第2話 新しい事業を始めます

 時間をもう一度、新婚旅行のあの日に戻そう。


 京太郎の捜索が始まって2日が経過した。ナナミは、京太郎の捜索の継続や、旅館の賠償責任の交渉を行うために、一旦自宅へと帰った。家ではアヤが待っていた。メイドのコスプレをして、料理をつくっていた。

 ナナミは、旅行鞄を2つ、寝室に投げ捨てた。自分の鞄と、京太郎の鞄。そのまま、ダイニングテーブルで頬づえをついた。アヤが台所から声をかける。

「ナナちゃん、旅行、大変だったね」

「うん」

「京ちゃん、きっと見つかるよ」

「うん」

「ナナちゃん」

「うん」

「泣いてもいいんだよ」

「う…ん…」

 ナナミはテーブルに顔を伏した。部屋に響く鼻をすする音。それと、小さな嗚咽。しっかり者の姉が落ち込む姿などいつぶりだろうかと、アヤは圧力鍋から豚の角煮を引き揚げながら思う。

「この豚ブロックは炭酸水で煮たからトロトロになってるよ。ナナちゃん好きだったよね。お母さんにレシピ聞いて、お昼くらいから作ってるから美味しいよ。豚汁とポテトサラダもあるよ。それからそれから」

 菜箸で鍋をかき混ぜながら、アヤはゆらゆらと腰を揺らす。

「アヤ」

「なーに?」

「ごめんね」

 アヤは振り返らずに、フリルのついた袖をまくり、左手を掲げた。

 とその時、ドアのチャイムが鳴った。

「私見てくるから、ナナちゃんは座ってて」

 アヤは、ダイニングを出て、玄関に向かった。

「どなたですか?」

 と尋ねるも、返事は無い。

「あのー?」

 それでも返事は無い。ドアスコープを覗くと、人が立っている。髪の毛も、洋服も、濡れて身体にはりついている。うつむいていて顔は見えないが、雰囲気に覚えがあった。

「え…まさか…?」

 アヤはドアを開けた。その声に、ナナミが飛んで玄関に駆けつける。

「京ちゃんだよね!?」

 アヤの声に反応して、目の前の男は顔を上げた。

「ウゥゥゥゥゥ」

 その男は、京太郎だった。北海道で海に投げ出されたはずの京太郎だった、のだが。

「きょ、きょ、ね、ね、ね…」

 と言って、アヤは直立不動の姿勢で、後ろに倒れた。その身体を、キャッチするナナミ。そして、京太郎の顔を確認した。顔は青白く、目には白い膜がかかり、焦点が合わず、そして、口に巨大なドブネズミを咥えていた。


 京太郎は帰ってきたのだ。北海道の海から、ナナミと一緒に暮らす家へと。しかし、彼は異形の生物へと進化(?)を遂げていた。あらゆる動作がのろく、内股で歩く、食欲旺盛な異形の生物へと。


「京ちゃん…」

「ウゥゥゥゥゥ」

「ゾンビ…になっちゃったの?」



* 



 鳩捕食事件から数日経ったある日、ナナミと京太郎が住む家にカオルが遊びに来ていた。京太郎はというと、カオルが新しく調達してきたSM用の手錠で風呂場のドアノブにつながれている。

「あの手錠はさ~、姉貴に教えてもらった店で買った本格的なやつだから、絶対大丈夫だよ」

「カオル君のお姉ちゃんて何してるんだったっけ」

「アロマセラピスト」

「…」

 ナナミはキーボードを打つ手を止めて、カオルの顔をマジマジと眺めた。ディスプレイには、オンラインゲーム『ウルティモオンライン』の画面が映し出されている。

「え、なに、疑ってんの?大丈夫だって今度は!」

「心配だなぁ」

「それよりさ、京太郎はあれからどうなのよ?」

「暴れたりはないよ。お惣菜をたくさん食べさせてるから。でもやっぱり、生きてるものを食べたいみたい」

「げ」

「ためしにペット屋さんで活餌を買って来たの」

「活餌って何?」

「マウス」

「げげげ」

「凄くおいしそうに食べたんだよね」

「蛇かよ…」

 風呂場のほうで、うーー、と京太郎のうめき声が聞こえた。肩をすぼめるカオル。

「これはまだ分かんないんだけどね。やっぱり京ちゃんの食べ物はできるだけ生きた哺乳類がいいんだよ。それに、究極的には…」

「究極的には何?」

「言わなくても分かるでしょ。映画とか、ゲームとか、よくあるじゃん。京ちゃんはゾンビになったんだよ」

「分かんねーよ。知らねーよ。詳しくねーよ」

「人間を餌にするのがいいんだと思う」

「俺、帰ります」

 カオルは勢いよく立ち上がり、同じほうの手と足を出して、歩き出した。

「帰っちゃダメだって!カオル君も手伝ってくれるって、約束したじゃん!」

「いやー無理無理無理。何いってんの!人間を餌にって!なんか色々絶対にヤバいって!」

「分かってるけど!」

 ナナミはノートパソコンを閉じ、ちゃぶ台を抑えて立ち上がった。

 ナナミの携帯電話の画面にメッセージが浮かび上がった。


>>京太郎:おなかすいた


 ため息をつき、冷蔵庫に向かうナナミ。ジオンモールで貰ってきた惣菜を、二つ、三つと取り出す。

「京ちゃんが食べてもいい人なんて、ないよね」

「…ナナミちゃん」

「なに?」

「なくはない」

「うそ」



* 



「君がナナミちゃんかい!ものごっつカワイイやん!はー!カオルもこんなお嫁さんもらわなあかんな!」

 エレベーターもない雑居ビルの2階。両側、後ろと巨大なビルに囲まれ、一切の光が差し込まないため、茨城法律事務所はいつもかび臭いよどんだ空気が漂っている。

「ナナミちゃんはお金に困ってへんか!? 困ってへん!?おっちゃんは金払いのいい業者を知っとるさかいな!なんぼでも稼がしたるで!人妻ウェルカムやからいつでも言うてきいや!お風呂屋さんやけどな!はっはっは!」

 書類とファイルが山積みになった机を挟んで、カオルの叔父の茨城亀太郎と、カオル・ナナミが向かい合っている。

 亀太郎は紫色のスーツのポケットから煙草を取り出し、口にくわえ、ゴマ塩の髪をぐしゃぐしゃと掻いた。

「ほんでその、ゾンビっちゅうのやけどな」

「叔父さん、ほんとなんだって。京太郎が北海道の海に落ちて、帰って来たらゾンビになってたんだって」

「アメリカのドラマの見過ぎじゃアホ」

 ナナミは携帯電話を取り出して、京太郎の捕食シーンの動画を映した。

「茨城先生、本当なんです。本人を見てもらったほうが早いけど、とりあえず、これ」

 動画が再生される。ぶちぶちぶち、ぼきぼきぼき、ぐわっしゃ、ぐわっしゃという音と共に、京太郎の胃袋に餌がおさまっていく。ナナミの携帯電話をのぞき込んでいた亀太郎の口から煙草がこぼれ落ちた。

「な、なんやこれ。何くうてんねん」

「マウスです」

「ひぃぃぃぃぃぃぃ」

「な、おじさん、ほんとだろ?」

 どや顔で笑うカオルの頭を、亀太郎は思いっきりはたいた。

「いてぇぇぇぇ」

「おいカオル、なんちゅうもん見せにきとんねん。どないしろっちゅうねんこんなもん。行くとこ間違っとるで。弁護士事務所やのうて、病院か、研究所か、厚生局でも行ってこいや」

「そういうところに、行きたくないんです。私、京太郎さんと一緒に暮らしたいから。ゾンビになっても、京太郎さんと暮らしたいから」

「…カオル、われとんでもない厄介を連れてきよったな」

「おじさん、今日来たのは京太郎の食べてる餌のことなんだけど」

「わしに実験用のネズミの卸業者紹介してくれとでも言うんかい」

「そうじゃなくて。もっとでかい生き物」

「なんや」

「人間なんだけど」

 亀太郎は椅子から転げ落ちた。

「帰れボケ!」

「話を聞いて!」

「わしの辞書にカニバリズムの儀式の仕方なんて載っとらんのじゃ!帰れ!」

「俺がおじさんから頼まれてた仕事あるだろ!」

「あー!?」

「俺のトラックで死体を運んでただろ!」

 亀太郎は起き上がって、震える手で煙草をくわえ直した。

「なんや、お前にも2割の取り分やっとったやろ」

「あれの死体を京太郎に食べさせようと思ってんだ」

「…われ、本気か」

 カオルはナナミのほうを見た。ナナミは深く息を吸った後、頷いた。

「バケモンに食わせるんか…。骨まで食うてくれるんか?後残らんのか?残さず綺麗さっぱり?あぁそう、そら行儀のよろしいこったなぁ…。そらええねんけど、あの商売はもうあかんねん。わしが組から仕事受けて、人工骨をつくっとる工場の超高温炉で焼いとったんやけどな、当局から目つけられてもうた。わしの事務所も製作所も警察の手が入ってもうた。監視されとるかもしれんから、お客さんと連絡できへんのや」

「連絡」

「そう。メールなんていつ内容が流出するかわからんやろ。かといって、鳩使うわけにもいかんわな。しばらくはあかんで」

「安全な連絡手段があればいいんですね」

「せや。ん、なんや」

「あります、手段」



* 



 「みなさん、本日はお集まり頂きありがとうございます。ギルド『ONIKU』の立ち上げです。ご存じのとおり、茨城先生とやり取りされていた死体処理についての依頼は、このゲーム内チャットを使って承ります。代金の受け取りも、ゲーム内通貨で行います。依頼の手順や料金について、先ほどお配りしたアイテムの日記帳に書かれていますのでご参照ください」

 

 オンラインゲームのウルティモオンラインのフィールドに、ナナミのキャラクターを中心にして、20名ほどのキャラクターが集まっている。どれも皆、亀太郎の顧客、つまり組関係者、闇医者、ドラックディーラーなど、堅気ではない人間が操作するキャラクターたちである。


「こんなにたくさんキャラクター集まってる!茨城先生、ほんとにありがとうございます!これで京ちゃんに美味しいものを食べさせてあげられる!」


 茨城法律事務所でノートパソコンを広げながら、ナナミは手を叩いて喜んだ。その後ろでコーヒーを飲む亀太郎とカオルは、喜々としてキーボードを打つナナミを見て、口をゆがめた。


「なあカオルよ」

「うん」

「わしが言うのもなんやけどな、付き合う人間考えなあかんで」

「うん」


 こうして、愛する京太郎に美味しいものを食べてほしいという一心で、ナナミの死体処理事業は華々しいスタートを切ったのである。

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