最終回 夜鴉
笹川村には、陽が傾きだした頃に到着した。
松牧の陣屋町から、一刻半ほどの距離である。
村が見える所で、甚兵衛は足を止めた。背の高い草が生い茂る、湿地帯の傍である。周囲には人影はなく、日中というのに妙に薄暗い。
同道は三人だった。寅七の他に、案内に子分が一人だけ随行している。
「どうしやす?」
寅七が訊いた。
「どうもこうもない。これは決闘。堂々と正面から挑むだけよ」
甚兵衛は、打裂き羽織を脱ぎ捨てると鉢巻を頭にきつく結び、刀の目釘を確かめた。
「行くか」
決めた通り、正面から村に入った。
活気のない村だった。暗くどんよりとしている。事情が事情なだけに、仕方のない事だろう。村人も、三人に視線は向けない。巻き込まれまいと気にしているのか、見て見ぬ振りを決め込んでいるようだ。
案内の足は、まっすぐ村外れへと進んだ。
集落群が途切れた辺りで、子分は立ち止まった。両手掴みほど樫の木の下を、子分は指差した。
土塀の小屋があった。家と言うほどの大きさはない。所々朽ち、壁には蔓が這っている。
(あれか)
甚兵衛は意外な顔をして、それを見た。庄屋の屋敷にでも居着いていると思っていたのだ。近くには池があり、日当たりが悪く湿気に満ちている。住み心地が良いような場所ではない。
子分をその場に残し、寅七と二人で小屋に歩み寄った。
「御免」
返事はない。もう一度声を掛けたが同じだった。
「どうやら留守のようで。此処で待ちますかい?」
「いや、その必要はなさそうだ」
気配がした。裏手の山。そう思った刹那、鉈ぶら下げた男がゆっくりと現れた。
痩せた男だった。色が白く、鼻筋が通っている。見た目は、三十を幾つか越えたくらいか。若いと言われれば、もっと若くも見える。
(この男が、門神なのか)
甚兵衛は迷った。荒々しい浪人を想像していたが、髷に乱れはなく、着物も地味だが小奇麗にしている。裃でも着れば、どこぞの家中で通るような男だ。発する氣にも
「私に何かご用件でも?」
男が、妙に丁寧な口振りで訊いた。
やはり違うかもしれない。甚兵衛は、案内役の子分に目を向けそうになったが、仮にこの男が門神だとしたらと思うと、視線を逸らすのは危うい。
「儂は佐野甚兵衛。後ろのは寅七という。今日は人を探してやって来たのだが」
「人探しですか。私が知っている人であればよいのですが」
「門神と渾名される浪人だ。本名は知らぬ。この小屋に棲んでいると聞いたのだがの」
門神と聞いても、男の表情は変わらなかった。だが、少し微笑み、
「それは私の事ですね」
と、平然と言ってのけた。
「なんと」
「私が貴殿がお探しの門神です。私に何か御用ですか?」
「なるほど、お前さんがのう」
甚兵衛は、喉を鳴らし低く笑った。やはり、と思った反面で、勘が鈍った自分への自嘲でもあった。
「儂はな、故あっておぬしを斬りに来たのよ」
「ああ、貴殿も先日の方々のお仲間ですか?」
「松牧の長兵衛の事かい?」
「ええ、十三人で斬り込まれまして。何とか退ける事は出来ましたが、いい迷惑でした」
「その仲間ではないが、似たようなものだと思って結構だ」
すると、門神は一つ溜息を吐いた。
「松牧では、私は悪鬼の如く扱われているようですね」
「違うというか?」
「見方の違いでしょう。私はこの村の用心棒です。報酬として、笹川村の皆様からお情けを頂いているわけです」
「横暴で領主然と振る舞い、庄屋を足蹴にして、女は手当たり次第に抱く。村衆は大いに困っていると聞いたがのう」
「先日の方々も、同じような事を仰っていました。ですが、それは尾ひれがついた風聞です」
「偽りだと申すのか?」
「一部は。確かに村の娘を抱いています。人を斬った後は沸いた血を静める為に女が欲しくなるものです。ですが、私は村衆のお情けで生きている身です。領主然と振舞うはずはございません」
「やけに殊勝な物言いだが、それを信じられるほど儂は
「きっと、私に女を取られた若者が吹聴したのでしょう。そもそも、私はこの笹川村を何度も救っています。松牧からは遠くて役人の力も及ばない、この村を。命を張ってです。感謝されても恨まれる筋合いはありません」
どうやら、話は平行線になりそうだ。そもそも、問答の為に来たのでない。話し合いはどうあれ、辿るべき結末に変わりはないのだ。
「おぬしの言が真実であれ偽りであれ、斬ると決めた。儂と立ち合ってもらおう」
「何故そこまで私と?」
「十三人と戦い、寸分の傷すら負わなかったその腕に興味がある」
甚兵衛の言葉に、門神は声を挙げて笑った。
「なるほど、貴殿の言葉は一等判り易い。変な正義を振りかざすより、実に人間的です。判りました。暫くお待ちお待ち下さい」
門神が小屋に入っていくと、甚兵衛は寅七と顔を見合わせた。
「驚きやした」
「人は見掛けによらぬものよ」
「そうでございやすね。門神の言葉も、聞き流す事にしやしょう」
斬ると決めたのだ。今更、後戻りする気はない。それに、門神の言葉の真偽はどうあれ、興味で門神と決闘する甚兵衛には関係の無い話である。
小屋の中で気配がした。寅七が下がる。
「邪魔はするなよ」
と、目で伝えた。
門神は、ひと振りの刀を携えて出てきた。反りが強く、飾りが古風だ。太刀だろう。
「お待たせしました」
「頼みがある。後ろの寅七は立会人だ。儂が死んでも手を出さないで欲しい」
「承りました。手出しは一切いたしませぬ」
「感謝する」
門神は、甚兵衛の正面に立った。その距離、四歩半。
「名を知りたい」
甚兵衛は訊いた。
「門神、という名しかございません。本名も故郷も棄てました。武士である事も」
門神の声色には、底の見えぬ悲哀が混じっていた。きっと、ここに至るまでに、言葉では言い尽くせない何かがあったのだろう。
「そうか」
事情がある。自分にもある。門神にも。お互い、本当の名を捨てなければならなかった事情が。そうした二人の男が戦う。そして、どちらかが人生の舞台から降りる。生き残るにしろ、死ぬにしろ、格好の相手ではないか。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「いざ」
門神が太刀を抜くと、猛烈な殺気が全身を打った。肌が、粟立つ。
(小癪な)
これを隠していたのか。甚兵衛は息を飲んだ。ここまで自らの氣を抑えられる使い手はそうはいない。
甚兵衛は、腰を落とした。左手で光明寺貞臣の鯉口を切り、右手はダラリと下げた得意の構えを取った。
抜刀術。今更、やり方を変える必要は無い。
門神は、八相である。穏やかな笑みが歪み、悪鬼の表情に変わっていた。
ゾクリとした。伊達ではない。この男なら、十三人と戦って、無傷という奇跡を為せるのかもしれない。
圧力で、じりじりと押されていく。このような状態で、光明寺貞臣を果たして抜けるのか。
甚兵衛は、腹から氣を込めた。押し返す。でなければ、圧倒されてしまいそうだった。
門神が、八相のまま動いた。甚兵衛の周囲、円を描くように歩く。氣を嫌ったのか。隙を探っているのか。
潮合いが来なかった。埒があかぬ。ならば、誘うしかない。
甚兵衛は、氣を抜いてみた。誘い。乗るかどうかは、賭けだった。
門神の足が止まった。氣を抜いたのを感じたのだろう。八相が、上段に変わっていた。
息を飲んだ。誘いに、乗るか。見抜くか。
来い、と呟く。
いつでも斬り掛かって来い。
すると――。
動いた。
門神が、上段のまま猛進する。
甚兵衛は待った。紙一重の、その瞬間が来るまで。そこに勝機がある。
待てるかどうか。即ち、勝負はそこである。
待てなければ、死ぬ。待ち過ぎても、死ぬ。死ぬ事が何程のものか。死ねば、無になるだけではないか。恐れはない。むしろ、その瞬間を待っているのだ。死ねば、あの女に逢える。逢いたい。心から願う。もう、この生活には飽いた。寂しいのだ。お前がいない、朝が。お前がいない、長い夜が。だから、儂を殺してくれ。
来た。紙一重の瞬間が。
上空から、禍々しい剣気が襲う。あと、ひと呼吸、待てば死ねる。殺し合いの舞台から降りる事が出来る。そして、お前に。
だが、身体が動いていた。
夜鴉。
光明寺貞臣を抜く。氣は発していない。
上から降ってくる斬光。身を丸めて、すり抜ける。その際に、風のように胴を抜き払った。
手応えはない。躱されたのか。振り向く。門神の顔。赤黒い。光明寺貞臣を肩口に振り下ろした。
「なに」
門神の声が聞こえた。自分が斬られた事に気付いていないのだ。氣を発せずに抜き、そして斬る。それが、夜鴉。
門神の身体が崩れ落ちた時、全身から汗が吹き出していた。
抜き身を手にしたまま、尻餅をついた。寅七が駆け寄ってくる。何かしきりに言っているが、耳には届かない。
勝った。その喜びは無かった。
また、生き残ってしまったという、その想いだけが、甚兵衛の胸に去来した。
◆◇◆◇◆◇◆◇
甚兵衛が隠宅に戻ったのは、翌日の昼過ぎだった。
山門を潜ると、境内には白い犬が身を伏せて寝ていた。
「おう」
声を掛けると、犬は身を起こし駆け寄ってきた。
「犬っころ、どうしたのだ」
顔を舐められた。孤高を決め込んでいたこの犬にしては珍しい。初めての事かもしれない。甚兵衛は犬を抱き止め、頭を撫でた。犬が、腕の中で啼く。
「心配したぞ」
そういわれた気がして、甚兵衛は笑った。
<了>
死にぞこないの譜 筑前助広 @chikuzen
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