カール

 curl、波が一番巻き上げている部分。スピードを一番得られる部分。





 新しいスタッフが二人決まった。一人は前に飲み屋のカウンターで仕事をしていたという二十六歳の女の人。早速十一日からシフトに入っていた。もう一人は逗子のカフェレストランで働いている二十二歳の男の人。月末まで今の職場で働いて、来月の初めからシフトに入るらしい。

 私の連休は来月の第一月曜日から金曜日までに決まった。今はアミが連休に入っているので、私が新しいスタッフのチユキさんに教える事になった。チユキさんは教えなくてもカクテルが作れるし、ビアサーバーも使えるし、生ビールのジョッキを五つも持つことが出来た。ビアサーバーの洗浄も樽とボンベの替え方もすぐに覚えてしまったので私の役目はほとんどなかった。ビアンコロッソとロザート、スプマンテ別のボトルワインの提供の仕方を教えたくらい。各ボトルワインの特徴については、私も一緒になって金子さんとナギから教えてもらっていた。

 シンジだけが連休を取らなかった。貯金をしているらしい。バイトは休んだ分は給料が出ないけれど、社員は有給扱いになる。シンジは社員にしてもらえるようにオーナーと相談していた。





 給料日は毎月二十五日だった。これからは毎月五万円を家に入れると決めていた。手術の費用の五十万円は、全額母に出させてしまった。銀行の封筒を手渡すと、母は驚きながら受け取ってくれた。

「来週五連休があるから旅行に行ってくるね」

 そっと深呼吸をしてから言った。

「旅行……? どこに? 誰と行くの?」

「愛知県。一人で行ってくる。名古屋のビジネスホテルに二泊するの」

「どうして名古屋なの。新幹線の乗り方や、ホテルまでの行き方は分かるの?」

 名古屋に好きな人がいる事を話した。名前は山口サクト。八月にビーチで会って仲良くなるまでの事、名古屋駅まで迎えに来てくれる事、サクトはホテルに入らない事。旅行の日程と、サクトとホテルの連絡先を伝えた。

「そう……あなたは言い出したら聞かないから」母は呆れたような笑顔で言った。

「お父さんにもそうやって説明出来るの?」

「自信ない……」

「私から話しておく。彼がこっちに来る時は、お父さんに挨拶してもらえるような関係になれるといいね。はい」

 母はさっき渡した封筒を返してきた。

「名古屋への旅費。彼ばかりにお金を使わせないように。来月からはよろしくね」

 母の溜息を聴きながら、もう二度と心配させたくないのに、私は少しも変われていないのかと思った。





 名古屋駅で新幹線を降りると空気の匂いが違っていた。改札を出たところでサクトが待っていた。サクトは履き続けて味が出たようなジーンズに黒いジップアップのパーカーを着ていた。パーカーから白いTシャツが覗いている。私は薄いブルーのクラッシュデニムのスキニーに白いニットのプルオーバーを着ていた。デニムのダメージが微妙に被っていた。

「腹減った?」

 サクトがさり気なく荷物を持ってくれた。月曜日の十二時過ぎ。初めての愛知県。初めての名古屋市。名古屋駅の上は背の高いビルになっていた。エレベーターで十二階まで上がる。エレベーターからは外が見えて、名古屋の街が拡がっていた。

「平日と思えない」

 十二、一三階のレストランフロアはどの店からもウェイティングの客が溢れていた。

「だで名駅めいえきは好きじゃないんだわ。もう少し食べんでも平気?」

「美味しいものが食べれるんだったら我慢する」

「俺がそうゆう店、知っとると思う?」

 サクトはニコッと笑った。

 駐車場でサクトの黒いミニバンに乗った。ココナツの香りがする。暗がりの駐車場を出て街の中を走った。高速に入る。名古屋の街は何処までも平らに拡がっている。新鮮な風景だった。

「これ誰の曲?」

「分かんねぇ」

 運転するサクトを見ると横顔が笑っていた。

AZUL by moussyアズール バイ マウジーのCDなんだわ。いろんなアーティストの曲が入っとるから」

 私が着ているプルオーバーもスキニーパンツもAZULの物だった。サクトの、胸に小さな髑髏の刺繍が入ったパーカもそうなのかもしれない。


 サクトがミニバンのエンジンを止めたのは鉄板焼きの店の駐車場だった。昔ながらの佇まいの店。サクトはガラスの冷蔵庫から飲み物を勝手に出してグラスを二つ持ってきた。お好み焼きと、目玉焼きが乗った焼きそばを分け合って食べた。美味しいのに他にお客さんはいない。穴場みたい。

「犬、平気?」

「好きだよ。大きい犬は少し怖いけど」

「うちの犬は小さいから連れてきていい? 人懐っこいし、噛んだりしねぇから」

「いーよ。サクトの犬?」

「弟って感じ」

 サクトの家はすぐ近くの一戸建てだった。車の中で待っていると薄茶色のミニチュアダックスを連れてきた。似たような色のキャリーに入っている。

「ルーイ」

 サクトがミニチュアダックスの名前を教えてくれた。

「ルウ、」犬用のおやつをキャリーに入れて、運転席に戻る。

「どこに行くの?」

「今日は波がないけど、内海に行く? 見とるのが退屈だったら緑地公園で散歩してもいいし……」

「海がいい」

 サクトは返事の代わりに歯を見せて笑った。ルーイは十三歳のオスで、人間で言うと七十歳近いおじいちゃんらしい。

 サクトのミニバンはもう一度高速に乗って、さっき走ってきた車線とは逆方向の車線を走って行った。名古屋高速から知多半島道路に入った。フロントガラスの景色は樹木が増えて民家が疎らになってきた。

「まだサーフィン始める前にさ、ルーイを連れて内海まで行ってたんだ。ルーイと浜を散歩しとると『かわいい!』って向こうから女が寄ってくるから便利だった」

「ふーん」

「そん時、地元の女の子と知り合って。大人っぽいから高校生に見えたけどまだ中三だったんだ。付き合い出しても半年くらい何もできんかった。ツレらは大ウケしとった。『純愛?』つって。俺にはもったいないような人だった」

 それからサーフィンを始めた事、その人と別れてから一年以上彼女がいない事、もうナンパはしていないとサクトが言った。

「何で私には声をかけたの?」

 会った事もない女の子に嫉妬を感じた。サクトに「もったいない」と思われた女の子。

「泣いてたから」

「……え?」

「俺には泣いとるように見えた」

 運転するサクトの横顔は笑っていた。

「今も笑われとる」

 ……?

「『サーフィンのしすぎで頭がおかしくなった』って。急に湘南まで一人で行ったと思やぁ、また純愛しとるって」

「純愛って……分かんない。何もしないのが純愛?」

「そうじゃないよ。純粋な愛情だよ」

 車は南知多道路に入った。後ろの席でルーイが甘えるように鳴き始めた。もう、海が近いのかもしれない。





 サーフショップの駐車場に車を入れる。ルーイの首輪にリードを着けて車を降りた。店の前にリードを繋いでニットケースに入っていたサーフボードを出す。ボードを抱えて店の中に入るサクトに続いて、サーフ歴二十五年のオーナーと店長の女の人に挨拶した。店のリペアルームという場所を借りてボードに滑り止めのワックスを塗るらしい。ワックスアップと言うその作業はかなり時間がかかりそうなので、ルーイを散歩に連れて先にビーチに向かった。聞いた通りの簡単な道順を歩くと五分くらいで海に着いた。広い砂浜が弓なりに長く続いている。サクトが送ってくれた画像通り、透き通った遠浅の海に水が湛えられていた。水辺に佇んで海を眺めているとウェットスーツに着替えたサクトがボードを抱えて歩いてきた。サクトはボートを砂の上に寝かせてルーイのリードを解いた。波を見ながら散歩をして「やっぱり波がないね」と話していた。暫く海を見ていたサクトはもう一度ボードにワックスを塗り始めた。店で塗っていたのはベースワックスで今塗っているトップワックスは水温別に種類が違うらしい。「今はCOOLだね」水温が下がってきた今くらいの時期と春に使うのがCOOL。


 ルーイはとても大人しくて、サクトが用意していたレジャーシートに座る私の横で寝そべったり、たまに波打ち際を歩いたりしていた。サクトは一時間くらいで海から上がってゴミを拾い始めた。私も一緒に拾った。ルーイが後をついて来る。





 サーフショップに戻ると、店長がカフェラテを出してくれた。カフェスペースで温かい飲み物を飲みながらサクトが戻るのを待っていた。ワックスを落としたり、シャワーを浴びてくるらしい。

「彼女はサーフィンしないの?」

 首を横に振った。

「ミウです」

「ミウ、ね。楽しいよ、サーフィン。湘南はビギナーにはいい環境だねー。気が向いたら近くのスクールに行くといいよ。無料のスクールもあるんだわね。ボードとウェットスーツは安くレンタル出来るから気軽に始めれるよ。うちみたいにシャワーや更衣室が使えるショップも多いし。よかったら紹介するでね」

「あの……鼻水が出ちゃうのが嫌で、顔を出した平泳ぎしか出来ない」

「みんな波に巻かれて鼻水たらして練習しとるよ。鼻水なんか誰も気にしんって」

「へー。そうなんだ」

「まぁサーフィンしたくなったらサクト通してでも連絡して」

「うん」

 店長が名刺を持ってきて私に渡した。サクトが戻ってきたので、飲み物のお礼を言って店を出た。外でルーイが利口に待っていた。サクトが後ろのドアを開けてボードを入れて、二人と一匹で車に乗り込む。午後五時、海はほとんど夜の色に変わってきていた。





 サクトは高速道路とは反対方面の海岸沿いの国道に出た。夕闇が迫る海が助手席側にしばらく続いた。国道二四七号線。流れる音楽と夜の海が心に染み込んでくる。サクトが車を止めた小高い場所からは伊勢湾の向こうに光が連なっているのが見えた。セントレア空港に離発着する飛行機が間近に浮かんでいた。

「腹減った?」

「減ったよ」

 笑いながら答えると、サクトが眉を顰めた。

「昼にも同じこと言った」

「ミウとるもんで緊張しとるんだって。……じゃあさー。何で居てくれたの?」

「何?」

「何で俺のこと、待っててくれたの。ミウはずっと立ってた。嬉しかったけど。不思議な感じがした。ミウが待ってるのも、俺が波に乗っとるのも、ずっと前から変わらないような気がしてた。雨が降る日はいつもそうやって過ごしてきたみたいな安心感があった。おかしなこと言っとるのは分かっとる。でもミウには通じると思っとるから」

「うん……。雨の日は二人でいつもそうしてたんだよ。だから当たり前みたいに立ってたの」

「また泣く」

 またって。今までサクトの前で泣いた事ないじゃん。

「泣かないで。俺まで泣けてくるがや」

 自動車専用道路を通って三十分くらいでサクトの家に着いた。ルーイと別れて名古屋高速に入る。東別院と言う出口で降りるとそこは商店街だった。駐車場にミニバンを入れて、少しの間歩いた。

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