後篇
晴れ間は大分近付いてきたが、相変わらず大粒の雨が地面を叩き、雷は派手に光ったり鳴ったりしている。窓の外から目を彼女の席に戻すと、不意に彼女は立ち上がった。
どこへ?
別の本を探しに?
タバコ?
何か飲み物でも?
だが彼女は『まぁ、いいや』といったふうに視線を斜め上に投げやると、そのまままた席に着いた。気が付くと、僕の心臓はその鼓動をやけに速めている。彼女はただ立ち上がり、そして座っただけだというのに。その何気ないそぶりの一つでさえも、僕を喜ばせ、悩ませ、そして途方に暮れさせる。
おそらく今日も、ふたりは一緒に帰ることになるだろう。そしてやはりいつものように、『もしかしたら?』という淡い期待の下に発した僕の一言は、屈託の無い彼女の笑い声に封されるのに、電車の中では僕の肩にもたれ、少しすると穏やかな寝息だって聞かせるのだ。
苛々してきた僕は、懐かしい感じのソウルミュージックを思い浮かべてみたが、蛍光灯のしらじらしい光にそれはあまりそぐわなかったので、消火器の注意書きでも読んで時を過ごすことにした。こういった、つまらない行動の結果として得られる知識というのも意外に役に立つもので、僕が多少物識りと言われるのは、人よりもこういう時間を日常の中に多く持っている所為だろう。
そしてこの威勢の良い夕立ちがあっけない終焉を迎える頃、館内には閉館15分前のスピーチと音楽が流れた。なかなか粋な図書館で、ドビュッシーなんかを流している。そこらじゅうでバタバタと本を閉じる音がし始めたが、彼女のペンはレポート用紙の上を走り続ける。片思いの至福とでも言おうか、一瞥しただけで僕の中は彼女で溢れるのに、僕はシャッターを開けたままのカメラのように彼女だけを凝視し続ける。『瞬間』という不連続の連続。それはきっと情熱が時を止める証拠。
彼女は遂にペンを置き、ひとつにまとめた髪をバッとほどいた。褐色の肌に細い髪の毛が踊る。どこからともなく小さな鏡を取り出すと、化粧を確認し、『ヨシッ』といったように小さく頷いた。近くの書架に例のミュシャを戻し、散らばったノートやペンを鞄にしまっていく。その一連の動作はまさに流れるように目には映るのだが、時折見せる不器用さが何とも言えず心に残る。
出口へ向かう彼女の後ろに配置を決めると、声をかけるタイミングを見計らった。すると彼女は、意地悪そうに微笑みながら振り返り、「お待たせ!」と言ったのだ。
すっかり雨のあがった街並みは、済んだ空気に覆われていた。その肌寒さが、彼女を僕に寄り添わせる。並んだ影は長く、時にそれはひとつになったりもした。会話は弾まなかったが、消火器の話はしないでおいた。彼女は、虹なんかかかっていないのに、オーバーザレインボウを口ずさんでいる。そして、ふたりを乗せた電車が走り去ると、駅のホームには柔らかい西日だけが残った。
夕立 不来方右京 @naoyuking
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