夕立
不来方右京
前篇
雨足の強さに雷までも加わって、雨にありがちなさめざめとした感じを打ち消してしまっていた。妙に華々しい雨。
素知らぬ顔で晴れている西の空に背を向けて、僕は立っている。鞄の中を覗くと、不機嫌そうな折り畳み傘と目が合った。雨宿りと称して偶然の出会いを狙う下心を読まれてしまったのか。
やかましい外に対して、ガラス一枚隔てた図書館の中は静けさが聞こえるほど。頭の中では『サマータイム』が流れ始めた。オスカー・ピーターソンのピアノ版のやつだ。ロビーの方では、動機はどうあれ、『雨宿り』をする人たちのひそひそとした話し声が、高い天井にゆっくりと反響している。実際僕はその状況を気に入っていたが、『サマータイム』が鼻歌に出てしまい、周囲の静けさを乱すとちょっと不機嫌になった。そのままそっと目を閉じると、再び静寂が辺りを支配した。
その時僕は19歳で、踏み慣れないキャンパスの土と自分の足との隙間を埋めようと、やっきになっている頃だった。はやる思いと、煮え切らないアクション。ある意味前向きだったと確かに思うが、今になってみるとそれはただ闇雲だっただけで、『前』という方向についてなど、無かったように思う。そう、『楽しいか楽しくないか』を考えるよりも『楽しもう』としたし、『できるかどうか』よりも『やってみよう』が、行動における規範であった。
とにかくその闇雲な19歳は、フランス文学全集か何かの棚に寄りかかり、途方に暮れたふりをしている訳である。
閉館まで、あと2時間はゆうにある。意中の女(ひと)は、まだその手を休める気配は無い。『Mucha』と書かれた豪華な本のページを前に後ろにめくり、何かをノートに書き込んでいる。
美しかった。
時々宙を泳ぐ視線、一心不乱に書き込む仕草、苛立って鉛筆を回す長い指、肘をついて顔を乗せた細い手首。
『美』というもの、例えばそれを芸術などで表現した場合においても、問題は『美しいかどうか』という結果であって、『なぜ美しいのか』ではないのだ。彼女という人間が『美しい』という結果は、見た目そのままにそこにあり、決してそれ以上でも以下でもない、事実と真実の奇妙な結晶なのだ。彼女を解剖したところで、その原因も理由も分かる由はない。だって、そんなものは初めから無いのだから。
今日4つめの「傘がないのなら一緒に・・・」を丁重にやり過ごし、来たるべき偶然に備えて色々と策を練った。その緻密な計算といったら、これを恋と呼ぶのをためらってしまうほど。彼女への憧憬が募っていく中で、僕は急速に自分というものの自信を失っていく。今僕が盲信する彼女が選ぶのは、一体どんな人だろう? 僕というものを拒否されるのが怖くて、自分を見せられなかった。未知数、可能性といった言葉に甘えていた。0かもしれないと同時に、それが100である可能性を否定できない今の曖昧な状態で、僕の心は何とか安定を保っていた。
とにかく、諸々の思いが交錯する中で、その作られた偶然は日毎に増えていく。昨日よりもちょっと多く、明日よりもちょっと少なくといった具合に。
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