500キロカロリーの攻防

 カロリー。有花も幾度となく悩まされた言葉だ。いや、現在進行形で悩まされ続けている言葉だ。


 カロリー。その言葉はどこにでも紛れ込み、気付かないうちに柔らかい腹に食らいつこうと隙を窺っている。しかも一度でも身体の中に忍び込まれたら最後、体外へ排除するのに相当の苦難を強いられる事になる。


 カロリー。ちょっとファストフード屋さんでお茶でもしようか。フライドポテトもご一緒にいかがですか? でもカロリーが……。あそこのカフェのベリーソースのパンケーキ、ホイップクリームをマックスまでマシマシにできるんだって。じゃあ限界突破で盛っちゃおうか。でもカロリーが……。デリバリーピザをお持ち帰りにすると二枚目タダになるんだって。と言う事は三枚目のピザはもはやマイナスね。それはお店の人に聞いてみないと。それにカロリーが……。


 カロリー。いつの世も女子を惑わせ、破滅の道へと誘う魅惑のワードだ。その破滅の言葉が、ここホームセンターでも有花を苛ませる事になろうとは。しかも1,000キロカロリーと言う途方もない数字を叩き出している。


 2,000キロカロリー。それは成人女性が一日に摂取すべきとされる熱量だ。売り場区画変動後の配置予定地図情報の値段はその半値、1,000キロカロリー。高いか。安いか。情報の等価として比較となる基準カロリー値がわからないので、有花には価値の判断ができなかった。と言うよりも、もはや話についていけなくなっていた。


「1,000キロカロリーかよ。ずいぶん足元見るじゃねえか」


「だから、ヒサヒコなら500キロカロリーでって言ってるでしょう。アタシの優しさに感謝しなさい。500払えないのならば、さっさとアタシのものになるのさ」


「500でも高いだろ。最新マップって言ったって、予定図だろ? そもそもどうやって知ったんだよ」


「情報源をリークするようじゃ情報屋失格でしょう。そしてアタシはホームセンターで一番の情報屋よ。つまり、ヒサヒコは500支払うか、アタシのものになるか、デモに巻き込まれて路頭に迷うか、選択するしかないのでしょう」


「500払えない訳じゃあないけど、おまえのものになるってのもなんか嫌だな」


「あの、ちょっといい?」


 日差彦と美雨の顔の間に有花が割って入る。


「ホームセンターの通貨っていつからエンじゃなくてキロカロリーになったの?」


「貨幣ってのは価値の尺度を表すものでしょう。このホームセンターにおいて、最も価値のあるものは現金じゃないのさ。ずばり、食糧でしょう。当然、流通貨幣としての役割を果たしてくれるのさ」


 美雨がぐりんっとVRゴーグルを有花へ向けた。思わず目をそらしてしまう有花。直で見られていないくせにそのメカメカしいゴーグルの威圧感が半端ない。


「それに、500キロカロリー払えないなら、その、あたしのものになりなさいってのは、ちょっといけない事だと思うの」


 美雨が座るワークデスクに設置された小型カメラがかすかな音を立てて有花にフォーカスする。VRゴーグルで凄まれてるのか、カメラで睨まれてるのか、どちらにしろ、狭いエレベータ箱内と言う事も手伝ってか嫌に圧迫感が強い。有花はベンチにますます小さくうずくまってしまう。背中のバックパックからきゅうっと空気が漏れる。


「日差彦くんの気持ちも考えてあげないと、その、いけないと思う。あなたのものだなんて、それはダメ」


 バックパックを背中から胸に抱いて、有花はワークデスクのカメラをじっと見つめる。


「……ふうん、そう言う事? いいの。安心しなさい」


 美雨のVRゴーグルが再び日差彦を射すくめる。


「ヒサヒコだけじゃなくて、カノジョのこの子もまとめてアタシのものになるのさ。アタシの手足となって働いてもらうわよ」


「えっ、そっ、そうなの? それならいいよ」


 あっさりと承諾して美雨と契約成立の握手を交わしそうな勢いの有花。当の本人である日差彦は呆れたように間延びした声で言う。


「俺の事を勝手に売買するなよー。それに地図情報なんてそんなに慌てて手に入れなきゃなんないものじゃないしー。美雨の事だ。きっと他に狙いがあるはずだ」


「でもでも、ジョイトコのバカみたいな広さからしたらやっぱり地図は必要だし、美雨さんの手下になるのも、その、一緒に、働くのも悪い条件じゃなさそうだし」


「今でも時々手伝ってやってるんだ。わざわざ専属に成り下がる必要もないしな」


 日差彦は腕組みして美雨の仕事場であるエレベータの天井を見上げた。そんなわかりやすい拒絶の姿勢をVRゴーグル越しにじっと見つめる美雨。美雨の口元はまったく動かず真一文字に結ばれたままで、代わりにワークデスクのカメラが細かくズームを繰り返してフレームに有花を捉えている。


 VRゴーグルで美雨は何を見ているんだろう。有花はレンズの先、自分の胸へ視線を落とした。かなりズームして胸元を見られているようだが、ひょっとして美雨のターゲットは日差彦ではなくそのおまけの有花の方なのか。ぎゅうっと胸に抱いたバックパックを強く締め付ける。と、何かが胸に当たった。固くて、棒状の物。そうだ、これがあったな。


「ねえ、美雨さん。やっぱり私達には最新の地図が必要なの。私に500キロカロリーで売ってくれない?」


「あんた持ってんの? 500よ」


 ポニーテールを揺らしてVRゴーグルを上に向ける美雨。美雨の手のひらがぱあっと開かれて五本の指が有花の顔の前でひらひらと踊った。連動してデスクのカメラが有花の顔をフォーカス。


「うん。こんないい物買ったの忘れてた」


 有花は焦らすようにゆっくりと、バックパックの中から一本のチョコレートバーを取り出した。うやうやしく有花の細い指に摘まれたそれは、パッケージからしてパンパンに張っていて、たくましく思えるほどに太く長く、大きな存在感を示す原色のカラーリングで自らのカロリー的価値を主張していた。


「チョコレートバー、『ガソリンスティック・アメリカンサイズ』よ。一本、まるまるいける?」


 びたっと有花の手元に狙いを定めて動きを止めるデスクのカメラ。美雨の頭の天辺のポニーテールも揺れるのを止めた。


「えーと、何々? 一本108グラムで、わーお、587キロカロリーだって。さっすがアメリカンサイズね。お釣りくるわ」


 有花はチョコレートバーのパッケージ裏、栄養成分が表示されたシールをわざとらしい抑揚をつけて美雨に聞かせてやった。


「ちょっと、それ見せなさい」


 美雨がVRゴーグルで一点を見つめたまま有花のチョコレートバーへ手を伸ばした。しかし美雨の細い指先よりも早く、日差彦の手がそれをひったくった。虚空を掴む美雨の指を空っぽになった有花の手のひらがぱくっと捕まえる。


「これ、見た事ないな。外から持ち込んだのか?」


「ううん、ちゃんとジョイトコで買った商品だよ」


 ロボット専用通路に臨時的に出店されてたジョイトコ社長の出張ミニ店舗だけど、ちゃんとジョイトコ店内で購入した商品であるには違いない。


「並行輸入品? どっちにしろそこらで売ってるものじゃないぞ。これ、でかいし、重いし」


 細かい英字がびっしりと印字されたパッケージの上に日本語表記された栄養成分表示シールが貼られていて、手に持ったこのずっしり感はコンビニなどでよく売られている栄養補助食品的チョコレートバーなんかとは比較にならない。軽く二倍、いや、三倍はありそうだ。


「嘘よ。どこに売ってたのよ。こんな商品ジョイトコには置いてないでしょう」


 美雨が強い口調で言い切った。それでも有花はそれを軽くいなすように答える。


「情報源をリークするようじゃ情報屋失格なんでしょ? 私だってこの情報はそう簡単には教えてあげられないな」


 美雨の形のいい小さな顎がぎりっと歯軋りで唸った。


「いいわ。それで手を打ってあげる。ちょうだい」


 美雨が日差彦の持つチョコレートバーに手を伸ばすが、パッケージを掴み取るその直前、有花の小さな手が横から伸びてまたもやかっさらわれた。


「先に地図情報を渡して。商品を受け取ってから代金を支払う。商取引きの当然のルールでしょ?」


「ああん、もう! 何なの、あんたのカノジョは。ヒサヒコ、スマホを貸して」


 VRゴーグルをふるふると揺らして悪態を吐く美雨に、日差彦は肩をすくめて自分のスマートフォンを手渡した。


 それを受け取った美雨はデスクのカメラにスマホを向けて、VRゴーグルを人差し指でなぞるような動きを見せてから日差彦のスマホに勝手にアプリをダウンロードさせた。


 何やら聞き取れない謎の言語でぶつぶつ繰り返している美雨をよそ目に、日差彦は狭いエレベータ箱内で美雨のカメラのフレームから外れるようにさらに有花に身体を寄せてそっと耳打ちする。


「それ、ほんとにジョイトコ内で買ったの?」


「うん。ほら、社長さんから手回し充電器買った時に。ついでに買っといてよかった」


 アプリのインストールが終わったか、美雨ががばっとVRゴーグル顔を上げる。ぱっと身体を離す日差彦と有花。二人の怪しげな動きをVRゴーグル越しに一睨みして、美雨はぷっくりとした唇を不機嫌そうに尖らせてスマホを日差彦に突き出す。


「ほら。アタシが作ったマップアプリをインストールしといた。アタシが許可したごく限られた人しかダウンロードできないレア物なのさ。これで来週の大規模売り場区画変動も問題なしよ」


 そう言うと美雨は差し出した手をスライドさせて有花の顔の前でぴたっと止めた。手のひらを上に向けて開き、くいくいっと人差し指で約束のブツを要求。


「商談成立ね」


 にっこりと、チョコレートバーを美雨の拡げられた手のひらに置く有花。


「これであんた達にもう用はない。さあ、出てって」


 美雨は受け取るべきものを受け取ると急に不愛想になって二人を追い出しにかかった。チョコレートバーを魔法の杖のようにくるりと振るって、美雨のオフィス兼寝床である家庭用エレベータのドアを開けた。


「ねえ、美雨さん、待ってよ」


 素直にエレベータから降りようとした日差彦の腕を引っ張って有花が言った。


「私達ジョイトコチャレンジ中なの。なんかさ、こう、新居って言うか、いい感じに隠れられる場所とか、そんな情報持ってない?」


「あったとしてもあんたに情報を売る義理はないでしょう」


 ぶっきらぼうに答える美雨。しかし、有花が胸に抱いたバックパックからもったいぶって取り出したブツが、口をへの字に曲げた美雨の態度をがらりと変える。


「私が持っていた『ガソリンスティック』が最後の一本だなんて誰が言ったの?」


 するすると有花のバックパックからもう一本のチョコレートバーが登場した。VRゴーグルに隠されている美雨の表情は読み取れないが、ふっくらとした唇があんぐりと開かれた事が、文字通り喉から手が出るほどに美雨がそれを欲していると物語っていた。


「美味しい情報、売ってよ」


「……ユカ、って言ったっけ。なかなか商売上手ね」


「褒めてるのよね? ありがと」


 思わずにやける有花の一瞬の隙をついて、今度は美雨の手の方が素早かった。有花の手からチョコレートバーを奪うようにすくい取る。


「とっておきの情報をあげる。先の緊急売り場区画変動でかなりの数のホームセンター生活者達が寝床を追われたのさ。そう、ヒサヒコみたいにね」


 アメリカンサイズのチョコレートバーでびしっと日差彦を指す。


「ホームセンターはお買い物客には寛容だけれども、それ以外は決して認めたりはしないのさ。何故なら、このホームセンターは政府による限定的社会実験場なのだから」


「またおまえの陰謀論が始まったな」


 エレベータから降りかけていた日差彦がやれやれと言った風に首を振った。


「たとえおまえの言う通り政府の陰謀だとして、いったいどんな社会実験だよ。ここは男の浪漫が溢れる単なるホームセンターだ」


 美雨は口元だけでにやりと微笑み、くるりとチョコレートバーを有花に向けて持論を展開させる。


「密閉された閉鎖環境でのA.I.による人間の完全管理よ。いずれニッポンのすべての大都市はジオフロント化するでしょう。そこは限られた階級の人間だけが暮らす閉鎖環境なのさ。そこを管理統括するA.I.をここで育てているのよ。ホームセンターにやって来る買い物客はみなモルモット。ロボットに飼い慣らされるために来店するのさ」


「それリアルにあるかも。ジョイトコって確か、ロボット特区の規制緩和策でロボットにある程度の社会的権限が与えられている特別区に指定されてたはず」


「それよそれ。わざわざ被災地域で人口減少している地区にロボット特区を当てるなんて、復興支援以外にも何か裏がありそうじゃない?」


「それにトコちゃんはかわいいし、ジョイもかっこいいし。ロボットに管理されるのも悪くないかも」


 有花ものってきた。意外な角度から有花と美雨の話が合いそうになり、日差彦はこれ以上二人の会話が弾み出してはきりがない、と強引に脱線しつつある会話を元の路線に戻す。


「ロボットによる支配なんて後でいいからさ、さっさととっておきとやらを話せよ」


 可愛らしい笑顔の口元だったのが、再びぷっくりと突き出される美雨の唇。VRゴーグルが不機嫌そうにくるりと振り返る。


「もう、つまんないな。いいこと? 緊急売り場区画変動でゾンビ達があぶり出されたの。ロボット達はそれを圧倒的な戦力で制圧するでしょう。それこそ、ホームセンターの秩序を保つために、ホームセンターゾンビどももホームセンター生活者も見境なくね」


 なんかまた不穏なホームセンター用語が飛び出してきたが、有花は美雨と日差彦の会話の流れについて行けず、とりあえずスルーしておく。


「かもな。道理でベッド下の住人達が誰一人いなかった訳だ」


「あんた達は生き残れるかしら? きっとゾンビとロボットの両方から追われる事になるわよ。ロボット達の顧客管理プログラム更新時刻は十六時。本日十六時から長期滞在未購買客の排除行動が開始されるでしょう」


 日差彦は腕時計をちらっと見やって、美雨の移動式オフィスである家庭用エレベータを積んだフォークリフトから飛び降りた。


「それはいい情報だな。まだお昼ごはんを食べる時間があるって訳だ。行こう、有花さん」


 日差彦が有花に手を差し伸べる。有花は日差彦の手を取ってスカートを翻してエレベータから舞い降りた。


「じゃあね、美雨さん。またチョコバーを仕入れとくから、いい情報用意しててね」


「ふん。もう会う事はないかもね」


 エレベータのスライドドアが閉まる瞬間に美雨は小さく言い捨てた。そのまま美雨の家庭用エレベータを積んだフォークリフトはトコに引き摺られるようにして階段の森の中へ消えて行った。


「ねえ、日差彦くん」


 それを見送ってから有花が尋ねた。


「さっきは聞き流したけど、ホームセンターゾンビって何?」


「そりゃあ、ホームセンターのゾンビだよ」

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長編・ホームセンター物語 鳥辺野九 @toribeno9

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