鳴かぬ蛍が身を焦がす

和久井 透夏

鳴かぬ蛍が身を焦がす

 一つ、罪の告白をさせてください。


 地元一帯を取りしきる裕福な地主の家に私は生まれました。

 家族は父と母と、出来の良い兄と大変美しい妹がおりました。


 三つ上の兄は、幼少の頃より学問に優れ、両親の期待を一心に背負い、一つ下の妹は、色も白く顔も美しい母に似て、子供ながらに彼女が皆から愛でられ大切にされるべく星の下に生まれた事がひしひしと感じられました。


 対して私といえば、不美人と言う程ではないものの、顔は父に似て華が無く、肌も白い方ではありましたが妹の透き通るような肌には到底かないませんでした。


 子供ながらにも両親が兄と妹を特に可愛がっている事は良く解りました。

 一方私は彼ら夫婦にとって、眼中にない存在でした。

 ……いいえ、これでは語弊があるでしょう。


 両親は表立って私達に差をつけて贔屓ひいきはしませんでした。

 ただ、兄と妹は私以上に親の関心を惹き付ける存在だったので、自然と私に対する関心が薄くなったのです。


 ですから何をするにしても妹に対して両親は甘く、習い事もさぼりがちな妹を特に咎めるでもなく、代わりに私には妹の良き手本になるようにとやたらと完璧を求めました。


 しかしそれも解るのです。


 だって、私は妹と違って取り立てて美人と言うわけでもないのだから。

 妹は美人というだけで嫁の貰い手は沢山いますが、私はそうではないのだから、せめてそれなりの教養を身に付けなければ、本当に価値が無いのです。


 妹が物心ついた頃から蝶よ花よと真綿で包むように大切に可愛がられている事に対して、自分の時と扱いが違うと憤るなどお門違いというものです。

 親戚の前でも客先であっても、並べばいつも褒められるのは妹ばかりでしたが、彼らに悪意が無いことなんてわかっているのです。

 妹があまりにも美しいので、ただ純粋にそれを讃えただけなのです。



 さて、私の家は沢山の使用人を抱えており、中には歳の若い者も沢山おりましたが、その中でも特に若かった少年の話をしましょう。


 彼は私と同い年で、九つの時に私の家にやってきました。

 体も小さく痩せ細っていたので最初私はもっと年下かと思っていました。

 名を燈吉あきよしと言い、両親を亡くして身寄りが無いために私の家で引き取って働いてもらう事になったようです。


 全身泥だらけの痣だらけで、見るからにみすぼらしい彼を見て、私と彼が同い年であると聞かされて、私はこんな子がいるのかと衝撃を受けました。

 父に話を聞いても言葉を濁してごまかされるばかりでしたが、それでも父から聞いた情報によると彼は『かわいそう』な身の上であるようでした。


 何がどう、かわいそうなのか幼い私にはわかりませんでしたが、それでも彼が私よりとても『かわいそう』な事は子供ながらに解りました。


 私はそれまで考えないようにはしていましたが、やはり自分の境遇には不満があり、自分はこの家で一番『かわいそう』な人間であると密かに思っておりましたので、彼の登場は私の中では大きな衝撃でした。


 そして、明らかに自分よりも『かわいそう』な人間が現れてみると、私自身の状況は何一つ変わっていないのに、なぜだか不思議と満たされた気持ちになりました。

 当時はそれがなんなのかわかりませんでしたが、この時私は確かに彼に対して優越感をおぼえたのです。



 優越感というものは、それまで自分の事しか見えていなかった私に心の余裕を与えました。

 兄と妹を自分と比較して落ち込むことも格段に減りましたし、退屈だった習い事も少し楽しく思えるようになりました。


 加えて私は更にその優越感を味わうために、暇を見つけては燈吉に自分のおやつを分けてやったり、遊びに誘ったりと度々彼をかまいました。

 時々彼に読み書きを教えたりする時などは、無知な彼にものを教えることにより自分が賢くなったような気がしてとても気分が良かったものです。


 兄妹の仲は特別悪くなかったので、兄や妹ともよく遊んでいましたが、私にとっては優秀な兄や妹といるよりも、私のすること一つ一つに戸惑ったように、はにかみながら喜ぶ彼といる方がとても心の安らぐ時間でした。


 やがて燈吉をかまう私を見て、兄と妹も彼に興味を持ったらしく、四人で遊ぶ機会も増えました。

 特に兄は歳の近い男の友人ができたのが嬉しかったらしく、時々燈吉を連れ出して二人で外に遊びに出かけるようになりました。

 父と母もそんな私達の様子を見て、微笑ましそうにしていました。

 他の使用人達の様子を観察してみても、燈吉に対して好意的な様子が見て取れました。


 ところが、そうなってくると面白くないもので、私は皆に認められ受け入れられてきた彼が憎らしく思えてきました。

 しかし、それでも彼をかまう事をやめなかったのは、少しでも彼の中に私より劣った部分を探すためでした。

 だというのに、両親は燈吉をよく気がつく子供だと気に入り、兄は燈吉のことを親友だと言い、妹も彼の後をよくついてまわるようになりました。


 そんな日々が続くうち、私に魔がさしました。


「もらい物だから、誰にも見られないようにこっそり食べてね」

 ある日私はそう言って彼に上等な練り菓子を渡しました。

 実際それは私が習い事の先生から頂いた物だったのですが、私はそこに一本裁縫用の針を埋めました。


 後日、燈吉と二人になった時にこの前の菓子はどうだったかと聞くと、燈吉はいつものように笑いながら、

「とても美味しかったです」

 と、答えました。


 その時、私は久方ぶりに彼に対して優越感をおぼえました。

 所詮彼は私の家の使用人に過ぎず、彼は私から善意を装って渡された物であるならば、たとえ針が入っていようと毒が入っていようとありがたく受け取るしかないのです。


 そう思うと私の心は弾みました。

 それから私は、上等な菓子を手に入れるたびに中に針をしこんでこっそりと彼に渡しました。

 渡したその場で食べろとは言いませんでしたし、別に影で貰ったそばからそれを捨てていてもかまわないのです。


 毎回針が入っている、もしかしたら毒が入っているかもしれない菓子を私から贈られても、彼は笑顔でそれを受け取って私にお礼を言い、形だけでも感謝しなければならい。という状況に私は愉悦をおぼえたのです。

 それは私に縁談が持ち上がる頃まで続きました。



 十六の時、私に縁談が持ち上がりました。

 と言っても、話はもう親同士でついていて結婚することは既に決まっているようでした。


 相手はとある造り酒屋の跡取りで、歳は二十五だと聞きました。

 地元で知らない者はいないという老舗らしく、そこの店主と父はもう随分と長い付き合いになるようです。


 それからしばらく家の中は私の嫁入りの準備で随分と賑わっていました。

 私は美しい刺繍の施された白無垢や嫁入り道具を眺めては、まだ見ぬ許婚への不安と期待を膨らませておりました。


 結局、初めて顔合わせをされたのは、半月後に式の日取りが決まった頃でした。

 その時初めて見た許婚は、凛々しく、整った顔立ちの、美丈夫という言葉が似合いそうな男性でした。

 この人がこれから自分の夫になるのかと思うと、どうしようもなく胸が高鳴ってしまったのと、えもいわれぬ気恥ずかしさのせいで、その日私が彼と何を話したのかは今でもよく思い出せません。


 ただ、部屋の外の、少し遠く辺りから相手方のご両親と私の両親が、聞き取れないけれど、なにかひそひそと言い争っているような声がしていた事だけは憶えています。


 その日の晩、ふわふわとした心地で私が廊下を歩いていると、調度両親が話している声が聞こえました。

 どうやらそれは、今日の顔合わせでの話だったので、良くないとは思いつつも、私はその場で立ち止まって話を聞いてしまいました。


 今回の縁談は相手方の母親からの強い要望で持ち上がったもの。

 彼女は町で私達姉妹を見かけた際、私より背の高い妹を姉、背の低い私を妹と勘違いして、ぜひ姉の方を嫁に貰いたいと申し入れてきたらしい。

 今回の顔合わせで初めてその勘違いが発覚したが、相手方の母親からは今からでも妹の方に嫁に来て欲しいと言われた。

 もう私の方が結婚するということで話を進めてしまっているので、父と母はなんとか私の方を嫁に出したい。

 しかし、妹と並べて私の方を名指しで指名してきたので、おかしいとは思っていた。


 そこまで聞いて、私は気付かれないようにそっと部屋に戻りました。

 部屋に戻れば、相部屋で既に私の分の布団まで横に並べた妹が待っていました。

「もうすぐこうして二人で一緒に寝ることもなくなるんだね」

 少し寂しそうに言う妹の顔を見て、この時程、その顔を手酷く殴りつけて二度と見られないようにしてやりたいと思った事はありませんでした。


 明かりを消して布団に入り、しばらく他愛ない話をしました。

 もうすぐ私がいなくなってしまうのが寂しいだとか、自分もいつかはお嫁に行くのだろうとか、兄様はずっとこの家にいられて羨ましいだとか、私達兄妹が三姉妹で自分が長女であったなら……妹はそんな事を言っていたような気がします。


 この家に残らなくても、妹ならば私と違って是非にと求められて、大切にしてもらえる嫁ぎ先などいくらでもあることでしょう。

 どうしてそんなにこの家に居たいのかと妹に問えば、恥ずかしそうにするばかりでしたが、大方気になる相手でもいるのでしょう。


 こんなにも人からもてはやされ、求められ、これ以上更に望むのか。

 それは先程の両親の会話を聞いて気が立っていた私の理性を握りつぶさせるには十分な動機でした。


 すっかり夜もふけた頃、私は妹にまだ起きているかと声をかけました。

 起きていなければ起してでも連れ出すつもりでしたが、妹は起きているとしっかりした声で答えました。


「お嫁に行ってしまう前に、あなたに見せたいとっておきのものがあるの」


 そう言って春先とはいえまだ冷える夜、私は妹を庭へと連れ出し、井戸の前へと手を引いていきました。

 井戸の蓋を開け、中を覗いてごらんと言えば、妹は疑いもせず井戸を覗き込みました。

 その瞬間に私は妹の両足を持ち上げ、一気に井戸の中へと放り込みました。


 驚いたような小さな悲鳴と水音の後、辺りはしんと静まりかえりました。

 井戸に蓋をし直して、誰にも見られていないかと振り返った瞬間、調度廊下からこちらを見ている燈吉と目が合いました。


 途端に私は、冷や水を頭からかぶせられたかのような気分になりました。

 近くにの石段の上にあった草履を引っ掛け、声を上げるでもなく、彼は静かに私の方へと歩いてきました。

 寒さではない震えが私の体を支配しました。


「燈吉、このことは……」


 彼の顔も見れないままに出した私の声は、自分でも驚くほど震えていました。

 不意に両の腕を掴まれ、自分でも情けない位に大きく肩が跳ねましたが、それでも悲鳴を上げないでいられたことで、なんとか私は自尊心を保つことが出来ました。


「ええ、もちろん、誰にも言いませんとも。これは二人だけの秘密です」


 頭上から降ってきた彼の声は、この場には不釣合いな程に穏やかで優しいものでしたが、それが余計に私の恐怖を煽りました。

 そのまま彼はするりと私の側を通り抜けると、井戸へ向かい、蓋を外しました。


 何をする気なのかと思い見ていると、彼はそのまま私の側に戻って来てこう言いました。

「駄目ですよ、あれじゃあ誰かに突き落とされたと言わんばかりじゃないですか」

 普段話す時のように人の好い笑顔を浮かべる彼に、私はすぐには彼が何を言っているのか理解できませんでした。


「もうすぐ夜が明けます。誰かに見られないうちに部屋に戻ってください。そして朝、昨日何か変わったことがなかったかと聞かれたら、理由は解らないけれど、彼女が何かを思いつめていたようだった。と答えてください。いいですね?」


 まるで小さな子供に言い聞かせるように、燈吉は膝を折って私の顔を覗き込みながらいいました。


 私はこんな状況でも普段と全く変わらないどころか、むしろ冷静で優しい様子の彼が心底恐ろしく、ただ何度か首を縦に振ると、逃げるようにその場から離れました。


 部屋に戻ってから、ようやく私は自分のしてしまった事の重大さと罪の重さに気付きました。


 もう遅いけれど、私は美しい妹に対して劣等感をもっていたけれど、決して彼女の事が嫌いではなかったのです。

 誰からも褒められ、大切にされて育ってきたせいで、人を疑うことも知らず、理不尽な悪意の存在も終ぞ知らずに、その短い人生を終えた妹。

 だけれども、物心ついた頃からずっと一緒で、いつも元気に笑いながら姉様、姉様、と私を慕ってきた妹。

 私よりも少し背が高く、顔に似合わずお転婆な所のあった妹。

 私はなんて馬鹿で愚かな事をしてしまったのだろうと頭を抱えました。


 しかし、思い直すにはもう全てが遅かったのです。


 そして、あの恐ろしい男にその一部始終を見られてしまったことも私を絶望させました。

 燈吉は何を思って私の妹殺しの罪を黙っている事にしたのだろう、引き換えに一体自分はこれから何を要求されるのだろう。

 それとも彼は私を油断させておいて罠を張り、朝になったら私の罪を白日の元にさらして糾弾しようとでもいうのか。

 いっそその方がマシかも知れない。

 そもそもずっと影で嫌がらせしてきた私に、燈吉が協力する理由がわかりません。


 そんな考えが頭の中で回り、結局布団に入ったものの、私は一睡も出来ないまま朝を迎えました。


 辺りが明るくなる頃には部屋の外が騒がしくなり、その喧騒はより私の胸を締め付けました。

 やがて私は誰か起こしに来るのを待つことも出来ず、外の騒がしさに目を覚ました風を装って部屋から出ました。

 家中の人間が慌てているのを見ながら、使用人の一人を捕まえて何があったのかと問えば、彼女は落ち着いて聞いて下さいと前置きした後で、妹が井戸で死んでいる事を私に告げました。


 人というのは朝起きて初めて妹が死んでいると聞かされた時、どんな反応を取るのか、どうしたらいいのかわからず黙っていると、信じられないかもしれませんが、本当なのですと彼女は言い募ってきました。


 そのまま私は井戸に向かい、井戸の前で引き上げられた妹と泣き崩れる両親をまた呆然と見ていると、昨日妹は何か変わった様子は無かったかと兄に聞かれました。


「夜、何か思いつめてたみたいだった、理由は教えてくれなかったけれど……」

 どうしようと内心では慌てながらも、なんとか今朝燈吉に言われた言葉を搾り出しました。

 するとさっきまで大声で泣いていた母の声が一瞬、ピタリと止みましたが、すぐにまた母は声を上げて泣き出しました。


 首があらぬ方向に折れ曲がり、元々白い肌は更に青白くふやけ、それでも生前の美しさの面影を残した妹の顔を見た瞬間、もうこの顔は二度と笑う事は無いと、私はどうしようもない罪悪感に押しつぶされました。

 本当になんて事をしてしまったんだろうと膝から崩れ落ちて泣きだす私の背中を、兄は優しく撫でてくれましたが、本来私にはそんな資格など無いのです。


 そんな気持ちは刻々と時が経つごとに膨らみ、とうとう妹の葬儀の席で私は、妹ではなく私が死ぬべきだったのにと泣き出しました。

 なんでこんな私よりも美しくて良い子だった妹が死ななければならなかったのか、あの日に戻って私が妹の代わりに死にたいと、叫びました。


 それは罪の告白のつもりでした。


 しかし、それを聞いた皆は仲の良かった妹が突然死んで私が取り乱しているようにしか見えなかったようでした。

 母は私の言葉を聞いて泣き崩れ、私は兄に取り押さえられ別室へと移動させられました。


 何を言おうとしても嗚咽で上手く言葉にならず、兄には妹が死んで気が動転しているのは解るが、葬儀の席で軽々しく死ぬなんて言うもんじゃないと諭され、だんだん冷静になるうちにもし自分の罪が本当に露見してしまったらと考えると恐ろしくなり、とうとう私は自ら罪を告白する機会を逃してしまいました。


 少しして燈吉が私達を追ってきて、兄に私の事は自分が見ているからと、兄に葬儀に戻るよう言いました。

 兄は燈吉に礼を言うと、そのまま葬儀の席に戻っていきました。


「どうしてあんな事を言い出したんですか?」

 兄の足音が遠のいて周囲に人の気配が無くなると、燈吉は心底不思議でならないという顔で私に尋ねました。

「私はあの日、あんな事を……許される事じゃない……」

「誰が許さないというんです? 誰も貴女のせいだなんて思っていませんよ」

 燈吉は私の背をさすりながら言いました。


「私が、私を許せない」


 確かに燈吉以外は私が妹を殺した犯人とは知りません。

 それどころか妹を亡くした私を皆が気遣ってくれています。

 しかし、だからこそ私はより罪の意識に苛まれました。


「だったら何でさっきお兄様に本当のことを言わなかったんです?」

 もっともな言葉でした。

 私は誰も私の罪を知らずに気遣われる事に心苦しさを感じながらも、同時に自分の罪が露見してしまう事を恐れたのです。


「いいじゃないですか、それに誰のせいでもない方が皆幸せだと思いませんか?」

 確かに人殺し、しかも親族殺しなんて家紋に泥を塗る所の騒ぎではありません。

 家族もなんと言われるか、知れたものではないのです。


「でも……」

「では代わりに何か、罰でもあれば貴女は安らげるのですか?」

「そう、なのかもしれない……」

「それなら、今日の事をずっと胸にしまいこんで一生苦しみ続けるのが罰、とは考えられませんか?」

「そんなこと……」

 出来るわけがないと言いかけた所で、しかしもう私にはこれ以外の道が無いと知り、私はまた声を上げておいおいと泣きました。



 結局、妹は事故で誤って井戸に転落したという事になり、その後いくら待っても燈吉が私を告発することはありませんでした。

 葬儀での取り乱しようのせいで、私はその後しばらく、何をするにも必ず誰かお付きの人間を最低でも一人、常に側に付ける生活を余儀なくされました。


 妹の葬儀が終わってしばらくした頃、許婚とそのご両親が私の家を訪ねてきました。

 恐らくは婚約を解消しようという事なのだろうと、顔も出さずにしばらく庭を眺めていると、許婚がやってきたかと思うと私の横に腰を下ろしました。


 妹の死を悼む言葉に頭を下げ、取り留めの無い話を少ししていると、私は彼の言葉に違和感を覚えました。

 まるでもうしばらくしたら一緒に暮らすかのような口ぶりです。

 どうやら妹の死を受けて流れるかと思われた私の結婚は、妹の喪が明けるまで延期されるに留まったようでした。


 美人な妹の方じゃなくて良かったのか、とは聞けませんでした。


 やがて妹の喪が明けると、本当に私は許婚の元へと嫁ぐことになりました。

 回りの人間の優しさや祝福が、これ程までに後ろめたい物になるとは思いませんでした。


 燈吉は、私が嫁ぐ最後の日まで、まるで私が妹を殺したあの夜の出来事など無かったかのように笑い、私の結婚を祝ってくれました。

 この頃になると、私はあの日私が見た彼は、彼の姿に化けた妖の類ではないのか思い始める程でした。


 嫁ぎ先の人々は、皆私に優しくしてくれました。

 特に義母は、本当に結婚直前で私との婚約を破談にして、妹を嫁に欲しいと言ったらしい人間とは思えない位に良くしてくれました。

 実家にいた頃よりも、大切にされているような気さえしました。

 嫁ぎ先と実家の付き合いも長く、毎年正月には父が家の人間を連れて顔を見せに来ていた事も関係あるのかもしれません。


 やがて私が嫁いで三年が経過し、男の子を産む頃、その家は跡取りの誕生を喜んではいたものの、暗い空気に包まれていました。

 酒を濁らせ腐らせる、火落ちは、三回出せば店が潰れるといい、この年はその三回目を出した年でした。


 一度でも火落ちを出した杜氏は、全員入れ替えて次の年は完全に別の杜氏に酒を造らせることが慣わしだったとはいえ、もう何十年も火落ちを出さずにずっと一緒に酒を造ってきた事もあってか、一回目の時は、同じ杜氏に酒を作らせた。

 二度目の時は流石にまずいと杜氏を全員入れ替え、今度こそはと願い、跡継ぎが生まれたその年、三度目の火落ちを出したその家は、金策に苦慮していました。


 造り酒屋といっても酒を造る酒蔵は女人禁制で入れないので、私は酒造りの事は良くわかりませんが、解る範囲で説明するならば、私の嫁ぎ先は三年目にしてこの有様でした。

 そして方々から借金をして使用人に暇を出し、新たな杜氏を迎え、あらゆる支出を抑えて挑んだ四回目、しかしとうとう私が嫁いでからこの家でまともな酒が造られる事はありませんでした。


 嫁いだばかりの頃、あれ程精気に満ちていた舅姑は、すっかり別人のように落ち込んでしまい、とうとう一家全員で夜逃げをするという段になり、二人で首を吊っているのを夫が発見しました。


 それから私達夫婦は息子を連れて路頭に迷うことになりました。

 町外れの長屋に、内職や日雇いの仕事をして人から隠れるように住み始めました。

 やがてそんな生活にも慣れた頃、ある日突然夫は家に帰らなくなりました。


 いつものように仕事に出かけたきり、何の前触れも無く、音沙汰も無く、夫は消えました。

 今日こそ帰ってくるだろう、明日帰ってくるだろう、と三日が過ぎ、何で自分はこんなめに遭っているんだろうと考えては、きっと罰が当たったのだとその度に強く思うようになりました。


 もういっそ楽になりたいと思いつつも、最近やっと言葉を一言二言話すようになった幼い息子を見るとそれも躊躇われました。

 夫が消えて一週間が経った頃、まだ日も高いうちに戸を叩く音がして、戸に映った影に夫が帰ってきたのかと戸を開ければ、そこに立っていたのはしばらく見ないうちにまた背丈の伸びた燈吉でした。


「ああ、やっと見つけました」

 と笑った彼の笑顔は、あの夜と変わらず優しげなものでした。

 帰ってくれという私の言葉を無視し、私が必死に閉めようとする戸を片手でこじ開け、彼は家の中に入ってきました。


「随分と探したんですよ、借金のことはもう心配しなくて良いので、一旦屋敷に帰りましょう。旦那様方も随分と心配しておられます」

 まるで逃がさないとばかりに私の両手を掴みながら燈吉が言いました。


 夫が帰って来るかもしれないから行けないと私が答えれば、

「でももう一週間も帰って来ていないのでしょう? 今の生活が嫌になって、貴女を捨ててどこか遠くへ逃げてしまったに違いないと、ここの近所の奥方達が噂していましたよ? 彼は貴女に愛想が尽きてしまったのではないですか? ……もう十分じゃないですか?」

 膝を折って聞き分けの悪い子供に言い聞かせるように言う彼に、否定したくても自信を持って言える言葉が見つからず、握られている手を振り払おうにもしっかり握られていて、私はそこから逃げることも出来ませんでした。



 燈吉に半ば強制的に連れ帰られた実家で私がまず驚いたのは、兄が去年死去しており、燈吉が養子として迎え入れられ跡取りとなっていた事でした。


 父はお金の事はもう方々で話は付けてあるから心配しなくていいと言い、三人いた子供を二人亡くした母は、この家で親子一緒に暮らしたいいと言い、特に息子を歓迎してくれました。

 燈吉はただ笑っていました。


 やがて私も息子も落ち着いた頃、私と燈吉は結婚しました。

 式は身内だけのささやかなもので済ませました。

 私が実家に戻り、跡取りが燈吉になっていて、母が息子を熱烈に歓迎していた時点でこうなる事は薄々気付いていたので、その話が出た時も、まあそうなるだろうなとは思っていました。



 兄が死んだのは、燈吉と二人で連れ立って菩提寺に行った際、兄が石段から足を踏み外し、頭を強く打ち付けてしまったからだと聞きました。


 前の夫が帰ってこなくなって調度一週間、どうして燈吉はその日数を知っていたのでしょう。

 私達夫婦は近隣の家とも付き合いを極力避けていましたし、そもそもあの区画の住民は言ってしまえば皆生活に困窮していたので、のん気に私の家の事情をそこまで正確に把握している暇などあるでしょうか。

 していても、そういえば、あそこの旦那の方は最近見ない。と、もっと時間が経ってから噂をしだすのではないでしょうか。


 なぜ、今まで数十年以上も一度として火落ちを出していなかった造り酒屋で、四回も連続して火落ちが出たのでしょう。


 考えないようにはしていても、それらの疑問がよぎる時、どうしても私はあの夜の、自分を兄のように慕っていた少女が目の前で殺されたというのに眉一つ動かさず、それどころかその犯人に優しく微笑みかけてきた彼の様子が思い出されてならないのです。



 彼がその事について私に話したことはありません。


 もう私にはここ以外に行き場などありません。


 結婚して十年以上経った今でも私は、彼に何も訊けないでいます。


 そして今日も彼は私に優しい笑顔を向けるのです。

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