そして、現在

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「守哉が意識を失うまでの記録は以上です。再生を終了します」

「……ありがとう、アイリさん。天橋さんのこと、教えてくれて。博士の最期の言葉も……」

 未那美は、声を詰まらせた。

 ナミシステムを破壊して一週間が経過したが、守哉は目を覚まさない。限界を超えて戦い続けた守哉のダメージは、記憶を失うきっかけとなった恭介との戦いで受けたそれよりも深刻だ。

アイリは一時的にオーダーの権限を未那美に与え、未那美の要請に応じ、彼女の話し相手となっていた。未那美が守哉のそばから片時も離れず、寝食も忘れるほどであり、このままでは守哉が最も重視する要素である『伊佐未那美の幸福』が損なわれる恐れがあったためだ。

 現在、天橋家にいるのは、守哉、綾、未那美、恭介の四人だけである。一之瀬、相馬、御角は、新しい住居が見つかるまで親方の家に仮住まいすることになった。長官である伊佐は、創清にある神威ノ宮本部に呼び出されている。

「天橋さんは……目を、覚ましますよね?」

「可能性は低いです」

「……そうですか」

 未那美は同じ質問を何度も繰り返す。そのたびにアイリは同じ答えを返す。

 聡明な彼女のことだから、アイリが同じ質問に対しては同じ答えしか返せないことはわかっているだろう。しかし、それでも同じ問いを繰り返すのだから、そこには何らかの感情的な意図があるのだろうが、アイリには未那美の感情を推測することはできない。その機能は搭載されていない。

「わたし、がんばって生きなくちゃ。長生きしなきゃ。しわしわのおばあさんになるまで生きて、幸せになって、天国で淡路博士に会うときに、笑顔でありがとうって言えるように……」

 守哉のまぶたが閉ざされているため、アイリは視覚情報を得られないが、今の未那美は嗚咽し、しゃくりあげていると推測される。聞こえてくる未那美の声は、アイリにインプットされている一般的な『幸福』の定義からはかけ離れている。これでは、守哉が最も重要視する『伊佐未那美の幸福』が損なわれてしまう。早急に何らかの対処が必要だ。

「伊佐未那美にとって、幸福とはどのようなものですか?」

「え?」

 未那美は驚きの声を上げた。そして、しばらくの沈黙のあと、答えた。

「わたしの、幸福は……大切な人たちと一緒に生きていく未来です」

「回答が抽象的すぎます。より具体的な回答を求めます」

「ぐ、具体的にと言われても……」

「では、どうすればあなたは幸福になりますか?」

「どうすれば……って……あ、そうだ、えっと……」

 ゴソゴソと何かを探す音。未那美が懐から何かを取り出したようだ。

「アイリさんは、このハンカチのこと、わかりますか?」

「守哉のまぶたが閉じられているため、認識できません」

「……青い、ハンカチです」

「青いハンカチ、検索します」

 記録を検索すると、ハンカチの情報はすぐに出てきた。守哉が体験したことは、アイリのメモリーにも保存されている。しかし、その記録を守哉の脳にインプットし直すことはできない。機械の記録の保存形式と、人間の記憶の保存形式は異なるからだ。

「検索終了。青いハンカチは、守哉が伊佐未那美に贈与したものです」

「そう、です」

 記録を呼び出すまでもなく、未那美が語り始めた。

「私が、淡路博士の忘れ物を届けようとあの部屋を出たときに、たまたま天橋さんに出会ったんです。それから何度か、淡路博士やお父さん、綿津野博士に隠れてこっそり会って。二人だけの秘密なんて、物語の主人公になれたみたいで、とてもどきどきしました。同い年の人と知り合うなんて初めてだったから。会える日は楽しくて、会えない日も楽しくて……あのとき、わたしは幸福でした。だから、わたし……調子に乗ってたんです。言っちゃいけないことを、言ってしまったんです」

 人間風に言えば、心当たりがある。彼女が『言っちゃいけないこと』だという発言は、アイリに残る記録の中でも最重要とされている。

「あなたは、『わたし、もうすぐナミになるんです。だから、もう一緒にいられません』と発言しました。その言葉が、守哉を動かしました。天橋綾がナミシステムのコアとならなくとも、いずれあなたがコアとなるという事実が、守哉の心を打ちのめしました。そして守哉は、あなたを神威ノ宮から脱出させるという淡路博士の計画に乗ることを決めました」

「……そう、ですよね。やっぱり、わたしのせい。わたしが余計なことを言わなければ、天橋さんが記憶を失うことも、鹿島さんと戦うことも、こんなに、ぼろぼろに、なることも……」

 未那美の声はどんどん小さくなっていく。

「自分自身の破損について、守哉に後悔はありません。伊佐未那美と天橋綾を守ることができ、守哉の望みは叶えられました」

「でも、わたしは! わたしは後悔してるんですっ! わたしのせいで、こんなことになって……! わたしは、天橋さんに無事でいてほしかった!」

「では、守哉が目覚めれば、あなたは幸福になりますか?」

 その問いに未那美は驚いたのか、声の調子が変わった。

「天橋さんを目覚めさせる方法があるんですかっ!?」

 目覚める可能性があるか、ではなく、目覚めさせる方法があるか。自然治癒ではなく、こちらからアプローチする方法があるのかどうか――それが、未那美が本当に問いたいことだったのだと理解した。また、今の会話内容からは、未那美の幸福には守哉の存在が不可欠であるという結論が導かれる。ならば、アイリには守哉を目覚めさせる義務がある。

「検討します。しばらくお待ち下さい」

 守哉の手に、温かい何かが触れる。おそらく未那美の手だろう。

「天橋さん、目を覚ましてください……」

 守哉が目を覚まさなければ、アイリの存在意義もまた、ない。いかに可能性が低くとも、その可能性に賭けなければならない。アイリは、自分自身が発熱するほどに機能をフル稼働させ――一つだけ、手がかりを得た。

「自我を呼び戻す最も効果的な方法は、名前を呼ぶことです」

「名前……」

「はい」

「……名前。そうだった。わたしも、あのとき……ナミシステムと同化しかけていたとき、天橋さんの声が聞こえたんです。未那美、って。それで、目が覚めて……」

 未那美が、守哉の手をいっそう強く握った。

「もりや……さん。守哉さん、守哉さん」

 紡がれる言葉は、まるで祈りのようだった。

「守哉さん、目を覚ましてください。綾さんも待ってます。鹿島さんも、待ってます」

「守哉、目を覚ましてください」

 アイリも、未那美と共に守哉の名を呼ぶ。未那美の願いが、守哉に届くように。

「たとえ守哉さんがまた記憶を失っても、わたしが支えます……わたしでよければ、支えます。わたしも、守哉さんの助けになりたい」

「守哉、伊佐未那美の幸福を成就させるには、あなたが必要です。目覚めてください、守哉」

「守哉さん、目を開けて!」

 動かぬ手に、熱い雫がぽとりと落ちた。




――カーテンの隙間から、朝の光が差し込んだのがわかった。

 驚き、固まり、涙を流し、顔をくしゃくしゃにして笑う、未那美の顔を――視認した。

「未……那美……?」

 守哉が、上体を起こした。意識はまだ朦朧としているようだが、寝起きのそれと大差ない。すぐに、意味記憶とエピソード記憶の損傷をチェックする。

「守哉さんっ!!」

 勢い良く抱きついた未那美の体温を感じ、守哉の心臓が早鐘を打つ。

「み、未那美。痛いんだが」

「わたしのこと、わかりますか? 綾さんや鹿島さんのこともわかりますか?」

 チェックが終了した。すべての問題はクリアされた。記憶に損傷が起きない可能性は極めて低かったにもかかわらず――

「……ああ、大丈夫だ」

 守哉は、右こめかみを押さえた。盾ごしに、アイリの熱を感じたことに驚いている。

「俺は、大丈夫だ。でも……博士が」

 守哉から体を離すと、未那美はふるふると首を振った。

「博士の想いは、これからも、わたしとともにあります。ずっと――永遠とわに」

 涙腺が、燃えるように熱い。守哉は俯いて、肩を震わせた。

「わたし、自分で考えて決めました。博士が守ってくれた未来を、生き抜くって。しわしわのおばあちゃんになるまで生きるって」

 未那美は手に持っていた青いハンカチで守哉の涙を拭うと、守哉の手のひらにハンカチをそっと押し込んだ。

「綾さんと鹿島さんを呼んできます。一之瀬さんたちも」

 泣き腫らした目を細めて、未那美は足早に守哉の部屋を出て行った。

 それからしばらくは、すすり泣く声だけが聞こえてきたが、ふと、守哉の思考に疑問が生じた。アイリは守哉のオーダーを読み取り、答えを返す。

「本日は二〇五六年五月二十六日。現在時刻、午前七時十二分」

「……わざわざありがとう、アイリ」

「はい。どういたしまして」

 定型文として登録された言葉を返すと、守哉はなぜか微笑み、盾の上からアイリを撫でた。

 階下から、誰かが慌てて階段を駆け上がってくる音と、守哉の名を呼ぶ声が聞こえてくる。隠しきれない喜びを滲ませた声。部屋の扉が勢い良く開け放たれると、頬を紅潮させ、ぼろぼろと涙をこぼす綾の姿があった。次いで現れた未那美も、恭介も、泣いている。

 守哉の心の中は、少しの悲しみと、多くの喜びに満ちている。

 今の守哉の感情が、アイリの――『私』のメモリーに記録された。そして、確定した情報が学習機能に刻み込まれる。

 私が生まれたのは、この感情を守るためだったのだと。

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アイリバース 遠野朝里 @tohno_asari

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