桜子さんと記憶消去術

・1・


 それはある日の出来事。


 日曜日、大学の研究室に籠もっていた式美春哉しきみはるやは一通りの作業を終え、そのまま部室棟へと向かった。目指すは犯罪心理学研究会。通称、犯研だ。


「鍵は……開いてるな」

 春哉はドアノブを掴んで開いていることを確認した。それはつまり、もう一人の部員が先に来ていることを意味する。

「朝子くん、入るよ」

 春哉は部室の扉を開けた。

 するとものすごい勢いでジャージ姿の少女に飛びかかられた。

(ッ!? 何だ?)

 一瞬桜子かと思ったが、目立つ赤いジャージ姿を捉えてその正体はすぐにわかった。


「うえええええええええん!! 先輩ィ……グスッ。ごめんなさいぃぃぃ!!」


 ジャージ姿の少女・小日向朝子こひなたあさこは泣きながら春哉に抱きつている。

「ちょっ……いったいどうしたんだ?」

「グスッ……先輩の……彼女さんが……」

「彼女?」

 部室の中を見渡すと、春哉の席に見覚えのある横顔があった。

「……桜子さん?」

 どうやら読書をしているようだ。窓から流れてくる風で、彼女の美しい髪が揺れる。その姿はきっと見る者の目を捕えて離さない。全てが彼女という存在を引き立たせる脇役になっていた。

 何せ毎日見ているはずの春哉でさえ、未だに一瞬息を飲むのだから。


(日曜だからもしかして僕をのかな?)


 今日は彼女の出勤日ではない。いつもならずっと家にいるはずだ。出勤を除けば、桜子は春哉と一緒でない限り休日に外へ出ることはほぼない。もしくはこうやって部室にひょろっと姿を見せるくらいだ。

 どうして「」のではなく「」と真っ先に考えるのかは、春哉にとってはもはや今更な話だろう。

(朝子くんと話をしてたのかな?)

 この二人。時々こうして話をするが、いつも喧嘩している。そして大抵口が上手い桜子が朝子を打ち負かす。

 泣くまで徹底的に。

 それでも春哉以外に全く興味のない彼女がそこまで他人と関わるのは、少し前までは本当に信じられないことだ。

(今日も桜子さんが何か言って反論できなかったのかな? ……まぁいいか)

 今日も平常運転のようだ。

 春哉はしがみつく朝子の頭をポンポン撫でる。

「……あのぉ先輩(ボソボソ)」

「桜子さん、来てたんですね。ちょっと待っててくださいね。資料を片付けたら今日は終わりですから。一緒に帰りましょう」

 桜子は読書を中断し、ゆっくりと声のした方を向いて、


 言った。


?」


「えっ……」


 ドサッ!!


 春哉は思わず手に持っていた資料一式を盛大にぶちまけた。

 

 何を言っているのか……理解できなかった。


「……アチャー」

 朝子は額に手を当てて遠い目をしていた。

「ちょっと、大丈夫? 資料落としたわよ? あと私のことを気安く名前で呼ばないで。そういう関係じゃないでしょう? 大人をからかってはダメよ」

 桜子は落ちた資料を優雅な手つきで拾い集め、目の前で固まっている春哉の手にそれを乗せた。

「……君、大丈夫?」

 桜子は春哉の顔を覗き込む。

「あ……えっと……はい」

「そっか。よしよし」

 彼女はそう言うと、再び席に着き読書に戻った。

「……」

「……えーっと、先輩?」

「朝子くん……」

「はひっ!?」

 普段の優しい彼からは想像できないような重く響く声に朝子は思わず敬礼した。


「ちょっと、外で話そうか?」

「いッ、イエッサー……」

(笑顔が、怖い……)


 二人は静かに部室を出た。


・2・


 春哉と朝子は部室棟近くにあるカフェテリアの席に座った。


「よし。まず状況を整理しよう」


 春哉はこの異常な状況を整理するために机の上に紙とペンを取り出す。

「先輩……大丈夫ですか?」

 朝子は心配そうに尋ねた。

「ん? 何が? これくらい全然大丈夫だよ。普段に比べれば——」


(……先輩ッ!? 持ってるペンが逆です!!)


 春哉はペンを逆さに持って、上の空で紙を引っ掻いていた。

 どうやら相当大きな精神的ダメージを負ってしまったようだ。


 とりあえず、注文したコーヒーを飲んで、春哉は再度朝子に質問した。

「で? 何があったんだい?」

 春哉は頭痛でもするのか眉間に指を当てて言った。

「えーっと。何と言いますか……その」


 彼女の話ではこういうことらしい。


***(数時間前)


『何で毎度毎度うちの部室に来るんですか!? 暇ですか? 暇なんですか!? いい加減帰ってください!』

 クワッと朝子は威嚇する。

 最近は日曜日でも春哉は研究室の後にここに籠ることが多い。つまりは二人っきりになれる絶好のチャンスなのだ。

 しかしそれを許さないといったように、いつの間にか桜子もここに来るようになっていた。用もないのに。


『あら、私はここのOBよ? 可愛いの様子を見に来るのはとして当然じゃない。こ・ひ・な・た・さ・ん♪』


 朝子の言葉を軽々と返す桜子。その顔はひどく慈愛に満ちている。

『ぐっ……』

 桜子はいつも春哉の座っている席をスッと立ち上がると、積まれたレポートの中から無造作に朝子のものを一つ取り出す。

『……ちょうどいいわ。あなたのレポート、私が少し添削してあげる』

 自分で言った手前、少し先輩らしいことをしたくなったのだろうか。桜子はペラペラとページをめくっていく。

『あ、ちょっと勝手に……』

『へー、新宗教……自己啓発セミナー……カルト教団でも調べているの? 題材にするには少し資料が足りないんじゃないかしら?』

『読むの早っ!?』

 今度の部の活動報告用に繕った下書きだが、軽く五十ページはあったはずだ。

 朝子が驚いていると、桜子はポケットから黒縁メガネを取り出し装着する。

『メガネしてましたっけ?』

『度は入ってないわ。私、両目2.0だもの。このメガネ、視野を狭くできるから集中するときに使ってるのよ』

 そう言うと、赤ペンで添削を始める。

『ココとココにはあなたの意見は必要ないわ。ココはもっと情報がいるわね。主旨にしてはパンチが弱すぎる。それに対策の部分だけど……どうしてあなたは全部バカみたいに真正面から——』

 という感じで、あっという間に朝子のレポートが血でも飛び散ったかのように真っ赤に染まった。


『……オゥフ』

 朝子はテーブルに突っ伏した。

『もう、春哉くんったら優しいんだから。こんなに甘い採点したらこの子のためにならないじゃない。でもそういうところも大好き。まぁ私は容赦なく急所を刺すけど』


 だって私、あたな嫌いだもの。とでもいう表情で朝子を見る桜子。


 しかし言葉こそ厳しいが全て正論だ。短時間で朝子の論文を完璧に理解し、足りない部分を追求、さらに要点を的確に主張する工夫まで。完璧に指摘された。下手すると論文の書き方を指導する教授より的確だ。一切の反論の余地がなかった。

『はぁ……スッキリした』

『ッ!? 今スッキリしたって言いませんでしたか!?』

『この手の集団は一種の集団催眠を用いることが多いと聞くわね。まぁ薬物とか脅迫とか手段はいろいろだと思うけれど……』

(無視!?)

『催眠ですか。リラックスに使えるものがあるそうですね。五円玉使うアレしか知りませんけど……』

『振り子催眠ね。あれも原理は一緒よ。要は複数回に渡って暗示をかけるのよ』

『ほー』

 桜子は朝子の反応を見てクスッと笑う。

『何ですか?』

『あなたみたいなバカ正直……いえ、純粋な人ほどかかりやすいそうよ』

『全然フォローできてないですからね!? いいでしょう。そこまで言うならどっちが催眠に弱いか勝負しましょう! ちょうどここに五円玉があります』


***(回想終了)


「で、今に至ると?」

「……はい」

「……」

 春哉は思わず額に手を当てる。頭が痛い。

「要するに桜子さんは朝子くんの催眠にかかっちゃったてことか……」

(純粋さで言えば朝子くんはそうだと思うけど、桜子さんもあれで意外と純粋だからなぁ……方向性、間違っちゃってるけど……)

「……さて、どうしたものかな」

「あの……本当にすみません。私にできることがあれば何でも——」

 朝子は言葉を止めた。目の前には普段と変わらない優しい表情の先輩が、優しく自分の頭を撫でてくれている。


「ありがとう。気持ちだけもらっておくよ。でも桜子さんは僕にとって大切な人だから。きっと、僕の力で何とかすべきだと思うんだ」

(それに記憶が戻った時に朝子くんが近くにいたら、たぶんただじゃ済まない気がするんだよなぁ……)


「……はい」

(うぅ……先輩にこんなに思われてるなんて。羨ましい)


「まずはどうやってうちまで連れて帰るか……か。どうしよう……」


 初手からどん詰まりだった。


・3・


「本当にいいの? 夕食いただいても」


 さすがにいきなり自分たちの家に記憶を失っている桜子を招き入れるのはハードルが高かったので、祖父の屋敷を利用することにした。祖父の不在で晩御飯が余りそうだからという理由で。

(まぁ元々どっかに行っていることの方が多いけど。あの人は)

 住み込みでお手伝いをしている門下生たちにもそれとなく事情を話している。さすがに記憶喪失なんて突拍子もないことは言えなかったが。

 春哉たちが住む家よりは少し時間がかかるが、桜子は快く承諾してくれた。

「ええ、構いませんよ。今日はお爺様帰ってこないようですし」

 桜子が敬遠している「お爺様」という単語を出してみたが、特に目立った反応はなかった。

「おいしい。あなた、料理上手なのね」

(本当に……)

 春哉は美味しそうに自分が作った料理を食べている桜子を眺めていた。

 パッと見いつもと変わらない。その仕草も表情も春哉の知り尽くしているものだ。なのに目の前の彼女は春哉の知らない桜子だった。


 幼少の頃、祖父に引き取られた桜子はこの屋敷で暮らしていた。ここは屋敷であり、春哉が体得している式美流の道場でもある。春哉ほど心を開かないが、長い間同じ時を過ごした古株の門下生とは桜子も少し話をすることがある。

(門下生の顔や、思い出の品や場所。一通り見せたけど効果は無し……か)

 かなり望みを託していた策はあっけなく失敗に終わった。と同時に、今の方が彼女にとって幸せなのではないかと心のどこかで思ってしまった。

 桜子は昔の忌まわしい過去も覚えていないようで、誰に対しても明るく振る舞えている。ナイフを持って襲ってくることもない。まさに春哉が望んだ光景がそこにはあった。

「……」

 なのにどうしてだろう?


 この満たされない感情は。モヤモヤする。


 初めて出会ったあの時からずっとこの瞬間を求めていたはずなのに。

 これは彼女にとってとてもいいことのはずなのに。


 一点、彼女の中に春哉がいないことを除けば。

 

 それだけがどうしても腑に落ちない。


「春哉くん。私、お皿を片付けてくるわね」

「いいですよ。僕がやりま——」

 桜子は指で春哉の唇は止めた。

「いいえ。夕食をご馳走いただいただけで十分よ。これくらいは私がするわ。大丈夫。お姉さんに任せなさい」

 そう言って、桜子は台所へと消えていく。普段、春哉が絶対に彼女を近寄らせない台所へ。


(そっか……もう、止めなくてもいいのか……)


 あれだけ危険と隣り合わせだった日々。一歩間違えれば死んでもおかしくなかった異常。

 それでも少し、

 寂しい気がした。



「……?」


 感傷に浸っていた春哉はある違和感に気付いた。


「……


 そう。屋敷内がやけに静かすぎる。ここには他の門下生たちがいるはずだ。事情を話して今夜は部屋で大人しくしてもらってはいるが、全く生活音すらしないのはいくら何でもおかしい。


 春哉は門下生の一人に携帯で電話をかけた。


『もしもし——』

「あ、春哉だけど……」

『あぁ若! どうですか? お嬢とはよろしくやっていますか?』

「は?」

 門下生の言葉に春哉は唖然とする。


『今道場の方におられるのですよね? お嬢から今日は若と一戦交えるから屋敷を空けるように頼まれまして』


 チョットマテ……


『我々がいては足手まといになってしまいますからね。何せお二人の戦いはもはや超人レベルですから。大丈夫、後片付けは全て我々でやっておきます。存分にお嬢の発散に付き合ってあげてください!』


 何か……。何か重要な見落としをしている気がする。

 何で、記憶を失っている桜子さんがそんなことを言える?

 いや、それ以前に……さっき彼女はこう言わなかったか?


 『春哉くん』と。

 記憶を失っているのに。


 その時、ゾクッと背後に冷たいものを感じた。


 春哉が急いで振り向くと、そこには桜子の姿があった。

「うわっ!!??」

 春哉は間一髪で包丁の刃を両手で挟んだ。だがカッコよく白刃取りというわけにはいかない。そのまま軌道をずらし、包丁は畳に突き刺さる。体を反転させ桜子の体の上に春哉が覆い被さった。


「ムー。今回はいい線いってたと思ったのにぃ」


 春哉を見上げるその顔は、紛れもない、いつもの彼女のものだ。

「……いつからですか?」

「何が?」


?」


 春哉は聞いた。今の話では少なくともここに来る頃には記憶が戻っていたことになるが。事ここに至っては最初から自作自演だった可能性も出てくる。

(……その場合はさすがの僕でも今回は許しませんよ)

 春哉の真剣な眼差しを見て、桜子は諦めたようにため息をついて白状する。


「催眠術にはかかってたわよ。悔しい事に。記憶を取り戻したのは春哉くんが部室から出て行ったすぐ後ね。ちょうど催眠術に関する文献を読んでいたの。解除の方法も書いてあったわ」


 つまり……。


(自分で解いちゃったのか……)

 ドッと春哉の全身から力が抜ける。

「春哉くん……さすがに、苦しいわ」


「……よかった」


「えっ……?」

 春哉は桜子を強く抱きしめる。

「……ッ」

 桜子も悦楽に浸った顔で愛しい人を受け入れる。

「ちょっと、今回はさすがの僕も怒ってますよ?」

「あら、ならどうするのかしら?」

 桜子の火照った体を強引に引き寄せる春哉。

「あッ……もう、強引なんだから……」

「当たり前です」

 春哉の顔は怒っているというよりも嬉しそうだった。

「ふふ。なら今から本当に私と一戦、交えてみる?」


「いえ、今日という今日は少しお仕置きが必要だと思ってます」


 その夜。

 他に誰もいないことをいいことに、桜子が鳴いて謝るまで春哉のは続いた。


・4・


 翌日、門下生たちは屋敷に帰ってきた。

 昨晩はいろいろあって多少部屋が荒れているが、門下生は「予想通り」といった具合でさっさと床に刺さった包丁や破れた障子の後片付けを始めてくれた。


「おや? 今回は思ったより被害が少ないですね。もしや!? お嬢のあの嵐のような攻撃の中でも若は周りに気をつかって……」


 門下生の一人がキラキラした目で春哉を見ている。他の門下生もうんうん頷いていた。

 この門下生たち、いったい自分たちを何だと思っているのだろう……。


「せんぱーい!!」


「朝子くん。おはよう」

 朝子が道場を訪ねてきた。彼女には今朝桜子の記憶が戻ったことを連絡した。まさかここまで来るとは思っていなかったが。

「うぅ……よがっだですぅ〜。もし記憶が戻らなかったら私……責任とって先輩と結婚するつもりでした!」

 さらっととんでもないことを言われた気がする。

「あら、後輩ちゃん。バカも休み休み言いなさい?」

 どこからともなく桜子が出てきた。彼女は春哉の腕に抱きつく。

「出ましたねラスボスめ。……でも、今回は下がります。私のせいで先輩にご迷惑をおかけしてしまいましたし……」


 朝子はそう一言挨拶すると、クルッと回ってその場を後にする。

(彼女なりに、桜子さんを心配してくれてたのかな……)



 桜子が今まさに悲壮感いっぱいで去ろうとしていた朝子の頭を鷲掴みにした。

「イタタタタッ!? なんですかもう!!」


「あなた、ほんの少しの間とはいえ私に春哉くんのことを忘れさせて、タダで返すと思っているの?」


「……」

 朝子はニコニコ笑顔だが、額から汗が流れ出ている。


「ちょうど私も一つ、記憶の消し方を知ってるの。あなたもその罪の意識、消したいでしょう? いいわ、教えてあげる。安心して。ちょっと痛いけどとても簡単なやつよ」


「ちょっ……それは壊れたテレビを叩いて直すアレじゃ……まっ!? ホゲェェェェェェェェ!!!!!!!!」


 青空の下、小日向朝子の叫びが木霊した。


桜子さんと記憶消去術 完

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続・桜子さんの殺人レシピ 神島大和 @Yamato

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