落葉(後編)
10
よろめくようにスタジオを出て、眼に見えない何かから逃げるように駆け出した。仄暗い夕暮れの街を走り、道行く人ににぶつかり、転び、立ち上がり、痛む足を引き摺るようにして走り続ける。
誰もいないところに行きたくて、けれども街の中にそんなところはなくて、迷い子のように怯え、彷徨い、ふと気がつくと銀杏の樹の前に立っていた。暮れ
――左に三歩。右に二歩。
艶やかな黒髪を風に靡かせ、空を見上げる少年の笑顔が蠟燭の焔のように胸に揺らぎ、激しい風がそれを吹き消した。
『だぁれ?』
耳許で囁く声に目を開けると、そこは異世界だった。
『だぁれ?』
ごくりと喉を鳴らし、掠れた声で囁き達に答える。
「……香蓮」
『かれん?』
『知らない』
『知らない……』
「ちょ、知らないって、さっき来たばかりじゃないっ」
『知らない……』ともう一度小さな声が呟き、囁き達は沈黙してしまった。
「……レン」
声が震えそうになるのを必死で堪え、香蓮が怒鳴った。
「煉!」
その瞬間、激しい風が落葉を舞い上げ、銀杏の下で瞑目していた言之神が顔を上げた。
『……れん』
灰色の硝子玉に似た眼がじっと香蓮に魅入る。
『……かれん。か・れん。煉の名を騙るモノ』
紅い唇がゆっくりと釣り上がり、言之神がニタリと嗤った。
12
「次は何処に行く気だ?」
肩に座った焰が欠伸混じりに煉に尋ねた。
「う〜ん」
夜風に艶やかな黒髪を靡かせながら、煉が暗い空を見上げた。騒がしい街の明かりに追いやられたのか、そこに星は無い。
「手掛かりも情報もないから別に何処でもいいんだけどさ。梅雨も明けてそろそろ本格的に暑くなってきたし、今年の夏は北に行こうか。それで冬が来る前に南に下るってのはどう?」
「ふむ、いいアイデアだ。俺は暑いのも寒いのも苦手だ」
金色の眼を細め、焰が満足気に頷く。
「しかしお前も近頃何やら考え方が年寄り染みて来たな」
「そりゃどーも」と苦笑した煉がふと車道の向こう側を指差した。「あ、香澄さんだ。もう十時過ぎなのに、こんな遅くまでバレリーナも大変だね」
「香澄っていうと、例の双子の妹の方か?」
何か嫌な匂いでも嗅いだかのように焰が僅かに鼻に皺を寄せ、煉の指差す方を眺める。
「俺はアイツラは好かんな」
「へぇ、若い美人を嫌うなんて、焰にしては珍しいじゃん」
「双子で二人セットってのはお得な感じがして悪く無いが、しかしアイツラはどうもメンドウな臭いがするからな。お前もこれ以上かかずらわるな」
「焰が言いたいコトもわかるけど、まぁ袖触れ合うも他生の縁って言うじゃん。チョコクレープも美味しかったし。明日もう一度香蓮さんに会って、石の始末をつけたらお終いにするよ」
「ふん、お前の他生とは一体いつの話だ?」
そこらの物の怪より余程長く生きている癖に、と鼻を鳴らす焰の耳を煉が笑いながら引っ張る。
そのまま香澄に背を向けて歩き出そうとした時だった。
激しい急ブレーキの音に振り返った煉の眼に、歩道の人混みに突っ込むトラックが映った。
「香澄さんッ!」
悲鳴を上げて逃げ惑う人々を掻き分け、煉が香澄に駆け寄った。
「動かすなっ! 頭を打ってるかもしれない!」
バレエ団の一員であろうか。地面に倒れた香澄を泣きながら揺さぶっていた男を突き飛ばし、香澄の脈を取って息を確かめる。
「大丈夫、息はある! 早く救急車呼んで!」
脱いだシャツを引き裂いて素早く止血を始めながら、煉が鋭く舌打ちした。
右脛骨及び腓骨の開放骨折。膝の関節も滅茶苦茶だ。大腿骨にもヒビくらいイッてるかもしれないし、倒れ方がまずかった。もしかしたら腰や背骨も――
不意に視線を感じて顔を上げた。
「香蓮さんっ」
人垣の間からジッと香澄を見つめる香蓮に向かって煉が叫んだ。
「香蓮さん! 大丈夫だから、もうすぐ救急車が来るし、怪我は酷いけど致命傷はないから……」
無表情に香澄を見つめる香蓮の姿に不意に煉が口を閉じて不審気に目を細め、次の瞬間サッと顔色を変えた。
「……おまえっ」
蒼ざめた煉が血だらけの手で香蓮に掴みかかった。
「お前、香蓮さんじゃないな?!」
「煉ッ! そいつは放っておけ! こっちが先だ!」
焰の喚き声に煉が一瞬躊躇した隙を突き、香蓮の姿が人混みに消えた。
13
言ノ葉の世界には音がない。
ここには生き物がいないから。あるのは、風と、落葉と、わたしの吐息だけ――
銀杏の大樹の下に座っていた香蓮がふと顔を上げ、淡く銀色に光る空を見上げた。この世界の空は蒼くない。しかし曇っているわけでもなく、暗くも、眩しくもない。ただ空気だけはとても澄んでいて、香蓮が立てるどんな微かな音も、遥か遠くまで響いた。
不意にゆらりと空気が揺らいだ。
「……香蓮さん」
目の前に現れた少年の艶やかな黒髪を、銀杏に染まる風が乱す。
「あら、もうバレちゃったんだ」と香蓮が笑った。「言之神様が言った通りね」
「街で香蓮さんの姿を借りたアイツに会ったからね」
そう言ったきり煉は口を閉じ、ひらひらと風に舞う木の葉を見つめた。
「煉くん、何も訊かないの?」
「……なんか訊いて欲しいの?」
煉が倦んだ溜息をつき、目にかかる髪を掻き上げた。
「香蓮さんは何か願い事があって、言之神に歌を紡いで貰う為に此処へ来た。だけどアイツは歌を紡ごうとはしなかった。代わりに香蓮さんに言霊の力を貸し与え、そして自分は香蓮さんの姿を借りて人界に行った。言霊の樹の下には必ず誰かが座ってなくちゃいけないからね、アイツは外に遊びに行きたくて、香蓮さんを利用したんだよ」
「君はなんでもお見通しなのね」
クスクスとおかしそうに笑う香蓮を煉がじっと見つめた。
「香澄さん、事故で大怪我したよ。一命は取り留めたけど、でもダンサーとしてはもう終わりだろうね」
「……そう」笑いを止めた香蓮が一瞬の間をおいて、ゆっくりと口の端を歪めた。「……かわいそうな香澄」
「言わなかったっけ? 思ってもいないことを口にするもんじゃないって」
香蓮の口許に浮かぶ微かな笑みを映し、煉の瞳が暗く沈む。
「香澄さんが怪我したのは、あんたが紡いだ歌のせいだろ?」
「違うわ。私は香澄が怪我をするようになんて歌っていない。ただ、あの子が自分のしたことへの代償を払いますように、って歌っただけよ」
「代償?」
「煉くんが言ったんじゃない。願い事には代償が必要だって。だからね、あの子が事故にあったのは払うべき代償、当然の報いよ」
香蓮の言葉に呼応するかのように風が吹き、地に積もる黄金色の葉を優雅に舞い上げる。
「自分が何かを得る為に他人を犠牲にするなんて許されない――」
「ねぇ、香澄さんはなんでそんなに必死だったの? あんな大人しそうなヒトがそこまでして、一体誰の為に、何を証明しようとしていたの?」
「……自分の為に決まっているじゃない。自分が誰よりも上だって、自分こそが唯一無二の最高のダンサーだって、自分自身に証明したかったんでしょ」
「本当に?」
「……本当よ」
「でも初めからそうだったわけじゃないでしょ? だって、香澄さんに踊って欲しいって、『自分の代わりに』舞台に立って欲しいって言ったのは、あんただったんでしょ?」
無言で自分を睨む香蓮を煉の闇色の瞳が静かに見返す。
「油断してたよ。如何に勘が良くったって、普通のヒトは一回やっただけで
――鏡に写したような双子の姉妹。
しかし姿形が同じだからといって、才能までも同じとは限らない、と人は言った。香蓮は天才。香澄はちょっと勘の良い普通の子。
けれども他人の言葉などでわたしたちの仲にヒビがいくようなことは無かった。わたしは香澄を愛し、香澄はわたしを必要とした。だってわたしたちは二人でひとつ。鏡に映る美しい己の姿を疎み、憎む者などいない。
「あんたは双子の妹を庇って事故に遭い、その時の怪我が原因で踊れなくなった」
いつも人より一歩遅れて歩く香澄。あの子が追いつくのを待とうとして振り返ったわたし。急ブレーキの音。あの子の背後に迫る影。自分の手は夢を掴む為に在ると信じて疑わなかったあの頃のわたし。けれどもあの時、あの子を掴もうとして咄嗟に伸ばしたわたしの指は、一体何を掴んだのだろう。
「踊れなくなったあんたは、自分と同じ姿を持つ双子の妹にバレリーナとしての夢を託した」
薄暗い客席のカメラのファインダーから覗いた世界。眩しい光のなか、全ての者を魅了する姿。あれはわたし――
「双子の妹が踊る姿に自分を重ね合わせようとしたの? あれは自分だって思い込もうとしたの?」
「違うッ」
「うん、違うよね」煉が薄く嗤った。「いくら見た目が同じでも、あんたと妹は別人格だもんね。妹はあんたになれないし、あんたは妹にはなれない」
悔しかった。わたしの顔と姿を持ち、光の中で踊るあの子が許せなかった。あそこはわたしの場所のはずだった。踊る悦びも、称賛も、わたしに与えられるはずだった全てのモノを、あの子が奪う。
わたしは光になりたかった。影になんかなりたくない。
あの子が嫌いだ。わたしから奪い、わたしを影にする。
「自分の手に入らないモノなら、壊れてしまえばいいと思った?」
違う。でも君にはわたしの気持ちなんてワカラナイ。全てを一瞬にして奪われたことのない君に、全てを失くしても生きていかねばならない者の気持ちなどワカルワケガナイ。
「鏡に映る姿が自分自身ではないことが許せなかったの?」
「……やめて」
「ねぇ、あんたが許せなかったモノはなに? あんたになれなかった香澄さん? 香澄さんになれなかった自分自身? それとも――」
「ヤメテッ」
木の葉が風に舞い狂う。
「……嫌いよ」
激しい風の中、微動だにせず自分を見つめる深い淵のような瞳に向かって叫んだ。
「大嫌いッ! 全部、全部、消えてしまえばいいッ」
ざあっと激しい音と共に落ち葉が吹き荒ぶ風に舞い、その風に巻かれ、蠟燭の焔のように煉の姿が揺らぎ、掻き消えた。
14
イテテテ、と腰をさすりつつ煉が樹の根元から起き上がった。
「大丈夫か?」
銀杏の樹の下で待っていた焰が煉の顔を覗き込む。
「お前も油断してたとは言え、とてもただのヒトとは思えん力だったな」
「まぁ仮にも言之神の代わりに樹の下に座ってるわけだし。妹の方もそうだけど、香蓮さんもかなり思い込みが激しそうだからね。言ノ葉の力は想いの強さに左右されるんだよ」
「ふん、それに名もあるしな」と焰が忌々しげに舌打ちした。「あのオンナの名はお前に近い。それで言之神なんぞに無駄に気に入られるのさ」
「まぁそれもあるかもね。気まぐれな神々の思考回路なんてよくわかんないけどさ」
さて、どうしよっかなぁ、と言いながら、煉が頭上に広がる銀杏の葉を見上げた。
「もう放っておけ。ヒトのひとりやふたり、どうなろうとお前の知ったこっちゃないだろうが」
「そんなわけにはいかないよ。元と言えば俺があのヒトを言之神の所なんかに連れて行ったのがマズかったんだから。俺にも責任がある」
ふん、このお人好しめ、と焰が鼻を鳴らした。
「何度も言うが、お人好しってのは美徳じゃないんだぞ。馬鹿の代名詞だ」
はいはい、と言って煉が肩を竦め、立ち上がった。
「とりあえず言之神を捕まえないことにはどうにもならないね。焰、悪いけど、この辺りの知り合いに心当たりが無いか聞いてみてくれる? あいつって発想が自由な上に傍若無人だから、たとえ姿形は香蓮さんでもヒトの世界ではかなり目立つと思うんだよね。俺は香澄さんの様子を見てくるから」
❀
「コンニチワ」
病室を覗き込んだ少年の人懐っこい笑顔に香澄がぼんやりとした目を向けた。
「えっと、前に一度会ってるんだけど、憶えてないかな? 香蓮さんに連れられて、香澄さんの楽屋にお邪魔してさ」
「……シルフィードの男の子」
「うん、そうそう」
煉が頷くと、ベッド横の丸椅子に腰掛けた。
「具合はどう?」
「……香蓮ちゃん」
香澄が風に揺れるカーテンを虚ろな眼で見上げ、疲れた声で呟いた。
「香蓮ちゃんが帰ってこないの……」
「香蓮さんは、少しの間、独りで考える時間が必要なだけだよ」
煉がそっと香澄の腕に触れた。
「きっと帰ってくるから、だから今は休んで、少し眠ったほうがいいよ」
少年の声は優しく、腕に触れる手は温かだった。
✿
銀色の空。絶え間無く降りゆく木の葉。月も陽も巡ることなく、飢えも渇きも無い世界。唯ゆるゆると流れる刻の中、繰り返し、繰り返し、わたしは独り過ぎた日々を想う。
もう二度と踊れないと知った時、なぜか涙は出なかった。死亡告知でもしているかのように陰鬱な表情の医者にわたしは病院の夕食のメニューを尋ね、そして返ってきた答えに対して何やらつまらない冗談を言い、ひとり声を上げて笑った。笑っているわたしの横で、あの子はわたしの代わりに泣き続けた。
あの子がわたしの代わりに泣くから、わたしには零す涙が残っていない。
❀
「今日は花を持って来たよ。公園に咲いてたんだけど、あんまりいい匂いだったから、一輪だけ失敬しちゃった」
「……煉くん」窓辺に飾られた白い花を見つめ、香澄が静かに微笑んだ。「ありがとう」
「気に入ってくれた?」
「花もだけど、でも、そうじゃなくて」
白いシーツにチラチラと踊る光を、シーツと同じ色の指先で香澄がそっと押さえた。
「お医者様に聞いたの。救急隊員が着くより前に応急処置してくれた男の子がいたって。その子の処置が的確だったから、出血も最低限で済んだって。もしかして、煉くんだったのかな、と思って」
しばらく無言で窓の外を見つめていた煉がやがて小さな声で、ごめんね、と呟いた。
「どうしてあなたが謝るの?」
「すぐ近くにいたのに、助けてあげられなかったから。それに俺には治癒能力とか無いから、香澄さんの怪我を治してあげることも出来ない」
「不思議なことを言うのね」と香澄が微笑んだ。
✿
病院のベッドに横たわるわたしの粉々に砕けた脚を見つめ、ごめんね、とあの子は呟いた。幾度も幾度も、涙に掠れた声で、あの子はわたしに謝り続けた。
眠らず、食事も摂らず、唯ひたすら泣き続けるあの子には、わたしと同じくらい救いが必要だった。わたしはあの子の涙を拭き、震える背中を撫で、「踊って」と言った。
「香澄、踊って」
誰の為にとも、どんな風にとも、わたしは言わなかった。
赦すとも言わなかった。
❀
病室に入ってきた煉が、ちらりと香澄に目を遣ると、無言のままベッドに腰掛けた。
「私ね、初めてわかったの。自分が欲しかったモノが何か」
とめどなく溢れる涙を拭おうともせず、香澄が窓の外に広がる蒼い空を見上げて微笑んだ。
「そして今気づいたの。私はソレを持っているって」
✿
鏡の中のわたし。
あの子の眼を通して世界をみることが出来ると信じていた。
あの子の姿を通して光の中に立てると思っていた。
しかし気がつけば、わたしはあの子の影に生きる傍観者だった。
教えて欲しい。
わたしはどうすればよかったのか。
泣けばよかったのか。
笑えばよかったのか。
怒ればよかったのか。
諦めればよかったのか。
あの子を助けなければよかったのか。
……死ねばよかったのか。
散りゆく落葉に答えを求め、わたしは硝子玉の瞳で空を見上げる。
♢ ♢ ♢
コレは俺のせいだろうか。
俺に逢いさえしなければ、二人の姉妹の関係がここまで壊れることはなかったのだろうか。偶然の出逢いや僅かな擦れ違いの重なりが、やがて大きな歪を産み、樹の幹に亀裂を走らせる。
「……歪んだサイコロ」
ふと漏らした煉の呟きを焰が聞き咎めた。
「つまらんことを考えるな」と焰が鼻を鳴らす。「お前に逢わずとも、遅かれ早かれあの二人はいずれダメになっていただろうさ」
15
どれほどの時が経ったのだろうか。音も無く舞い散る木の葉の中で瞑目していた香蓮が、ふと目を開けた。
「……煉くん」
目の前に佇む黒髪の少年の姿に、香蓮が幽かに微笑んだ。
「あのね、わたし、君のために歌をつくったよ」
『……煉』
銀色の歌声が澄んだ空気を震わせる。
『火之神に愛されし者。緋の花を咲かす者』
柔らかな風に舞う落葉が、黄金色の影を少女の頬に投げかける。
『煉はゆく。緋の花咲き乱れし野に、懐かしきヒトは待つ。過ぎし日の誓いは果たされ、未来永劫、約束された幸せと共に煉は歩む……』
ぼっ、と軽い音と共に風に舞う落ち葉が燃え散った。
「……気に入らなかった?」
黙って自分を見つめる煉に向かって首を傾げると、香蓮が寂しそうに微笑んだ。
「ごめんね、やっぱり本物の神様みたいにはいかないね」
「そんなことないよ」と煉が首を横に振った。「今まで聴いた歌の中で一番優しくて、俺が一番欲しい歌だった」
「じゃあどうして?」
「香蓮さんはニンゲンだから。ヒトの身で神の真似をすることは許されない。これ以上やったら、向こうの世界に戻れなくなる」
煉の背後から言之神がひょっこりと顔を覗かせた。
「ったくコイツってば意外にすばしっこくってさ、捕まえるのに一苦労だったよ」
「神様でも捕まっちゃったりするんだ?」
「レストランで無銭飲食して、店員に締め上げられそうになってるところを恩売って助けてやったの。普通なら逃げられた筈なんだけど、そこって俺の知り合いの縄張り内だったからね。神々ってのは縄張りにウルサイんだよ」
言之神が煉を睨むと、不貞腐れたようにそっぽを向いた。
「煉くん……」
言之神の白銀の髪に踊る柔らかな光に香蓮が目を細めた。
「言之神様が帰ってくれば、私がここにいる必要もなくなって、元の世界に帰ると思った?」
「さあね」煉が軽く肩を竦めた。「……でも未来はまだ決まってないから。後戻りは出来ないけど、進むことの出来る道はひとつじゃないから」
「ねぇ、煉くん。私がしたことは間違っていたのかな?」
煉が無言で香蓮を見つめた。煉の表情は静かで、瞳は深く、その胸の内を窺い知ることは出来ない。
「私が樹の下に座ればどうなるか、言之神様は知っていたのよね? 神様だもの」
「それがどうかした?」
「だって言之神様が言ったのよ? 『好きなようにすればよい』って、『お前の自由に歌を紡げばよい』って。もしも私がしたことが間違っているのなら、なんで言之神様は私を止めようとしなかったの?」
香蓮の言葉など聞こえないかのように知らんぷりを決め込んでいる言之神にちらりと眼を遣り、煉が溜息をついた。
「神に善悪なんてない。神とはヒトの考える善悪だの正義だのとは全く違う次元に在るモノだから。ヒトの善悪を決めるのは、神ではなく、ヒトなんだよ」
「……ひとってなに?」
「ヒトとは善と悪の混沌」
そう呟くと、煉が銀色の空を見上げた。風が艶やかな黒髪を乱し、煉の表情を隠す。あの深い淵のような瞳には何が映っているのだろうと香蓮は思った。この少年は、何を見て、何を想い、どんな言葉をその胸の内に抱いているのだろう。
と、不意に煉が香蓮を振り返って微笑んだ。
「何が正しいとか、間違っているとか、そんなことは俺にはわからない」
深く穏やかな眼差しが香蓮を優しく捉える。
「でも、香澄さんを心配する気持ちも、彼女の成功を願う気持ちも、そしてそれを羨み、妬み、憎く思う気持ちも、どれもきっと香蓮さんの
吹き荒ぶ風に舞う無数の木の葉のように、ヒトの想いに限りはない。
「今ならまだ間に合う。香蓮さんさえ望めば元の世界に帰ることができる」
銀色にひかる風に目を瞑り、香蓮ちゃん、と自分を呼ぶ妹のはにかんだ微笑みを想う。
私はいつも香蓮ちゃんだけを想い、香蓮ちゃんのためだけに踊る。初めて主役を手に入れた日、そう言って香澄は震える手で香蓮の手を握り、舞台に立ったのだ。
不意に涙が零れた。
「……かえりたい」と、香蓮が囁いた。
「帰って謝りたい」
鏡に映る姿はわたしではなかったけれど、しかしそれは血を分けたわたしの半身だったのだ。何故己の半身の不幸を願ったりしたのだろう。わたしがしたことは、わたしが願ったことは、決して赦されはしまい。
許しを請いたいわけではなく、ただ謝りたかった。
そしてあの子を抱きしめたかった。
わたしのために踊る香澄。わたしに微笑みかける香澄。
いつもわたしを救うのは、優しいわたしの半身――
と、煉の背後から香蓮を盗み見ていた言之神が、ふと背伸びすると煉の耳許に何事か囁いた。
「……香蓮さんが望むなら、歌を紡ぐって」
しばらく無言で言之神を睨んでいた煉が、やがて香蓮を振り返ると低い声で言った。
「香蓮さんの紡いだ歌を破り、“奇跡的に” 香澄さんが助かる歌を」
「助かるって、後遺症とかもなく? また香澄が望めば踊ることができるくらいに?」
煉が苦渋に満ちた顔で頷いた。
「でも代償が必要だ」
「代償?」
「……代償は香蓮さんの光」
「ひかり?」
「言之神が歌を紡げば、香澄さんの脚は完全に元通りに治る。その代わりにあんたは光を失う」
香蓮から目を逸らした煉が、口の端を歪めるようにして呟いた。
「……あんたは一生目が見えなくなる」
どうする?とでも言うように、煉の背後でニタリと笑った言之神に向かって、香蓮が満面の笑みを浮かべた。
不意に激しい風が吹き、その痛いような風に無数の木の葉が舞い、世界を黄金色に染めた。
エピローグ
穏やかな晩秋の日差しの中、庭で小鳥の囀りを聴いていると、背後から柔らかな足音が近づいてきた。そっと遠慮がちに腕に置かれた細い指先を、微笑みと共に優しく握り返す。
海に行かない? と双子の妹が囁いた。
二人で腕を組み、ゆっくりと潮風の中を歩く。ここは海辺の崖の上だろうか。辺りにひと気は無く、鳴き交わす海鳥の声と、遠く、足下で波が繰り返し繰り返し岩に砕ける音がする。
「香澄、なんか最近悩んでるみたいだけど、色々と心配かけちゃって本当にごめんね」
「……そんな、香蓮ちゃんが謝らなくちゃいけないことなんて、ひとつもないわ」
「香澄、もしかして、踊るのが嫌になった……?」
香澄は答えず、ただ、何かに迷うように歩みを止めた。
「あのね、嫌なら無理に踊らなくていいんだよ。私は香澄が楽しそうに踊る姿が好きだった。私の為に踊るって言ってくれて、とても嬉しかった。香澄には才能もあるし、やめちゃうのは正直勿体無いと思うけど、でも香澄の人生は香澄のものなんだから、私のために無理に踊る必要なんてないんだよ」
「……踊りをやめたりなんかしないわ」と香澄が小さな声で、しかしはっきりと答えた。
「私は香蓮ちゃんと違って人前に出るのは苦手だし、確かに初めは苦痛だった。でもね、事故に遭って気がついたの。踊るということが、私にとってどんなに大切か。踊りは私の全てで、私は踊りなしに生きてゆくことはできない」
その言葉に、香蓮が微笑んだ。大人しく引っ込み思案な双子の妹は、内に秘めた激情と、一度決めたことは諦めない芯の強さを持つ。何故今まで気付かなかったのか。香澄の舞いは香蓮のものとは全く違うのだ。違うけれど、でもそれは羨ましいほど美しく、妬ましいほど
「良かった。じゃあさ、来月の公演、最前列の真ん中の席をキープしといてね」と香蓮が笑うと、え、と驚いたように香澄が息を呑む気配がした。
「来月だけじゃないよ。これからずっと、香澄が世界的に有名なダンサーになっても、最前列の真ん中は私の特等席ってことでよろしくね」
香澄の踊りをいつも一番近くで感じていたいから、と香蓮が笑った。
「たとえ目が見えなくても、香澄が踊る姿だけは見えるような気がするの」
目に浮かぶ。ドガの踊り子のように華やかな色彩の洪水のなか、風に舞う精霊のように、いや、透明な風そのものとなる香澄の姿。
バレリーナは爪先立ちの分だけ天界に近い。
不意に香澄が繋いでいた手を離した。
「……シルフィード」と香澄が暗い声で呟いた。
「え?」
「私は結局シルフィードにはなれなかった」
「なんのこと?」
「私ね、事故で入院して、もう二度と踊れないかもしれない、って思った時、気がついたの。踊りを失い、私は自由になったんだって。踊りを失ったことが悲しくて、自由を手に入れたことが嬉しくて、涙が止まらなかった」
「香澄?」
「……私ね、自由になりたいの」
私を繋ぐ全ての
双子の姉が、自分と同じ姿を持ち、しかし自分のせいで全てを失った女が、薄暗い客席から見えない目でじっと見つめる舞台。
そんなものに自由などありはしない。
「ごめんね、香蓮ちゃん」
耳許で泣き荒ぶ潮風がバランス感覚を奪う。わたしは何処にいるのだろう。
「もうこれ以上は無理なの」
岩を砕く波音と、髪を乱す風の唸り声に、あの子の声が遠い。
「愛してるわ、香蓮ちゃん。でも私はシルフィードにはなれない。愛する者に羽を捥がれ、自由を奪われて、微笑むことはできない」
私ハ貴方ノ影ニハナリタクナイ。
「香澄……?」
遠く、切れ切れに聞こえる声に向かって踏み出した足が宙を泳ぎ、不意に海鳥達のけたたましい嗤い声が大きくなった。
翼があるみたいだね、と少年は言った。背中に翼があって、飛んでるみたい。
そうよ、とわたしは笑った。バレリーナには翼があるの。天使か妖精みたいでしょ? わたし達はこの翼で天空を舞うのよ。
透明な風がわたしを抱き、わたしは風になる。
バレリーナハ爪先立チノ分ダケ天界ニ近イ。
岩を砕く波の音が耳許に砕けた。
ミソサザイの歌 和泉ユタカ @Izumi_Yutaka
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