夫のはらわた!
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第1話 真実の愛って何ですか
『慎重になり過ぎることは無い』がモットーで、石橋をハンマーで叩いて結局渡らない、そんな人生を歩んできた藍川ナナミが悔やんでも悔やみきれない事件は、夫である京太郎との新婚旅行で起こった。
北海道の温泉宿で一泊したナナミと京太郎。部屋で夕食を食べ、食後に海岸を散歩し、部屋に戻ったのは夜の八時。二人は風呂へ向かった。
その晩は特別であった。
結婚するまでの交際期間、2人は一度もSEXをしていなかった。婚前交渉をしない、それが真実の愛を確かめるために、付き合うための条件としてナナミが京太郎に出した条件だった。京太郎は渋々ながらもこれを承諾。2人はSEXなしの純粋な愛を育んだ。
この新婚旅行が、2人が初めて寝具を共にする時間だった。食事をしている時も、散歩をしている時も、言葉に出さなくても、お互いに、気まずいような、照れくさいような、色々な感情をうちに秘めていた。
ナナミが風呂から戻ると、京太郎は窓の柵にひじをかけて、海を眺めていた。
「よ、よー。お帰り」
「う、うん」
そんなやり取りを交わし、ナナミは布団の上にちょこんと正座した。肩をすぼめ、膝に手を置き、息を潜める。栗色の髪は少し濡れていて、浴衣からのぞく白い肌にはうっすらと汗がにじむ。浴衣の帯には、京太郎が万一持ってこなかった時のためのコンドームが挟まれている。
ナナミは今まで何千回とシミュレーションしてきたのだ。事に至るプロセス、愛撫の仕方・され方、正しい声の出し方、ちょっと嫌がるときのフレーズ、もっと欲しがるときのフレーズなど、もし何がこうしてアレした時のあらゆる可能性をリスト化し、家のベットで傾向と対策を準備してきたのだ。
かたや京太郎はというと、そんなナナミの研究成果など知る由もない。24歳、未だ女を知らず。何をどうして、どこをアレすればよいのか、それがもうさっぱり分からない。
しかし、いつまでも女の子を待たすわけにはいかない。据え膳食わぬは何とやら。浴衣を着たカワイイ女の子が目の前にいるのに何もしないなんて男がすたる。
あーだこーだ逡巡したまま、とはいえ自身に気合いを入れようと、窓の柵を思いっきり押し出して立ち上がろうとしたのが、京太郎の運の尽きであった。けっして、明治元年に宮大工によって建てられた歴史感じる部屋などではなく、和洋折衷の大層洒落たイマドキの部屋であったのだが、京太郎が力を入れた柵は脆くも崩れた。勢い余った彼は、冷たい北海道の海へと投げ出された。
「京ちゃん!」
というナナミの悲鳴が雲一つない夜空に響いた。
その晩、地元の漁師と海上保安部の巡視船が京太郎を探したが、見つからなかった。
ナナミは後悔した。なぜ部屋に入った時に柵の強度を確認しなかったのか、なぜ自分が早く風呂から上がって京太郎を待たなかったのか、なぜこの旅館を選んでしまったのか。
かくしてナナミは結婚そうそう未亡人。亡くした夫を思い出しながら、残りの人生をまっとうするはずだった。
*
「須藤さんは2番レジ、宮田さんは5番レジ、それで、藍川さんは1番レジ。須藤さんと宮田さんはスキャンで追加で入って2人体制で。藍川さんは堀内さんと交代で入って、堀内さんにはそのまま12番レジに移動するように伝えてください」
「分かりました」
「藍川さん、あなたが入ったらすぐにアナウンスしますから」
「まっかせてください!」
12月30日の夕方。年末のジオンモールの食料品売り場は、正月の準備をする客で溢れていた。父親がカートをひき、母親が子供をあやす。セールス品の棚のまわりに人だかりができ、客で埋まった通路をワゴンをひいた店員が行き交う。
荷下ろしを終えたナナミは、店長の指示に従って1番レジへ向かった。
客の列が酒・飲料の棚の端に届くほどに伸びている。
「堀内さん!ここ、私がやります!堀内さんは12番をお願いします!」
「ナナミちゃん、ようやく来てくれたのね!もう、ここ大変!あと任せるわ!」
ナナミがレジに入ると、店長のアナウンスが流れた。
「ジオンモールにお越し頂き誠にありがとうございます。店内、大変混雑しております。奥のレジが比較的空いておりますので、そちらをご利用ください。また、1番レジがジオンモール最速のレジでございますので、多少列が長くても、そちらをご利用ください」
藍川ナナミ、人呼んで『ジオンモールの最終兵器』。
ある人は言う。ナナミのレジ打ちの速度は人の技ではないと。彼女のスキャンの速度とは、すなわち、機械の限界速度である。ナナミの本当の速度には、未だ機械は追い付いていない。
ナナミのレジに足を踏み込んだ客は目撃する。商品の残像がスキャナーを通過し、テトリスのごとくかごに詰められていくその様を。
「いらっしゃいませ!まずはお財布とポイントカードをご用意ください!」
その声のあとには、200BPMの速度で”ピッ”の音が刻まれるのみ。
全ての製品のバーコードの位置を記憶し、素早い腕の動きで商品を移動させ、正確無比にかごに積んでいく技術を、ナナミはコンシューマーゲームから学んだ。彼女はゲーマーであった。RPGで培った記憶力、シューティングゲームで培った正確性、パズルゲームで培った反射神経、その全てを駆使することで、彼女はジオンモールの頂点に君臨しているのだ。
「藍川さん、本当に助かるよ」
アナウンスを終えた店長が1番レジまでやってきて、ナナミに声をかけた。
「店長、任せてください!この店の全ての商品をスキャンしてみせますよ!」
「あ、うん、その、そんなにスキャンしなくてもいいんだけどね」
喋っている間も、200BPMの”ピッ”の音が途切れることは無い。
「藍川さん、最後までいますよね。帰りに、お惣菜、高いやつでも何でもいいから、持って帰ってくださいよ。旦那さん、たくさん食べるんでしょう?」
「あー、えー、はい、そうですね、たくさん食べますね、ありがとうございます、はははは」
*
「それじゃあ、お疲れ様でした~」
買い物袋に鶏の照り焼き、ローストビーフ、ハンバーグ、とんかつ、ステーキといった惣菜をパンパンに詰め込み、ナナミはジオンモールの裏口から自転車置き場へ向かう。自転車置き場の蛍光灯の光に蛾が群がり、その蛾をとらえようと蜘蛛が糸を吐き、さらにその蜘蛛を狙った猫が自転車のサドルの上で身構える。
静かな夜。
鍵を取り出そうと鞄に手を入れると、中の携帯電話が震えた。妹のアヤからの着信だった。
「ナナちゃん大変!お風呂場でガタンって音が鳴って、中のぞいたら手錠外れてて、扉べとべとしてるし、玄関のスリッパばらばらだし、警察呼ぶわけにもいかないし、もうわかんない!」
「アヤ、アヤ!落ち着いて!アヤが何言ってるかわかんないよ!京ちゃんがどうしたの!?」
「外出ちゃった」
*
自転車を飛ばして3分。自宅にたどり着いたナナミの目に飛び込んだのは、アパート前の公園で、腕をぶんぶん振り回し、大量の鳩と戯れる男。いや、戯れているのではなく、鳩を捕まえている。そして、一匹捕まえては噛りつき、また一匹捕まえては噛りつく。ぼさぼさの髪を振り乱し、唸り声を上げている男は、ナナミの夫、京太郎である。
「京ちゃん!京ちゃん!外出ちゃダメだって!鳩さん食べちゃダメだって!私がいっぱいお肉を持って帰ってきたから!野生のお肉食べなくても大丈夫だから!」
「ウグォぉぉぉぉぉ!」
「ほーら!ほーら!こっち見て!ロースビーフだよ!とんかつもあるよ!」
ナナミは買い物袋から惣菜取り出し、京太郎の足元に投げた。
「ウゴォォォ」
口の回りには鳩の羽が付着し、口からは血がしたたる。京太郎は鳩を両手に握り締めたまま、足元の惣菜を眺めた。
「ほらほら!こっちのお肉食べよ!お肉食べよ!お肉肉肉肉!」
公園の横に一台のバイクが止まった。ヘルメットを脱ぎ、ナナミのもとへ走ってきたのは金髪の男。
「ナナミちゃん!京太郎が逃げ出したってメッセージ来たけどマジ…ってこれ何ごと!?え、鳩!?鳩の死体!?京太郎が食ってんの!?」
この落ち着きのない男は、京太郎の親友で、トラックの運転手として働く茨城カオル。金色に染めた髪は地毛の黒色が占める割合のほうが多いが、本人はそれが調子に乗っていない感じがして何かカッコいい、と思っている。
「カオルくん!京ちゃんが逃げ出しちゃった!だからドンテ・ホークで買ったSM用の手錠じゃダメだって言ったじゃん!」
「だって、本物なんてどこで手に入るかしらないしさ~!てか、早く家に戻さないとヤバくない!?」
「ヤバいの!通報とかされる前に家に戻すの!カオルくん、シャベル持ってきた!?」
「爺さんの納屋からパクってきた!で、どこをやればいい!?」
「頭!」
「頭!?」
「それ以外は効果無いから!」
「いいのか、その、旦那のド頭叩いて!?」
「だって仕方ないじゃん!一回暴走したら、京ちゃん止まんないんだもん!」
「ウグォォォォォォォォォォォオ!」
京太郎は、また、手に握りしめた鳩を食べ始めた。
「じ、地獄だなこれ…」
「いいからカオルくん早く!」
「ああ、分かった!京太郎、かんべんな!」
そういうと、カオルはシャベルを上段に構え、京太郎の頭めがけて振り下ろした。
「ウグォォォォォォォォォォォオオオオオ!」
「うっそ元気!?」
「あーもーダメじゃん!」
と叫びながら、ナナミの頭には一つの手段が浮かんでいた。以前暴走した時に、それを鎮圧した一つの手段が。だが、それをするには、覚悟が必要だ。ナナミは試されている。ゾンビになった夫に対する真実の愛を。
「カオルくん、京ちゃんを後ろから羽交い絞めにして!」
「ええ、うん、いいけど、じゃあこれ!シャベル!」
「いらない!」
カオルは京太郎の後ろに回り、はがいじめにした。京太郎が暴れると、握りしめられ鳩から血が飛び散り、カオルの身体を濡らす。
「ぎゃああキモイキモイ!」
「我慢して!」
ナナミは買い物袋から惣菜を全て取り出し、袋の端と端を持って正面に構えた。
「京ちゃん、大好きだよ」
そういって、袋を京太郎の口に当て、ゆっくり、その上から、キスをした。
「ウグォォォォォ…ォォォ…ォォ…」
京太郎の手からぼろぼろになった鳩が落ちた。カオルに羽交い絞めにされたまま、腕から力が抜け、だらりと揺れた。
「き、き、キスぅ、ぅ、う、うぉぇぇぇぇぇぇ」
カオルは色々とショックで、その場にしゃがみ込んだ。
京太郎は青白い顔をナナミのほうに向けた。
「京ちゃん、落ち着いた?」
京太郎はしばらくナナミを見つめたあと、ゆっくりとした動作で、ズボンのポケットから携帯電話を取り出した。そして、これまたゆっくりとした動作で、携帯電話をいじり始めた。
ナナミの携帯電話が振動した。画面には一件のメッセージ。
>>京太郎:まじごめん
ナナミはにっこりと笑った。
「お家帰ってお肉食べよ」
そのあと、ナナミとカオルは必死に散らばった鳩を始末した。が、この鳩捕食事件によって、京太郎の存在が近隣住民に知られるまで、そんなに時間が掛からなかったのは言うまでもない。
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