水面を歩く

雪駄

水面を歩く

1.

 水の中にいる。加奈恵にあったのはその感覚だけであった。目を見開いてみると実際にそうだった。子供のころ、プールや海に行って潜っていたときと同じ感覚だ。あたり一面水しかない。青一色の世界に自分しかいなかった。不思議な浮遊感が漂う水中で、分かっていることは自分が浮かんでいることだけだ。光が差し込んでいる方はよく分かった。明るい。その方向に向かっている自分がいる。決して自分の意思ではなくそこに向かっている。浮かんでいる。浮上している。加奈恵は少し安心した。自分が沈んでいるわけではないからだ。暗い所は怖かった。そんな水底に沈んでいるならばもっと取り乱しているところであろう。このよく分からない状況でも自分が正気を保てているのは、自分が向かっている方向を理解しているという点が少なからず影響していることだろう。

 それにしても、自分が置かれているこの状況の理解はできなかった。もしかしたら夢なのかもしれないとも思った。加奈恵は少し自分の手を握ったり開いたりしてみる。自分の意思でしっかり動かすことができる。水の中にいても苦しくない。やはり異常な状況であることはよく分かった。確認するように自分を見てみると、普段の学校の制服だった。お手本のようなセーラー服にお気に入りの髪留め、かばんは持っていない。まあ、なんであろうとも状況は変わらないな……すでにほぼ考えることをやめ、加奈恵は浮かぶにまかせ水面に近づいていた。光はだいぶ近くなっており、徐々に目を開けているのが辛くなってきた。まぶしい。加奈恵はおもむろに目を閉じ、そのまま手で顔を覆った。


2.

 目を開けると加奈恵は水中から水面に出ていた。ベッドで横になったように水面で寝そべっていた。沈んでいない。少しやわらかい地面のような感覚だ。しっかりと自分の体を預けることができた。上体を起こし、立ち上がってみる。水面に立つことができる。なんとも不思議な感じがした。少し水面を足でつついてみる。自分の下には何もないはずなのにその場に立つことができる。水面にはわずかばかりの波紋が広がった。あたり一面を見渡してみると、あたり一面水平線だった。そのほかには何もない。水しかない。よく澄んでおり、美しい水だ。水面はとても静かに揺れており、それと同じように静かな場所である。人っ子一人おらず、鳥も飛んでいない。まるでこの正解と呼応するように、空も雲ひとつ無い快晴だった。空も、地面も何もかも青しかなかった。

 加奈恵は起き上がり、散歩をすることにした。どうせ夢か何かだ。普段の喧騒を忘れて少しばかり非日常に触れようではないか。のんびりとそんなことを考えて水の台地をちゃぷちゃぷと歩き始めた。

 それにしても不思議な世界だ。おそらく自分以外人間はいないであろう世界。いや、自分以外生命がいないであろう世界。静寂に包まれた世界。青一色の世界。形容するにはさまざまな要素があった。足元を見てもやはり水、魚一匹いやしない。空を見ても青、鳥一匹飛んでいない。そして、本当に静かだった。


 水面に上がってきてからどれくらい歩いたか分からなかったが、もうかなり歩いたはずだった。時計を持っていなかったから細かい時間は分からなかったが、一時間以上は経っていたのではないだろうか。そんなことをぼんやり考えていたら、何かが見えてきた。判然としないが、どうやら人のようだ。おそらく椅子に座っている。水面に立つ椅子の上に座っていた。近づくにつれてだんだん姿がはっきり見えてきた。スーツ姿の男、年齢は加奈恵より年上だろう。ダークスーツに藤色と水色のストライプのネクタイを締めている。およそこの世界に似つかわしくないと思ったが、よくよく考えたら加奈恵自身の服装にも言えることだったので口には出さないようにした。男は眠っているようだった。両膝にひじを乗せ、頭をたらし脱力している。足の間にネクタイが垂れ下がっているように見えた。まるで死んでいるようにも見えたが、わずかに吐息を立てているのが聞こえた。わずかな音であったがよく聞こえると感じた。この世界が静か過ぎるせいであった。

「こんにちは」

加奈恵からコミュニケーションを試みた。眠っている男を起こすのは気が引けたが、どうせ自分の夢の住人だと思うと少しは声もかけやすくなった。

 男は一瞬びくっと体を震わし目を覚ました。加奈恵を見てもあまり驚いていないようであったが、気を取り直したと思うと加奈恵の挨拶に答えてきた。

「ああ、こんにちは。あなた、もしかして迷子ですか?」

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