宛名のない手紙

 あの後、鈴木センパイは呆然とする僕を残し、川島先輩と一緒にさっさと帰っていった。

 その後も長い間状況が飲み込めなかった僕に対し、桐谷先輩はただ一言「気の毒に」と言った。

 その意味するところを、僕は薄々感じ取っていた。

 翌日、ホームルーム開始寸前に教室に入り、誰とも挨拶せずに自分の席に着く。

 学生というものは、学校が家から近い程朝起きるのが遅くてすむのだが、大抵はそれが行き過ぎて学校に近すぎる生徒は加速度的に家を出るのが遅くなる。距離が近ければ近い程、数十秒のやり取りが習慣になっていくのだ。そんな訳で、家が近くて自転車通学かつ通学路に踏切はあるが信号が一つもない僕は、毎日こうしたぎりぎりの時間帯に教室に滑り込むのだった。

 ほっと息を吐いて置き勉してある一時間目の数学の教科書を取り出そうと引き出しの中に手を突っ込む。

 ふと、手が何かに触れた。少し厚みのある紙だろうか。そんなものを引き出しに入れておいた記憶はないのだが、とにかく検めようとそれを掴んで取り出す。

「ぶっ!」

 引き出しから顔を出したそれを見て、僕は思わず咳き込む。周囲に見られていないことを願いながら、慌ててそれを引き出しの奥にリバースした。

 見えたものは、ピンク色の手紙だった。ご丁寧に表にはハート型のシールで封をしてある。

 ラブレター――まさかとは思いつつそんな単語が頭をよぎる。

 だが――こんなものを衆目の前に晒すのはあまりにも危険な行為だ。

 僕のクラスでの立場はいてもいなくても変わらないようなものだと自負しているが、そんな奴がラブレターらしきものを受け取ったと知られれば、どんな噂が立つかわかったものではない。今の立ち位置に満足している訳では勿論ないが、そこから転げ落ちるのはもっと困る。

 とりあえず、これはこうして机の奥にしまっておくに越したことはない。確認するのは人気がなくなってからだ。

 僕が何とか平静を保っていると、ホームルームが始まった。

 桐谷センパイの忠告を思い出し、少し憂鬱になる。今からでも部活に入ってみるか。否、それで友達が出来るとは限らないし、部活登録が終わった後から入ったら他の部員から浮く可能性も高い。

 今のままでも、一年は持つのだ。三年生が卒業するまでは話し相手がいるのだから、そう焦ることはない。気長に待てば僕に話しかけてくる同学年の生徒が出てくるかもしれない。

 二時間目は英語のオーラルコミュニケーションで、移動教室だった。

 これはチャンスだ。教室から全ての生徒がいなくなったのを見計らい、僕は机の奥に封印した手紙を取り出す。

 外側には表にも裏にも何も書かれていない。これは封筒ではなく、紙を器用に折り畳んで封書にしたものだ。

 ハート型のシールを剥がし、意を決して紙を開いていく。

 広げられた紙の中央に書かれた文字を見て、僕は暫し完全に固まった。

『ハズレ』

 実にその三文字だけ。他には本当に何も書かれていない。可愛らしいピンク色の便箋がかえって寒々しさを助長している。

 僕は機械的にその便箋を千々に引き裂くと、ゴミ箱の中に捨てておいた。

 授業を四限受け、昼休みになった。一人で昼食を取るにしても今日は弁当を作ってもらえなかったので、渡り廊下で売られているパンを買いにいくことにした。僕の教室は三階にあるが、パンが販売されているのは二階の渡り廊下なので階段を下りる。

 目的の渡り廊下のちょうど真ん中辺りに出ている机の上に置かれたパンを品定めする。品揃えは多いが客も多いので早く決めなければどんどん選択肢が減っていく。

 狙いを百円のクリームパンと百七十円と割高のカツサンドに定める。まず手近にあるクリームパンを確保し、残り後一つになっているカツサンドに手を伸ばす。

 すると僕の逡巡を嘲笑うかのように横から手が伸び、カツサンドを掻っ攫っていく。

 思わず声が出そうになる程素早く、容赦のない手さばきだった。まるで隼か鷹である。その猛禽類のような手の先の顔を見た途端、僕は無意識に声を上げてしまった。

 鈴木センパイである。僕が声を上げるとこちらを見つめ、にやりと笑う。

 パンの争奪戦は原則早い者勝ちである。なのでこれが知らない人間の手に渡った場合は大人しく諦めていただろう。だが、今の相手はあの鈴木センパイである。好きなようにやられて、黙っているのは癪である。

「センパイ、それ、俺が取ろうと思ってたんですけど」

「うん。知ってる」

 まるで悪びれる様子もなくそう言い放つ。

「えっと、つまり俺が取ろうとしてたのを無理矢理横から取ってったんですよね」

「だって食べたかったんだからしょうがないでしょ。この戦場では早い者勝ちがルールなの。わかる? 一年坊主」

「だからって人が取ろうとしてるのを奪うのはどうかと思うんですけど!」

 少し語気を強めると、鈴木センパイは逆に目を輝かせた。

「怒ってるのも可愛い……」

「な――」

 絶句である。この人は本当に駄目だ。これ以上関わると僕の方が身を滅ぼしかねない。直感が僕にそう告げていた。

「そうだ、じゃあ特別にこのカツサンドを買う権利を百七十円であんたに売ろうじゃないの」

「買う権利って何ですか! そもそもセンパイはまだお金払ってないから、それじゃあセンパイのぼろ儲けでしょ!」

 また相手をしてしまったということに気付いた時にはもう遅かった。どうやら僕はセンパイの凶行にどうしても反応してしまうようだ。

「もういいです。それはセンパイに差し上げますよ」

 僕は一番近くにあった特に好きでもないアンパンを掴み、クリームパンと合わせて会計を済ませた。

「ちょっと待ってよ翔ぅー」

「気持ち悪い声出さないでください」

 かかずらわるだけ無駄だと僕は渡り廊下から自分の教室のある西棟へと向かう。

 三年生の教室は全て東棟のはずだが、鈴木センパイは構わず僕についてきた。

「それより私からの愛の告白は読んでくれた?」

 一瞬意味がわからずに僕は首を傾げるが、すぐにあっと声を上げて鈴木センパイに向き合った。

「あの手紙、センパイの仕業ですか」

「おっ、やっと話してくれる気になったか」

「あんな嫌がらせやめてくれませんか?」

「うん、もうしない」

「は?」

 思った以上に素直な返答に僕は拍子抜けする。

「いやー、ほんとはあんたがあれを見つけてキョドるとこ見て目の保養にしようと思ってたんだけど、一年の教室の前で張ってるのは流石に目立つし、あんた朝来るの遅すぎて結局見届けられなかったからさー。それにこれ一発ネタの部分もあるから、二回目以降は意味ないでしょ?」

 がっくりと肩を落とす。全く反省した訳ではないらしい。

「一発ネタってことは、まだ他にもネタがあるんですか……?」

「おっ、鋭い。まだ色々と考え中だけどねー」

 というか――

「俺にちょっかい出すのやめてもらえませんか」

「やだ」

 即答である。

「だって翔可愛いんだもん」

 正面きってこんなことを言い出すこの人は本当にどうかしてる。とは言えこんな言葉は僕にとっては罵倒でしかない。小学生ならまだしも、高校生にもなって可愛いなどと言われて喜ぶ男はそうはいない。特に僕の場合、この容姿のせいで散々からかわれてきた分、一層不快に聞こえる。

「本当にやめてもらえませんか」

 なのでここは不快感を全面に押し出して言い切る。

「それ、真剣マジな表情?」

 鈴木センパイは目をきらきらさせて訊いてくる。元々の目付きはどちらかと言えば悪いのに、こうして目を輝かせるとまるで純真な子供のように見える。

 僕が真剣な顔で頷くと、鈴木センパイはいきなり僕の頬を両手で抓み上げた。

「もーう! 何もかもが可愛いなーこいつー。どんな顔しても可愛いんだから堂に入ってるわ本当にもー」

 百面相でもさせるようにぐにぐにと表情筋をこねくり回される。

「や、やめてください!」

 思い切り頭を後ろに引いて鈴木センパイの猛攻から逃れる。

 そこではっとする。ここは渡り廊下を出てすぐの廊下。当然、他人の目というものがある。現に通り過ぎる何人かが苦笑を浮かべて僕と鈴木センパイを見ている。

 幸いここは二階なので、一年生の教室は理数科の二クラスしかない。あとは全て二年生の教室で占められている。

 とは言え僕のようにパンを買いに階下に下りてくる生徒はいるし、同じ学年の生徒の目がゼロという訳ではない。

 よからぬ噂が立ちはしないかと僕は気が気でなかった。

「そういえば翔、あんた友達いないんだって?」

 人目を気にしながら、僕はむすっとして答える。

「ええそうですよ。何か問題ありますか」

 危機意識を抱いていることは鈴木センパイには言わないでおく。言えば絶対付け込まれる。

「じゃあ、そうねー。明日、楽しみにしときなさい」

 そう言って鈴木センパイは自分の教室がある西棟へと向かうために渡り廊下へと歩いていく。

「もうこんなことやめてくださいよ」

 鈴木センパイは高らかに笑う。

「まだまだ。これからがお楽しみ」

 にっこりと笑って手を上げ、鈴木センパイは風のように去っていった。

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