第2話 レイラスの内緒話を聞く

「また今夜も飯抜きかい」

 苦笑交じりの美声が聞こえた。

 夢だろうかと思い、朦朧もうろうとしたが、それはたぶん、スィグル・レイラスの声だっただろう。

 彼はまだ子供の声をしている。自棄やけを起こして、きいきい怒鳴るとうるさいが、落ち着いて話してさえいれば、耳心地の良い声だ。

 思えば、そういう穏やかな声を聞く機会は、私にはあまりないのだが。

 今もレイラスは、私にではなく、ほかの誰かと話しているのだ。

 かまどの火が、ずいぶん弱められて、小さな火影を台所の薄暗い壁に踊らせているのが見えた。

「よくやるよ。どういう事なんだい、イルス。真面目に付き合ってやるなんて、君も相当な間抜けだね」

 くつくつと喉を鳴らす笑い方をして、レイラスが嫌味を言っている。

「親父の洗礼式で出た料理だから、食ってみたいんだそうだ」

「はぁ……洗礼式……」

 腕組みして、竈の脇の壁にもたれ、レイラスは宙を見上げる仕草で、一呼吸、考えるふりをしてから、ぷっと吹き出して笑った。

「それで、ほだされて、鍋を混ぜてるの」

 よほど可笑しいのか、レイラスは堪えた低い笑い声で、いつまでもしつこく笑い続けた。

 彼らは何故か、囁くような小声で話し合っている。

 何故なのかと思って、それが、私を起こさないためだと気付いた。

「優しいんだなあ、フォルデスは……」

 さも感心したような口調を作って、レイラスが言った。

「うるさいな。暇ならお前が混ぜろよ」

「暇じゃないよ、僕は。それに、料理なんてえのは、王族のすることじゃない。長衣ジュラバが汚れるじゃないか。猊下げいかの犬がやるべきだ」

 たらたらと文句を垂れるレイラスの話を、フォルデスは笑いながら聞いていた。

「誰が犬だ……」

 言い返しながら、フォルデスは欠伸をかみ殺した。

 それをレイラスは面白そうに、腕組みしたまま見上げている。

「よく三日も寝ないでいられるね。倒れないの?」

「倒れるさ。晩飯を食ったら」

「晩飯って、これ? 何でできてるの、これ」

 怖怖のふうに鍋を覗き込み、レイラスはくんくん匂いを嗅いだ。

いのししだ」

 フォルデスが教えてやると、レイラスは火箸でも押し当てられたように、びくりと飛びのいた。

「うえっ、なんだよ初めに言ってよ。肉じゃないか」

「悪いが他に食うものはない」

 フォルデスの告知に、レイラスは心底うんざりという顔をした。

「嫌だよ。僕に今夜も学生食堂で飯を食えっていうのかい。山エルフの野蛮人ばっかりなんだぞ。しかもシェルが食う間ずっと、一人でしゃべり続けてるんだ。誰も相槌を打たないのにだよ? 作物に芋虫が……とかさ、どこそこの厩舎に仔馬が生まれましたね、とかさ……くだらないんだよ」

 ぶつぶつと文句を言いつのるレイラスの話を、フォルデスは鍋を混ぜながら黙って聞き、時折頷いたりもした。

「馬は好きなんだろ、お前も」

「見に行ったよ……仔馬は。まあまあの馬だよ。僕の故郷の馬に比べたら、太っちょの駄馬だけどね」

「駄馬か。しょうがねえな」

 フォルデスが笑う、微かな息の音が聞こえた。

 淡い皮肉の笑みのまま、レイラスは台所の壁に背を預け、膝を抱えて、しゃがみこんだ。服が汚れるのを気にしている者のすることとは思えない。

「ねえ、イルス。そのスープを食べたら、猊下げいかは正気に戻るのかな」

「さあな。……だといいけど」

 イルスがこちらを振り返って見た。

 私はなぜか、寝たふりをした。

 私は正気じゃないのだろうか。別におかしくはないはずだ。料理の本を見つけて、そのメニューを再現したくなっただけだ。

 学術的興味だ。それに晩餐ばんさんの一品にもなる。

 どこも、おかしくはないだろう。

猊下げいかの頭ン中ってさ、迷路みたいになってんだろうね。自分でも、自分が何を考えてるのか、わかんないんじゃない?」

 しみじみと、レイラスが私の頭の中を批判していた。

 でもその言葉には、いつものような皮肉なとげはなく、レイラスはどことなく、しょんぼりとして見えた。

「そういうのって、全然、天使らしくないよね。全然だよ」

「天使らしいあいつのほうが、お前は好きなのか」

 鍋を混ぜているフォルデスに尋ねられて、レイラスは物凄い表情をした。なんといえばいいか、かめの蓋を開けて中を覗いたら、何かひどくおぞましいものを見てしまい、慌てて蓋を閉じたような顔だ。

「好きとか、そういうんじゃないよね、天使は。正直言って、天使らしくない猊下のほうが、好きかもしれないけど……でも、不安なんだよ。猊下が天使じゃなかったら、ブラン・アムリネスは、どこへ行ったんだろう? 誰が人の罪を許したり、守ってくれたりするのさ」

 フォルデスが、人差し指を自分の唇にあてて、黙れという仕草をした。かすかにこちらを見た彼の目が、私の寝息を確かめている気がした。

「どっちでもいいよ、スィグル。あいつが呼ばれたいほうの名前で、呼んでやれよ」

「みんな、優しいんだね。猊下に」

 恨みがましい声で、レイラスが言った。

ひがむなよ、スィグル」

 苦笑しながら、フォルデスがいさめた。

「人の罪を許すのに、天使なんかいらないさ。そんなの、お前だって、やれる事だろ。いちいち天使あいつを頼らずに、自分でやれ」

 鍋を混ぜながら、フォルデスは、いとも簡単にそう言った。

「画期的だね、イルス。君の発想は、いつも。本当は天才なんじゃないの」

 レイラスは大仰に驚き、そう言った。それは別に皮肉ではないように、私には聞こえたが、レイラスの常日頃の口の悪さが災いしたらしい。

フォルデスがレイラスに蹴りを入れる気配と、悲鳴が聞こえ、二人分の押し殺した笑い声が、台所に低く響いた。

 フォルデスが言うように、人が自ら人を許すようになったら、天使ブラン・アムリネスは、一体何をすれば良いのだろう。贖罪しょくざいの天使はもう、用無しだ。

 そう思いながら、私は再び眠りに落ちたが、不思議とそれは、悪い気分ではなかった。

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