第9話(最終話) 琥珀と螺鈿


森の中でもやや開けた場所に琥珀と手傷を負った饗談の男が向かい合って立っていた。二人の間の距離はおよそ

十間(約18m)、すぐさま駈け出しても何かができる距離ではない。男は血まみれの布に包まれた左手首をかばうように押さえており、琥珀は樹木の太い幹に右腕で自分の身体を支えるように立っていた。彼女見える範囲には一人しか見えないが、さらに三人がこの場に伏せていることに彼女は気づいているようだった。


「この場に他にも三人いるのはわかってる、隠れてないで出てきたらどうなんだい?」

「…」

「我らの仲間を殺ったのはお主か?」


手傷を負った男の背後の茂みの奥から声がした。例の饗談の頭領だった。彼は自身が予備兵力になると決めたはずだったが、実際に少女の姿を目の当たりにしてにわかに心が変わったのだろうか。琥珀が彼の言葉の後をつなげる。


「そうだよ、あたしがみんな殺った」

「ほぅ、華奢な体でしかも片目とは…それほどヤルというわけか」

「そこそこね…もっとも、あんたの期待に応えられる技かどうかは知らないけどね」

「試みに聞くが、六人もの同時の仕掛けをどうやってさばいたのだ?かの六名はなまなかな相手ではなかったはずだが?」

「そんなこと聞いてどうすんのさ…この森から生きて出られないのに」

「ふふっ…ずいぶんな自信だな、だがだいぶ疲労している様子、これ以上の戦いに身体がもつかな?」

「ハッ…まあ、やってみるさ、おしゃべりは女の仕事だろ?もう終わりにしよう」


琥珀は発言の終わりと同時に樹木の幹から体を離し、開けた場所の中心に向かってゆっくり歩きだした。そして彼女の行動をきっかけに、一瞬にして広場の気配がムっと殺気で満ちあふれた。本当は琥珀にとっては時間をかけたほうが幻蔵達がやってくる時間を稼げて利点しかなかいはずだったが、彼女はあくまで自分自身の力だけで決着をつけるつもりだった。さっきの男の鋼の甲による“当て”のせいで目が霞む。疲労度や身体の具合からみてすぐにでもしかけないと、もう持たない。敵の頭領の言ったとおりだった。だが、戦いはすぐには始まらなかった。頭領は、まだ何やら演説したいようだった。


「まあ、待て、お主の力量のおおまかなことはお主の目の前の男から聞いておる。そこでだ…」


琥珀は歩みを止めた。彼女が現れた樹木から二間(約3.6m)程度離れた開けた場所の離れに彼女は立っている。


「?」

「正直、ワシも弱っておってな」

「…」

「我らはすでに半数以上が殺られた、何とかして今後、草の組織を再建せねばならなくなった。それもこれもすべてお主のせいじゃ」

「泣き言かい?なら、あたしに言うなんて筋違いじゃないのかい?」

「まあな、だが我らは侍ではない。仰ぐ旗でお互いに戦っているわけではない。条件次第で敵から仲間に鞍替えしたとしても誰に責められるいわれもない」

「なんだ、お誘いの話か?なら無益なことはやめな」

「なぜだ、お互いにどうしても殺しあわなければならない理由があるのか?」


琥珀はほんのわずかの間、黙った。そして、感情を押し殺して低い声で言った。


「…私にはある」


そう言った琥珀の表情はかすかに歪んでいた。こんなやつに自分の想いを言いたくないし、知られたくもないと彼女は思った。


「お主のそれほどのかたくなな理由はなんだ?我ら草は技で“たつき”をたてる者どもではないか」


饗談の頭領がそう言った瞬間、琥珀の全身が自身の殺気に包まれた。だが、それは慎重に抑制されたものだった。


「…あたしはそういう言葉が大っ嫌いなんだ」

「…」

「確かにあたしら草は家臣たちとは違って、主君に特別な忠誠心を持っているわけじゃない、お前の言う通りさ。でもね…」

「…」

「仲間はどうなる?一緒に飯を食ったり厳しい訓練を一緒に乗り越え、生活を共にしてきたんだ。私が仲間の命を救ったり、それとは逆に自分の命を助けられたことだってある。それらを捨てていくのか?お前だったら全部捨ててしまえるのか?」

「いやはや、これはなんと…お主、そのような甘い考えでようこれまで生きてこれたの。草は言わば蛇ぞ。蛇が自分の子や仲間を育てたり、いたわったりなど聞いたことがないわ」

「…」

「しかし、これまで生き延びられたということは…おおよそ、“おなご”を使って手心を加えられたのだろう」

「ふざけるなッ!あたしが“おなご”を使って切り抜けたかどうか、今試してやってもいいんだぞ!」


そう言って琥珀は、燃え上がるような殺気を一気に周囲に迸らせた。彼女は自分の技に多少なりとも自信がある、と言うより自分の技に矜持があった。それを“おなご”を使って切り抜けたなどと言われて黙っているわけにはいかなかった。だが、それでも琥珀は懸命に殺気の放射を抑えようと努力をした。少し前に幻蔵にも注意されていなければ、すぐにでも彼を殺しに行っただろう。殺意にまみれた激情をなんとか押さえながら琥珀は憎悪に濡れた視線を声が聞こえる方へ向けた。


「まあ、そう熱くなるな、つまり、お主を甲斐に縛り付けているのは“仲間の存在”というわけじゃな、お主にとってそれが大事だということはわかった。もっともワシにはそこら辺の感情が今一つ理解できぬがな」

「…」

「だったら、お主を含め甲斐の草の仲間のことごとくをワシが抱えてもよい。十分な褒賞は出す。もう家族や村の仲間が飢えに苦しむこともなくなる」

「…」

「確かに今後の天下の行方はワシにも分からぬ。天下様が尾張の参議殿(織田信長)になるか、あるいは我ら三河の殿か、はたまた名も知らぬ大名がそれにとって代わるか…だが、一つだけはっきりわかっておることがある」

「?」

「それは…もはや武田家の命数は尽きたということだ。お主もわかっているはずじゃ」

「!」


琥珀は、信廉がもはや今後生きながらえぬことを薄々感じていた。武田家の館の大膳大夫勝頼は太郎信勝(武田勝頼の嫡子)とともに新府城方面へ退いて行方が分からぬと聞いているし、実際に向こうにいる草と連絡が取れない。また、武田家の多くの将は討たれるか、敵方へ寝返っている。もはや、武田方として旗幟を鮮明にしているのは、逍遙軒信廉と薩摩守五郎盛信(仁科盛信)だけといった有様だ。だが、それでも琥珀は表情を改めていった。


「だが、使命がある…」

「使命か…滅び行く主の使命を果たして何とするぞ!」


饗談の頭領は聞き分けの悪い娘にヤレヤレといった調子で語りかけた。


「お主の頭領の反り蔵は早々に我が方へ返ったではないか、これが本来の草じゃ。何を思い煩う必要があるのか…」


この言葉とともに琥珀が今まで必死に心の内に抑え込んでいた憎悪や様々な感情がついに爆発した。


「黙れッ!あんなヤツと一緒にするなッ!」


琥珀は饗談の頭領の声がした茂みに向かって走り出した。だが、左下方に人の気配がしてすぐに視線を向けた。一人の“草”が下生えから上半身を現し、琥珀の脚を薙ごうとした。琥珀は空中に飛び上がって太刀による足払いを避け、飛び上がったその頂点で彼女の脚を薙ごうとした草の頭に蹴りによる当てをいれた。蹴りは草の鋼入りの小手で防がれ、蹴りの反動で琥珀は背後の樹木の幹に身体をぶつけた。背中に何かちくっと感じたがぶつかった衝撃は大したことはない。地面に着地した琥珀はすぐさま右側に頭を向けた。右方から何かが飛んでくる気配がしたからだ。だが、彼女は自分の身体が思うように動かないのを知って愕然とした。


何だ、どういうことだ!背中に何かが刺さっている!なんとか、飛んでくるものを払おうと右腕を自分の顔の前にかざした。飛んできたものは苦無でも矢でもなく鎖付の分銅だった。鎖が自分の小手に絡む。琥珀は右手に絡んだ鎖を外そうとしたが、うまくはずれなかった。クソッ、右の小手の下に仕込んだ暗器が引っかかっている!なんたる様だ!必死に鎖を外そうとする彼女に今度は左側から鎖が飛ぶ。彼女は左側から飛来する鎖を空中で何とか落とそうとするが、背中に棘が噛んでいるうえに、右手の鎖を敵が思いっきり引っ張るために身体が思うように動かない。琥珀の努力もむなしく、結局彼女の両腕は両方向から引っ張られて樹木の幹に張り付けられるような形となった。駄目だ、厄介なことになった。訓練の時に両腕、あるいは足の一部を縛って模擬戦をやったことはあるが、こんなにまずい状況に陥ったのは今回が初めてだ。両腕に巻きついた鎖も厄介だが、まず背中の棘をなんとかしないと…。背中に感じる様子から、無理して引き抜くしかないと彼女は少し憂鬱になった。それでもやるしかない…。


よし、かかった!小娘の動きを封じた、と饗談の頭領は思った。後は配下である左手首のない男に女を討たせるだけだった。もう彼は草として生きていくことはできない。草としての未来を奪った仇をとらせてやりたいという気持ちもあった。もう九割方は勝利が確定したが、まだ完全ではない。この上はさらに勝つ確率を増やしたいところだった。彼は身を隠している茂みからにわかに上半身を現し、左腕をまっすぐ伸ばし琥珀の方へ向けた。その瞬間、彼の左腕から何かが飛んでいき、琥珀の左肩にあたった。饗談の頭領の左腕には小型の弓が設置されていた。唐の国から取り寄せた弩と呼ばれるものを個人携帯できるようにさらに小型化した特注品だった。これ一つと何本かの矢を手にするのに半年分の俸給を支払わなければならなかったが、弓と違ってかさばらないし、射撃時に広い場所が必要なわけでもない。矢をつがえ構えるという動作なしに相手に向けて引き金を引くだけで発射できる。しかも、二十間(約36m)位の距離ならほぼまっすぐに飛ぶ。連射はできないが、武器を使用するための訓練は不要だし、何よりもう片方の手が自由に使えるのがいい。彼はこの武器が気に入っていた。


何の音を発することもなく、琥珀の肩から小さな矢が生えた。


「グッ…」


一瞬、琥珀の身体は緊張し、首が後方へのけぞり彼女のただ一つの目がカッと見開かれた。それから間もなく彼女の腕から力が抜け頭がだらんと垂れ下がった。小太刀は二本とも取り落としてしまっていた。気を失ったのだろうか。ふた呼吸する程度の時が過ぎた。すぐに異変を感じ取ったのは、琥珀の両腕を鎖で制している草たちだった。自分が握っている鎖にかかる女の力が失われたのを感じ、ホッと一安心したところだったが何やら女の様子がおかしい。女はすぐに気を取り戻したのかもしれない。全く危なげない足取りでまっすぐ体を起こすと、再び鎖に抵抗がかかる感触を得た。無駄だ、女の力で鎖は外せないしほどけない。心配無用だ。だが、なんだこの悪寒は!女の周りだけ温度が下がっているかのような異様な雰囲気がする。それに先ほどから心の中に急に起こった嫌な感じ…鎖で制しているはずのものは人間だが、まるで獰猛な獣の首にかかった鎖を握っているような嫌な感触を二人の男たちは感じた。女の力が増したわけではない。自分の身体が女の方へ引っ張られているわけでもなかった。琥珀は一つ大きく息を吸い込んで、すぐに短くフッと息を吐いて思いっきり上半身を前方に曲げて背中の棘を引き抜いた。何の声も上げなかった。これで彼女の下半身は自由になったが、上半身は鎖で固定されているのは変わらない。彼女が極めて不利な状態にいるのは今までどおりだった。


木の幹に設置された棘を無理に引き抜く三ツ者の女の姿を見て、もう時間がない今しかないと左手首のない男は思った。そして饗談の頭領の方へ体を向けて言った。


「これまでのご指導・ご協力、感謝いたします。さらばでござる」


左手首のない男が投げかけた言葉に、饗談の頭領はわずかでも感銘を受けたわけではなかったが、彼の思惑はわかった。だてに何十年も生活を共にしていない。考えていることはお互いにほぼわかる。無論、我が野心も。ヤツは知っていて知らぬふりをしているだけなのだろう。『自分を利用するつもりだな』といった言葉は、結局今まで一度も口にしなかった。頭領は言った。


「うむ、見事相打ちを果たせ…そしてこれを…」


頭領は自分の苦無を一つ、差し出した。これで手首のない男は苦無を二本持つことができた。一つは右手に、そしてもう一つは唇にはさんだ。頭領は男の足元にかがみこんで両手の手のひらを組んで上に向けた。男は右足を頭領の手のひらの上にかけ、血の滲みた左腕を頭領の肩にかけて言った。


「ありがたし」


その瞬間、頭領は渾身の力を込めて両腕を思いっきり宙に振った。


「ゆけっ!」


三ツ者の女までの距離はおよそ五間(約9m)程度。結構な距離ではあるが、頭領の思惑通りほぼ女の頭部から攻撃を加えられる軌道に男を乗せることができた。彼自身の太刀を渡してもよかったが、しょせん片手の太刀に威力はないしバランスが悪くてまともに戦えない。かといって、苦無一本では何もできない。男と頭領がほぼ同時に思い付いた策がこれだった。頭領は手首のない男に特別に感傷はいだかなかったが、最後の想いを遂げさせてやりたい気持ちは偽りではなかった。


女は両手が鎖で拘束されて体の自由がきかない。手首のない男は宙に飛ばされた瞬間こう思った。『殺った!我が意成せり』と。だが、眼下の光景を目にしたときに嫌な感じがした。特別に光景が変化したわけではなかった。女は変わらず、鎖に両腕を拘束されている。先ほどまでこの女と命のやり取りをしていたのだが、なんというか気配が違う。殺意の質が違う。女の殺意はおなごらしい…というのも妙ではあるが、女の殺意に過ぎなかった。無論、女の殺意といっても甘いものではないのは当然だ。だが、今眼下に見える女が抱いている殺意は、もっと硬質の殺意ともいうべきか…。月並みな言い方になるが、一番近い表現をするならやはり『非情』がそれにあたるのだろう。もっとも先ほどまでの女の殺意も非情極まりないものであったわけなのだが。それでも、男はその嫌な感覚に正直に従った。彼はこれまでの多くの危機を自分の直感によってしのいで生き延びてきたからだ。彼は右手に持っている苦無を女の頭部にめがけて放った。そして口にくわえた苦無を右手に持った。


琥珀はすぐに気が付いた。頭の中がはっきりし始めている。背中の痛みはすさまじいものの、この痛みが自分の心の中に残ったわずかな甘えを駆逐し、体を動かす準備と覚悟が整ったのだということを。両腕は鎖で拘束されて体を自由に動かすことはできない。頭上に気配を感じる。そして殺意も。彼女は頭を上に向け自分の置かれている状況を理解した。彼女は両腕を制されたまま左足を真上に挙げ、頭上から飛来する苦無を左足の踵で払い落とした。両足はほぼ直線状に真逆の方へ開いている。なんという柔らかい体だろう、と饗談の頭領は思った。すぐに彼女は左足を地面におろし、自分の身体から力を抜き、体重を鎖にかけた。彼女の身体はわずかに沈み込み、鎖は彼女の身体の方に少しだけ引き寄せられたが、鎖を手にしている饗談たちがすぐに鎖を手にした腕に力を込めて引っ張りかえした。その反動とともに彼女は両足で思いっきり地面をけり、彼女の身体は頭をさかさまにして宙に舞いあがった。


手首のない男は突如眼下から女の右脚が伸びてくるのを目にしたが、彼にとってそれが最後に見る光景になった。男は琥珀の右脚による当てで首を折られて空中で絶命した。彼女はすぐさま、宙で息絶えた男の体を両足で思いっきり蹴り上げると、今度は地上に向けて彼女の身体は勢いをつけて落下し始めた。鎖を手にした饗談たちはすぐに鎖から手を離せばよかったが、目の前で起こった光景を信じられない思いで見つめて一瞬我を忘れ、それと同時に今までに自分達の身体にくわえられた“罰”のことを思い出して、ほんのわずかな時間身体が硬直した。ぴんと張られた鎖に勢いをつけた少女の体重がかかる。鎖を手にした男たちは必死に鎖を支えた。その瞬間だった。『ゴキン』という嫌な音が聞こえた。琥珀の左肩の関節が外れたのだった。彼女は『がッ』とくぐもった声をあげたが、安定した姿勢で両膝を地面につけた。宙で絶命した男も同時に別の場所に落下した。一方、琥珀の右腕を鎖で制した男は反動をうまく吸収できずに前方に倒れ、彼女の左腕を制している鎖を持つ男は、自分の手にした鎖にかかる抵抗が一瞬なくなったため後ろによろけたが、今度はすぐに鎖が引っ張られたために前方へと体がつんのめった。琥珀は彼らの隙を逃さず、緩んだ鎖を巻きつけたまま左側の男に右手に持った苦無を放った。左側の男はすぐさま鎖から手を離し、太刀を抜いたが間に合わなかった。男はのどに苦無を生やしたまま、どぅ、と後ろ向きに倒れた。右側の男は慌てて鎖を持ち直し、琥珀の右腕を制した。


なっ!馬鹿な…。両腕を封じられている状態で二人を始末するとは。饗談の頭領は目の前で繰り広げられた光景を目にして信じられない思いで少女を見つめた。おなごの非力な力で鎖を抜けられぬのはわかっておったから、目方とその落ちる勢いを利用したわけじゃな…。女の目方は多めに見積もってもやっと十一貫(約41kg)に届くかどうかといったところだろう。地面であれば男の力で軽く支える程度の重さだが、宙から勢いをつけた十一貫の“物体”の落下だ、想像を絶する衝撃だろう、と彼は思った。チッ、無茶をする。今頃、肩に激痛が走っておるだろうに…。だが、それもここまでじゃ。左肩が外れ、右腕しか使えないおなごの力で鎖ははずせまい。そう思いつつも、彼は左腕に設置した小型の弩に矢を装填した。


琥珀の右腕を鎖で制した男は思った。クソッ、不覚を取った、なんて女だ。うぬが草の技の達人だということは認めよう。だが、もはやこれまで。左肩は抜け、小太刀は二振りとも落とし、右腕は我が鎖で制している。この上、この窮地を脱する手が何かあると申すのなら…もう、ワシはお主に討たれてもよいと思っておる。そう男は思った。男は左腕で鎖を握りしめていたが、右手は太刀を抜くかどうか迷っていた。また、何事かないとは言い切れぬ。男は改めて両腕で鎖を持つことに決めた。そもそも右手だけではうまく太刀が抜けないというのもその理由だった。それに頭領が矢で少女に狙いをつけていたのだった。


琥珀は自分の状態を改めて観察した。全くひどい状態だね。背中と左肩がズキズキ痛むし、本当にあたしがこんな目にあってまで成し遂げることなのだろうか、と彼女は考えた。それでもさっきから身体は熱く、心には冷たいものが入り込んでいる。武器がない上に、女の細腕でだけでこの状況をなんとかしなきゃならない。だが、今、私は『二人』だった。琥珀は一つ大きな息を吸って、渾身の力を込めて鎖を右腕に巻き取っていった。


饗談の頭領は琥珀に弩の狙いをつけつつ様子をうかがっていたが、少女が猛烈な勢いで右腕に絡んだ鎖を巻き取っていくのを信じられない思いで見つめていた。なぜ、こうもあり得ぬことが起こるのだ?女の、それも少女の力で、鎖を手にする男の身体が少女の方へと引きずられているのだ。そして頭領はその時初めて気づいたのだった。女の…左目が開いている!


鎖を手にした男は、鎖がすさまじい勢いで巻き取られていき、自分の身体が少女のほうへ引きずられているのを信じられない思いで目にしていた。もはや、自分にくわえられてきた“罰”のこともすっかり念頭から消え去っていた。彼の目はただただ、驚愕で見開かれているばかりだった。そして、目の前の少女が鎖にかかる力を一気に高めて鎖を引っ張った時、自分の身体は宙にフワッと軽く浮いた。自分の身体が少女の方へ飛んでいく。そしてその時、彼は初めて目にしたのだ。少女のひもで縫われた左目が開いている。その左目はやや青みがかった色だった。そう、以前一度だけ目にしたことがある。エウローパなる国へと輸出されるという、まるで南蛮漆器に使われるような美しい青…。あれは“螺鈿”の色だ。そしてよくよく見れば、少女の目は少し黄色みがかった色だ。まるで琥珀のような…。彼の記憶はそこで断たれた。


まずい、これはまずいことになった。もはや言葉を尽くしても言い訳はできぬ。なんとしても情報を持ち帰る。例え、鬼神に自分の身体を喰わせても!饗談の頭領はそう思いながら暗い森の中を懸命に走って行った。もはや恥も外聞もなかった。自分以外に残った最後の饗談の面に少女の右ひざが打ち込まれ、落下と同時に今度は少女の左ひざが男の首の後ろに叩き込まれたのを目にしたとあっては。


幻蔵は琥珀のいた場所へと走りながら思った。自分の心の中に不安がなかったといえば嘘になると、正直に自分の感情を認めた。だが、総合的な草の技ならともかく、殺しの技に関しては琥珀は鬼神を上回ると彼は考えていた。自分が彼女と一対一で戦ったらどうなるか、と考えたことがないわけではなかったが、無意味な仮定に思い煩うのは無益だと、それ以上考えることはなかった。頭領の立場もある。指示を受ける身だったころは、こんな考えとは無縁だったとうのに。まさか嫉みではあるまい。だが、自分はあせっている。自分の肉体はすでに下り坂に入っている。それに対して…。幻蔵の思案を傍らで一緒に走っていた男の声が中断させた。口元を隠した無口な男のものあった。


「いた!」


すぐさま、幻蔵も声をかけた。


「琥珀!無事かっ?」


二人は琥珀に声をかけた。森のやや開けたところに、琥珀は呆然として一人で立っていた。宙に顔を向けながら誰かと何やら話してる。しかし、琥珀の周りには誰もいない。


「…お前は私のために死ぬのか?」

「ああ…ワシは姉者のために死ぬ…姉者は生きろ…」


二人はほぼ同時に感じていた。そこには琥珀一人しかいないのに、おかしなことに琥珀以外の人の気配がする。一人でぶつぶつと話している琥珀の姿に訝りながら、無口な男は今一度、少女に声をかけた。


「琥珀…?」

「チッ…」


少女は軽く舌打ちしたようだった。


「琥珀!」


こんどは幻蔵が声をかけた。そして何やら思い直したように表情を改めて琥珀に低い声で語りかけた。


「いや…おぬし螺鈿か?」


幻蔵の声に緊張がこもっている。そばにいた無口な男は、幻蔵ほどの男でも緊張することがあるのかと意外な思いで幻蔵の横顔を見つめた。そのとき、琥珀は初めて声の主に気が付いたかのように二人の方へ顔を向けた。そして、こちらに顔を向けた琥珀の目を見て無口な男は驚いて息をのんだ。琥珀の縫われた左目が開かれている。まぶたに少し血がにじんでいるようだった。それに、あの目…かすかに青い目…。異人の血が混じっているのだろうか。しかも今更ながらだが、こいつの右目もかすかに黄色みがかっている。“美しい”と、素直に思った。無論、口には出さなかったが。琥珀はゆっくりと何かを確認するかのように話しかけた。


「幻蔵…殿か?」


男の声?。無口な男はこれにもひどく驚いた。全く今日一日で驚くことばかりだ。琥珀の声はやや訝しげだった。しかも、低い男の声だった。声真似を装っているようではなかった。琥珀は顔の表情を少し柔らかくしたかと思うと、最後にこう言った。


「姉者を…頼む…」


そういったかと思うと、両目から生気が失せ琥珀はフッと気を失い、体がくずれるように倒れこんだ。それを瞬時に駆け寄り、琥珀の身体を幻蔵はかばって抱き留めた。彼女は幼い顔に疲労の表情を強く浮かべ目を閉じていた。無口な男は(もはや無口ではなかったが)、琥珀の身体を抱き留めた幻蔵のそばに近よって尋ねた。

「幻蔵…いったいこやつはどうなっておるのじゃ?」

「琥珀の中にもう一人おるのだ…」

「?」

「わしもこやつをあずかった者から聞いただけで詳しくは知らぬが…」

「琥珀は元は軒猿の一族でな…」

「雪影…おぬし、軒猿になるために行われる儀式を存じておるか?」

「いや…」

「軒猿はな…」

「一人前になるときに、一番近しいものと殺し合いをさせるのだそうだ…」


草の中には、心に“鋼の芯”を通すためにこのような試練を課す種族がいるという。伊賀百地、陸前黒脛巾などは、草として使い物になるかどうかはこの試練を乗り越えたかどうかで判断するのだそうだ。幻蔵は再び言を継いだ。


「琥珀には螺鈿という双子の弟がいてな…」

「まさか!」

「ああ…そのまさかじゃ…」

「それ以来、琥珀の心の中に螺鈿という双子の弟が住みついたらしい」


幻蔵のあまりの衝撃的な言葉に彼はとても信じられないという表情で彼の言葉の後を続けた。


「いや、しかし…そのようなこと、にわかには信じられぬ…」

「では、先ほどのこやつの男の声をなんと説明する?」

「…」

「だが、そのような儀式で人の心の中に別の人間の心を移すことが本当に可能なのか?」


幻蔵は男の言葉にかすかに困ったような表情を口元に浮かべて言った。


「わしは単なる人の身…そのような仏の領域のことはわからぬよ」

「だが…」

「?」

「何百年かたてば、人の心の仕組みがわかる時代が来るのかもしれぬな…」

「…」

「いずれにせよ、われらは僧ではない」

「そのようなことは僧に任せておけばよい」

「われらはわれらの仕事をするだけじゃ…」

「戻るぞ雪影」

「うむ…」


こうして三人の三ツ者達は私の前から姿を消した。この後、彼らを目にしたのは三日後のことで、その次の日に小規模な合戦が近くであったようだ。そして、それが私が彼らを見た最後になった。その後、彼らがどうなったかは私は知らない。饗談の頭領もあれ以来一度も目にすることはなかった。それから数年後に何度か大きな合戦がこの付近で起き、その度に私は人間の業の深さを見せつけられることになった。


                                         -第9話(最終話)了


-結和-


私のこと?ああ、忘れてた。以前、「私は、この付近の小高い崖の上に『いて』、森の中を見下ろしていた」といったのを覚えているだろうか。その崖の上に小さな石仏がある。私は一日におよそ一刻(約2時間)ほど、この石仏に封じられる。私にはその前後の記憶がない。私に残っている記憶は石仏に封じられている間の記憶と、生前の記憶だけだ。どんな仕組みになっているのか、また誰がこのようなことを私に課したのかはわからない。ただ、私は、弥勒がこの世界にいない空白の56億7千万年の間に、苦悩にまみれる人々を慈悲の心で包み込み、救うように命じられた者だ。だが、まだ私には力がない。悩める衆生を救う力を得るために、あと少なくとも千年はこの世界を見守る事を私は強いられた。人は私を地蔵菩薩と呼ぶ。まあ、正確に言うと…その“見習い”だ。


ところで、口を利かない男のことだが、名は“雪影”というらしい。この男のことはいずれまた。


                                              -終話


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(あとがき)


前作からずいぶん時間がかかってしまいました。エンディングはこの小説ができる3年前の動画作成の時からできていたのですが、整合性が取れるように修正する作業で多くの時間を使ってしまいました。そもそも、この小説作成の動機は、『忍者』と言えばクールでイカすものと相場が決まっているという、昨今の風潮に苦々しさを覚え…あ、いやいや、違ったアプローチもあるのかな、ということでプロットを組んでみたものです。


さて、小説完成に当たっての反省材料ですがこれまた非常に多いです。まずは、登場人物の呼び名がばらばらで読んでいる人が混乱したのかなといった点です。特に、忍者に呼び名が“草(一般名)”になったり、“三ツ者(各地域での忍者の呼び名の一つ)”になったり、ころころ変わった点は申し訳ないと思っています。また、文章自体がちょっと、いや、だいぶ冗長の部分があり、読みずらい文章になってしまったことや、一話一話の文章量がばらばらで、これも読みにくい原因になったことは大きな反省材料です。ただ、以前アップした動画の伏線の“軒猿”も回収したし、自分では表現したいことはおおよそできたのかな、という印象は持っています。


私感になりますが、いい小説?というのは、たぶん、いやきっと、いかに無駄な部分をそぎ落とし、文章をスリムにするかというところにあるのかもしれませんね。そういった意味では、だらだらと駄文を垂れ流す筆者の小説はそれとは真逆にあるものと言えます。私の小説の閲覧履歴を見るとこれが見事に先細りになっています。つまらない小説の典型例ですね。あぅ。今後も精進いたしますです。


話はまた変わりますが実をいうと、この後に、武田逍遙軒信廉と東方Projectの藤原妹紅を主人公とした三ツ者のストーリーへとつながっていくのですが、これまた動画を作成している時間がなく、なんかしょぼい小説でごまかしてしまったというのが実際のところです。タイトルの『忘れえぬ想い三ツ者の唄』という“忘れえぬ”というのは、長い月日を変わらぬ姿で生きる、あるいは生きることを強いられた藤原妹紅の想いを表したものです。そういうことが書かれていないと全く意味不明なタイトルですね。


最後です。私は東方Projectのことはまるで知らない上に、それほど興味もないのですが(東方ファンには面目ない)、出てくるキャラクターの設定には強い興味があります。二次作品である以上、小説もMMDの動画もある程度の設定の縛りが発生するのは当然で、そこらのあたりをまるで無視するというのも、原作者やファンへの配慮が足りない(私がそう思っているだけで、他の方がどう考えているかは存じません)というふうに思っています。まあ、とにかく、世の中探せば魅力的なキャラクターであふれており、いろいろと想像力が掻き立てられるのは、この上ない幸せだと最近は思います。


                                            沈黙のP 拝

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忘れえぬ想い三ツ者の唄-琥珀 伊東一刀斎 @itou_ittousai

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