アンチセンパイ同盟

 その日の放課後、僕は三年生の教室に向かうことなく帰宅した。

 わざわざ鈴木センパイの懐に飛び込んでいってやる理由はない。ただ、曲がりなりにも桐谷センパイや川島先輩との会話で学生生活の実感を味わっていた僕にとって、これは結構な痛手だった。

 翌日、毎度のようにホームルームぎりぎりに教室に入った僕は真っ先に引き出しの中を確認した。

 異状はない。まあ鈴木センパイ自身、昨日のは一発ネタだと言っていたことだし、同じ手は使ってこないことはわかっていたが、念には念をである。

 昼休み。今日は作ってもらえた弁当を一人自分の席で食べ終えると、何もやることがなくなる。

 話す相手もいないし、携帯電話を弄って時間を潰そうにも無料ゲームに僕の嗜好を満たしてくれるようなものはない。

 机に突っ伏すのは明らかに何もすることがない生徒のようで(実際その通りなのだが)気が進まない。

 図書室に行くのも、僕はあまり読書に興味がないし、漫画を読もうにも学校の図書室にある漫画は名作揃いだが数は多くない。

 勉強する程僕はクソ真面目な生徒ではないし、ガリ勉だと周囲に思われるのも御免被る。

 結局何もすることがないのである。

 頬杖を突いてぼんやりと時計の秒針が進むのを見ることくらいしか出来ない。

 ふと、耳元で大きな溜め息が聞こえた。

 それはどう考えても僕に向けられたものだったので、よくわからないまま溜め息の主へと目を向ける。

 一八〇を超えているであろう高身長だが、無駄な肉どころか筋肉も殆ど付いておらず、枯れ木のような印象を受ける。ただ短く刈り込まれた髪と切れ長の目からは、油断ならない雰囲気を感じさせる。

「で、お前が阿瀬翔?」

 嫌々聞いているような口調で、その人物は目を合わせた僕に言う。

「何が『で』なんだよ」

 真っ当な、だが意地の悪い返答をすると、相手は泣き笑いのような表情を作る。

「お前も気の毒だよなあ」

「馬鹿にしてる?」

「同情――いや、共感だな」

 相手はもう一度思い切り溜め息を吐くと、僕に外に出るように促す。

 恨みを買った覚えなど全くないが、喧嘩でも売られたか。僕は口が悪いのは自覚しているが、生憎腕っ節はからっきしだ。なのでまともな喧嘩などしたこともない。真面目な生徒として生きてきたこれまでに幸いにも喧嘩に巻き込まれたことはない。

 しかしまあ、ここ青川南高校はそれなりの進学校である。不良はいないし、暴力沙汰が起きたという話も聞かない。

 殴り合いにはならないだろうと僕は立ち上がる。口汚く罵られたら、三倍くらいにして言い返してやればいいだけだ。

 相手は教室を出てすぐの廊下で立ち止まった。

「すまん! ウチの姉ちゃんが馬鹿なことしてるみたいで、本当にすまん!」

 いきなり両手を合わせて頭を下げてきた。

 僕が呆気に取られていると、相手はがばと頭を上げて僕に詰め寄る。

「俺、五組の鈴木あさひ

「鈴木……?」

「ああ、うん。お前にちょっかい出してるの、ウチの姉ちゃんなんだ。ホントすまねえ」

 旭はそこで三度思い切り溜め息を吐く。

「で、姉ちゃんが同じ学年なんだから接触を図れって言い出してな。迷惑だってことはわかってるけど――」

 旭はぶるりと身震いする。

「ウチの姉ちゃん、怒らすと死ぬ程怖ぇんだよ……」

 どうやら鈴木センパイは弟に対し恐怖政治を敷いているらしい。あの人らしいと妙に納得してしまう。

 しかしこの分だと、旭を通じて鈴木センパイに文句を言うのは無駄どころか旭の身を危うくしかねない。

「気の毒に」

 僕が言うと、旭は苦笑する。

「お互いにな」

「で、俺と接触して、センパイに観察日記でも届けるの?」

 僕が訊くと、旭はいやいやと首を横に振る。

「そんなことはしねえよ。姉ちゃんもただお前に近付けとだけしか言わなかったし」

 旭はそこで何か言いたげに僕の顔をちらちらと眺めてくる。

「何だよ、気持ち悪い」

「思ったんだけど、お前口悪いよな」

「自覚はしてるよ」

「友達、いねえだろ」

「見ればわかるだろ」

 ニヒルに笑って、先程の情景を喚起させてやる。

 昼休みに自分の席で頬杖を突いてぼんやり時計の針が進むのを待っている。まあ中には話しかけられるのを持っているだけの豊かな友人関係を持った者もいるにはいるだろうが、生憎僕は例外に当てはまらない。

 旭は僕の笑顔を見ると、同じくニヒルに笑って、

「じゃあ、手ぇ組まねえか?」

 僕は笑みを浮かべたまま、少し首を傾げる。

「手を組む?」

「アンチ姉ちゃん同盟だ。理不尽な圧制に対抗し、反撃の機を窺う。そのために情報を共有する」

 僕はすっと右手を差し出していた。

「お互いに」

「気の毒に」

 旭はその手をしっかりと握り返す。

「じゃあまずはお前の方から訊きたいことは? 俺が出来る限り調べとく」

「じゃあ――鈴木センパイの放課後の行動」

「あ、それならわかるぜ。姉ちゃん五月の終わりに最後の大会があるとかで、今は殆ど部活に行ってる」

 なるほど。三年生の最後の大会ともなれば、あのセンパイでも身を入れざるを得ないという訳か。あの時教室に顔を見せたのは、部活が出来ない都合があったせい(か、あるいは単純に部活をサボったから)なのだろう。

 つまり、五月の終わりまでは鈴木センパイが放課後の教室に顔を出す可能性は低いことになる。

 僕がセンパイとの遭遇を恐れて三年生の教室から足を遠のける必要は(今のところは)ない――多分。

「助かった。とりあえず放課後は安全圏ってことだな」

 あ、と旭は思い出したように付け加える。

「でも姉ちゃん、予想通りそんな真面目なタイプじゃないから、部活フケて帰ってくることもあるな」

「う――」

 厭な予想は当たるものだ。

 いや、待て。あの時を思い出せ。鈴木センパイは、たまには川島先輩と一緒に帰ろうと言ってなかったか。つまりあの時の鈴木センパイの乱入は、全くのイレギュラーな状況だったのだ。現に僕が三年生の教室に出向くようになってからあの時まで、一度も鈴木センパイは現れなかったではないか。

「センパイが一緒に帰る相手ってわかる?」

「んー、基本部活仲間のはずだ。フケる時は一人で帰ってくるな」

 やはり、鈴木センパイは普段はあの教室には来ない。

「で、なんでそんなこと訊くんだよ?」

 情報を聞き出しておいて何も教えない訳にはいかないと僕は事情を話した。

 すると旭はげらげらと笑い出した。

「お前、友達いねえからって三年生の教室行ってたのかよ。そこで姉ちゃんに目ぇ付けられた訳か。散々だな」

「うるさい。笑うな」

 鼻を鳴らして肩をいからせる。僕がこんなことをしても大した効果がないことは僕自身重々承知なのだが、ポーズだけは威嚇の格好を示したいのだ。

 そこで昼休み終了五分前を知らせる予鈴が鳴った。

「じゃあ、とりあえず助かったよ」

「おう、また明日な。放課後は三年とこ行くんだろ?」

 苦笑で返して、僕は自分の教室に戻って席に着いた。

 ふと、先程までまるで周囲の生徒達と同じような会話を(内容はともかく表面上は)旭と出来ていたことに気付いた。

 まあ、とにかく今日の放課後は桐谷センパイと川島先輩に顔を見せに行くか。

 そう心に決めて、午後の授業を受けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ペットな後輩、飼い主センパイ 久佐馬野景 @nokagekusaba

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説