』チェアマンへ障害報告。ユニット『盗賊』の異常停止を検知。エラーコードXE308。支援処理バックアップをお願いいたしますわ。『長銃兵』撤退いたします」

 インカムで手早く報告し、『議長』や他のメンバーからの承認を待つ。レスポンスタイムは一秒とかからない。即座に撤退案が可決される。

 このビルは、1階の玄関口に警備員や監視員などは配置されていない上に、自動ドアの真横に設置された防犯カメラとて行政指導を免れるためのダミーに過ぎない。保安意識は最低レベル。しかしながら管理会社の異なるエレベータ内のカメラだけはきちんと作動しているため、エレベータを使っての逃走は不可能だ。

 もちろんオーヴァードであれば、監視カメラやセキュリティ装置のプログラムを違法操作クラックして、防犯カメラの記録映像から痕跡を消すのは造作もないことだが、しかし相手もオーヴァードならば『痕跡を消した痕跡』を見つけ出される可能性がある。だが、それ以上にエレベータは密室で逃げ場が少ないのが致命的だ。奇襲を受ければ棺桶になりかねない。逃走経路としては、よほどの事がない限り選択肢に浮上する事もない。

 このビルの非常階段は、いわゆる屋外避難階段で隣接するビルとの隙間に設置されているため隣のビルが遮蔽となり、下や外から見られる事はない。だが金属製の階段を駆け下りれば、不要な足音を響かせてしまう。平時において、この屋外階段を利用する人間が皆無に等しいことは事前の調査で分かっているが、それでもなお慎重になる必要がある。

 《ワーディング》を使えば、相手が普通の人間であれば制圧は容易い事だ。

 しかし、その特性――《ワーディング》は活性したレネゲイド物質を大気中に大量に放出する。非オーヴァードであれば、活性化したレネゲイド物質の効果によって不安を覚えて忌避したり、強いストレスによって昏倒するが、オーヴァードは体内のレネゲイドが活性化するため、ある程度の距離が離れていてもお互いを認識できる――故に、オーヴァード相手では狼煙を上げて自分の居場所を喧伝するようなもの。今の『長銃兵』は、《ワーディング》を使わず、そして誰にも見つからず、逃走しなければならない。

(撤退は時間との勝負だ)

 一段一段をゆっくり降りながら『長銃兵』は、感覚を研ぎ澄ませた。

("穢れた紅"と"刃紋燕"は対立している。"穢れた紅"が噂通りの人物ならば、UGNである"刃紋燕"をそのままにはしないだろう。彼女から先に仕留めるにしても、それなりの時間を使うはずだ――)

 『長銃兵』が満身創痍の"刃紋燕"を撃たなかったのは、このような時の時間稼ぎに使うためだった。殺せばただの死体だが、生きているなら足枷の代わりになる。何より"穢れた紅"はUGNに対して病的な憎悪を持っているとの情報がある。撤退する狙撃手と手近な獲物。"穢れた紅"のような人物ならば『学者』スカラーが計算するまでもなく、どちらを選ぶかは分かりきっている。


 ――カツン。


 下方から聞こえてきた硬質な足音に『長銃兵』は階段を降りる足を止めた。何者かが下階から上ってきている。『長銃兵』は息を潜めて耳を澄ませた。


 ――カツン。 カツン。


 ゆっくりと、しかし規則的な足音。

 何者だろうか。『長銃兵』は断片的な情報から推測する。この場にやってくる可能性があるのは"穢れた紅"と"刃紋燕"、そして一般人。

 しかし"穢れた紅"と『盗賊』によって大怪我を負わされた彼女が、ほんの数分で怪我の痕跡を残さず回復するとは思えない。常人と比べれば無いに等しいが、オーヴァードと言えども蓄積したダメージを回復するには、それなりの時間がかかるはずだ。


 ――カツン。 カツン。


 聞こえる足音はさほど重くない。

 おそらく体重は65キロ以下。歩調に乱れがないところから考えるに健康体――やはり怪我を負っている人物の歩き方ではない。靴は、おそらくローヒールのパンプス、もしくはローファーだ。かかとの接地面が少ないハイヒールならば、もう少し音が高くなるはずだし、スニーカーのように平たい靴ならば音はもっと低くなる。

 『長銃兵』が覚えている限り、"穢れた紅"は重そうな編み上げブーツだったが、"刃紋燕"は学園規定のローファーだったはずだ。ならば、この足音は"刃紋燕"のものか?

(……いや、それは解として成り立たない)

 足音の主が"刃紋燕"である可能性は無い。仮に"刃紋燕"だと仮定して、ボロ雑巾の方が上等に見える今の彼女が"穢れた紅"の追撃から逃れられるだろうか。よしんば逃げたとしても、あの大怪我だ。まずは身を隠して治療を施すだろう。狙撃手を仕留めに来るとは到底思えない。

 では、逆に"穢れた紅"の可能性はあるかと言えば、それは無いに等しい。"穢れた紅"ならば、この非常階段を勢い任せに駆け上がってくるはずだ。

 故に、あの二人ではないという推測が成り立つ。


 ――カツン。 カツン。 カツン。


 あの二人でなければ、この足音は一般人のものである可能性が高まる。

 だが、見つかるのはまずい。足音の正体が一般人、このビルのテナントの従業員だとしても『長銃兵』の見た目は秋津洲女学園の女子生徒だ。

 徹底的に存在を秘匿するのが《MPD》セルのあり方だ。あの二人には存在を知られてしまったが、『盗賊』以外のメンバーの情報までは漏れていない。しかし、このビルから逃走する秋津洲女学園の生徒という情報は、『長銃兵』自身の正体は元より、他メンバーの情報に繋がりかねない。

(『議長』ならば即座に、あの二人の抹殺作戦を立案しているだろう。この撤退についても承認が下りているし、すでに支援処理バックアップも動いているはずだが……)

 足音は近づいてくる。階段を上がる時は一定の歩調だが、踊り場で若干スピードが落ちる。おそらく周囲を確認しているのだろう。もしも従業員なら、目的の階があるはずだが、足音の主は何かを探しているように思える。『長銃兵』は五感を研ぎ澄ませて身構えた。


 ――カツン。 カツン。 カツン。 カツン。


 足音は近い。既に2階下の非常口にたどり着いている。ドアを調べているのか、鍵のかかったノブがガチャガチャと鳴る音も聞こえる。ビル荒らしの可能性が『長銃兵』の脳裏をよぎったが、真っ昼間を狙うビル荒らしがいるとは思えない。使、を調べているのだ。

(やはり、あの足音は屋上から逃走する『長銃兵』だれかを探している――ッ!!)

 正体は分からないが、このままでは鉢合わせする。UGNかFHか、どちらにしても厄介な事に変わりはない。一般人だったとしても、この『長銃兵』わたしを見られるわけにはいかない。

 『長銃兵』の判断は速かった。弾丸――ボルトやナットなどの、どこに落ちていても不思議ではない金属製の物体を手のひらの中に錬成し、それを人差し指と中指で挟むと、まるで長銃ライフルを構えるかのごとく自分の足下――真下に、向けた。


 ――カツン。 カツン。 カツン。 カ


(今だ――ッ!!!!!!)

 鉄製の階段を挟んで真下に足音の主が来た瞬間、『長銃兵』は異能の銃爪を引いた。硬い金属同士を擦りあったような甲高い音が響き、階段を貫通して階下の人物を穿ち貫いた。これが『長銃兵』の異能だ。電磁加速によって発射された金属片は最新鋭戦車の装甲さえも貫通する。屋外の避難階段を挟んで狙撃するなど、濡れた古新聞に穴を開けるより容易い。

(手応えあり、だ。すぐさま反撃に転じないところを察するに、死んだか行動不能に陥ったか――)

 油断なく2発目の弾丸を指に挟み、警戒しながら『長銃兵』は下の階へと降りた。死んだのならばそれでいい。生きているなら確実にトドメを刺す。

 だが――

「……いない?」

 思わず言葉が唇からこぼれていた。

 階下には誰もいなかった。弾丸が貫通した穴は空いている。なのに、弾丸が直撃したはずの足音の主が見つからない。

「血痕すらない……だけど、着弾の手応えはあったはず……どういうことですの?」

「それはもちろん、当たってないからよ」

 ゆっくりと降りてくる足音とともに『長銃兵』の呟きに答えたのは、琥珀色の瞳をした金髪の若い女だった。

「貴様――――ッ!!」

 『長銃兵』は反射的に右手を女に向けた。しかし女は見た目よりも数倍速い動作で『長銃兵』の右手首をつかむと、細い枯れ枝を折るように何気なく『長銃兵』の人差し指を根元からへし折った。挟んでいた弾丸――ボルトが指の股から転がり落ち、階段に当たって硬質の音を上げる。

(――被害確認。防御プロトコル実行)

 『長銃兵』の喉は悲鳴を発しかけたが、痛みをカットする機能が自動的に実行され、悲鳴は痛覚の遮断とともに呼気へと変わる。

 女は『長銃兵』の右手首をつかんだまま背後に回り、腕をひねり上げると体当たりするように『長銃兵』を壁に押しつけた。

 『長銃兵』を全体重で壁に縫い止めながら、女は呆れたように嘆息した。

「まったく対物ライフルアンチマテリアルライフル級の速さと威力ですっ飛んでくるネジ釘なんて恐ろしいったらないわね。まぁ、流石の未紅でも避けられなかったみたいだし、ちょっとは血の気が減ってくれると扱いやすくなって私も楽なんだけどねぇ……」

 この関節技は、立式腕挫手固スタンディング・ハンマー・ロックと呼ばれ、主に警察や軍隊――そして秘密組織などで対人拘束術として使用される技のひとつだ。エグザイルシンドロームのように関節や筋肉を軟体化できるものや、怪力を誇るキュマイラなどを除けば、オーヴァードとは言え肉体構造は常人と変わらない。肩肘の可動域を利用する関節技ならば、異能でなくともオーヴァードを拘束する事は可能だ。

 ざらついたモルタル壁に頬の皮膚が擦られ、電気信号としての痛みが『長銃兵』の神経を伝わるが、レネゲイドウイルスによって受容体に信号は届かない。痛みを感じない。痛みを感じないのであれば、この拘束から逃れる方法はたくさんある。

 『長銃兵』は自ら右肩を壁に叩きつけて関節を粉砕した。女が驚いたような声を上げるが、つかんだ手首を離す事も、ひねり上げる腕を下ろそうとはしない。

 右肩の可動域を無理矢理広げた『長銃兵』は、一気に両足の筋肉を弛緩させ、ニードロップめいてひざまずいた。

 人間一人分の体重を腕一本で、しかも砕けて使いもにならない肩で支えるようなものだ。メキメキぶちぶちと肉と骨の潰れる異音を上げて右肩が上向きにねじられる。壁に押し当てられた肉が刮がれ、頬骨が露わになる。勢いよく鉄板の床に当たって膝蓋骨が割れたが気にする必要はない。

 肩関節を破壊し、重心を一気に移動させることで腕を捻り切った『長銃兵』へ、拘束が無意味になったことを悟った金髪の女が舌打ちするが、もう遅い。

(私相手に拘束を選択したことが貴様のミスだ)

 『長銃兵』は横倒しになりながらも、まだ無事な左手の指先を女に向けた。女の目に慄然が浮かぶ。指の間に金属片――瓶ビールの王冠が装填はさまっていることに気づいたのだろう。同時に、この距離は避けることの出来ない必殺の射程距離であることも。

「死ね――――」

 異能の撃鉄が落ちるのと、電磁加速された金属片が女の頭を破砕したのは、ほぼ同時であった。

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ブラッド・ティアーズ ~Blood Tears~ 芳川南海 @ryokuhatudoumei

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