ボトム

 bottom、波の底の平らな部分。穏やかに見えてリップに巻き上げる強い力が働いている。





 私の次に連休に入ったのはナギだった。ナギは毎日店に賄いを食べに来た。それだけではなく、ソムリエ資格の勉強をしに来ていた。来年の試験を受けるらしい。二時間の休憩に入ると金子さんが講師になった。金子さんが白いシャツにつけている金色の葡萄のバッジはソムリエバッジだと知った。休憩が終わるとナギは帰って行った。五連休の最後の日、ナギは来なかった。次の日、遅番のナギは鎌倉の実家から電車とバスを乗り継いで出勤した。彼氏と住んでいた部屋を出たらしい。賄い飲みのために歩いて通っていたシンジが、車で出勤してナギを送るようになった。


 十二月の初めの月曜日。いつものカフェで、アミとアキラの向かいに座っていた。

「……チユキさんってこの仕事天職だよね。二宮くんも経験者じゃん。私、立場なくなりそう。ナギもすごく頑張ってるし、シンジなんて連休も取らずに働いてるし……アミは仕事も育児もしてるからマジ尊敬してるし」

「育児ってほとんど親に頼ってるからさ、そんなかっこいいもんじゃないよ。それより、彼。ミウとどうしたいって? このまま遠距離でいいの? ……言い方は悪いかもしれないけど、今の仕事にやりがいがないなら名古屋で仕事を探すってのもありだよ」

 サクトに見送られて新幹線の改札を潜る時、引っ付いてしまっていた皮膚と皮膚が破れて引き剥がされるような気がした。ずっと一緒にいたかった。サクトと私が暮らす町は遠く離れ過ぎていた。





 十二月の後半に入ったころ、サクトから新しい動画が届いた。


『ボトムターン』10:52


 サクトのショートボードが波の下の方で大きく深くターンして波の上まで戻って行った。

 内海でサクトのサーフィンを見てからひと月が経っていた。レストランには毎日のように忘年会の予約が入って、通しでバイトをする日が増えた。サクトと話す時間が減った。


 クリスマスの前の定休日にサクトへのプレゼントを探しに行った。ハワイアンショップでサメの歯のネックレスを見つけた。サメの歯はサーファーのお守りになると言われているらしい。クリスマスも年末年始もサクトに会えなかった。私たちはビデオ通話でクリスマスと新しい年の挨拶を交わした。


 レストランの休みは三十一日から一月二日までだった。三十一日はスタッフ総出で大掃除をして忘年会があった。二日からオーナーは仕事をしていたらしい。年明けも忙しい日が続いた。





『オフザリップ』11:25


 波がカールする前の一番高い部分付近で決める技の、リッピングの一つ。ボトムターンから一気にリップに向かいターンを決める。ターンの瞬間、大量のスプレー水しぶきが上がってサクトの体を取り巻いていた。


 サクトから新しい動画が届いた日、オーナーから連休の日程について連絡があった。二月十一日から三月十日の間の、定休日を含めた最高五日間。今回は交替で二人ずつ連休を取る事になった。


『今度は俺が行くわ。二月に三連休取るで合わせよう』

 サクトは八月に来た時のように車内泊を挟んで、前に泊まった旅館に一泊する予定だった。ただ、サーフィンをするのは、海が南に向かって拡がっている鎌倉、藤沢のポイントらしかった。初心者に近かった半年前に比べて、かなり上達しているサクトにとって波の無いこの町のビーチには用が無いのかもしれない。少し寂しかった。

 私の連休は二月第三月曜日からの五日間に決まった。二宮くんと同じ日程だった。ナギとシンジは同じ日程の希望を出していた。二人が付き合いだしたらしい事はスタッフ全員が気付いていた。金子さんとアミ。チユキさんと池下くん。連休のシフトが決まり二月が来た。





 サクトは初めて会ったビーチで待っていた。午前八時。

「行こうか」

 久しぶり。黒いミニバンは私を乗せて国道一三四号線を走った。サクトが車を止めたのは七里ヶ浜の駐車場だった。

 車の中で冬用のウェットスーツに着替えて、サーフボードを出した。冬の波間に浮かぶ他のサーファーの姿も見えた。ジャケットのフードを被った。風が冷たい。サクトが缶コーヒーを買ってきて渡してくれた。「嬉しい」え? という顔をしてサクトが私を見た。「会えて嬉しい」

「俺も」

 右のこめかみにサクトの唇が触れた。

 二人で並んで海を見た。サクトは波の様子を見ている。私は水平線と間近にある江の島と、よく晴れた空を見ていた。江の島の向こうには真っ白な富士山が見えた。


 傾きだした陽が眩しく海を光らせる頃、二ラウンド目を終えたサクトがビーチのゴミを拾い始めた。一度家まで送ってもらって、サクトは旅館にチェックインしに行った。私はすき焼きの準備を始める。シャワーを浴びてからサクトが家に来る事になっていた。

 母が先に帰って来た。サクトが着いて、母と挨拶を交わしていた。サクトは名古屋名物の和菓子を持って来てくれた。

「遅くなったけどクリスマスプレゼントな」

 サーフショップの紙袋に入っていたのはパステルカラーのドリームキャッチャーだった。

「俺の手作り。ミウの雰囲気でそういう色にした」

 ベビーピンクの輪に張られた白い網にスターフィッシュが付いていて、輪の下にはベビーブルーとベビーピンクに染められた羽根に挟まれて、白い綺麗な羽根が付いていた。

「めちゃくちゃ嬉しい……ありがとう!」

 私もラッピングしたネックレスを渡した。サクトはすぐに身に付けてくれた。

「お守りで被ったな」

「ドリームキャッチャーもお守り?」

 夢を捕まえるとかそういう意味だと思っていたけれど、インディアンのお守りで、良い夢だけが網をすり抜けて悪夢を絡め取ってくれるらしい。

 三人でダイニングテーブルに座る。母は赤ワインを飲んで、たまにしか作らない私の料理を食べていた。緊張しているのかワインが減るのが早い。

「良かった、美味い!」

 サクトが満足そうに口を動かしている。

「良かったって?」

「料理苦手って言ってたから、不味かったら何て言おうと思っとったけど美味いよ」

「何それ。でも喜んでもらえて良かった」

 良いお肉を使ったからじゃない? と少し赤い顔の母が言った。

「お祝いなんだからいいじゃん」

 サクトと過ごす時間はお祝いしきれないくらいに嬉しい。そして過ぎ去ってしまうかと思うととても寂しい。

 二回目のわりしたを煮立てて長ネギと肉、えのきだけとしらたき、豆腐と白菜と春菊を盛り付けた。火が通ってからテーブルの鍋敷きに下ろし、新しい玉子を用意した。父が帰って来て、サクトが席を立って挨拶した。父は部屋着に着替えて母の隣で焼酎を飲み始めた。父は自分がサーフィンをやっていた頃の話や、今でもサーフィンをしている友人の話をしていた。父がサーフィンをしていたのも、ワックスのココナツの香りが苦手な事も初めて聞いた。

「今年の夏に二十歳になるから、こっちに部屋を借りるつもりなんです」

 サクトのその言葉も初めて聞いた。


 次の日のランチは私が働くレストランに行った。サクトは大須の店のピザよりも、オーナーが焼いたしらすとコーンのピザを気に入った。食べ終わった頃、オーダーしていないクレームブリュレが届いた。金子さんがバーナーで炙って綺麗な焔を上げた。ノンアルコールのカクテルは水色で、遠い夏に繋がっていた。

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