Middle Phase 10 ~刃紋燕~
人間ならば心肺を撃たれた時点で即死だろう。オーヴァードであっても、あの傷は確実に致命的だ。たとえ超回復の異能で甦ったとしても、急速な侵食率の上昇によって理性を失い、衝動のままに暴走する可能性だってある。
遙海も過去に、致命傷を受けた仲間が傷を再生するも理性を失って暴走し、ジャームとして処分される光景を何度も目の当たりにしてきたし、再生できずに死んでいった仲間を見送った経験もある。
だからこそ、
(先に殺しておけって言ったのに――)
右手を包む焔を振り払う"穢れた紅"の姿に、遙海は内心で毒づいた。
遠距離からの狙撃によって、心臓と左肺を撃ち抜かれた"穢れた紅"が吹き飛ぶように倒れてから十分近くが過ぎている。何らかの手段で人体改造を施していない限り、一分以上の脳への酸素供給の低下は、確実に脳機能へ障害をもたらす。
――にもかかわらず、起き上がった"穢れた紅"は瞳に強い意志を宿らせ、血の色に染まった獰猛な笑みを浮かべていた。
「ふざけんなよ、テメエ」
喉に噛みつかんばかりに歯茎を剥いて、"穢れた紅"は恫喝する。一見すれば暴走しているようにも見えるが、その動作所作は底冷えするほど冷静だ。
(確か、"穢れた紅"はサラマンダーとブラムストーカーの
自他の体内にある水分や血液を操作する異能に長けたブラムストーカーならば、心臓を撃たれても脳への血流を止めることなく、死んだふりをしながらゆっくりと傷を修復出来るのかもしれない。
(ただのチンピラかと思ってたけど、こいつ、自分の
遥海の警戒をよそに、"穢れた紅"は機械式の篭手に包まれた右手をゆっくりと握り込んだ。再び装甲の隙間から赤黒いタールのような粘り気を帯びた血液があふれ、それは空気に触れるや否や瞬く間に燃え上がる。
「……アタシはなぁ、おしゃべりクソ女が大ッ嫌いなんだよ。特にテメエ。笑ってる振りして眼が全然笑ってねえ。そういう奴が一番嫌いだ」
顔面を押さえ、声にならない悲鳴を上げてのたうち回るクラスメイトに向かって"穢れた紅"は、ゆっくりと前に踏み出した。
血塗れの――とりわけ右眼から溢れる血涙で汚れた"穢れた紅"の顔には、明確な感情が浮かび上がっている。だが正気を失ったわけでも、狂気に飲まれたわけでもない。夜闇を切り裂いて燃える篝火にも似た強い意志が、彼女の目にはあった。
「……アタシの邪魔をすんな、クソが」
そこにあるのは、殺意、だ。
"穢れた紅"の全身から噴き上がる炎とは真逆の、冬の湖面を思わせる冷たい殺意を向けられ、苦悶に呻いていたクラスメイト――襲撃者が声を止めた。まるで音楽プレイヤーの停止ボタンを押したかのように、ブツリと苦鳴を止め、バネ仕掛けめいた挙動で"穢れた紅"へと飛びかかる。
「泣き真似かよ!」
致命傷を狙う喉への貫手を機械式の手甲で払い落とし、前のめりに体勢を崩した少女の腹を、"穢れた紅"は勢いよく右膝で蹴り上げた。
少女の身体が『くの字』――などと生易しいものではなく、蹴り上げた勢いのままに折れ曲がる。遥海の耳にまで骨と肉の砕ける音が聞こえてきたのだ。どれほどのダメージかは想像に難くなかった。
しかし襲撃者は"穢れた紅"の膝蹴りの勢いのまま後ろに飛び退り、再びナイフを構えて突進する。
世界の裏側に属している以上、荒事と無関係ではいられない。特にオーヴァード同士の闘争では、いかに自分の手の内を明かさずに相手の手札を知るかが重要だ。現に遥海が"穢れた紅"の頚椎を折り砕いたのも、勝率の高くなるこの狭い路地を選んだからだった。
挨拶前に不意打ちを繰り返すのは卑劣だが、相対する前に敵の戦術を知り尽くすのは卑怯ではない――訓練所で聞いた教官の言葉を思い出し、遥海は"穢れた紅"の動きを目で追う。
襲撃者の振るうコンバットナイフは、機械のように的確に人体の急所に向かって突き込まれる。しかし"穢れた紅"は道端の空き缶でも蹴り飛ばすかのように、ナイフを握る手首ごと乱雑に蹴り飛ばした。ブーツの先に金属を仕込んでいるのだろう。数分前に彼女の蹴りの威力を体感した遙海は、剛体が衝突する異音に顔をしかめた。勢いよく跳ね上げられた襲撃者の手首からは、それが何であるかを想像に難くない白い物が突き出ており、鮮やかな紅色の血が噴き出ていた。
蹴り上げられた衝撃で肩の関節が抜けたのだろう。襲撃者の右腕はだらりと弛緩して垂れ下がっていた。そこへ"穢れた紅"が横薙ぎの蹴りを叩き込む。襲撃者は動かぬ右腕を盾にして胴を蹴り抜かれる事を避けたが、その代償は右肘だ。砕かれた肘が歪に曲がる。訓練を積んだ工作員である遥海でさえ、痛々しさに目を背けたくなるほどだ。
サバット、テコンドー、ムエタイ。近接白兵戦において蹴技を多用する格闘術は珍しくないが、"穢れた紅"の蹴りは、先に挙げたどれとも異なる。右腕から噴き上がる炎のように苛烈。『蹴散らす』と言い表すのが最も適した暴力。
「シャ――――――ァァァァァッ!!!!!!」
"穢れた紅"が吼える。左足で蹴り抜いた遠心力を利用して全身をひねり、破城槌めいた後ろ回し蹴りを襲撃者の胸元にぶち当てた。粘性の高い液体が詰まった袋が破れるような音と吐瀉物を吐き出し、襲撃者が上半身を折り曲げる。
「トドメだッ!!!!!!」
さらに"穢れた紅"は巧みに腰を捻った。片足立ちのまま半身を開いて、蹴り足をクラスメイトの胸から逃がすと、踵を地に下ろすことなく断頭台の大斧めいて振り上げ、クラスメイトのうなじに叩きつける。
まさに大斧めいた風切り音とともに、頚椎の折れる音とアスファルトに頭蓋骨が墜落する音が重なって聞こえた。
「あ〜、もしかして……これって『転校生イジメ』って奴か? 前に通ってた学校でも似たような事あったけど、どこにでもあるんだな。こういうの」
潰れた虫のように手足を震わせるクラスメイトの頭を踏みつけて、感慨深いと言いたげに"穢れた紅"は遥海へと向き直った。
「で、勢い余ってブッ殺したけど、お前の知り合いか? お仲間ってわけじゃなさそうだよな」
「仲間じゃないわ。でも知り合いよ。学校で挨拶して、おしゃべりする程度には」
遥海は路地の壁を支えにして立ち上がった。残念ながら走って逃げられるほど傷も体力も回復していない。それどころか、今だって気を抜けば気絶してしまいそうだ。
気を失えば、そこで転がる死体の仲間にされることは想像に難くない。
「というか憶えてないの? この子、私と貴女のクラスメイトよ。でも、今までの調査では……彼女、普通の人間だったはずなんだけど……」
元クラスメイトのプロフィールを記憶の中から呼び起こす。父親が外資系企業の役員というだけで、彼女自体は学業も運動も平凡。生徒会に所属しているのも『内申点稼ぎ』と遥海に語る程度には普通の女子学生だ。
否、そのような女子学生だと思わされていたのか――
「……調査にミスや綻びは無かった」
「ハンッ! これ、どう見たってアタシらのご同類だろ。これが普通の人間なもんか。てことは、テメエの調査が杜撰で御粗末だった、ってだけじゃねえか!」
遥海の苛立ちを遮るように"穢れた紅"が大げさに肩をすくめた。
不真面目な方だという自覚はあるが、かと言って調査の手を抜いた覚えはない。"穢れた紅"の言いようは、覚えのないミスを認めさせられているようで腹立たしい。遙海は"穢れた紅"の嘲笑に思わず憮然となった。
「そういう貴女だって、彼女がオーヴァードだって気づいてなかったんでしょうが」
オーヴァードの調査と言えども万能ではない。事実、オーヴァードである事を隠蔽する異能も存在するし、特殊な訓練を積んだ工作員であれば情報操作によって真実をねじ曲げる事も可能だ。
だが、それは言わばパッチテストの結果を偽装するようなもの。目の前で展開される敵対的で攻撃的な《ワーディング》を受ければ、反射的に身構えてしまう。遥海がそうだったように表面上は平静を保っても、少なからず動揺が生まれるものだ。
しかし、教室で"穢れた紅"が放った《ワーディング》を受けた時、このクラスメイトは明らかに昏倒していた。あれも演技だったというのであれば徹底しているし、隠蔽工作に優れた工作員を擁している組織というのは、非常に厄介な相手だ。
「はぁ? そんなもんアタシが知るか。そもそも調査なんてガラじゃねえし、そんな面倒なもんはアタシの役目じゃねえンだよ」
"穢れた紅"は相手にするのもバカバカしいと言いたげに鼻を鳴らすと、クラスメイトの屍を乱暴に蹴ってひっくり返し――そして絶句した。
黒く炭化した皮膚は、"穢れた紅"の奇襲で受けた傷だろう。半分以上を焼かれて潰された顔の奥。本来ならば骨が見えてもおかしくない部位に、骨ではない別の何かが見えた。人肉の焼ける異臭とは異なる、精密機械が燃えた時に発する有害な臭気を強く感じる。こそげ落ちた表情筋の隙間から見えたのは、機械化された頭蓋骨――いや、機械化されたというのは語弊がある。今もなお生体と入れ替わるように増殖する機械部品が、襲撃者の傷口で蠢いていた。まるで害虫の群れが塊になってひしめいているような、生理的な嫌悪感を抱かせるには充分の気持ち悪さだ。
「……こいつは驚いた。このアマ、筋金入りどころか
「何よ、それ……彼女、
裂傷に打撲、骨折その他様々な傷を由来とする痛みを堪えながら遥海が聞き返すと、"穢れた紅"は不機嫌そうに声を荒げた。
「あ? 何でアタシがテメエに答えなきゃイケねえンだ?」
「――は?」
思わず声が出る。彼女の言うことも敵同士なのだから当たり前だが、その言い草は遥海の頭に血を上らせた。傷の痛みと、ボコボコに殴り飛ばされた恨みと、自分の調査能力を嘲笑われた怒りと、人間だったはずの級友が人外に成り果てていた事実が、UGNチルドレンとして訓練を受けてきた遥海から冷静さを一時的に潜ませていた。
「ブツブツ言ってたのは、貴女の方よ。ああ、独り言とか見えないお友達とお喋りする趣味があるって言うなら先に言って。心から謝罪させてもらうわ。邪魔をしてごめんなさいね」
「ンだと、コラ」
彼女は怒りの沸点が低いのだろう。"穢れた紅"は整った顔をチンピラのように歪めて遥海を睨んだ。
「調子くれてンじゃねえぞ、テメエ。だいたいテメエがアタシの質問に答えねえで逃げっから、ややこしくなるンじゃねえか。分かったら、さっさと答えろ。それから死ね。ぶっ殺すぞ」
「へぇ、お優しい。貴女は『ぶっ殺す』って言ってから殺すんだ。過去形じゃなくて。殺し屋もどきの
「はぁ? 意味分かんねえよ、テメエ。アタシは勿体ぶった言い方する奴が嫌いなんだよ。殺すぞ」
「『強い言葉を吐く三下ほど殺す度胸はない。一流は、既に殺し終えている』だったかしら? 同期のチルドレンが見ていた、古いアニメの受け売りだけどね」
「ほぅ……もしかして何だ? テメエ、アタシが臆病者の雑魚だとでも言いてえのか?」
「ああ。ごめんなさい。勘違いしないでほしいわ。あなたが雑魚だなんて言いたいんじゃないの。そう言ってるの」
「テメエッ!」
激昂した"穢れた紅"は、遥海の胸ぐらを乱暴に掴んだ。恋人同士でなければあり得ない距離に引き寄せられ、遥海は反射的に顔を背ける。だが遅かった。鼻筋に"穢れた紅"の額がめり込み、目の前に火花が飛んだ。血の匂いが鼻孔から喉に落ち、息苦しさと反射的に溢れた涙が視界を歪める。
「そんなにブッ殺されてえならお望み通り焼き潰してやるよ。どのみち再起不能にするつもりだったんだ。アタシの質問に答えるまで、何度だって潰してやるッ!!」
再び衝撃。二発目の頭突きに前歯が折れた。鼻から垂れた塩気の強い血が唇を湿らせる。さらに衝撃。三発目の頭突き。鼻が潰れて息苦しい。脳が揺さぶられて気持ちが悪い。口の中は折れた歯が舌に刺さり、今までにない激痛に意識が飛びかける。
しかし、意識を手放せば殺されるのは間違いないが、抵抗するだけの腕力と体力が残っていない。
「クソが……もう一度聞く。答えるなら、これで終わりにしてやる。答えねえなら、もう一発喰らわす。いいな。三年前、車持播州とその家族を殺したのは、お前か?」
遥海は血と涙に汚れた顔で、返り血に染まった"穢れた紅"の慈悲にすがるように答えた。
「……誰が答えるか、バカ女」
五度目の衝撃に、遥海は意識を手放した。
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