フェイス
face、ピークからボトムまでの波の斜面の部分。サーフィンで滑るメインの部分。
「ピザが本当に好きなんだね」
子供に見せるような笑顔でサクトが言った。毎日のように食べているので少し恥ずかしかったけれど、仕事の勉強に是非来てみたかった。
「でらうめぇ」
「でら、って?」
「あー。すげぇって意味かな」
細い路地に面したテラスは、店の混み具合の割には静かだった。
「俺の言葉、分からんかった?」
「ううん。分かるよ。好きだよサクトの話し方」
「名古屋じゃ普通だて」
「へー」
不貞腐れたように斜めを向いたサクトの顔も好きだなぁと思って見詰めた。不意に私に向き直ったサクトと目が合った。
「さっきは何で泣いたの? ミウが言いたくなった時でいいで、話して欲しいんだ」
逃げる事ができないと思っていた悲しみは、次第に薄れていった。そしてどんどん自分を許せなくなっていった。悲しみよりも自分を許せない気持ちの方が強かった。悲しみは薄れてしまっているのに、どうして泣いてしまったのだろう。
サクトが予約してくれたホテルは熱田神宮という大きな神社の近くにあった。チェックインしてサクトと別れる。部屋に入るとひどい寂寥感と、心地よい疲労感がどっと押し寄せてきた。朝は八時に約束していた。ユニットバスに湯を張って、温まってから湯を抜きシャワーを浴びた。コンビニで買って来たミネラルウォーターを飲んだ。サクトに話せるだろうか。中絶した人は幾らでもいる、きっと話しても大丈夫だ、そんな考えが浮かんだ途端に、頭を殴られたような自己嫌悪が襲った。何て事を考えたんだろう。私は殺すために自分の子供を産んだ。産まれても生きていけない赤ちゃんはすぐに死んでいった。私は自分の子供を見せてもらう事さえ拒否した。正式には人工死産と言うその分娩の後は、火葬や死亡届の提出などをしなければいけない。私はそういった手続きの全てを病院側に代行してもらった。私はあの場に及んでも自分を庇って逃げていた。前日に子宮口を拡げるための処置をして、夜ベッドに横たわった時、赤ちゃんの足がお腹の中を蹴った。私は、あの優しい痛みを決して忘れない。
ホテルで朝食を済ませると、時間通りにサクトから連絡が来た。今日はルーイは来ていなかった。
「今日も波が無いんだ。雨だでドライブでもしようか」
雨の海が見たいと言った。分かったよ、とサクトが笑った。愛知県には内海がある伊勢湾と、もう一つ
「産まれる前は羊水だっけ、水の中におるだろ。だで雨の中とか海の中に居ると落ち着くのかな」
退屈じゃ無い? と訊かれて「雨の中で過ごすのは好き」と答えるとサクトがそう言った。
「ごめん。俺、変なこと言った?」
「なんで?」
「泣き出しそうに見えた」
……
「昨日は泣いてごめん。……サクトと初めて会った日は、供養をしてたんだ。子供を堕ろして初めての月命日だったから」
あの子は自分は生まれてくるのだと疑わずに私の中に居たのではないだろうか。それとも。前日の処置をした私を恨んでいると知らしめたのだろうか。
隣のサクトを見る事ができなかった。
「俺も自分の子供を殺した」
サクトの元カノの名前は美雨だった。
クリスチャンの中学に通っていたらしい。サクトが話し続ける間、私は泣き続けていた。美雨が中学を卒業するまでキスさえしていなかった二人は初めて結ばれた。そしてすぐに別れがやって来た。美雨には他に好きな人がいて別れて欲しいと言われた。サクトは一度そいつのところに行ってもいい、と言った。そしてまた戻って来てもいいと。すぐに美雨が堕ろしたという噂が伝わってきた。サクトは自分の子供だと確信した。でも美雨とはもう連絡が取れなかった。
美雨……。美羽という私の名前。美しい雨の「美雨」に憧れる。何故なら雨は美しい。何故なら……
「泣かないで」
サクトが好きだから。
抱きしめてくれた。鼻水が恥ずかしくて鼻をかみたかった。でもサクトはキスしてくれた。
「罪を償う方法はあるんだよ」
「それは『笑顔でいること』」
「ちょっとめんどくせぇことになっとって……」
家からの電話に出ていたサクトが気まずそうな顔で言った。
「親がさぁ、ミウの分まで飯作っとるんだわ。悪いけど寄ってやってくんない?」
竹島から国道二三号線を一時間くらい走ってサクトの家に着いた。緊張しながら車を降りる。サクトについて玄関のドアを潜った。ルーイが座って待っていた。
「いらっしゃい」
サクトのお母さんが右手のドアから現れた。左手には観葉植物が幾つか置かれていて二階への階段が見えていた。
「はじめまして。アオイミウです」
「はじめまして。ヤマグチユリです。寛いでいってね」
「ありがとうございます。おじゃまします」
名前を教えてくれるお母さんは初めてだった。目がサクトに似ていた。二重で少し垂れているところ。
「緊張しんでいいよ。うちの親、女の子に甘いで。女の子が欲しかったらしい。うちは俺と兄貴だけだで。兄貴は家を出とって今はおらんから彼女連れて遊びに来いってうるさいらしいわ」
ソファに座るとルーイが隣に乗ってきた。ルーイを撫でていると少し落ち着いた。
「美味しい! これなんて料理ですか?」
「自家製のがんも煮。たくさんあるからねー」
テーブルには白いご飯と味噌汁、揚げたカレイの餡かけとサラダが載っていた。初めて食べたがんも煮は柔らかくてとても美味しかった。
「ミウちゃんは料理好き?」
「レストランで働いてるけど、あまり料理が出来なくて」
「私は料理しか取り柄がないの。もし家が近かったら色々教えてあげれるのになぁ」
サクトと随分感じが違うよく話すお母さんだった。
「サクトは何を大人しくしとるの。いつもはねぇ、ずっと話しとるの。ミウちゃんの事とか、サーフィンの事とか、ミウちゃんの事とか」
私の事が二回出た。
「うるせぇな。黙って食べろよ」
煮付け以外のカレイも初めて食べた。揚げたカレイに甘酸っぱい餡かけが良く合っていた。
水曜日。雨は止み、風が吹いた。私はサクトのテイクオフを見た。
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