カルテット番外編「塩味のないスープとサモワールの話」

椎堂かおる

第1話 フォルデスとスープを煮る

 学院の図書室の奥深くに隠された王室書架には、実は何冊かの料理書が収められている。

 たかが料理と思うが、そこには代々の族長とその一族が、晩餐ばんさんの席で何を食べてきたかが、克明に記録されており、料理の材料と、その産地、調理法、食卓に供する際の注意点なども、事細かに書かれているのだ。

 即位式の晩餐会。戦勝記念の晩餐会。世継ぎの男子の洗礼式を祝う晩餐会。

 この山の部族の者達は、王宮の広間の、恐ろしく長い食卓に集い、おごそかに銀のフォークとナイフをって、その肉やスープを食べてきた。

 数々の晴れがましい記憶とともに、私の祖先の血となり、肉となった食物たちの記録だ。

 そう思うと、これは何か非常に貴重なものだという気がする。

 私が、自分が何者なのかを知る上で。

 そう。私が、自分の中にいる、シュレー・ライラル・フォーリュンベルグという、俗世の名で記録されるべき少年を知る上で。

 これは大事なことなのだ。

「そんな理由でお前は、裏の森のいのししを追っかけ回して肉にしたり、三日三晩つきっきりで鍋を煮込んだりしてるのか」

 心底げっそりしているかのような目つきで、鍋の傍に立つイルス・フォルデス・マルドゥークが言った。

 まるで嫌がっているかのようだが、恐らく、嫌がっているのだろう。

「料理は文化だ、フォルデス」

 鍋を混ぜながら、私は彼をさとした。

「文化か……それも大事なんだろうがな、俺は寝たい」

「寝ればいい。そこで」

 鍋を混ぜる手を休ませるわけにいかないので、私は不自然な姿勢で、台所の隅の、荷籠を置くためのベンチを指差した。仮眠するには、まあ、こんなもので足りるだろう。

「交代の時間になったら、起こすよ」

 私は優しい口調で言ったつもりだ。

 しかし、イルス・フォルデスは怒っていた。

「起こすよ、じゃねえよ。そのスープはな、もう煮えてる。もういいじゃないか」

「……肉を香味野菜とともに、よく混ぜながら三日煮ると、本に書いてある」

「混ぜ続けろって書いてあるのかよ。そんなもん、とろ火で放っときゃ、勝手に煮えるんだよ」

 滅多に怒らないフォルデスが、珍しく声を荒げている。

 三日三晩、ろくに寝ていないせいだろうか。

 だが、その苦労なくして、このスープを味わうことはできないのだから、仕方がない。

「焦げるだろ……」

熾火おきびにしときゃ焦げねえよ。それより、お前、さっきから目つきがおかしいぞ。半分寝てるだろ」

 半分寝てなどいない。大体、どうやって半分寝たりできるのだ。私は起きている。

「シュレー。よく考えろ。晩飯に食う料理は、晩飯までに出来上がるものじゃないと、間に合わないんだ。お前が煮てるこれは、三日前の晩飯だ。三日前から、ちゃんと食ってないし、寝てもいないんだ。このスープに、そうまでして作る意味がどこにあるんだ」

 フォルデス、君が公用語でそんなに長く話せたなんて、驚いたよ。

 私はそう言いたかったが、なぜか言葉が出なかった。

 頭が、ぼうっとして。

 ぼうっと、する。

 仕方がないので、私はしばし、苛立ったふうなイルスの青い目と、台所の片隅で睨み合っていた。大鍋の上げる、肉と葡萄酒の匂いのする蒸気を浴びながら。

「食べてみたいんだ。父の、洗礼式の祝いに出た料理だというので」

 本には、そう書いてあった。

 世継ぎの王子、ヨアヒム・ティルマン・フォーリュンベルグの洗礼式の晩餐会に供されたスープだと。

 私の父は、その席ではまだ、生後一ヶ月の赤ん坊だった。まだ乳母の乳を飲んでいる頃だったろうが、部族の習わしとして、洗礼式の後に一匙の肉のスープを与えられた。

 そんなことをして平気なものなのかと思う。赤ん坊に肉汁を。

 だがそれが、父がこの世に生を受けて、初めて食した料理だったのだ。

 それがどんな味だったのか、知りたかった。

 それをどう言えば、イルス・フォルデスに理解されるのか。

 頭が回らず、私は黙っていたが、イルスはかまどの火の赤に照らされた顔をしかめ、険しい目で私を見た。

「あのな……」

 言葉を選んでいるのか、イルスはうなだれて、眉間を揉んだ。

 そうだ、鍋を混ぜないとと思って、私はスープに向き直った。

「シュレー」

 苛立ったふうな声で、イルスが私を止めて、なぜか鍋を混ぜる木べらを奪った。

「もういいよ。俺がやっとくから、お前は寝ろ。混ぜりゃいいんだろ。三日三晩になるまで、あと何時間だよ? 今日の晩飯には食えるわけだろ……」

 イルスの混ぜ方は、ちょっと手荒なのではないかと、私は不満だった。

 だいたい何を怒っているのだ。

「晩飯まで寝ろよ、部屋に帰って」

「ここでいい」

 私は古びた木のベンチを振り返って見た。

 あくまで荷台に近いもので、人が寝るものでは勿論ないし、王族の身分の者が横たわるような代物ではない。しかし、それでも、フォルデスにはそこで寝るよう勧めてしまったし、自分は嫌だという訳にもいくまい。

 それに、ベンチには、昨夜だったか、スープ制作の偵察と激励に来たシェル・マイオスが差し入れていった、毛布と枕があった。

 その羽根枕のふわふわとした様子を見ると、まるで魔性のものでもあるかのように、吸い寄せられる心地がした。試しに、そこに、頭を乗せてみたい。ほんの少しだけ。少しだけ、目を閉じて。目を、閉じて。

「寝てるぞ、シュレー!?」

 びっくりしたイルスの声で、私はびっくりして、はっと目を開いた。

 なんだろう、今、一瞬、意識が途切れた。

「もういいよ、そこでも、どこでもいいから。とにかくちょっと横になれ。ほんとに世話が焼けるやつだな、お前は」

 フォルデスが何か心外なことを言っている。が、もう反論する力がない。

 ものも言わずに、私は台所のベンチに腰掛けた。そして枕に頭を乗せたのか。

 実はよく憶えていない。

 眠りは、それほど素早く私をどこかに連れ去ったのだった。

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