最終話 元凶


 小西智也はソファの上で目覚めた。閉め切ったカーテンの隙間から差し込む微かな光がやけに眩しく感じられた。

 頭痛に顔を歪めながら、辺りを見渡すようにダイニングテーブルへ目を向けて、床に広がる血の海に全てを思い出した。そうか、風呂場へ運んだんだ、と廊下へ延びる血糊を眺めながら思った。気持ちの落ち着いている自身を、不思議に思い鼻で笑った。

 酷い頭痛に襲われ、目を瞑り指でオデコを叩いた。そのまま手探りでリモコンを取り上げ、テレビから聞こえる真希の笑い声を消した。

 大きく息を吐いて立ち上がり、汚れきったリビングを移動して棚からグラスを取り出し、水道水を入れて一気に飲み干した。空になったグラスにもう一度水道水を入れて、ダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。

 眉間に皺を寄せたままテーブルの上に放置されている何本もの空き缶に目線を向けた。何も考えずに眺めていると、不意に沙紀の姿が頭の中に映し出された。お腹出てきたんじゃない、と呆れたような笑みを浮かべ、文句を言いながら空き缶を片づけている。

 抑えようとする間も無く、智也は嗚咽を吐き出しながら泣いた。次から次へと溢れ出す沙紀の姿に、叫び声を上げた。

 テーブルの上に放置されていた空き缶が智也の腕に当たり、床に落ちて空虚な音を立てた。

 まるで責め立てるように浮かんでは消える光景は、何気ない日常ばかりだった。髪を結んだ姿が綺麗だった。髪を解いた姿が好きだった。もう会えないんだと自覚する度に、耐えようのない喪失感が体中を埋め尽くし、それを吐き出すように何度も叫んだ。

 笑顔を浮かべる沙紀の姿が、呼吸すら覚束なくなるほど胸を締め付けた。誰もいないリビングには、至る所にその陰が張り付いていた。何度もその陰を目で追っては、どうすることもできない孤独に襲われた。

 そこには必然的に、真希の姿も映し出されていた。その姿はさらに智也を責め立てた。

 押しつぶされるほどの重圧に、どれほど苦しみ悩んでいたかを、何も知らなかった自身を憎んだ。

 どうして抱きしめてやらなかった。部屋から出てこない娘を。引っ張り出して話を聞くだけでよかった。それすら出来なかった。やらなかった。俺の所為だ。全部。全部。

 智也は子供のように声を上げて泣いた。頭の中に浮かぶ真希の無邪気な笑顔が、膨れ上がった後悔の念を何度も破裂させた。

 部屋中至る所に張り巡らされた二人の陰は、まるで何事も無かったかのように生活をしている。智也はそれを、泣き叫びながら見つめた。

 どうしたの? 沙紀がキッチンから聞いてきた。

 「ごめん……ごめん」嗚咽混じりに智也は答えた。

 パパ泣いてるっ、真希がソファに座りながらこちらに顔を向けた。

 返事も出来ずに、呻く事しか出来なかった。

 宿題はやったの? 沙紀が料理を並べながら聞いた。

 明日やる。目の前に座る真希が、面倒くさそうに答えた。

 その光景に笑みを浮かべたかったが、悲しみにかき消された。

 二人はソファに並んで座りテレビ画面に目線を向けて、まるで友達同士のように何気ない会話を楽しんでいる。

「なぁ」その陰に声を掛けたが、二人はこちらを向いてはくれなかった。

「ごめんな」絞り出すかのようにつぶやいた。同時に二人の陰は消えた。 

 部屋の中を見渡したが、二人の陰はもう姿を現さなかった。智也は力の限り目を瞑り、大きく息を吸い込んだ。それをゆっくり吐き出そうとしたが、再び頭の中に浮かんだ二人の姿に、呼吸は叫び声に変わった。

 沙紀は眠っているようだった。声を掛ければ起き出してきそうなほど、安らかな顔をしていた。

 真希は血の海に横たわっていた。鮮明に浮かぶその姿をかき消そうと声を張り上げたが、まるで見せしめのように張り付いたまま消えはしなかった。

 気が狂いそうになるほどの悲しみと後悔は怒りへと変わり、自身と、そして岡本和成に向けられた。

 智也は立ち上がり目元を拭った。鋭くつり上がった目からは、未だ止めどなく涙が溢れていた。

 ゆっくりとした足取りで浴室へと向かった。昨夜の出来事が信じられなかった。頭の中では和成と交わしたやりとりが、耐え難いほどの怒りと共に思い出されていた。

 脱衣所の前に立つと、中からシャワーの音が漏れていた。智也はゆっくりとドアを開けた。

 浴室のドアは開いており、壁に掛けられたシャワーから胸に水を浴びる形で、和成は横たわっていた。水で洗い流されたのか、浴室内は床に少しだけ血糊が残っている程度で綺麗だった。

「おいっ」消え入りそうな震えた声で、和成に声を掛けた。 

 静まり返る浴室には、和成に当たる水しぶきの音だけが響いた。

「何寝てんだよ」横たわる和成に向かい様々な感情が渦巻いては消え、自身でもどうすればいいのか分からなかった。ただ大きな怒りだけが体の真ん中で残り続け、抑えきれないほど膨れ上がっていった。

「何寝てんだって言ってんだよっ」声を張り上げた。浴室のドアを力強く殴りつけ、横たわる和成に近づき腹部に乗る形で馬乗りになり胸ぐらを両手で掴んだ。すぐに全身を冷たい水が伝っていった。

「カズっ、起きろって」嗚咽混じりのその声は、浴室に響いた。

「返せよ……なあカズ……何でだよ」和成の胸に顔を埋めてつぶやくように話した。怒りと交互に押し寄せてくる喪失感で、体中の力が抜けてしまいそうだった。

 頭の中に二人の姿が浮かび、再び怒りが体中を埋め尽くした。

「カズっ、起きろよっ、何で殺したんだよ。なあ、カズっ」胸ぐらを掴んだまま、何度も和成の体を揺すった。ただ力なく揺れる和成の姿に別の感情が浮かびそうになり、それをかき消すかのように雄叫びのような声を上げ、力任せにその体を揺さぶった。

 和成の体は人形のように揺れ動き、その頭が床に打ち付けられる音が、狭い浴室に何度も響いた。

「ふざけんなよっ。沙紀も真希も関係ないだろっ。何で殺したんだよ。返せよ。返……せよぅ」再び現れた喪失感に体中の力が抜け、声を上げて泣いた。

 頭の中に二人の姿が浮かぶ度に再び怒りに支配され、言葉にならない罵詈雑言を横たわる和成に浴びせては、思い出したかのように襲ってくる喪失感にうなだれた。

 何度も打ち付けられた和成の頭から床に血が滲み、少しだけ広がってはすぐに水が洗い流した。



 どれぐらいの時間をそうしていたのか自身でも分からなかった。寝てたのか? と和成の胸の上で浴室内を見回した。頭から浴びせられる水が、冷たかった妙に気持ちよく感じた。

 和成の胸ぐらに堅く握られた指をゆっくりと外し、その胸を軽く叩いて立ち上がった。髪を掻き上げ脱衣所のバスタオルで頭を拭いた。

 シャワーの蛇口を閉め和成に降り注ぐ水を止めた。どうしようかと少し迷い、服を脱いで全裸になり、書斎兼更衣室となっている部屋へ向かった。

 クローゼットの中にあるカラーボックスから、パンツと軽い外出などでいつも着ていたズボンを取り出し、上着はどうしようかな? と悩み、少し恥ずかしかったが真希が随分前にプレゼントしてくれたキャラクターの入ったシャツを選んだ。

 妻専用になっていた全身鏡でその姿をチェックして、更衣室を出て玄関へと向かった。 靴なんか履かなくてもいいだろ、と鼻で笑ったが、なんとなく履いて外に出た。玄関の鍵は閉めなかった。

 ゆっくりとした足取りで階段を上った。頭の中に浮かぶのは楽しい思い出ばかりだった。疲れ切った体を襲う睡魔に耐えるような、とても良い気分だった。目を瞑れば、すぐにでも寝てしまいそうだった。顔には自然と笑みが浮かんでいた。

 駄目な父親だったと思った。結局誰も助けられず、人も殺した。

 嫌な感情は湧いてこなかった。それを不思議だと思うことも無かった。もう少しで全てが終わる。それが嬉しかった。

 親父と変わんないな、と思った。父は体の大きな人だった。気に障る事があると、大声で怒鳴った。頭の中には、最後に父と過ごした日の事が思い浮かんでいた。

 どうしてそうなったかは忘れていたが、父は自身の小さな手を引いて、力任せに浴室へと引っ張っていた。それが嫌で喚き散らす自身の頭を、父は何度も殴りつけた。

 母が止めに入った。父は母を突き飛ばして罵声を浴びせた。母はお腹を庇うように床に伏せた。

 父は浴槽で小さな桶に湯気の立つお湯を入れ、自身に向けて怒鳴った後、そのお湯を浴びせかけた。

 それがどれほど熱かったかを思い出すことは出来なかったが、その夜母に連れられ家を出た。それから父に会うことはなかった。

 まるで一緒だ、と思った。自身の方が酷いような気もした。皆死んでしまった。

 屋上への扉を開け、柵を乗り越え真希が飛び降りた場所で足を揃えた。

 覚悟は要らなかった。すぐにでも飛べそうな気がした。 

 誰かに呼ばれたような気がして一度振り返り、誰もいないことに笑みを浮かべ首を傾げた後、大きく深呼吸をして勢い良く飛び降りた。

 

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元凶 さじみやモテツ(昼月)(鮫恋海豚) @San-Latino

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