続・桜子さんの殺人レシピ

神島大和

-Extra story-

桜子さんと海へ行こう

・1・


「夏……暑い……休み……はっ!? 海へ行こう!!」


 祭礼桜子さいれいさくらこは社内食堂で同期のOL三人組と昼食をとっていた。そんな中、瀧蘭子たきらんこは名案を思い付いたようにそう言った。

「海ねぇ……なんで?」

 眼鏡OL・成井凛なるいりんはうどんを啜りながら聞いた。

「夏といえば海! それ以上理由がいるか?」

「あらあら」

 隣に座っていた中井加奈子なかいかなこは頬に手を当てて笑っていた。

 入社してもうすぐ四か月。当然だがまだ有給なんてものはない。しかし明後日は土曜日で月曜日は祝日で会社自体も珍しくお休みだ。臨時の出勤予定もない。

 そう。三連休なのだ。

「私はどっちかっていうと引きこもり属性なんだけど……」

「この三連休を家で過ごすとかありえないから! 母なる海! その胸に飛び込むんだ!」

「……嫌だわー。体育会系のそのやればできるってノリ」

 凛はゲッソリした感じで言った。蘭子は蘭子で暑さでどこかテンションがおかしくなっている。

「祭礼さんはどう思うかしら?」

 加奈子は桜子に聞いた。

「そうね。私は遠慮しておくわ」

 綺麗な黒髪を左右に振り、桜子はやんわりと断りの言葉を口にする。

「デスヨネー」

 予想通りの答えに凛はむしろ安心する。

 これまで何度か夕食に誘ったりしたが、桜子には全て断られている。彼女は仕事が終わるとまっすぐに家に帰るのだ。恋人の待つ家へ。

「あらあら。彼氏さん、愛されてるわねぇ」

「ふふ」

 桜子は満足そうな笑みを見せる。しかし蘭子だけはムムっと何か考え込んだ表情をしていた。


「あのさ、」


 突発的に出現した海へ行こう計画がご破算になろうとする中、蘭子は唐突にこんなことを言った。


?」


「え……」

「……っ!!??」

 蘭子のその言葉に、凛と加奈子は衝撃を受ける。

(なんて恐ろしい子!? ただの野生児だとばかり思っていたけどこれはまたとないチャンスじゃない!?)

(あらあらグッジョブですわ蘭子さん。噂の春哉さん。どんな方なのかしら?)

 二人はアイコンタクトを取り、ガシッと両脇から桜子の体を取り押さえる。

「ちょっ……!? 何するの!! ひゃっ!?」

「蘭子! 携帯! GO!」

 凛は桜子の服に手を忍び込ませロッカーのカギを奪い、蘭子に投げる。

「任せて! イヤッホー! 海が私を待ってるぜー!」

「んんん……んー!!」

「ごめんなさいね祭礼さん」

 普段見ない開かれた瞳。加奈子の瞳は暗殺者のそれのようだった。

 桜子の悲痛な叫びが木霊した。


・2・


「なるほど。びっくりしましたよ。桜子さんの携帯から知らない人が出てきたときは」

 式美春哉しきみはるやはベッドに寝転んだ状態でそう言った。そのすぐ横には桜子が寄り添っている。

「ムー」

 突然かかってきた電話の主は自分の名前を知っていた。その堂々とした声で最初は桜子が誰かに人質に取られたのかと焦ったものだ。そのせいで普段は絶対に出さないドスのきいた低い声を出してしまい、逆に電話の主を涙目にさせてしまった。


「ごめんね春哉くん。あの三人にはまたお仕置きしておくから……」

「いやいいですよ。せっかくできた友達なんですし、大切にしてください」

 春哉は桜子の髪を優しく撫でる。

「うん……」

 桜子はそっと春哉の胸に顔を埋める。

 二人は今、生まれたままの姿でベッドの上にいる。

「シャワー、浴びましょうか」

「ううん。いや。このままがいい」

 お互いいろんなものでべったりだが、気持ちが悪いなんてことは微塵も思わない。むしろ愛おしい。

(汗の匂い……春哉くんの匂い……)

 そう思うと不思議とシャワーを浴びる気にならなかった。浴びたらせっかくのこの愛しい匂いがとれてしまう。

「もう少し、ぎゅーっとして?」

「はい」

 強く、けれど優しく自分を包む春哉の腕を感じながら桜子は熱い吐息を漏らした。


 今日の桜子はいつになく積極的に春哉を求めてきた。

 乱れる髪、熱い吐息。光り輝く汗。

 春哉の熱を一心に受け止める彼女の姿が目に焼き付いた。

 情熱的。その言葉だけでは足りない。

 蠱惑的。彼女のもはや芸術的とも言えるその美しい肢体が乱れる度に春哉は心を奪われ、全身に快感が走った。


(マズい……さっき攻撃されてたら危なかったな)

(ムー。悔しい。気持ちよくて攻撃できなかった……)


 今は小休止中だ。ふと、お互いにわずかに生まれた気の緩みを猛省する。

「ふふ」

 桜子は春哉の胸の傷を優しく指でなぞる。触れるか触れないかの微妙なタッチ。

「桜子さんくすぐったいですよ」

 桜子は春哉の胸の傷跡がひどくお気に入りなようだった。ほぼ毎日のようにその存在が確かなものだと確認したがる。今みたいに、服を着ていたらわからない春哉の意外にガッチリとした胸板に頬をすり寄せ指先でなぞったり、時には舌を這わせてきたりすることもある。


「私がつけた傷跡……私の……ふふ」


 愛おしそうな視線を傷跡に向けている。

 あの日から二か月ほどが経ち、春哉の胸は傷跡が残ったものの完治した。後遺症もなく今ではすっかり元通りの生活を送っている。


 だが桜子にはいくつか変化があった。


 その一つはあの日を境に春哉を殺そうとすることはなくなったことだ。

 だが桜子の行動自体が変わったわけではない。むしろ今でも隙あらば凶器を持ち出して襲ってくる。どうやら彼女の中で春哉に傷跡をつけることが快感に結びついてしまったらしい。新たな境地を開いてしまった彼女の凶行はむしろ悪化しているのかもしれない。

 春哉にしてみれば、死ぬ気で体を張ったのにまた変な方向に歪んでしまったのは少し口惜しい。まるでぐちゃぐちゃの結び目の一つをやっとのことで解いたら、また新たに絡まってしまったような心境だ。

 つまりは「殺さなければOK」という結論に至ったらしく、人体の急所が集中する正中線及び心臓以外を執拗に狙ってくるようになっているのだ。


(生かさず殺さずとか余計にタチが悪くなったような……。全く……しょうがない人だ)


 だが確実に変えられたところがあるのもまた事実。

 彼女の意識は変わった。あの時春哉の胸にナイフを差し込み、彼をもう少しで殺してしまいそうになったとき、彼女は彼女が求めていたものがそこにないと気付いた。そこにあったのは愛する人を失ってしまうかもしれないという底なしの恐怖。その恐怖で桜子は一時はあんなに肌身離さず持っていたナイフも持てなくなってしまったほどだ。

 面会時間が過ぎようとしても、いつも泣きそうな顔で自分の手を離そうとしない彼女は春哉の目から見ても珍しかった。まるで今離したら春哉がいなくなってしまうのではないかと思っているようだった。

 今でこそ以前と変わらないが、今の状態まで落ち着かせるのに結構苦労したものだ。毎夜毎夜自分という存在を彼女に刻み込む必要があった。

 もちろん彼女の中には未だ春哉を殺したいという願望が残っている。その証拠に今でもあの殺人レシピてちょうは健在だ。新たに新調し、更新までしている。

(ま、少しは進展はしてるよな……)

 胸の傷跡に艶やかな視線を送る彼女はやはりまだどこか歪んでいる。時折見せる淀んだ瞳を見て、春哉はそう思った。

 真っ黒だった彼女の心が灰色くらいには変わってくれただろうか?

 そうだとしたら、この傷も勲章のように思える。

 彼女の浸かっていた闇はひどく暗い。細胞レベルで黒が染み付いてしまっている。例えもう白にはなれないとしても、それでも春哉は何度でもそこから救い上げるつもりでいる。

 そして今は、それが自分だけではできないことも重々理解していた。

「海、楽しみですね」

「ムー」

 桜子はその言葉に頬を膨らませた。

「春哉くん。なんでOKしたの?」

 かわいらしいが目は笑っていない。いつも恋人に向ける純粋な殺意ではない。彼女はただただ拗ねていた。

「せっかくの友達と遊ぶ機会なんですから行ったほうがいいですよ。僕は荷物番とかしますから」

 春哉は桜子の頭を優しく撫でる。こうされてしまうと桜子はもう何も言えない。

「ん……。意地悪。春哉くんが行くなら私が行かないわけないって知ってるくせに……」

「はは」

 春哉はにっこり笑ってみせる。

「……わかったわ。行くわよ。春哉くんに悪い虫がついたら嫌だもの」

「桜子さんの水着、楽しみにしてますね」

「うん」

 これでいい。

 桜子に最も影響を与える要因。それは意外にもだ。春哉はそれを朝子から学んだ。今考えると、彼女が桜子と接触したことで桜子には明らかな変化が見て取れた。特に病院での彼女の告白以降それは顕著に現れた。

 それは春哉へのスキンシップから始まり、夜の情事、日々の襲撃回数に至るまで。一緒にいる時はどんな形であれほぼべったりだ。依存度が増している。

 そして一番の変化は他者を認識し始めた所だった。今まで一度だって春哉以外の人間、会社の同僚の話でさえしたことがなかった彼女が、朝子の愚痴を言ったり、今こうして会社の同僚の話をしている。

 彼女が人と関わっていくことはきっと彼女のためになるはずだ。

 欲しいのは外部からの新しい刺激。それがどういう方向に効果が出るのかわからないが、今はそれしかない。

 問題はいくらかは手綱を引かないと間違って犠牲者が生まれてしまうかもしれないことだが……。


・3・


「海だーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」


 蘭子はサンサンと輝く太陽の光を一身に浴び、そのまま海へと爆走する。

 十浦浜とうらはま。桜子たちが住む街から電車で一時間ほどの場所だ。ここは白い砂浜で有名だ。休みの日は海目当てに多くの客がやってくる。

「蘭子〜。パラソルの設置手伝ってよ!!」

「あらあら。ちゃんと準備体操しないと。溺れても助けないわよ〜」

 凛と加奈子は口々に言った。

「私の体は海を求めている! 全てを包み込んでくれる母を! Dive to Mother!」

 狂気にも似た表情で蘭子は海へと飛び込む。

 バッシャーン。と凄まじい水柱が上がった。


「すみません。僕までお邪魔しちゃって」

「いいのいいの。今回の私たちの第一目的はむしろこっちだし」

「第一目的?」

「……いや、こっちの話」

「あらあら」

 凛は「しまった」というような顔で明後日の方向を向いた。

 すでに三人とも水着に着替えている。春哉は水色のパンツに白いパーカー。加奈子は赤いビキニ。そして凛は何故か競泳水着だ。

 凛と加奈子はまじまじと春哉を見ている。

「それにしても春哉さん。改めて見てもとてもかっこいいですわね。私、祭礼さんが少し羨ましいです」

 加奈子が興味深そうに春哉を観察する。

「ははは……どうも」

「筋肉にも無駄がないし、その胸の傷、いい味出してるわぁ。帰ったら新しいプロット作ろ」

 オタクでもある凛はメガネを光らせ何やら春哉の体にときめいていた。


「春哉くん♪」

「あぁ桜子さ……っ!?」

 背後から聞こえた桜子の声に、春哉は振り返る。そして言葉を失った。

 桜子は白いビキニに水色のパレオという格好だった。頭には麦わら帽子が乗せられている。

 何もおかしいところはない。

 彼女の白くキメ細かい肌は太陽の光さへも反射し、その整った顔立ちと完璧なボディラインは周囲の男性の視線を独占していた。この場で一番彼女を見慣れているはずの春哉でさえ一瞬言葉を失ったほどだ。あるいはこの場がそうさせるのか。これが母なる海の力なのだろうか。

「むぐぐ……わかってはいたけど、圧倒的だわ……」

「あらあら」

 凛は地に膝をつき神を呪った。

 桜子は周囲の視線を気にもぜず、春哉の目の前に立つとクルッと回ってみせる。ヒラっとパレオが一瞬めくれ、春哉だけにその白い陶器のような太ももが見える。

「どうかな?」

「えっ……あ、とても綺麗ですよ」

「どうしたの? 顔、赤いよ?」

「そんなことは……ッ!!」

 唐突な桜子のを春哉はすんでのところで避ける。爪でもやりようによっては皮膚を裂けるのだ。桜子は平常運転だった。

「キャーー!! 春哉くん大胆!!」

「あらあら」

 凛と加奈子がキャッキャと騒ぎ立てる。桜子の攻撃は彼女たちの角度では桜子が春哉の首に腕を回して抱きつき、春哉は彼女の体を引き寄せ抱き合ってるように見えたようだ。

「……桜子さん。公共の場ですから自重してください」

「……ムー。今日は行けると思ったのよ」

 小声でそんないつものような会話をした。

「二人とも。早くこっちに来なよ! ビーチバレーしよう!」

 遠くで凛の声が聞こえた。春哉は桜子の手を取ると言った。

「行きましょうか」

「うん」

 二人は一緒に海の方へ向かった。


 ちなみに先に海へ飛び込んだ蘭子は、案の定足がつり、ライフセーバーに担がれていた。


・4・


 同じ場所でもう一人騒がしい子がいた。

「大学は休み。せっかくなので父の仕事を見学するために指定された場所に着いたわけですが……」

 朝子は拳を固く握る。


「何故海なんですかーーーーーーーーーーーーー!!」


 春哉の後輩である小日向朝子こひなたあさこは広大な海を目の前にそう叫んだ。朝子は視察で早朝出勤する父に付いていくと進言した。

 すると朝子の父は、


『朝子。もしもお前が私のような正義を執行する者になりたいと思うなら、止まらないことだ。自ら考え、自らの力で捕まえなさい』

『おぉ……なるほど!!』

『うむ』

(私としてはせっかくの休みだし娘には友達と楽しく遊んで欲しいのだ)

『では父よ、視察先を教えてください』

『え……』

『自分で行きます』

『……っ!?』

『(汚れを知らぬ尊敬の眼差し)』

『……』

(頭は抜群にいいのだが、もう少し社交性がなぁ……)

『父よ!』

『……ゴホン! 今日、私はこの場所にある派出所を視察する。とても綺麗な場所だ。私はそう長くは滞在しないが、せっかくだから友達を誘って来るといい』

『十浦浜……』

『いいかい? 連れてくるんだよ?』


 そして今に至る。

 朝子はこの海に来ていた。なかなかどうしてユニーク浮いた人な彼女は大学内の特定のグループに馴染めていない。親しい仲と言えるのは春哉くらいのものだった。当然真っ先に彼に連絡したが、その春哉もその日は用事があるとかで丁重に断られてしまった。

 父親も見つからない。派出所もだ。

 平和そのもの。今日もいい天気だ。

「全く。父はどこに……」

(まだまだ私の修行不足ということでしょうか……)

 そう思えて少し落ち込んでいると、正面から声が聞こえた。見ると、浜辺にはキャッキャウフフするカップルが溢れている。

「全く、けしからんですね(モグモグ)」

 なんだか面白くなかった。

 しかしその手にはしっかりと海の家で仕入れた戦利品・焼きそばが握られていた。

 そんな時だった。朝子の視界の端に見知った顔が映った。

「あれは……」


・5・


「ちょっと! あなたたち何なんですか?」


 凛は隣にいる桜子を庇うようにして三人組の男たちを相手にしていた。

「えーいいじゃん。ちょっとお話しようよ〜」

 ビーチバレーの試合中、間違ってボールが岩場の方へ飛んでいってしまったのを桜子と凛が探しに来たら、この男たちが急に話しかけてきたのだ。

「ね? ちょっとだけだからさ。アイス奢るよ?」

 日焼けで焼けた茶色い肌。濃すぎる金髪にピアス。話し方だけでも如何にも軽そうな男たちだ。

「そっちのお姉さんも一緒にさ?」

 リーダー格の男が下卑た目で桜子を見ていた。男の舐めるような視線。それを見て凛は確信する。

(やっぱり祭礼さん目当てか。クゥ〜。私はおまけかよ! ご登場時から注目集めてたもんなぁ〜。ちくしょう神様化けて出てやる)

 初めてのナンパがまさかのおまけ扱いで凛は心で泣いた。

 だが今するべきはそんなことではない。凛は開き直る。

 桜子は怯えているのか恥ずかしがっているのかよく分からないが、男の言葉に一言も声を出していなかった。


(まずはこの場を切り抜けよう!)


「ごめんなさ〜い。連れを待たせてるの。またね」

「そっか。じゃあね」

「え……」

 男たちは凛には目もくれず、岩壁を背にしている桜子の周りに陣取った。

「ねぇねぇ——」

(こ……のッ!! 私はお供えでもないってか!!)

 元々ない最後の自尊心を滅多打ちにされた凛が切れそうになったが、すぐに正気に戻る。桜子の顔色がさっきより明らかに悪くなっているのに気がついたからだ。

「ほらお姉さん、行こうよ」

「……や」

「え?」

 ようやく言葉を発した桜子に嬉しくなったのか男は桜子にさらに近づく。

「何何? 聞こえないよ」

 男の茶色い手が桜子の肩に触れようとしたその時、


「イヤっ!!」


 桜子は堪らず駆け出した。

 だがすぐに何かにグィっと止められた。

「痛いッ!!」

 大柄な男が桜子の手を掴んで離さない。桜子は逃げれなくなってしまった。

「ごめんごめん。でもさ、逃げなくてもいいじゃん。俺らお姉さんとゆっくり話したいだけなんだからさ♪」

(こんな上玉逃してたまるかってんだ。……いいね。白い背中もソソルぜ)

「ちょっとアンタたち!!」

「あ〜、そっちのメガネのお姉さんは連れのところに戻るんでしょ? こっちの人は俺らと遊ぶってさ」

「はぁ? そんなこと一言も言って——」

 そう言いかけた凛の目の前にもう一人の男が立ち塞がった。その男は凛にだけ聞こえる声で話しかける。

「……察しろ。お前はお呼びじゃないんだよ」

「ッ!!」

 最初からわかっていたこととはいえ、一発ぶん殴ってやりたかった。だがここで彼らを殴って勝てる力は自分にはないし、最悪桜子にまで被害が及ぶかもしれない。そう思うとその場を動けなかった。

(どうしようどうしようどうしよう)


「さて、んじゃあっち行こっか?」

 リーダー格の男は岩場のさらに奥を指差す。その目は嫌に血走り、息も荒い。

「……イヤ」

 桜子が弱々しい声で言った。

「……あぁもうめんどくせえ。これ、連れてっちゃって?」

「あいよ」

 大柄な男の手が再び桜子に迫る。

「イヤ……」

 涙ぐんでいる桜子の瞳にその手が映る。そしてありったけの声で叫んだ。


「助けて春哉くん!!!!!!!!!!!!」


「はっ……?」

 理解できなかった。自分の今の状態に。

 大柄な男の視界がグルンと三百六十度回転したかと思うと、硬い岩場にそのまま背中を叩きつけられた。

「ぐへ……」

 そのまま大男は完全に伸びてしまった。

「なんだお前!!」

 大男を軽々と放り投げた青年、式美春哉は桜子の前に立つ。

「……るな」

「あぁ?」


「この人に触るな!!」


 腹に響くような声で男は思わず一歩後ずさる。

「……春哉くん」

「すみません。こういうことも想定しておくべきでした」

「ううん」

 目に涙を溜めて桜子は春哉の逞しい背中に触れる。


「いいところで……ッ! テメェふざけてんじゃねぇぞ!!」

 男はどこからか折りたたみ式のナイフを取り出した。

「ヒッ!」

 これにはさすがに側にいた凛も声を上げる。

「やめたほうがいい。(桜子さんに)近づくと怪我じゃ済まないぞ?」

「それはこっちのセリフだ!!」

 百パーセント善意で言ったつもりだったが、伝わらなかったらしい。

 男は一直線に走り、春哉にナイフを突きたてようとする。春哉は桜子に被害が及ばないように自ら前に出て、最小の動きでナイフを避け、男の手首を掴む。あれだけあった勢いは一気に削がれ、自分を見下ろす春哉の鋭い視線に男は息を飲んだ。

「うちの武術は自ら攻撃することを禁止としていますが——」

 蛇に睨まれたカエルのように男の体が動かなくなった。


?」


 直後、男の視界がグラつく。どういう原理か一回転して岩場に叩きつけられたのだ。痛いが意識を持ってかれるほどではない。だが、

(あれ!? なんで……)

 体に刻みこまれた極大の恐怖に体が動かなかった。


「ふぅ……。じゃあみなさん——」

「動くな!!」

 最後に残った男が凛を人質にとってそう叫んだ。彼女の頬にナイフをちらつかせている。

「動くとこいつがどうなっても知らないぞ!!」

「……」

 凛はあまりの恐怖で足をガクガクと震わせている。

(まずいな。この距離じゃ届かない……)

 どうにかして彼女を助けなければならない。

 そう思ったが——

「……あ」

「んだ!?」

 春哉は男のことなど見ていなかった。見ていたのはその先。


「チェストォォォォォォ!!!!!!!!!!!!」


「へぶぉ!?」

 突如背後から現れた少女。男の側頭部に強烈な蹴りが炸裂し男は一瞬で意識を喪失した。

 スタッと綺麗に着地し、Y字ポーズをとると少女はキラキラ目を輝かせて言った。


「やっぱり式美先輩じゃないですか!! お疲れ様です!!」


「朝子くん」

 わぁ〜っと犬のように嬉しそうに春哉に近づく朝子。白いスポーツ用の水着を着ている。彼女の活発な雰囲気がより強調されるいい水着だ。

「なんでここに?」

「はい。父の仕事を見学しようと思ってここまできたのですが……ハッ!?」

「?」

(まさか……父よ……自分の力でというのはそういうことですか!? 将来の伴侶を捕まえろと。そういうことなのですか!? よもやそこまで……)

 父親の言葉をおそらくは誤解している朝子は父に尊敬の念を送る。だがある意味では正解なのかもしれない。


・6・


 夜。桜子と春哉は凛たちのグループから少し抜け出して二人で夜空を見上げていた。都会と違い、ここは星が綺麗だ。

「春哉くん。今日は助けてくれてありがとね。かっこよかったよ」

「ははは。まぁ僕はあなたの彼氏ですから。それなりに鍛えてますし」

「ふふ」

(正直なところ、いつもの桜子さんに比べたら全然大したことないんだよなぁ……)

 最大の敵が目の前の彼女であることに少し戸惑いを覚える春哉であった。

「ところでどうして抵抗しなかったんですか? いつもの桜子さんならそんなに難しいことではないでしょう?」

「それは……」

 あの時、全身を気持ちが悪いものが走った。それは春哉以外の男に対する絶対的な嫌悪感。悦を感じることもなければ愛もない。恐怖で体が固まってしまったのだ。

 春哉も何となくそれは察していたので、それ以上は聞かなかった。すぐに話題を変えようとした。

「そうだ、今か——」

 桜子の唇が春哉の言葉を遮った。彼女の綺麗な顔が視界を覆う。

 そのまま数秒。彼女はゆっくりと唇から離れる。

「……花火が……ありますよ」

「ふふ。お礼」

 首に両腕を回して、桜子はおそらく目の前の青年以外には誰にも見せない、これ以上ないほどの笑みをこぼした。

 少しだけ放心した春哉だが、すぐに正気に戻る。この辺は常に危機と隣り合わせの彼の癖のようなものだ。桜子にしっかりと訓練ちょうきょうされている。

「ねぇ、もう一回してほしい?」

「そうですね……」

 春哉も笑みで返して言った。


「まずは僕の後ろで構えてるお願いします」


「ッ!?」

 桜子は驚いた。そして手に持っていた木製の串を放した。

「ムー。なんでわかったの?」

「僕はあなたのことなら何でも知ってるつもりですよ?」

 その言葉が何よりも嬉しかった。

「ふふ。私、幸せよ」

 春哉の言葉に桜子は嬉しそうに言った。


「……随分とお楽しみですね」


「「ッ!?」」

 突然の第三者からの言葉に、二人の背筋がピンと伸びた。少女のジト目が二人を捉える。

 その瞳は言っている。

 リア充爆ぜろ。そして先輩を渡せ。と。

「あ、朝子くん」

「あなたは、いつかのサブヒロイン……」

 ブチッと朝子の中で何かが切れる。

「誰がサブヒロインじゃぁぁぁぁぁぁ!!」

 宙を踊る朝子。地で構える桜子。同時に花火が打ち上げられた。夜空に広がる輝きに三人は心を奪われる。

「先輩。あっちに穴場があります。行きましょう」

 朝子は春哉の手を引く。

「あ、あぁ……」

「ちょっと! 春哉くんが行くなら私も行くわ」

「助けてあげたんだから今日は私に先輩を譲ってくれてもいいでしょう! 空気を読みなさい!」

「あなたにだけは言われたくないわ。村人Aの分際で」

「ガーン! ヒロインですらなくなった!?」

 どうやら相変わらずこの二人は犬猿の中のようだ。

 ようやく落ち着くと二人は朝子の案内で穴場スポットへと歩いていく。

 途中で桜子が春哉に体を寄せてきた。また何かするつもりなのかと一応の警戒をするが、そうではなかった。

「あの時どうして何もできなかったのか、私、考えてみたの」

「何かわかりましたか?」

 彼女は一度だけ微笑んで言った。


「私の全部はあなたのもの。例えどんなに小さなものでも、私が与える全てのあいはあなただけのものだから……かな」


 夜空に弾ける炎が彼女の顔を照らす。その笑顔は何よりも愛おしく、何よりも歪んでいた。


桜子さんと海へ行こう 完

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