リップ

 rip、波がカールする前の一番高い部分。波の中で最もパワーを持つ。





 愛知に行くと言ったら。サクトはどう思うだろう。「好き」とか「付き合う」とかお互い一言も言った事はないけれど、毎日メールしていた。地元の海の写真を送り合うくらいだったけれど。たまにサクトがかけてくるビデオ通話が嬉しかった。顔を見ながら電話をしたのはサクトが初めてだった。





『おはよう』6:09


 毎朝六時頃、サクトからのメールが入っていた。実家から一時間高速を走って、サーフショップがオープンするまでに二時間近く海に入るらしい。それから昼食を摂って仕事に行く。サクトが働いているサーフショップは十三時から十九時まで営業していた。サクトが寝るのは二十三時過ぎ。私の早番の日と休日は二十三時までメールしていた。


 早番の日の朝は十一時までに店に入る。十五時から十七時まで賄いを食べながら休憩して、二十一時に店を上がる。因みに賄いは日替わりのピザかパスタを選べて、一食四百円ずつ給料から天引きされた。割安なのと美味しいのとで、毎日二食頼む人がほとんどだった。営業後の賄い飲みはハウスワインとつまみをオーナーが振舞ってくれた。遅番の日は十三時に店に入り営業終了後の二十三時で店を上がった。忙しい週末や人数の少ない日はオープンからラストまでのシフトもあるけれど、海が見える二階の部屋で、十分くらいの休憩を数回取る事が出来た。





「お疲れ様。仕事終わったよ」21:11


 キッチンから声がしたのでパスタを受け取りに行く。毎日これだから絶対太りそう。

「……」

 思っていたよりも早く、スキニーのバックポケットでスマートフォンが振動した。メールの差出人を見て気が滅入る。その差出人からのメールボックスは非表示に設定していた。ずっとメールがなかったから、そのままブロックするのを忘れていた。メールボックスを削除して差出人をブロックした。あと二人、ブロックしている人がいる。そのうちの一人の人が好きだった。その人には七年も付き合っている彼女がいた。彼女とセックスレス気味になっていた彼は私とも遊んでいた。その人はセックスのときはゴムを付けてくれた。その人の子供ではなかったと思う。いまブロックした、たまに会っていた人か、別れてもずるずるとしていた元彼かどちらか。私は誰にも伝えなかった。最後に、もう会わないから連絡しなくていいとメールしただけ。





 妊娠判定薬が陽性を示して、母にありのままを打ち明けた。仕事を休んだ母は横浜の婦人科に付き添ってくれた。妊娠二十週目。二十二週を超えるともう中絶は出来ない。「産んで、もらってもらう」と言う選択肢も病院で言われた。妊娠十二週以降の中絶はほとんど分娩と同じ方法で行われる。手術の説明を聞き、日時を決めた。六月の終わり。梅雨の晴れ間の暑い日だった。病院にタクシーを呼んで二人で後部座席に乗った。「おめでたですか」ふいに運転手の声がした。「……ええ」隣に座る母が応えた。「今日も真夏日だって言ってたけど、これから暑い時期だから大変ですよね。お大事にして下さい」私は何も言えなかった。表情も変えられなかった。「ありがとうございます」母が笑顔を含んだ声で言った。

 みなとみらいの駅でタクシーを降りた。まだ母と二人だけで暮らしていた時にたまに連れて来てもらっていたレストランに入った。

「お母さんはいつもプロシュートだったよね。ビスマルクも美味しいから。分け合って食べようか」

「そうね……ビスマルクも食べてみるわ」母は静かに微笑んだ。

 テーブルに二枚のピザが同時に提供された。サーバーワゴンの上でピザがカットされ、卵の黄身が広がった。プロシュートにはルッコラが添えられパルミジャーノが幅広に削られて舞っていく。

 半熟卵がかかった一切れを口にして、母が思わず、と言う感じで呟いた。「美味しい……!」

「でしょう。ビスマルクってドイツ統一の中心人物だった首相の名前らしいよ。半熟卵が好物だったみたい」

「……あなた、頭のいい子なのに」

「私は馬鹿だよ」

「そうね。馬鹿だわ。本当に馬鹿だわ」

 母は微笑みながら泣いていた。





『お疲れ』

 サクトからの返信はビデオ通話だった。

『こっちに来るってマジなの?』

「まだ来月なんだけど、サーフィン見に行くね」

『こんなとこまで来てくれるって思っとらんかったもんでビックリした』

 三歳上の社員の女の人がくっついてきて画面のサクトに挨拶する。

「まだ店の二階なの。賄い食べてた」

 食べかけのパスタを写した。

『じゃあ先に風呂入って来るわ。出たらメールする』


「連休は彼と一緒なんだ?」

 社員のナギが言った。

「予定が合えばね」

「うちは全然ダメだよ。彼氏は土日しか休みないし。連休どぉしよー」

「一緒に住んでるんでしょ」

「でもどっか行きたい!」

 ナギは賄いのパスタをフォークでクルクルと弄んでいた。

「私は付き合うな。さっきの子だったら。サーファーだろうがナンパだろうが顔がいいもん……。私ね、本当は彼氏と店を持つのが夢なんだよ。一緒にイタリアに修行に行きたいの。なのにあいつ、管理栄養士になるんだって。店はいつか出来たら、だって。あんなにイタリアに行こうって、二人で貯金しようって言ってたのに……」

 キッチンのシンジが、自分で作った大盛りパスタを持って上がってきた。

「それ、うちらのと違いしゅぎない?」

「ナギ、営業中から飲んでたろ。男と喧嘩した?」

「飲まないよ! 馬鹿!」

 シンジは同じ中学校の一学年上だった。サッカー部にいたことくらいしか覚えていなかったけれど、店で話すようになって仲良くなった。

「私がね、ソムリエの勉強するって言ったら、ムリだって言うんだよ。毎日酔っ払ってたら覚えられるわけがないって言うの。勉強しながら飲むなんてありえない。朝なんて何も言わないで仕事に行っちゃたんだよ」

「ソムリエの事だったら金子さんに聞いてみな。あの人ワインの知識すげぇから。それとさ、ぐちぐち言ってないで、飲まずに帰って勉強しな。お前なら資格取れるよ、目標があるんだろ」

 ナギは同棲している彼氏に迎えに来てもらっていた。毎日飲んで帰ってくるナギの事を彼氏はよく思っていないらしい。ナギは少し飲み過ぎたりするけれど、接客もボトルワインの説明もキッチンのフォローも出来て、さすが社員だと思っていた。

「金子さんが『ミウと連休合わせろ』ってオーナーに言ってたぞ。冗談になってねぇし」

「冗談じゃん。連休は被れないんだから」

「ミウをウェッサイに染めるって言ってたぜ」

「今日のギャングスタラップ、金子っちの仕業か」

 ナギが大きな声を出した。そう言えば今日は店のBGMでメロウなヒップホップが流れていたような気がする。

「さっきミウの彼氏見たお! 金子っちには勝てないね!」

「俺も見てぇ」

「ビデオ通話してただけだし、画像持ってないよ。彼氏じゃないし」

「じゃあ何」

「好きな人」





 サクトからメールが来た。

『俺の店は火曜日が休みだで出来たら合わせて欲しい。来月の後半はどう? 連休頼んでみるよ』

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