スープ、アゲイン

 何ヶ月も身を引き裂かれるような日が続いた。部屋の壁のドリームキャッチャーを毎日見つめた。確かに悪夢を見ない、でも良い夢も訪れなかった。サクトとはメールと通話だけの繋がりだった。サクトには毎日のサーフィンがある気がした。私にも毎日の仕事があった。でも虚しかった。金子さんに冗談で「名古屋の人とは別れて俺と付き合って」と言われた。「無理!」サクトが好き。どんなに会えなくても、どんなに離れていても。


 家の周りの桜が雨で散り、産まれたばかりのうぐいすが鳴き方の練習をしていた。ツバメが道路を飛び交い蛍の姿を見かけた。海では霞の向こうで富士山が、薄っすらとまだ雪の残る姿を見せていた。毎朝ビーチに出かけてから仕事に行った。いつ行ってもサクトの姿はなかった。GWが過ぎ、ナギとシンジがイタリアに行く事になった。新しいスタッフが決まり二人は旅立った。六月。ビデオ通話の画面の中のサクトが鎌倉のサーフショップの常勤スタッフに応募すると言った。そしてサクトはこっちに一泊しに来た。一日目は店長同士が知り合いだと言うサーフショップと面談してから家で一緒に夕飯を食べた。二日目は賃貸物件の内覧をした。休みを取ってサクトと一緒に部屋を回った。候補の三件とも2DKのアパートで私の家から近い物件ばかりだった。

「店の近くにはなかったの?」

「あるんじゃねぇ? ミウの店の近くが良かったもんで。こっちの仕事が落ち着いたら一緒に住まん?」

 九月には私も二十歳になる。なんとか両親に話せそうだ。

「住む」

 二人で決めた部屋は私の家とレストランから歩いて二十分、サーフショップまで車で二十分の場所にあるアパートの一階の角部屋だった。白っぽいフローリングが綺麗で、洗面脱衣室が独立していた。窓から外に出ると三メートルくらいの奥行きの専用庭になっていた。そして犬と暮らせる部屋だった。

 夏物のワードローブやキャップが仕舞われたチェスト。雑誌やDVD。次の週、部屋の契約に来たサクトが家に荷物を降ろして行った。引越しまで荷物を置く事を快諾してくれた両親は、同棲の話になると顔を渋らせた。話は引越しが終わって落ち着いてからと言われた。家電とテーブルセットとダブルベッドを見に行って引越し当日に部屋に配送されるように手配した。今まで迷惑や心配ばかりかけてきた両親に逆らって家を出るのは嫌だった。話が上手く行くようにドリームキャッチャーに祈った。


 七月。サクトが引越してくる日が明日に迫った日曜日の夜。突然両親がレストランに来た。オーナーが挨拶してメニューを説明した。両親はキャンティクラシコをオーダーした。ロッソ用のグラスを二つテーブルに運ぶ。

「いらっしゃいませ」

 二人を交互に見て微笑んだ。子供の私から見ても素敵なカップルに見えた。

 前菜のスープが出る前にキャンティクラシコのボトルを運んだ。両手でボトルを持ってラベルを確認してもらう。そして苦手だった抜栓をする。少し前までは金子さんに抜栓してもらったボトルを運んでいたけれど、もう大丈夫だ。母の右後ろに立ち、ラベルが上になるように右手でボトルの下部を持ちグラスに注ぐ。外回りにボトルを回転させて雫を絡め取る。後ろにしていた左腕のトーションをボトルの上部に当てて引き起こす。

 二人のグラスにワインを注いでデシャップに戻った。

「俺が行きたかったのに」

 金子さんが冗談ぽく笑った。

「いいから」

 デシャップに上がった二枚のスープを両親のテーブルに運んだ。


 家に帰ると二人はまだ起きていた。ワインのボトルがテーブルに置いてあった。両親はワイングラスを持っていた。

「おかえり。お疲れ様。九月から社員になるんだって?」

「オーナーに聞いたの?」

「ううん。いかついソムリエさんが言ってたの。すごく期待してるから今月からでも社員になって欲しいって言ってた」

 オーナーでもないのに、と思って楽しい気持ちになる。

「あの人見た目と違って優しいし面白いんだよ」

「オーナーさんも良い感じの人だね。ミウは職場に恵まれたな」

「うん。キャッシャーにいたのがアミだよ。本当にやり続けたい事かまだ分からないけど、今の職場で出来るだけ努力したいと思えたのはアミのおかげ。……それと、働こうと思うきっかけをくれたのがサクトなの」

「明日……泊まったら?」

 え……?

「ずっと離れてた二人が急に一緒に暮らすようになると戸惑う事もあると思う。だからまずは週に一度は泊まりに行くのはどう? 九月、あなたが社員になる頃には一緒に住めるように予行期間を作るといいと思ったの。明日は長距離を運転してくるサクトくんを助けてあげてね」

「……ありがとう。お母さん。お父さん」


 明日はついにサクトがこの町に引越してくる。ドキドキして眠れなかったけれど、しばらくすると色々あった今日一日の、悪くない疲労感が体を包み込んで行った。

 サクトは朝九時半に家に着いた。まず不動産屋に鍵を取りに行き、ミニバンに積んできた荷物を新居に降ろした。ルーイも一緒だ。もう一度家に戻って置いてあった荷物を積み込む。新居に戻ると次々にエアコンの取り付けや冷蔵庫や洗濯機の搬入、ガスの開栓の立会い、ダイニングテーブルとダブルベッドは分解して届いたので組み立て、と慌ただしく時間が過ぎていった。サクトのミニコンポを出してFMに合わせる。地元のラジオの78.9MHz。慌ただしさの中に落ち着いたジャズが流れた。私はルーイと音楽を聴いていた。一度コンビニのイートインスペースで休憩した。サクトと初めて休憩した場所。ダブルの羽毛の布団のセットが届いていた。シーツや布団カバーやピローケースがない。私が提案した店に向かってくれた。白い砂浜を思わせるようなフローリングや壁に合う、暗い青のシーツたち。洗い替えに白いピローケースとネイビーとグレイのボーダーのシーツと布団カバーも買った。白と青にグリーンを加えたいというサクトと一緒に大きめのオーガスタの鉢を選んだ。サクトが運んできた白いTV台と、42インチのTVも寝室に置かれた。もう一つの部屋はサーフィンの道具で溢れていた。





 九月最後の月曜日。サクトにもらった鍵を使って部屋のドアを開ける。ケージからルーイを出した。両肩に下げてきた荷物をやっと下ろす。部屋の掃除。買い出し。家事をするようになって、ほとんどサクトのサーフィンを見に行くことが出来なくなった。今もサクトは鵠沼海岸でサーフィンをしている。私は家事をしてルーイとサクトの帰りを待った。今日からこの部屋で一緒に暮らし始める。私は二十歳になり、正社員になった。初めて店に立つようになってから一年が経っていた。今日は午後から私の荷物をサクトのミニバンで運ぶ予定だった。どうせ返事はないと思いながら、昼食はどうするのかメールした。オーナー直伝? のしらすのピッツァをあとは焼くだけに仕上げてサクトを待った。メールもサクトも帰って来なかった。

 私はルーイを連れてビーチに向かった。たまに強くて湿った風が吹いて私のキャミワンピを揺らした。ナンパされた。待ち合わせしていると断った。待ち合わせも約束も何もなかった。膝を抱えて砂に座った。海と水平線だけが拡がっていた。


「どうしたの。彼氏と喧嘩でもした?」


 振り向くとサクトがニコッと笑った。

「家に居ないからここだと思った」

 私はサクトにしがみつく。一年以上も前の出会いが繰り返される。

「一緒に帰ろうぜ」

 ルーイが嬉しそうに吠えた。今日から私たちの家は同じだ。

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