第5話 シュレー・ライラルとサモワール

 荒い製本で綴じられた料理の本が、書き物机の上にある。

 窓から降り注ぐ陽が、古びた羊皮紙のページを明るく照らしていた。

 私は、そこにある洗礼式のスープのレシピを、新しい紙に書き写していた。本は王室書架に戻さねばならないので、レシピを手元に置いておくためにだ。

 学院が私のために用意する羽ペンは、いつも真っ白い羽根で出来ている。他ではあまり見かけないそれは、私のために特別に用意された物だろうと思われた。

 白い羽根は、神殿種を表す意匠モチーフだ。

 枝角の牡鹿が、山エルフ族の継承者を表すのと同じで、この白い羽根は、私がよそ者であることを表している。

 それは事実だ。

 私は、居場所を求めて、この山の学院にやって来た。

 ここは、私の父が生まれ育ち、母が私を身ごもった場所だ。そこが私の故郷であっても、いいのではないかと、思おうとした。

 だが特別に、この地に思い入れがあるわけでもない。むしろ何一つ知らないと言ってもいい。

 どこでも良かったのだ。本音を言えば。自分を受け入れてくれる場所がありさえすれば、それがどこであっても。地の果ての荒野でも、別に構わなかった。

 書く筆をとめて、私は机の上で輝いている、卵の塩入れを見た。

 黄金の枝角を持つ牡鹿が、そこに描かれていた。

 私は、この土地の者にとって、仲間ではなく、突然、牡鹿を奪いに来た、盗人ぬすっとにすぎないのだ。

「飲み物をお持ちしました」

 部屋の戸口に、山エルフ族の執事が入ってきた。

 学院が用意した者で、私の身の回りの世話をしている。

 アザールという名で、まだ若い。繊細そうな銀髪をした、信仰深い若者だ。

「アザール」

 書き物机の椅子に腰掛けたまま、私は戸口に居る執事を振り返って見た。

「聞きたいことがあるんだ」

 私がそう言うと、執事は不思議そうな顔をした。

 日頃、滅多に言葉もかけない私が、急に話しかけたせいだろう。

 盆に用意した、水の銀杯を運んで、アザールはこちらにやってきた。彼はいつも水しか持ってこない。私が水しか飲まないのを憶えているからだ。

 なぜかといえば、水以外のものを飲む習慣が、神聖神殿には無いせいだ。

 神殿種は水しか飲まない。食べ物も、パンと固形食料レーションだけ。あとは祭祀のときに拝領する聖餅ホスチアくらいか。

 それ以外のものを口にすると、死ぬのだと、神殿の者達は恐れている。

 神殿種は不死だ。死なない者が、死を恐れるという矛盾については、誰も言及しない。聖別された食物以外のものを体内に入れると、不死性が損なわれるということなのか。

 だが実際には、そんなことはない。私はそれを身をもって証明してきた。

 要するに、彼らは、神聖神殿の外の世界を、恐れているに過ぎないのだ。

「洗礼式で赤ん坊に食べさせるスープのレシピを見つけたので、作ったんだ。これは王族だけが食べるものか」

 私が尋ねると、アザールは水の盆を持ったまま、少し、あんぐりとした。

 私がそんなことを尋ねるとは、思いもよらなかったのだろう。

「あ……いいえ。肉のスープですね。どの家でも、洗礼式を迎えた子供には、作って食べさせています」

 机の上で、つい今しがた書き写したレシピを、ひらりと持ち上げて、私はそれをアザールに見せた。

「こういう料理か」

 執事の目が忙しく文字を読む間、私はその紙切れを宙に浮かせていた。

「いえ……これは、とても、手の込んだものですね。でも、基本として、肉を水と葡萄酒で煮たものです。子供が良い一生を送れるように、縁起の良い香草ハーブを入れます。あ……縁起が良いというのは、あくまで、部族でそう言い伝えられているもので、その……迷信的ではありますが、決して神殿の教えに背くものでは……」

 アザールはなんとか言いつくろおうと、汗をかいていた。

 それが面白くて、私は思わず苦笑の表情になっていた。

「気にすることはないよ。私は異端審問官じゃない」

「お許し下さい」

「許すよ」

 レシピを机に戻して、私は許した。向き直ると、アザールは、何か拍子抜けしたような表情をしていた。

「ああ、そうか……汝許されり」

 神殿で、聴罪神官がそうするように、信徒の胸に手のひらをかざす仕草をして、私は言った。

「でも私はもう、神官じゃないんだ、アザール。還俗げんぞくして、ただの学生なんだよ」

猊下げいかは天使でいらっしゃいます。還俗げんぞくなどという、そのようなことが、ありえますでしょうか」

 そう問うアザールの顔は、天変地異でも目にしたかのようだった。

 確かに、天変地異なのかもしれない。大陸の民をあまねく救うと信仰されている天使ブラン・アムリネスが、聖職を放り出し、神殿から脱走するというのは。

「皆、猊下げいかの部族領へのご光臨を、喜んでおります。かつて、聖母様をさらった部族の罪を許すために、お越しくだされたのだと」

 銀杯を捧げ持って、アザールは熱い眼差しだった。

 今度は私がそれに、内心、あんぐりとした。

 それは本当の話か。そういうことになっているのか。

「お前はそれを、信じているのか? 皆も?」

「いえ……猊下げいかはお怒りで、部族を滅ぼすために来られたのだと、恐れている者もおります。でも私は、猊下げいかの寛大なお心を、信じています」

「寛大な?」

 思わず反芻して、私はびっくりした。

 自分が寛大だと思ったことは、未だかつて、一度もないが。

「アザール。私は山エルフ族を滅ぼすために来たのではない。この部族の一員になるために来たのだ。ここは私の父の故郷、私にとっても故郷だと思っている。そう思うことが、許されるのならば」

第四大陸ル・フォアの土地は、もとより全て神殿のものです。猊下がこの学院におわすのに、誰の許しが必要でしょうか」

 アザールは、飛び上がりそうに驚いていた。

 私はそんなに、まずいことを言っているだろうか。普通の話が噛み合わない。この執事とは、いつもそうで、私は彼との会話を極力避けてきた。

 でも、たぶん、おかしいのは、私と話が普通に噛み合う、あの四部族フォルト・フィアの人質どものほうで、アザールが普通なのだ。誰にとっても、私は天使で、腫れ物にさわるような建前で取り繕って、畏れ敬っておくのが無難な相手にちがいない。

 そう思うと、気が重かった。この執事の信仰深さは、いつも私の気を滅入らせるのだ。

「アザール……私はもう、神殿には戻らない。ここに一生涯いるつもりだ。この、山エルフの部族領に。この地で、君たちの一員として、生きていきたいんだ。それではいけないだろうか」

 アザールの顔を見上げて、私はほとんど独語する気持ちで話した。

 それでいいと言ってくれと、アザールに許しを請うのは間違っている。

 一体誰が、そんな馬鹿げたことを、許せるというのか。

「……水をくれ」

 別に、喉は乾いていなかったが、間が持たないなと思って、私はアザールがいつまでも捧げ持っている銀杯に、手を伸ばした。

 彼は水を持ってきたのだ。私がそれを飲めば、出て行くだろう。

 しかし、水を差し出したアザールは、物言いたげだった。

「お茶を、お持ちしましょうか」

 一瞬、深く迷った気配を見せてから、アザールはいつになく用心深い声で言った。

「お茶?」

「はい。学院の皆様は、おくつろぎの時には、お茶を召し上がります。お一人でも、ご友人を部屋に招かれる時でも、お茶をお出しするものです。猊下には、学院にお越しになってすぐの頃、水をお好みとのお言いつけでしたので、控えてまいりましたが……その……」

 話しているうちに、何を言わんとしていたのか、混乱してきたという顔を、アザールはしていた。

「お茶?」

 私はもう一度、聞き返してみた。

「お茶を、召し上がってみては、いかがかと……皆様、茶葉にも、独自の混合ブレンドをお持ちです。城下には、茶葉を専門に扱う老舗もございます。代々の殿下がたにお納めしてきた混合ブレンドが、今も伝えられているはずです」

 私と目を合わせるのに気後れがあるのか、アザールはやけに忙しく瞬きをしていた。

「茶葉の、混合ブレンド……」

 マイオスが時々、この部屋にやってくる時、ポットにそこらの草を千切って詰めたものを持ってきては、熱湯で煮だして飲ませようとする。

 なぜそんなものを飲まねばならないのか、私にはずっと、ぴんとこなかった。

 なにしろ草の汁だ。

さきの継承者の、ヨアヒム様は、茶葉にも通じたお方だったと、ザハルさんから聞いたことがあります。尋ねれば、きっと、猊下の……お父上がお好みだった混合ブレンドを、教えてくださると思います」

 ザハルとは、学院の執事たちを束ねる、最古参の老執事で、今はフォルデスとレイラスの部屋に仕えている。あの無茶苦茶な異邦人たちが、学寮の部屋をこれ以上、破壊しないよう、自ら厳しく見張るつもりだったのだろう。

「聞いてきてくれるか、それを。できれば、今すぐ」

 水の入った銀杯を挟んで、私はアザールを見上げた。

 アザールはいっとき、少し驚いたふうに私を見下ろし、沈黙していた。

「はい……只今、ご用意できるように、いたします」

 銀杯をどうするのかと、おどおどしてから、アザールは結局それを引っ込めた。

 無能なのかと危ぶんでいた執事は、その後、驚くほど迅速に行動した。

 いや、驚くほど迅速だったのは、アザールではなく、老執事ザハルのほうか。

 書物机で、待つことしばし。

 私が、ぼんやりとして、自分が何を考えているのかも分からぬうちに、扉が開き、湯気をあげる茶器がアザールによって運ばれてきた。

 銀のサモワールに湯がたぎり、何が混合されているのか良くわからない草が、その中で煮えたぎっている。蒸気とともに、様々な匂いが部屋中に振りまかれた。

 豊かに苔むした森の香り、日の当たる暖かな斜面の草原の香り。それらを甘く包み込む、優しい樹液糖の香り。晴れた日の朝早くに、山々から見下ろす、トルレッキオの輝くような自然を思い起こさせる、明るく暖かな香りだった。

「殿下にお茶に呼んでもらえるなんて感激です」

 部屋の長椅子の、私の隣の席で、呼んでもいないマイオスが共に、その馥郁ふくいくたる香りに鼻をうごめかせていた。

「やっぱり飲むんですよねえ、お茶を。僕の故郷でも、皆で飲みます。でもこの香りは、独特だなあ……なんだかこう、初めてなのに、優しくて、ほっとするような、いい香りですね!」

 草の汁の匂いを嗅ぎつけて、マイオスが滔々とうとうと熱く語っていた。

「君を呼んだ覚えはないぞ、シェル・マイオス」

「そんなこと言わないでくださいよ。せっかくお茶とお菓子があるのに」

 口を尖らせて、マイオスが怒っている。

「一緒に行きたそうに、階段をうろうろしてたから、拾ってきたんだ」

 私の向かいに腰掛けているイルス・フォルデスが解説した。

 その隣には、眠たそうなスィグル・レイラスが、いかにも迷惑そうにだらしなく腰掛けている。

 なぜ来た、皆。

「ただいま、お茶をご用意いたします」

 私と客に一礼して、執事アザールは慣れた手際でサモワールからポットにお茶を注ぎ、それを四人分の茶器にと注いだ。

 茶の色は、赤みがかった琥珀のような深い色合いだった。

「うちの執事のザハルが、お前が茶会をするから、行くようにと勧めるんで、このサモワールっていうのにくっついて、来てみたんだ」

 迷惑か、と言外に問うような口調で、フォルデスは私に尋ねた。

 別に迷惑じゃない、君は。

「茶会とは何だ」

 答える代わりに、私はフォルデスに尋ねた。

「何かも知らないで主催してるんだ」

 レイラスが抜かり無く指摘する。

 私はアザールが運んできたカップから、お茶の匂いを嗅いだ。

 いい香りだ。たぶん。

 正直、よく分からないが、いいような気がする。

 私は好きだ。これが父の好んだ香りかと思うと、ざわざわと胸が騒いだ。

「ミルクと砂糖を入れてお召し上がりください」

 砂糖壺を差し出して、アザールが私を助けてくれた。

 なんだか良くわからない飲み物だ。水のほうがいい、と思う自分を鼓舞して、私はカップから一口飲んだ。

「熱……っ」

 茶は驚くほど熱かった。

 うろたえる私を見て、あははとマイオスが何故かひどく嬉しげに笑った。

 頭から熱い茶をかけてやろうかと思った。

 マイオスには、そう思うだけで十分だった。私の心を読んでいる。その証拠に、私が何も言わなくても、マイオスはぞっとしたように笑うのをやめた。

「変な匂いだ」

 レイラスが、カップを両手で覆う独特の所作で、茶の湯気を嗅ぎながら、渋い顔をした。

「そうかな。俺は、まあまあ好きだよ」

 苦笑いして、フォルデスが褒めている。それを聞きながら、シェル・マイオスは今にも長椅子の上を跳ね回りそうに、楽しげに、目を輝かせている。

「僕も好きです。これがライラル殿下の父上が、少年時代にこの学院で、皆と飲んでいたお茶なんですね。この一杯に、ヨアヒム・ティルマン殿下との繋がりを感じます。嬉しいですね。お菓子を食べてもいいですか!」

 駄目とは言えない顔で、シェルは私に尋ねた。

 苦笑する私の代わりに、アザールが皆に茶菓の皿を勧めて回った。

 小麦粉とバターとミルクを混ぜて焼いたもので、香草ハーブ樹液糖シロップで味付けされている。

 その菓子も食べ慣れない味がしたが、舌に甘く、優しい味わいだった。

 父もこのお茶と、この菓子で、皆をもてなしたのだろうか。そんな父の部屋には、父を未来の族長として期待する学生達が、大勢集ったのだろうか。

 私の部屋には、まだ誰もいない。人質の異民族の他には。

 父が、母との愛と引き換えに、ここに捨てていった全てを、私が再び取り戻したいと願うのは、図々しい望みだろうか。

「そんなことないですよ。友達を作ればいいじゃないですか」

 お菓子のくずを膝にぼろぼろこぼしながら、マイオスが言った。

 私は何か言ったか、マイオス。黙って考えていたつもりだったが。

「ごめんなさいって、言えばいいんですよ。殿下が、山エルフの人たちに、何か済まないと思っているんだったら。もっとも僕は、殿下に何かびるべきところがあるとは、思いませんが」

 マイオスが熱弁を振るうたびに、焼き菓子の粉が口から噴き出してくる。私はそれを呆然と見守った。

 神殿では、食事中は喋らないものだ。食事中ではなくても、基本的に、ほとんど喋らないのが、神殿種のたしなみだ。

 だから私は、これまでの生活のほとんどの時間を、沈黙して生きてきた。

 それがこの四部族フォルト・フィアの連中はどうだ。四六時中、喋ってばかりいる。食事中でさえ喋る。それも、四人で食卓を囲むのに慣れた今では、会話を楽しむ食事というのも、なかなかいいものだなと思えてきていたが、マイオスはなぜ、食べながら喋るのだ。

「無作法だぞ、マイオス。食べるか、喋るか、どっちかにしろ」

 部屋が汚れるじゃないか。

 私がガミガミ言うと、マイオスは執事アザールの差し出した布で、慌てて口を拭った。

「詫びるとか、友達とか、なんの話だ」

 カップを片手に、黙って話を聞いていたフォルデスが、やっと口を挟んだ。

「ライラル殿下は、山エルフの友達が欲しいんですよ」

 フォルデスは私に尋ねていたと思うが、マイオスが答えた。

「欲しいの!? 友達!? はあ!?」

 大仰に驚くのはレイラスの仕事だった。

「無理だろ、猊下。こんな独特な性格のあんたが、僕ら以外の手に負えると思えないよ」

 猛獣でも飼っているように、レイラスは得意気に話している。

 私のどこが手に負えないのか。君に言われたくない。

「でも、いい考えだと僕も思うよ。猊下。政治に必要なのは、人脈だ。あんたには、それがない」

 したり顔で説きながら、レイラスはお茶を飲んでいた。変な匂いだと言っていたくせに。

「いいんじゃないか。多分、大丈夫だよ」

 珍しく、にやにやしながら、フォルデスもお茶を飲んでいる。

「お前は案外、友達を作るのが上手いしな」

 笑うフォルデスが、皮肉を言っているのか、本気で言っているのか、私には分からなかった。

「覚えてないのか? 俺達の四部族連合フォルト・フィア・ユニオンも、元はと言えばお前のせいだ。友達になってくれって、お前が言うから……」

「そうだった。友達になろうって猊下が命令するから、友達にされたんだった」

 つらい過去を振り返るような目で、レイラスは呟いていた。

「嫌なんですか、二人共」

 心外そうに、シェル・マイオスが叫んだ。

「嫌だよ」

「嫌じゃない、嫌じゃない」

 レイラスとフォルデスの返答は、混ざって聞こえた。

「試しにまた言ってみろよ。他の誰か、そこら辺に居る奴にでも……」

 フォルデスが励ます視線で私を諭すので、私は悩んだ。

 そこら辺に居る奴とは誰だ。

 それでふと、ティーポットを持って横に立っていたアザールが目につき、彼を見上げた。

「アザール。私と友達になってくれ」

「は!? はい!? わっ、私は執事でございますので……!」

 激しく狼狽えるアザールを見上げて、私は、やっぱり無理ではないかと思った。それを見守るフォルデスと、レイラスの顔が、心底呆れていると、無言のうちに語っていた。

「いや……そうじゃなくて。アザールでもいいけどさ。友達でもいいんだけど。そこは、執事じゃなくてさ、学院の学生にだろ。将来、猊下の勢力として役に立ちそうな連中にってことだよ、僕が言ってるのは」

 レイラスはティーテーブルをバンバン叩いて説教する口調だ。

「まあ、まずは、そういうことを抜きにしてもだな。誰か、ほら……まあ、学生の誰かだよな」

 フォルデスは私と目を合わせたくないようだった。

「簡単です。茶会を開いて、山エルフの学生を、手当たり次第に招待しましょう! 誰か一人ぐらい、来てくれるかもしれません!」

 すごくいいことを思いついたという顔で、マイオスが立ち上がって叫んだ。

 レイラスは心底呆れた顔で、マイオスを眺め、フォルデスはマイオスを見ないようにしていた。

「……いい考えだ」

 私は感心して、思わず呟いていた。

「そうですよね! やりましょう、何なら明日からでも!」

 ぴょんぴょん跳びあがりながら、マイオスが決定していた。なぜ跳ぶのかは分からない。

「僕、招待状を配るの、手伝います」

 私と真正面から見つめ合って、マイオスは笑顔で請け合った。

「皆でやりましょうね」

「なんで僕がそんなことするんだ、馬鹿じゃないの」

 レイラスが、断っているとしか思えないことを言った。

「新しい楽しみが増えましたね、イルス」

 喜びを分かちあおうとするシェル・マイオスに、フォルデスは苦笑して茶を飲むばかりだった。

「招待状の手配をいたしますか……?」

 おっかなびっくりの表情で、アザールが私に尋ねてきた。

 招待状。

 私はアザールの顔を見上げ、カップを宙に浮かせたまま、しばし考えた。

 いや、何も考えはしていなかったかもしれない。ただ、どうしていいやら分からず、ぼうっとしていただけだったかもしれない。

 やがて私は、息を吸い込み、唇を動かした。

 それで何と言ったか。

「よろしく頼む」

 その一言で、マイオスは跳び、フォルデスとレイラスはソファに倒れた。

 その後、アザールは迅速に事を運び、百枚の招待状が用意された。私はそれに署名をする作業に夜を費やし、特に頼まれもしないシェル・マイオスが、配達係を買って出た。

 かくして招待状は学寮にばら撒かれたわけだが。

 それに来客があったかどうかは、後日、また別の話だ。

 以来、午後になると、私の部屋で、サモワールはいつも煮えたぎっている。甘く懐かしい、ゆったりとした、故郷の香りとともに。いつ来るとも知れぬ、客人を待ちながら。


【完】

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カルテット番外編「塩味のないスープとサモワールの話」 椎堂かおる @zero

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