~ 十二月十二日 午前五時四十五分 ~
~ 十二月十二日 午前五時四十五分 ~
…………。
「……起きるか」
僕はいつもと同じように掛け布団の中からごさごさと抜け出す。ベッドから落ちて、躰を打つ。少々痛いけれど、これも我慢だ。
「あぁ~……てーし何やってんのよ~」
「あ痛たたたた」
パンツ一丁でベッドから転落した(転落というほどの落差はないが)僕を早朝の寒気が急襲する。肩をすくめて躰を震わせるけれど、しかし彼女も裸なのだった。
そう、そのベッドで僕と彼女は昨夜同衾したのだ。あまり情事について深くは語りたくないが、彼女も彼女で下着1枚着の身着のままだったはずなのだ、行為の最中に衣服を着用するほど僕ら未成年に余裕はない。
「服着なよぉ……冬の朝は寒いよ……」と言って彼女――いや、よそよそしい言い方はもうやめよう、彼女、否、
「そっ、そうだねっ、僕も寒いから二度寝したい気分だっ」
僕の声が寒さで上ずって、のみなは面白がって大福みたいに丸まった掛け布団の中でくすくす笑う。確かにこの状況は滑稽だが、しかし僕が今ベッドに再帰したら、それこそセックスが夜明け越しに再開されてしまう。人間は疲労回復のために睡眠をとるのであって、決してそんな退廃的文化活動に勤しむのが目的ではない。
くそ……何か他のことに集中して気を散らさなければ――僕は自宅で往生することになってしまう、凍え死んでしまう……っ、あれはっ。
僕は視界の端に僕専用の机を捉える。机の上には乱雑にモノが置かれていて、辞書や参考書やノートやプリントなどの有象無象で埋め尽くされている。そして埋め尽くされた上にまた小説漫画の類いの娯楽書籍が累々と放ったらかしになっているから困る。この机もよく持ちこたえていられるなあ、と無機物相手に感心するがしかしその机上において最も広い面積を占拠しているのは他でもないデスクトップパソコン…………。
おもむろにしゃがみ込んでいた姿勢から立ち上がり、僕は机の方に近づく。そう言えばさっきからのみなの声が聞こえないけれど、また寝てしまったのだろうか? だとしたら全くおめでたい性格だ。
「……パスワードは、何だっけ」
と言いながらも、起動させたパソコンにかける合言葉を僕は一瞬の内に思い出す。キーボードにそれを打ってログイン。
「ええと、確認するべきことがあるはず……」
僕はそう呟きながらネットを開く。中央にGoogleのロゴが表示される。当然僕はGoogleユーザーだ。
「おっとっ、何か来てるようだぞこれは」
パソコンにメール2件の通知が来ている。右上のある場所をクリックすると、僕のGmailへと接続された。
「…………? 何だこれ」
果たして、メールの
新着メールの一通目を開くと「~ 十二月十一日 午後三時二十分 ~」と文頭に日付らしきものが。二通目のメールにも目を通す。またも「~ 十二月十一日 午後二時五十分 ~」と記されている。これはなんだ、昨日の日付じゃあないか。
そして一行目には双方ともに「その子の死体が必要だ」…………
「その子――『遠野園子』……」
それは、半年も前に終わった事だ――彼女のことについては、僕らが協力して解決されたはず、だ。
「それなのに、何故――」
今更蒸し返すのだろう――そうだ、送り主は誰?
《From:神無月園子》
「神無月、ってあいつか……」僕は記憶の底から失われかけた欠片を摘み取る。
画面をスクロールすると先の一行目に続いて延々と文章が続いている……いや、延々とではないか。2、3分で読める程度の短い小説、のようなもの……なのか?
と、僕がこのテキストは真に小説形式なのだろうかと疑るのは、やはり現実の人間が登場しているからに他ならない。
遠野園子も。
半島三浦も。
「……僕の知っていた人間」
《神無月園子》からのメールは2通ある。そして両方ともが小説――虚構の絵空事。現実を題材にした――架空の平行世界。
「ありえない」
僕の『体質』ならそれもどうにかならないこともないけれど、しかし僕の『体質』が噛んでいるとするならば、相当厄介だぞ。
というか、相当ややこしいことになる。
「ん~~~~~~」
猫みたいに喉を鳴らしてようやくのみなが起きだす。ベッドの上の動物は総じて
「はぁー。アレ、あんた何やってんの」
ディスプレイに向かう僕の仏頂面を横から覗き見て、彼女は不思議そうに目線をパソコンの方に移す。
「ナニコレ?……あんたのGmail? このメールって、カンナちゃんからのじゃない。何て書いてあんのか3行で教えなさいよ」
「遠野園子。
半島三浦。
神無月園子」
「それは3単語でしょう?――って寒っ!」
「こんなの見てないで服を着なよ。それにこれは僕個人の問題だ」
僕は床に散乱した衣服を彼女に放り投げながら言う。でも僕の視線は依然画面に釘づけだ。
「ふーん、なるほどね……そういう話って訳か」
「どういう訳なのよ」昨日情動的に脱ぎ捨てた服を再度着ながら、彼女は僕に質問する。
「つまりこういうことなんだよ――物語の中の半島三浦は、この
僕は椅子から立ち上がって彼女をそこに座らせ、例の2件のメールを読ませる。それにしても寒々しい朝だ、いや本当に極寒の早朝なのでこうして誤魔化しでもしなければ流石の僕もやっていけない、というか寒すぎる! 僕は床に落ちた自分の服を探すけれども見つからない、ので咄嗟に彼女の身なりを見遣ってみると案の定僕の服を彼女が着ていた。僕が彼女に渡した衣服は僕が無意識の内にこの状況に対する防御反応的に確保した自分自身の衣服で、彼女も彼女でそれを真に受けて着てしまったということなのかも知れなかった。
まあ正直言ってそんなことはどうでもいい。
しばらくの時間の経過を踏まえて、僕は彼女に呼びかける。
「そろそろ読み終わったかな――それじゃあ、どうしてこんな風になっているのかを解説しようと思う」
「ちょっと待って、もしかあんた、もうこの小説の意味が解ってるっていうの?」
「まあね。はっきり言ってこれは小説だし、虚構以外の何物でもない。今この時点ではもう、ね」
僕が思わせぶりなことを言うと彼女はいつも決まって黙りこくってしまう。これは明らかに僕が悪い。
「……まず、既に読んだもの、読みこんだものとして説明するけれど、《午後三時二十分》――日付は面倒だから省略するね――の話では、半島三浦は『遠野園子らしき人物』と接触を取っている。チャットで受け取ったリプライには、《遠野園子》、《あなた半島三浦? 久しぶりね(^^)/ワタシ園子よ、覚えてる?》と最初の時点ではこう書かれていた。ここから文脈を読み取ると……あくまでもこれは僕の個人的見解だけれど――半島三浦がコミュニケートしていたのは、『遠野園子』ではなくて、『神無月園子』だと分かる。最初の《遠野園子》っていうメッセージはフェイクで、相手に刷り込むためだけに送られたそれだけのしがない一単語だったのだと。その後に来たメッセージには《ワタシ園子よ》としか書かれていないから、苗字については限定されていない。だからここですれ違いが起こる。半島は相手を遠野園子その人だと思いこんでいるけど、実際は相手方は神無月園子だった。これが意図的作為的に起こされたものか否かはとりあえずおいておこう。とにかく半島は勘違いをしていた。
そして次のやりとり――半島が《その子の死体は何処にあるの?》。テキストとしてアウトプットしてみて初めて判明することだけど、半島は遠野園子のことを『その子』と書き出すんだよ。下手をすれば『遠野園子』の意味ではなくなって不必要な叙述トリックが引き起こされてしまうかも知れないのに。事実それに近いことが起こった。先の半島の質問に対して神無月は《ここ》、《その子の死体は、ここにあるのよ》と返す――これをどういう意味として捉えるか、解釈するか、そこが問題だ。
僕は考えた、神無月が『ここ』と言っているのだから、素直に解釈すればそれは当該の日時に神無月がチャットをしていた場所、ということを意味する。ただし、『その子』が誰のことを示唆しているかを考えてみると若干その意味合いが変わってくる……第一に『その子』を『遠野園子』だと認識している場合、第二に『神無月園子』だと認識している場合、そして第三に『半島三浦』だと認識している場合だ」
「なんで三浦が入ってくるのよ、それにカンナちゃんも」
唐突に彼女がこれから詰問するかのような勢いで僕に訊ねる。
「そこはまあ仮の前提なんだからいいじゃない。結果として僕は全部解っているんだから、この道筋に間違いも無駄もないよ」
オッカムの剃刀をここで適用するほど僕は切羽詰まってもいない。寧ろ余裕綽々のお茶の子さいさいで今まさに解説しているところだ。
「で、なんだけど。……第一の場合は至極真っ当だ。現実的な仮説というと奇妙な感じだけど、小説はリアリティがあって初めて成立するものだ。大衆の信心を得られなければ売れない。要は人間存在そのものに媚びなければならない。
さて、ここで《午後二時五十分》の方の話に移ろうと思う。この話は時系列的に考えて《午後三時二十分》の方の話と同日――これを前提にして思考を始める。そうなると半島が何故遠野園子の家にいたかが分かる。いや正確には分からないのだけれど、そうなるまでの過程が理解できる。半島三浦は失踪した遠野園子の自宅を訪問して、結果かのノートパソコンへと辿りつくわけだけれど、そこでパスワードという根本的な問題に直面する。何しろログインできなければ中身を調べることさえ不可能なんだから。でも結局彼女はログインできたんだよね、ただしこの小説内には記述されていなかった。最初に『tonosonoko』 と入力して、後の電光石火の如き閃きによって導き出された単語でパソコンのロックを解除した……ここで半島は「彼女はそうだ、そうだった――」と短く仄めかしている。僕はすぐにピンと来た。これは神無月園子のことを指しているんだ、と」
「はぁ? 三浦は神無月園子のことを知らないんじゃ」
「知ってたんだよ、残念ながら。結論から言うとね、『神無月園子』っていうのは、遠野園子のハンドルネームだ」
「
「そう。でも何故遠野園子がその名前を知っているのかに説明がつかない。だから僕はこう思った。もしかすると遠野園子はその瞬間まで知らなかったんじゃないか、って」
「…………どぅゆぅこと?」
眉を顰めて難しい顔をする彼女。僕はできる限り勿体ぶって彼女に考える時間を与える。彼女が
というか逆に僕の方が考えてしまったのだった。間を持たせるあいだに気が変わってこんなことを僕は言い出す。
「…………まあでも、
「電源切るってこと?」
「その通り」
僕が指示すると彼女はいかにも御意のままにって感じに左下のスタートボタンからログオフのところにカーソルを合わせる。子供じゃないんだから、自分でも少しは考えなさいと僕は心の中で忠告するけれどその必要もなかったようだ。
のみなは「ログオフ」じゃなく「再起動」のボタンをクリックした。
「これがしたかったんでしょ
「よくできました」
僕は彼女をさりげに試してしまったけれど、後悔はしていない。そうでもしていないと僕はこの現実を許容することができないし、限りある人生を全うできないから。
のみなはもう子供じゃない。いつのまにか立派な大人になっていた。
だからのみなの髪を右手でわさわさと撫でることもしない。僕は彼女を認めた。
「神無月園子っていうのが遠野園子のユーザー名で、三浦はパソコンの起動した画面を見て瞬時にそれを察した――そういうこと?」
「ご名答」
僕が彼女のことを誉めると直後に僕のパソコンが完全に起動する。『
「まあハンドルネームという確証はないけどね。即興で作った偽名かも知れないし」
「ちょっと待って。ってことはさ、さっきの《午後三時二十分》でのアレって」
「仮説としては復活するね。彼女は『神無月園子』の正体を知っていたんだから」
僕はそこで思考の軌跡を遡る。最終的に出された結論のみが僕の脳内でぷかぷかと浮かんでいるけれども僕は彼女に説明しなければならない。面倒臭くても途中式は書かなくてはならない。
「そう……《午後二時五十分》のお話の中で分かるのはこれだけだ。でも結構重要な手がかりだからこれを《午後三時二十分》から捻出した仮定に代入すると、丁度いい解が出てくる」
なんてそれらしいことだけ言って僕は思い出すための時間稼ぎをする。のみなはあれで短気な方だから、言い出したからには僕が全て解説するしかないのだ。
「――半島は『その子』の死体の場所を神無月に聞いたね、そしてこの時『その子』というのは『神無月園子』又は『半島三浦』の意で使われていた訳だ。ここでは『園子』という読み取り方をすると『神無月園子』、『其の子』という読み取り方をすると『半島三浦』の意味になる。『園子』はともかく『其の子』の『其の』が指示語として神無月の発言――《あなた半島三浦? 久しぶりね(^^)/ワタシ園子よ、覚えてる?》の『半島三浦』の人名に係っている。でも僕は流石にこの『その子』が『半島三浦』のことを指しているという仮説は牽強附会が過ぎると思ったし、それに半島だって自分の死体を探すためにわざわざ神無月に場所を聞き出したりはしないだろう、まさか映画の『シックスセンス』みたく自分の死を自覚していなかったなんてことは到底信じられない真相でアンフェアだ。だから僕的には、『その子』は『神無月園子』のことを指している、というのが最終的な結論」
「そうじゃなかったら怒るわよ」
僕が冗長な文章を頭の中で構築しながらそれを喋り終えると彼女も辟易して言葉とは裏腹に本当に怒っている。
「ていうかそれは最終的な結論じゃないよね? あ、いや、さっきのは神無月園子のことを指していることが本当じゃなかったら怒るよって意味だよ?……あーややこしい」
彼女も少し頭の中でこんがらがっているようだ。僕もなりかけているけれど、結論へと牽引しているのはこの僕なのでここで思考を放棄することは許されない。
「確かに。僕が言いたいのはそういうことじゃないね。つまるところ、半島が探していた死体は『神無月園子』だった」
でも神無月園子は《午後三時二十分》の世界の中で生きている。
そこから
「でも小説の中では彼女は死んでなかったんでしょ?」
のみながすかさず鋭い指摘をしてくる。そう、それが問題であり即ち解答でもあるのだ。
「そうだね。故にこう考えるしかない――半島三浦は『僕たちの世界の神無月園子』の死体を探していると」
「……………………はぁ?」
半島三浦は必ずやってくる。
あちらの世界からこちらの世界へ。
時空をも超えてやってくる。
「神無月園子の死体を求めてやってくる」
僕のこの現実の世界では神無月園子もとい遠野園子は既に死んでいる。
「意味分かんない……ていうか、地味に怖いんだけど……」
「半島三浦は多分、この2件のメールを送ってきた『神無月園子』の死体の行方を追っているんだよ。第四の壁なんてぶっちぎって、この上位次元の世界にやってきたんだ」
自分でも言っている意味がよく分からない。でもそれは確実だ。これは僕自身の『体質』が絡んでいる事象なのだから――
「そんなことありえないでしょ? なんで小説の中の登場人物が現実にまで出てくるのよ……」
「いやね、だからこれは、僕の『体質』にも絡んでるんじゃあないかな」
「――貞士。私はあんたの妄言を信じるワケじゃないけど、かといって信じないワケにもいかないんだよね、だってあんたっていつも本気じゃない? ふざけたりはしゃいだりすることないし」
「僕だってふざけたりはしゃいだりの衝動はあるよ」
僕は反論のつもりで返答するがこれは反論にさえなっていない。そう分かっていながら僕は会話が一方的になるのを防ぐ。
「でも結果的にそういうことないじゃん。まあそれはそれで私自身暗黙の了解みたいな認識でいるし、私は貞士が好きだから、そんなこと気にしないんだけど」
どうにもならない。今彼女はどうにもなっていない。煩悶をどこにもぶつけることができずに今にも自爆しそうな危うさがある。
そしてのみなは僕が好きだから気にしないんじゃない、気にもならない気にも留めないから僕が好きなのだ。僕と付き合えるのはそういう強い女性で、僕はのみなにそうあって欲しいと祈っている。
「僕はいつも本気で生きてるよ――でもそれは僕の性格に由来するものじゃない。分かるだろ?」
僕は必死に言葉を紡ぐ。そして考える。一体これは、どういうお話だったのだろうかと。
「僕がこれから話すことは総じてノンフィクション。嘘偽りなんてこれっぽっちもない。のみなには愛されているし僕はのみなを愛している、だから最後まで聞いてほしいんだ」
虚偽などない。どこかに虚構があるとしたら、途中でそれが本当になっているのだろう。
「…………」
のみなは黙る。僕がそれに呼応して、再び《午後三時二十分》と《午後二時五十分》の解説を始める。
そして同時に現実の教示も開講する。
「僕が患っている病、というか請け負っている業についての話は実のところこの二編の
不可能、というのは言い過ぎかもしれないけどね。虚構はいくらでも構築できる。ただその中に真実が包含されていないというだけで、ね。
とまあ、うざったい長台詞はやめにしてそろそろ核心に迫る考察を披露しよう。
僕と付き合ってるのみななら知ってると思うんだけれど――僕は睡眠が嫌いだ、いや、就寝が嫌いだ。その理由も多分過去の僕はのみなに話しているんだと思う。でも僕はそれを知らない。知ることができない。帰結から言えば僕は、眠りに就いて、次に目を覚ました時には、世界が一変するようにできている。僕がそういう風にできているのかそれとも世界がそういう風にできているのかは定かではないけど、絶対にそうなる。
分かりにくい、と言われるのは承知してる。でも僕だってこんな現実は信じたくないし認めたくない。だから今回のあの二件のメールは、起こるべくして起こった僕に対しての試練なのかも――
とにかく、だ。僕が眠りから目を覚ますと、僕の就寝する前の現実は、例外にもれず、『夢』にオチてしまう。小説とか漫画とかの創作で夢オチっていうのがあるだろう? 僕の現実は、常時夢オチだ。
僕の
残酷なまでに。残虐なまでに。
だからね、のみな。僕は今まで一度だって、
今を信じることが僕の心の支えなんだ。今を本当の現実だと信じることが、辛うじて僕の実在性を保持している。
もう夢を見るのは懲り懲りなんだよ。僕はこの件を以て、現実と訣別するつもりだ。のみなは気楽に僕の話に耳を傾けていてくれればいい、僕の自己満足に付き合ってくれればいい――それだけで僕は報われる。
――さてと、これ以上僕の話をすると僕自身が泣いてしまいそうだから、一旦お開きだ。僕のことはまた別の機会に、話すことにしよう。
……で、だ。今日僕は朝目覚めて朝だということを知った。完全に寝付いてしまう前に君と寝たってことも判った。僕の『体質』は覚醒した時に自動的に発動するらしい――から、今朝起きた時には、現実の『上書き』は起こっていたんだ。残念ながらね。さて、僕は今頃になってやっと頭が冴えてきた、加えて、昨夜の体験も思い出した。今となっては夢でしかないのだろうけれど、それは僕の人生を構成する儚げな記憶だ。僕の経験がすべて夢想だったとしても、それは僕の人生に他ならない。
夢だから忘れてしまうんじゃないかって? それは違う。僕の潜在意識の中には経験として感覚としてしっかりと刻まれている。記録はちゃんと残っている。記録はやがて記憶に置き換えられ、僕の経験値は滞りなく上昇する。
っと、なんだかまた僕の話に戻ってしまったみたいだから軌道修正する。僕たちは僕のGmailに届いた神無月園子からのメールを読んだ。そして今こうして論じ合っている。でもそれは本当なんだろうか? 《午後三時二十分》も《午後二時五十分》も、どちらもただの神無月の創作なんだろうか?」
「違うって言いたいの?」唐突にのみなが訊いてくる。
「そうだね。全く違う。あの二つのメールは現実に起こっていたことだ」
「違わないよ。あのお話の中で『神無月園子』は遠野園子の
「じゃあ誰だっていうんだい? 誰だったらいいんだい?」
「誰だったらいいとかそういう話じゃなくて……もうっ!……そうじゃなくて――カンナちゃんの本名は、神無月園子だって、話っ」
「さっきからカンナちゃんカンナちゃんって、誰の話をしてるの? 僕は神無月園子なんて人間は知らない」
僕は彼女を挑発する。言うまでもなく僕は知っている。神無月園子とは、
「はぁ!? あんたカンナのことも忘れたの……? いや忘れたっていうか、知らないの……?」
「カンナちゃんのことはもういいよ。僕が体験した過去を、あの二つのメールは忠実に再現してるってだけだしね。そんな
どうでもよくない。僕は錯乱している。頭で分かっていても、それを客観的に俯瞰している自分が許せない。
これは本当の僕なのだろうか?
そうだ。僕は「蒲生貞士」だ。がもうていしだ。
「僕は全部解ったんだよ。僕が今朝起きたのがそもそもすべての元凶だったんだ。僕が数分前に目覚めなければ、こんな現実は始まらなかった――」
こんな悪夢は始まらなかった。
「……私、てーしの言ってることが分かんない……本当にあんた、『蒲生貞士』なの……?」
「僕は蒲生貞士だよ。それ以外の誰でもない」
この『僕』はのみなが言った意味で合っている。鉤括弧つきの
「あの二つのメールは、僕の経験から、体験から言わせてもらうと現実だった夢想だ。僕が目覚めてしまったことで――『夢想化』した過去の現実」
だから僕にとっては
就寝が僕の現実を改変する。
本当のことを言えば僕は最初から目を逸らしていただけなのだろう。真相なんてものを看破した気になって喝破しきれていない風を装って、僕は全部解っていた。
それを漸く見つめ直すことが、今、できた。
「今しがた、全部分かったよ」
「何が?」
彼女は即座に疑問を投げかける。僕が今の「僕」であることを受け容れはじめた兆候だ。その期待に応えるが如く、僕はまた語り始める。
「メールの送り主は名目上『神無月園子』だったけど、あれは嘘かも知れないね……他の誰かが僕に向けて送ってきた可能性がある。この世界の神無月園子は、既に死んでいる。殺されているにしても、自殺しているにしても。だからこの理屈が通る。小説世界の中の『神無月園子』は《その子》の死体の場所を訊かれて《ここ》と答えた。だからそれはそのやりとり自体が物語内の出来事であることを指して言っていたんだよ――ここっていうのは、この会話が小説になっている上位次元の現実、ってことだ。僕たちが今物語を俯瞰して読んでいる、この現実世界が『神無月園子』の墓場だと、そういうメタな指示語としての《ここ》だったんだ」
「…………」
僕が説明し終えるとのみなは放心したような呆れつくしたような、そんな遠い目をして僕を見る。
沈黙が空気を満たして、どんどん混濁していく。その不純な空気を吸気することに耐えられずに、僕はのみなに問う――否、それは僕の自宅の開錠音が聞こえた所為なのかもしれない。
「のみな。今は西暦何年?」
廊下を誰かが駆け足で移動して、階段を上ってくる音が聞こえる。聞こえるだけじゃなく近づいてくる。
「――えっ、とっ……2015年だけど」
やはり――
「やっぱり、そうだったか」
雑然とした足音が途切れて、僕たちのいる寝室の扉に異変が起こる。
異端が訪れる。
「……………………」
ガチャガチャガチャガチャ。ドアノブは勝手に暴れ出して、僕を焦燥させる。
のみなは依然としてぼぉっとした顔で、僕を見つめる。そして痛いほどに首を傾げる。
そうか。
「僕は確かに蒲生貞士だったんだね」
扉が開く。外界から侵入してきたのは、他でもない《半島三浦》。
のみなの答えを聞いて、忘れていた
そう――僕はきっかり1年間、
別窓の彼女 二谷文一 @vividvoid
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