第3話 シェル・マイオスが長々と感想を語る
「すごく複雑な味わいですね。猪の肉の味と、香草の風味が、完璧に融け合っています。どこかに森の苔のような香りも。これは葡萄酒の風味でしょうか……この地方の土と、森と、風と水の味がします」
神妙な顔でスープを
テーブルには、いつものように、
「部族の継承者に初めて食べさせる食物として、
銀の匙をスープに戻して、シェルはどことなく、うっとりとした風情で言った。
葡萄酒の香気にでも酔ったのだろうか。三日も煮込んで、酒精はすっかり飛び去ったはずだが。
「スープひとくちで、よくもそこまで喋れるよな。ほとほと感心するよ」
レイラスが、ほとほと感心していた。
通常、呆れる時に用いるその語が、ぴったり来る表情だった。
「それは、美味いってことか」
悩んだ顔で、イルス・フォルデスが尋ねた。
「いや、そういうことではないです。だってこれ、味が薄いですよ。というより、素材の味しかしません」
「塩も何も入ってないからな」
自分でもスープをひと匙、口に運びながら、イルスは答えた。
「味、ついてないんですか」
「ついてない」
驚いたふうに言うシェルに、イルスはまた、きっぱりと答えた。
「レシピ通りだ。君が図書室で見つけた本に書いてあった通りに作ったんだぞ」
私はシェル・マイオスに、その事実を突きつけた。
そもそもの事の起こりは、シェル・マイオスだった。
いつものように、図書室にこもっていた彼が、王室書架から持ち出し禁止の書物を無断で持ち出し、私に父の洗礼式についての記述を見せたのだ。
父、ヨアヒム・ティルマンにまつわる記録は、父が部族を裏切り、神殿種の
それでも、確かに実在していた者の記録は、どこかには残っているものだ。何かの形で。
シェル・マイオスは、お節介にも、その記録の断片を探し求めている。
私のために。
彼はそう言うが、私は自分がそれを喜んでいるのかどうか、全く見当もつかない。
確かに、記録は残っている。焚書を免れた、焼け残りの断片が、膨大な書物や、古びた学院の人知れぬ物陰に、埃に埋もれて残されている。
シェルが見つけてきたのは、料理の本だった。王宮の料理について書かれた本を、誰かが写本して残したもののようで、装丁は荒かったが、中には確かに父の名があった。
継承者ヨアヒム・ティルマン殿下の洗礼式において、聖餐として供されし猪の
これは、山エルフ族の継承者が、この世で初めて口にする、母乳以外の食物で、猪の肉を水と葡萄酒で煮ただけの料理だが、部族領の森から調達される香味野菜や茸類が数多く用いられる。その香味野菜を集めるのが一苦労だった。
「赤ちゃんが食べるものだからでしょうか。味がないのは」
「貧乏で塩が買えなかったんじゃないの」
忌々しそうに水だけ飲んでいるレイラスが、さらに忌々しげに言った。
「そんなはずはないです。山エルフ領には良質な岩塩の鉱山があります。うちの部族との交易においても、岩塩は重要な品目です。塩を高値で買っているのは、むしろ、うちや、殿下の黒エルフ族のほうでしょう」
「真面目に答えないでくれよ。冗談だろ」
その塩を舐めながら、さしものレイラスも、ぐったりとしていた。
たぶん、腹が減っているのだ。
私がスープを煮るのに集中していた三日間、レイラスはろくなものを食べていなかったらしい。
学寮に住む学生たちは、学生食堂か、城下の料理店で食事をするが、同盟の人質である我々には、城下へ行く自由は与えられていない。従って、レイラスも学生食堂で、彼の言うところの、
レイラスは、食卓に置かれた華やかな絵付けのある皿から、きらめく粒の混じった岩塩を指先にとって舐めていた。
今夜のメニューは、この猪の煮込みスープ一本だ。塩と水の他に、肉を嫌うレイラスの口に入るものはない。
「台所に、卵ならあるぞ。卵は食えるのか、スィグル」
イルスが心配げに尋ねてやっている。
もともと紙のような白い顔をしているレイラスだが、今夜のランプの灯に照らされる彼の美貌は、あまりにも青白く、透けるような風情があった。
「卵か……猊下の好きなスフレ・オムレツ……?」
「そんな手間のかかるもん作れるかよ。茹でるか、目玉焼きかだよ。塩かけて食えよ」
イルス・フォルデスの優しさも、三日三晩寝ていないとなれば、こんなものだった。彼は正真正銘、寝ていない。私は不覚にも、台所の荷台で仮眠したわけだが、その間もフォルデスは鍋を混ぜていた。
そんな不眠不休のフォルデスが、この上、卵を焼いてくれるというのだ。レイラスは感謝すべきだった。
「今ちょっと考えてるんだ。卵を食べられるかどうか……」
真剣に考えているふうに、レイラスはじっと、食卓の塩を見つめていた。
「そんなに悩まずに、普通にこのスープを食べたらいいですよ。塩を入れたら多分、美味しくなりますよ」
岩塩を自分のスープ皿に振りかけながら、シェル・マイオスが言った。
「継承者しか食わないスープを、こんなに大量に作って、残りはどうしたんだろうな?」
塩の皿をシェル・マイオスから受け取りながら、イルスはスプーンを
私はこめかみを押さえ、まだ眠気でぼんやりとしている頭を抱えた。
「んん……どうしたんでしょうね。それについての記述は無かったですが」
塩を足したスープを一口、味わって、シェル・マイオスはにっこりとした。
「お祝いの料理ですし、食べたんじゃないですか? 皆で。特産の、岩塩でも振って。ちょうど、こんなふうに……」
イルスがテーブルに戻していた塩の皿を、シェルは私に回してきた。
「ライラル殿下も、どうですか。塩。美味しいですよ。さすがズオルデン産の岩塩です。結晶が虹のように輝いて見えます。まさに食べる宝石ですね」
シェル・マイオスは山エルフ領の山川草木について、私以上に詳しい。その、かちんと来る豆知識の幅広さに遭遇する
赤子の頃から、この地の産物を血とし、肉として、歩んできたような、正統な継承者から見れば、私は昨日今日に突然現れた、よそ者にすぎない。
「この塩を振ることで、このスープは本当に、山エルフの部族領を象徴する食べ物になるんじゃないかと、僕は思います」
「森を走り回る頭の悪い
力なく食卓に伏したまま悪態をつくものの、空腹の極限に達したレイラスの毒舌には、いつも程の切れがなかった。
「ライラル殿下。殿下のお父上も、この料理で誕生を祝われ、部族の継承者として、皆に受け入れられたのだと思います。まっさらな赤ちゃんが、少しずつ土地の食べ物に馴染んでいくように、殿下もちょっとずつ、馴染んでいけばいいんじゃないでしょうか。いずれ皆が、受け入れてくれる日も来ますよ」
レイラスの吐く毒の息を吸っても、マイオスは死なないようだった。
天上から射す陽の光のような笑顔で、マイオスは私を見つめて言った。
彼の明るい緑色の瞳が、春の木漏れ日のように、きらきらと輝いて見えた。
「マイオス……」
スープに塩を振って、スプーンで混ぜながら、私は言った。
「余計なお世話だ」
私は塩を振りすぎたのか、スープは少々、塩辛かった。
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