ツキカケ
森 ふたつ
第1話
「すんませーん、ちょっと一服してきていいっすか?」
平日ということもあって、早めに片付けを進めるキッチンスタッフに向かって一言伝える。
店のドアノブをにぎると、ドアノブの金属部分が冷たくて思わず全身が緊張する。次にひと呼吸、
「出入りは素早く!!」
少し気合を入れて一気にドアを押す。そして、冷たい外気と入れ替わりに、外へ飛び出す。
この時期に、薄手のカットソーだけで外の喫煙スペースはきつい。でも、店が落ち着けば1、2回のタバコ休憩が許されているというのは、わりと恵まれた職場だと思う。
駅裏の小さな居酒屋「まる」で働きはじめて5年、いつの間にか古株になっていた。2階建ての一軒家をオーナーの趣味で改装した店内には、どこで仕入れたのか民族楽器や海外の民芸品やら、昭和の雑誌なんかが並んでいる。平日は大体常連客ばかり。一見さんには「薄暗くて入りづらい」と言われつつも、この街で10年以上も営業している。なんだかんだで細く長く愛されている店なのだ。
働く側としては店のスタッフはみんな同世代だし、常連客とのやりとりも気心しれた仲ってやつなのか、仕事っぽさを感じない。居心地が良い。そういえば、彼女のアキもこの店のバイトだった。
笑顔のアキが浮かんだのと同時に、もやもやと気持ちは沈む。
「でもなー、つまりそれってフリーターになってもう6年ってことだしなー…」
ため息と一緒にタバコを取り出し、くわえる。
店先にあるウェイティング兼喫煙スペース、いつもはお客さんとベンチに座ってタバコを吸いながら世間話なんかしたりするのだが、ここ数日で急に気温が下がったこともあり、この喫煙スペースで人と一緒になることは少ない。
ここにもオーナーの趣味は健在で、スプライトと書かれた色の剥げた緑色のベンチシートと、もはや鈍器といった感じのギラついたガラスの灰皿が置いて…あるはずが、見当たらない。
「おーい、灰皿置いてないぞ」
ドアを少し開けてカウンターに向かって叫ぶ。
「あー、スンマセン。忘れてましたー。はい、これ使ってください。ところで携帯めちゃくちゃ鳴ってましたけど、なんか大丈夫スか? もう特別警報みたいに鳴り続けてましタよ」
フロアスタッフの伊藤くんがニヤニヤしながらドアの隙間から灰皿を渡してくる。これは彼女とのケンカを期待している顔だろう。24歳の成人男性である伊藤くんをかわいいと思ったことはないが、どこで見つけてくるのかキモカワイイとも面白いとも言い難い謎のLINEスタンプを毎晩日替わりで送りつけてくる。憎めない奴だ、そういう意味では可愛いところはある。そんな伊藤くんも今月でいっぱいでバイトを辞めるらしい。来月からは缶詰だかカマボコだかを販売する会社に就職して営業マンになると言う。
「LINEグループが盛り上がってるみたい。まあ、たいしたことない。けど、お前のそのキモいニヤケ顔は大丈夫か。営業は第一印象が大事なんだろ」
「ちょーぉ、余裕っす。俺、できる子ですから」
キャキャキャという引き笑いとともに伊藤くんは店内へ戻っていった。こんな気持ち悪い笑い方、さらに人をおちょくっているようにしか聞こえないエセ敬語でちゃんと営業が務まるのだろうか。その会社の未来が危ない。
タバコとライターと、一緒に持ち出したスマートフォンをパンツの後ろポケットから取り出す。見ると、LINEの未読メッセージが89件もある。今週末に行くのフェス用のLINEグループのやつが86件、あとの3件はアキからだ。まったく、この数時間でよくこれだけ盛り上がったもんだ。
隣の市で行われるフェスにはここ2年くらい彼女と日帰りで行ってた。今年は大勢で楽しみたいってアキが言うから、アキの友達たちを誘った。サツキ、キャンプ好きのカヨ、ミチカとその彼氏も来るらしい。そこまで面識のない女性たちと一緒、さらにキャンプ泊することになって正直気が重い。今日のバイト前にこのLINEグループに強制入会させられた。女どもの結束力と行動力はすごい。もう、男は女についていくだけだ。
はあ、アキはちゃんとうちにある折りたたみイスがいるのか聞いてくれたのだろうか?
他にキャンプ用品なんて持ってないよと言ったら「みんなで行くんだから空気よんでよ」とアキの機嫌が悪くなった。「みんなの前でない見栄はんなよ」とは…言えなかった。
カョ:BBQ何焼くー?
⭐︎ミチカ⭐︎:この曲絶対聞きたいー! >YouTube
とか、わりとどうでもいい。
書き込んでいるのも女性陣ばかりのようだ。ガールズトークに巻き込まれた、まだ見ぬミチカの彼氏のことを思う。同志よ、ともに生き抜こう。
しかし、すごい量だ。10件ほど読んで、続きは諦めた。スマホの画面を見るともなしにスクロールしながら、ただ眺める。
吐き出したタバコの煙と一緒にタイムラインが流れていく。
⭐︎ミチカ⭐︎:じつは先週 プロポーズされました⭐︎ 来年、結婚することになったー
スマホの画面の中、ふと「結婚」の文字に手が止まり、思いがけずスクロールのスピードが上がる。無意識って怖い。
まあ、いいや。持っていくものやら、ことの詳細は明日アキに聞こう。
就職、結婚、いわゆる大人の証たち。俺はできるのかな。…伊藤くんのことが羨ましいなんて思わないけど、なんか、なんだろうな、この気持ち。「妬み」?「嫉み」? って、こういう感じなのかも。難しい言葉のことはわかんないけど。
最後に肺にたまったタバコの煙を長く、長く、ゆっくりと吐き出す。口から出た白いものはタバコの煙か、それともため息のおばけか。
空にいびつな丸さの月が見える。あれはこれから満ちる月なのだろうか。いや、欠ける月なのかもしれない。
「あいつ、満月になってくれたらいいなあ」
小さくつぶやき、スマホをパンツの後ろポケットにしまうと、タバコを灰皿に強めに押し付けた。まっさらな灰皿に、吸い殻と黒く丸いタバコの跡が残る。
「よし、片付けするぞ!」
自分に気合を入れ、ドアを開く。店内に入ると少し乾燥した設定気温23度の暖房の風が冷えたからだをあたためてくれた。
ツキカケ 森 ふたつ @mori_futa2
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