夢みる駅舎
家々
幸せなカタコンベ
入り江の桟橋から船を見送る。つい先程この桟橋を発った艀を連れて、三本のマストに白い帆をかけた帆船は遠ざかりつつあった。入り江を抱くような左右の浜は、こんもりと緑を戴いている。苔色の制服を着た駅員は、あの船へと案内した客たちを思いながら、制帽を取って胸に抱き、しばし目を閉じて、旅の多幸を祈った。
海から吹く風に逆らって、遠く背後から、正午を報せる鐘の音が聞こえる。重厚に重なりあって荘厳に響く鐘の音は、駅のどこにいても――例えばここ、駅構外に併設された小さな港にも――必ず届いた。駅員は帽子をかぶり、前方に果てなく広がる海に背を向けた。春が近づきつつある時季、陽光は暖かく、風は冷たい。
駅員の胸元から、木々がざわめくような音がする。
――エーレ。お昼にしておくれ。
駅員の胸にかけた、小さくて黒い、携帯型のトランシーバから、男性の声が言う。
「はい、駅長。お先にいただきます」
いつものように、駅員エーレは短く応答した。駅長の声の背景はいつも静かで、客の談笑も、鐘の音も聞こえたことがない。駅員は、トランシーバを胸にかけなおして歩きはじめた。
入り江の半ばから浜まで、桟橋は水と砂の上を渡る。駅員は、鳴りやまない鐘の音に耳を傾けながら、軋む桟橋の上を歩いた。前方では、緩やかに起伏をなす草原と背の高い森、平坦な荒野に挟まれて、無計画な増改築を繰り返したいびつな巨城がそびえる。塔やバルコニー、屋上の胸壁から、巨木が枝葉を伸ばしていた。駅員にとって見慣れた仕事場、カタコンベ駅だった。
赤煉瓦の胸壁に囲まれた庭園に入り、小さな階段をもって桟橋は途切れた。風に乗って飛んできた白い砂が、うっすらと石畳を覆っている。長年、潮風に晒されてきたらしい胸壁は、角のとれた和やかな形をしていた。赤煉瓦の回廊が左右に伸び、円形の庭園には、芝生と花壇、ベンチに囲まれた噴水がある。
駅構内へと続く正面には、砂色の巨石で組まれたアーチが、山のように構えて立っている。苔むしたアーチは蔦に覆われた城壁を支え、風化してまるっこい巨像と、無数の鳥の巣を戴いていた。時おり降ってくる落とし物の隙を見て、駅員はアーチをくぐり、丸天井の柱廊に駆けこむ。
柱廊内に足を踏みいれると、駅員の靴音を大理石が高らかに響かせる。入り江から吹きこむ風に、潮の香りがする。かつては左右に庭園と海を見晴らし、天窓から陽光が注いでいたらしいつくりの柱廊だが、今は増築された城壁に囲まれて暗く、入口と出口のあたりにだけ、白くまぶしく日が入っていた。列柱のひとつひとつに燭台が後づけされているものの、人手不足のため蝋燭の手入れが行き届かず、長い柱廊に灯った火は数えるほどしかない。
駅員は足を止め、手持ちのマッチでいくつか火を灯したが、柱廊に住みついた暗がりが動じるものではなかった。わずかな火をあざわらうように、融けた蝋ばかりが埃とともに、灰色の化石の滝となって柱の表面に流れて固まっている。
火を消したマッチの軸を箱へ仕舞っていると、駅員の視界の端を、影が横切った。顔を上げて目を凝らすと、列柱のむこうの暗がりに、ぼんやりとした白い影が立っている。こちらを気に留めない様子で、歩くような速度で遠ざかり、蝋燭の火を吹き消すように不意に消えた。
取り落としたマッチ箱が立てた小さな音に、駅員はびくりと肩をすくめた。震える息を吐き、粟立った肌を制服の上からさすりながら、かがんでマッチ箱を拾う。立ちあがると、数歩先で白い影がこちらに背を向けていた。駅員は息を飲み、今度はマッチ箱を投げるようにして取り落とした。
しかし、よく見ると、白い影は長身の男性のようで、カーディガンと髪の明るい灰色ばかりが、柱廊の薄暗がりで明るく見えている。遠くにある燭台の火が、彼の体を透かして見えた。マッチ箱が床へ落ちて立てた乾いた音にも、彼は身じろぎしない。駅員は、おそるおそると声をかけた。
「お客様……?」
灰色のカーディガンの男性は、駅員を振り返ることなく、さらに数歩先へ歩いて、また煙のように姿を消した。腰を抜かした駅員は、大理石の硬く冷たい床へ座りこみ、男性が消えたあたりを見つめた。いやになるほど尻が冷えたころ、駅員は力なく立ちあがった。
「幽霊……幽霊だ……」
震える声で呟きつつ、周囲の暗がりに目を凝らしながら、手探りでマッチ箱を拾った。時計を見ると、昼の休憩時間は過ぎつつある。駆けだしたい衝動を抑えて、周囲へ入念に目を凝らしつつ、駅員は柱廊の出口を目指した。
長い柱廊を抜けると、カタコンベ駅の中央広場に出る。ここには、巨城の地階中心を貫くようにして、そして地階と屋上を結ぶ唯一の吹き抜けを見上げて、駅最大の第一プラットホームがあった。円筒形の吹き抜けは、各階で不揃いな回廊が囲み、細い渡り廊下と階段がまばらに交差している。統一感のない柱像や女人像が見下ろす広場では、わずかに人影が見えた。
一番線や中央ホームと呼ばれるここは8番鉄道出国線の終点で、円形の広場を兼ねたホームの半ばまで線路が入りこんだ、二面一線のつくりになっていた。駅にある他の六つのホームはそれぞれY路鉄道各線の起点で、すべてホームと線路がひとつずつの、一面一線しかない。カタコンベ駅は、大手8番鉄道から弱小Y路鉄道への乗り換えのためだけに存在する駅だった。
線路の頭端の先に、古びた石造の大時計が柱に埋まって立っている。二階建寝台列車も跳ね飛ばせそうな巨大な振り子は、重々しくゆったりと揺れ、ここと、どうにかして繋がっているらしい最上階の鐘楼から、駅のすみずみにまで時を報せるのだった。吹き抜けの半分以上の高さ、はるか頭上にある巨大な文字盤を仰ぎ見ると、すでに昼の休憩時間を半ば近く過ぎている。駅員は慌てて駆けだした。
中央広場では、大時計を十二時の位置に、時計まわりに六つの出口があり、順に二番から七番まで数字を刻んだ銅板を、大型のアーチの頭上に掲げている。駅員は、大時計の足元の左手にある、番号のない扉へと向かった。木製の扉に掛けられた小さな銅板には、「駅係員控室」と刻まれていた。右手にある扉には、「駅長事務室」とある。駅員は時おり覗くのだが、駅長はいつも不在だった。
駅係員控室の扉を開けてすぐにある、誰もいない手狭な事務所を横切る。奥にもいくつか扉があり、それぞれ「食堂」「遺失物管理所」「医務室」「更衣室」「手洗」などと、小さな銅板の表札がかかっていた。表札を勢いよく揺らし、駅員は食堂へと駆けこんだ。
小さな食堂には、中央に木製のテーブルが一つと椅子が六つ、奥に狭い厨房がある。テーブルに青年が二人、厨房におばさんが一人、それぞれのいつもの場所に落ち着いていた。
息を切らせて入ってきた駅員に、青年たちは手を振った。彼らの昼食の食器はすでに下げられており、食後のお茶のカップとティーポットが、テーブルの上に残っている。彼らは瓜二つの容貌だが、業種で異なる制服を身に着けているため、見分けるのはたやすい。片方は赤銅色の制服の運転士、もう片方は紺青色の制服の車掌。今は上着と帽子を脱いで、白いシャツ姿だった。
「今日は遅かったな」
「オリガさん、エーレが来ましたよ」
青年たちの声に続いて、厨房に面したカウンターに、中年の女性が顔を出した。花柄のスカーフを頭からすっぽりとかぶった、恰幅のいいおばさんだった。
「遅かったわねえ、エーレ。食べられるだけ、食べていきなさいな」
そう言って、彼女はカウンター越しにトレイを差し出す。
「ありがとうございます。いただきます」
駅員は急いで受け取って、テーブルに着いた。空いた椅子に帽子を置き、食前の挨拶をして食事を始める。めいっぱい頬張って食べる駅員を前に、青年たちは笑った。
「ぶはっ、変な顔」
運転士は、駅員の膨らんだ頬を指でつつく。
「あんまり急いで詰めこむなよ、むせるぞ」
そう言って、車掌はポットを手に取り、駅員のカップにお茶を注ぎ足した。駅員は、頬張ったものを飲みこんだ。
「何だか、ちょっと変だったんです」
「何が?」
「笑いませんか?」
運転士と車掌は顔を見合せて、冗談みたいな神妙な顔で、駅員に向かって熱心に頷きかけた。駅員は、柱廊で見た白い影のようなものを思い出しながら答えた。
「その……幽霊を、見た気がしたんです」
堪えきれず吹きだした運転士の口元を、車掌が慌てて掌で押さえた。そのまま、彼は訊ねる。
「幽霊だって?」
「よくわからないんですけど、何だかこう、ふっと現れて、ふっと消えちゃったんです」
駅員は首を傾げながら、食事を再開する。車掌は運転士から手を離し、黙って目で諫めている。運転士は肩を震わせながら、自分の手で口元を覆っていた。
「
運転士と車掌は、そっくりな顔を見合わせた。車掌が、怪訝そうな顔で口を開く。
「ここに、幽霊なんていないよ。見間違いじゃないのか?」
「そうだよ。カタコンベ駅だもの、幽霊が出ることはないよ」
駅員は口の中のものを咀嚼しながら考え、嚥下してから答える。
「見間違いでしょうか。でも、普通のお客様と違って、一瞬で消えてしまったんです」
「何か、そういうお客だったんじゃないかい? 種族とか。他の駅でも、僕たちが二度見するような、とんでもない様子の人を見かけるもの。出国線は地味な部類だよ」
「ここの利用種族層は単一だぞ、ミロシュ。ごく普通の人間だけだ」
「そうだっけ? でも、この線は検札がないから、マロシュの記憶違いかもしれないよ」
「検札はないけど、車内巡回はしているよ。なあ、エーレ。やっぱり、見間違いじゃないか?」
駅員はもう一度、あの白い影を思い浮かべたが、幽霊と言い張るだけの確信もなかった。訝しげに見つめてくる二人の前で、黙って首を傾げるに留めた。
「それより、幽霊なんて言葉、どこで覚えてきたんだい?」
運転士ミロシュの声は、笑いを噛み殺しきれずにうわずっている。車掌マロシュにたしなめられて、彼は口を噤んだ。駅員は愛想笑いを浮かべただけで、すぐに食事を再開した。昼の休憩時間は、残り少ない。
やがて、運転士と車掌は席を立った。空になったカップを厨房へ返却し、オリガさんに挨拶をして、テーブルへ戻ってきた。壁に並ぶ鉤にかけてあった、上着と帽子をそれぞれ手に取る。
「僕たち、そろそろ行くね」
「また後でな。エーレ」
「はい。午後も、よろしくお願いします。ミロシュさん、マロシュさん」
二人が去った後、駅員は黙々と食事を続けた。出された食事をすべて平らげると、まだ温かいカップを手に取った。お茶を飲み干して一息つきながら、食堂の壁にかかった時計を見ると、午後の業務開始時刻が迫っている。トレイにカップとポットも載せて、カウンターへ向かう。オリガさんが厨房から顔を出し、人の好い笑顔でトレイを受け取った。
「ごちそうさまでした。オリガさん」
「ありがとう、エーレ。行ってらっしゃい」
「はい。行ってきます」
食堂の隅に備えつけられた洗面台で、簡単に身繕いをする。すでに時間に余裕はなく、駅員は慌しく食堂を後にした。
駅係員控室を出たと同時に、十三時を知らせる鐘が駅構内に響き渡った。中央広場で聞く鐘の音は轟音そのもので、駅員は脳みそを素手で掴んで揺さぶられているような気分になるのだった。鐘が鳴りやむと同時に、今度は駅員の胸元のトランシーバが、ざ、と音を立てる。
――制帽を忘れているよ、エーレ。気をつけなさい。
はっとして、駅員は頭へ手を遣ったが、あるべきものはない。動揺の中、記憶を辿り、食堂の椅子に置き忘れてきたことを思い出した。受信と送信を切り替えるスイッチを押し、応答する。
「申し訳ございません、駅長。すぐに取りに戻ります」
――食堂では、椅子に置くよりも、壁の鉤にかけるといい。そうすれば、忘れないから。では、午後もよろしく頼むよ。エーレ。
「はい、駅長」
駅員は、トランシーバを胸にかけなおして、食堂へと引き返した。事務所を横切りながら先の失態に頭を抱え、オリガさんのいない食堂で帽子を再び手にしながら、駅長からの信頼に傷がついたような暗い気分で、ため息をついた。帽子をかぶり、急いで食堂を出る。事務所を横切る際、視線を感じて、駅員は足を止めた。
壁にかけられた肖像画。黒い髪とひげの、三十代の半ばほどの男性が、こちらを見ている。駅長レネの肖像画だった。駅員はしばし彼を見つめると、肩を落とした。
カタコンベ駅で、駅長に隠しごとは不可能だった。駅じゅうを駆けずりまわっているのか、多忙きわまるらしい彼とは、エーレはじかに会ったことはない。しかし、彼の他にただ一人きりの駅係員、駅員エーレの言動は、駅のどこにいようとも彼に把握されていた。そして、広大な駅に散らばった無数の客のうち、案内を必要とする客がどこで何をしているのかも彼は把握しており、適宜、エーレに指示を出すのだった。
一番線では、すでに列車は発っており、客の姿も見えない。列車はおよそ一時間ごとに到着する。十四時の電車が来るまでは、客の案内業務もそうそうないため、駅員は構内の巡回に向かうことにした。
手袋の代わりに軍手を着け、ブリキのバケツを片手に、石造りの床に目を凝らして歩く。カタコンベ駅の利用客層は、ごみのぽい捨てをする類ではなかったが、落とし物、忘れ物は非常に多い。手袋の片方、マフラー、スカーフ、眼鏡、帽子、杖、アクセサリー、かつら、入れ歯、義眼、つけひげなど、ありとあらゆる着脱可能な品物をはじめ、衣服ひとそろい、下着、靴の片方、靴下、化粧品、旅行鞄、機械、調理器具、救急箱、書物や筆記用具、その他、関係者以外には用途不明――あるいは、持ち主以外にはがらくた――の品々が、いたるところで置き去りにされている。中央広場を一周するまでに、駅員は満杯となったバケツを手に、遺失物管理所と広場を何度も往復した。
遺失物管理所は地下にあり、赴く機会は多々あるが、あまりの広さと物の多さに、遺失物が太古の地層と小宇宙を形成している。遭難すると生還は不可能なため、駅員は駅長の助言どおり、出入口付近に遺失物を並べて、まわれ右をして去るように心掛けていた。腐敗するものでなければ、品々は半永久的に保管されるものの、駅員の記憶の限りでは、何かを受け取りにくる客がいたためしがない。胸の痛む場所だった。
誰もいない中央広場の巡回を終え、再び空になったバケツを手に、駅員は二番線、大時計に向かってすぐ右手にあるホームへと向かった。二番線をはじめ、すべてのホームが、地階と地続きになっている。三番線から戻る際に通った柱廊とほぼ同じ、増築部分に左右と頭上を埋めたてられた暗い柱廊を、足早に抜ける。
森に面した二番線は、日中は緑と木漏れ日にあふれている。古代を生き抜いてきたかのような巨木に囲まれて、心地よい静寂に満たされたホームだった。駅外周を巡る庭園の、胸壁の切れ間から、苔むした石畳がそのままホームとして森へ頭を出している。冷たい石の上に、一人の女性がうつぶせに横たわっていた。駅員はバケツを脇へ置き、女性に駆け寄った。
駅員が膝をつき、声をかけながら体の向きを変えると、女性が小さくうめいた。若い女性で、白いブラウスと濃紺のロングスカートを身に着けている。うっすらと目を開け、顔を覗きこむ駅員を認めると、彼女はほほえんで、四肢をいっぱいに使って心地よさそうな伸びをした。
「寝ちゃっていたわ。驚かせてごめんなさい」
駅員は胸を撫でおろした。彼女が膝に乗せてきた頭から、長い黒髪に絡んだ落ち葉をそっと除く。
「ここの駅員さんは、軍手をしているのね」
軍手を着けたままだった駅員の手を取って見上げ、彼女はほほえんだ。
「あ……失礼いたしました」
「いいの、そのままで。軍手、好きよ。庭いじりが趣味でね。特にサボテンが好きなの」
慌てて軍手を外そうとした駅員を制して、彼女はもう一度、小さく伸びをすると、立ちあがった。ひどく眠たそうな顔で、かたつむりのような緩慢な動作で、ホームに二つあるベンチへ向かっていく。腰を下ろすと、彼女はベンチの隣の席を掌で払い、積っていた枯れ葉を落とした。
「どうぞ。駅員さんを探していたんだけれど、疲れていて、うっかり」
「いかがなさいましたか?」
「私、無賃乗車しちゃったみたいで」
立ったままの駅員から目を離して、彼女は線路を見遣った。高さのあるホームの足元、緑の苔のじゅうたんに覆われた地面には、小さく盛られた砂利の上に線路が一つ、二本の鉄のレールが並行して伸び、森の奥へと消えている。
「恐れ入りますが――」
即座に胸元のトランシーバが音を立て、駅長の言葉を受信する。
――エーレ。規則を忘れたわけではあるまいね。従いなさい。
すぐに通信は途絶える。苦い気分に襲われながら、駅員はもう一度、口を開いた。
「当駅では規則により、切符不所持でのご利用も承っております。また、当駅駅長の意向により、8番鉄道からY路鉄道へのお乗り換えに限り、切符不所持をお申し出のお客様には、無料で切符を発行させていただきます」
説明を終えてから、ポケットを探り、切符一枚を取り出してはさみを入れ、女性に差し出した。彼女はぽかんとしていたが、やがて戸惑った手つきで切符を受け取り、しげしげと見つめた。掌に握りこんでしまえるほどの小さな厚い紙で、うら面は焦げ茶色一色、おもて面にはオリーブ色の唐草模様と、駅名が焦げ茶色の字で刻まれている。彼女は顔を上げて、駅員にほほえみかけた。
「ありがとう。無賃乗車を許してくれるなんて、おおらかね。普通、運賃の何倍かを支払ったりするものよね」
駅員は、黙って苦笑した。規則と駅長の指示には従うものの、その理由が説明されたことはなく、理解はできなかった。正直に無賃乗車を申し出てくる客は多いが、彼らに切符を発行するのは、駅員にとっては苦い業務だった。列車には乗っているのに、なぜ切符を買わなかったことにすら気がつかないのだろう、と、駅員には納得ができない。
切符をスカートのポケットへ仕舞いながら、女性は駅員を見上げた。
「気になっていたんだけれど、この駅の名前の由来って?」
駅員は、体に染みついたような口上を述べた。
「当駅は、古い地下墓地のファサードを増改築して建設されました。ファサードは、かつてこの地域にあった集落の、霊廟の遺跡であると伝わっております」
「じゃあ、本当にお墓なの?」
「はい。地上部分は有力者の墓、地下は庶民の墓地だと考えられております。しかし、地上にあったという墓は発見されておらず、地下墓地は、現在は閉鎖されております」
「ありがとう、駅員さん。やっぱり、お墓だったのね」
女性はほほえんで、大樹の枝葉を透かして、空を見上げた。
森の奥から地響きが近づいてくる。やがて長い汽笛を鳴らして、角ばってごつごつした、凸型でずんぐりとしたディーゼル機関車が、二両の客車と、最後尾に同じ機関車を一両、牽引してホームに到着した。8番鉄道の車両は電気機関車が主流である一方、Y路鉄道には電化された路線が少なく、車両も電線を必要としない、ディーゼル機関車や蒸気機関車が主だった。
汽車を見て、女性が笑い声を上げた。
「あの列車、見たことがあるわ。母国で走っていたの」
「この機関車は、Y路鉄道が、どこか遠い国から譲りうけたものだと言われております。型落ちとして、処分される予定だったとのことです。もしかしたら、お客様とご縁のある国なのかもしれませんね」
彼女は、懐かしそうに、はにかんだようにほほえんだ。
「おさがりね。私の故郷でも、みんな、使えるものは何でも使ったのよ」
「何でも、ですか?」
「そう。すごいのよ。例えば昔、戦車が壊れたか何かで立ち往生して、町なかに乗り捨てられたことがあったの。乗っていた軍人さんも行っちゃったから、町じゅうの人が集まって、鉄板や計器、砲台、パイプ、キャタピラなんかを、片っぱしからもぎ取っていったのよ。戦車は跡形もなくなった。二日くらいしたら、市場で別の商品になって売られていたわ。近くの町には、特にすごい人がいてね。職人みたいだったわ」
赤と青、少しの白に塗られた汽車が、重々しくホームに停まる。車両の扉がすべて開かれたが、中から出てきたのは、Y路鉄道の運転士と車掌の二人だけだった。焦げ茶色の制服を着た運転士、象牙色の制服を着た車掌は、車両のそばで周囲の安全確認を済ませると、ベンチに座る女性と、エーレの方へと歩いてくる。運転士は金色の髪を、車掌は栗色の髪を品よくまとめ、すらりとした涼しい容姿の、若い女性たちだった。彼女たちは、駅員と客の前で一礼する。
「お待たせいたしました。Y路鉄道森林線をご利用いただき、ありがとうございます」
「車掌リーリヤ、運転士グルーシャでございます。カタコンベ駅より、森林線を各駅にご案内いたします」
車掌から恭しく差しのべられた車掌の手を、思わず取ってしまった女性は、おずおずと立ちあがった。駅員を振り返って、ほほえむ。
「いろいろとありがとう、駅員さん。また、会えたらいいわね」
「お待ちしております。カタコンベ駅をご利用いただき、ありがとうございました」
駅員が一礼すると、三人の女性たちは汽車に乗りこんだ。到着した時は最後尾だった機関車が今度は先頭となり、車両を牽引しはじめた。駅員は、いつものように帽子を取って胸に抱き、旅の多幸を祈った。再び長い汽笛を鳴らし、汽車は森の奥へと消える。
駅員は遺失物拾いを再開するため、ホームの脇へ置いていたバケツの方へ振り返った。目と鼻の先で、バケツを覗きこむようにして、あの白い影の男性が立っている。彼の体を透かして、むこうにある庭園や胸壁が見える。駅員が思わず後ずさると、彼は顔を上げることなく、跡形もなく消えてしまった。
静かなホームで、駅員は気をとりなおして、遺失物を拾った。中央広場に比べると、二番線の遺失物は少なく、バケツ一杯におさまった。仕上げとして、バケツを脇へ置き、煉瓦の継ぎ目から緑が湧きでたような、厚く苔の生えた石畳の上から、軍手をした手で落ち葉を払った。
落ち葉払いを済ませ、懐中時計で時刻を確認すると、一番線に列車が到着する時間が近い。駅員は軍手を外して手袋を着けなおし、バケツを手に中央広場へと引き返した。暗い柱廊を歩きながら、トランシーバを手に取り、駅長へ語りかける。
「駅長。ひとつ、お訊ねしてよろしいでしょうか」
――何だね。
「どうして、カタコンベ駅では無賃乗車が許されているのでしょうか? 他の駅では、厳しく取り締まられているのに」
しばらくの沈黙の後、駅長が答える。
――また、その質問かね。何度も言っているが、ここがカタコンベ駅だからだよ。8番鉄道出国線からY路鉄道各線への、乗り換えのためだけにある駅なのだから、切符の有無にめくじらを立てていられない。
「しかし、それでは切符の意味がありません。何のために切符があるのです?」
――路線や駅ごとに、切符の価値と意味が違うからね。当駅は切符の有無に関わらず、お越しになるすべてのお客様に、ご利用いただかなければならない。私たちも、お客様のお乗り換えをご案内するためだけに、雇われている身だ。わかるね? エーレ。
「では、当駅での切符の価値と意味とは、何なのですか?」
駅長は沈黙した。やがて、落胆したような沈んだ声で、答えた。
――十四時の列車が来るよ、エーレ。一番線に向かっておくれ。
「駅長……」
駅員の言葉をかき消して、駅に鐘が響き渡った。肩を落として、急いで柱廊を抜ける。
バケツを事務所に置いておき、駅員は一番線のホームに立った。電線の下、一番線のホームに電気機関車が入ってくる。銀色が基調で、騒音も黒煙も立てず、蒸気機関車に比べれば滑るように走る列車だった。
十六両ある車両の扉が開き、さざなみのような音を立てて、大勢の客たちがホームへと降り立った。運転士と車掌もホームへ降り、周囲の安全確認をしている。大時計の脇、駅係員控室の扉の前に立った駅員の目の前を、濁流のように人が行き交った。
カタコンベ駅の利用客の大半は、自分がどのホームへ向かうべきかよく知っており、列車の到着後、一番線からはすぐに人がはける。そこで駅員がホームに立っておき、立ち尽くす客や声をかけてくる客を案内することも、業務の一つだった。
中央広場に散らばった利用客の動線は、六方向に別れた怒涛の大きな流れとなり、それぞれの出口に吸いこまれていく。談笑、靴音、衣ずれ、その他、人の立てる物音が、高い吹き抜けにこだました。中央広場に誰もいなくなるまでにそう長くはかからず、駅員が客から呼び止められることもなかった。運転士と車掌による車内点検と安全確認が済むと、列車はホームを出て行った。
駅員は、がらんとした中央広場を見渡した。再び駅構内の巡回に向かおうと、駅係員控室の扉を開けたところ、駅長からの無線通信が入る。
――エーレ。五番線へ向かっておくれ。お客様がお困りのようだが、マヌが駅員に間違えられている。
「わかりました。すぐ、まいります」
扉を閉めなおし、駅員は中央広場へと踵を返した。五を示す数字の巨大な銅板を掲げて暗い口を開く、石造りのアーチへと向かう。
五番線とその周囲一帯は、川の上に建っている。川面から床までの高さは、増築部分によってまちまちで、五番線のホームが最も低い位置に作られていた。五番線へ続く柱廊からは、外の日差しを反射する明るい川面の上に、格子のように柱が林立しているのがよく見えた。無数の柱を撫でて流れていく水の音が反響し、柱廊の天井や列柱、周囲の床や柱は、川面が反射する揺らぐ光に照らされている。
柱廊の先の庭園も、川の上にあった。胸壁の切れ間から木製の桟橋が伸びており、そこが五番線のホームだった。入り江にある三番線の桟橋や、他のホームより、五番線のホームは距離が長く作られていた。桟橋の先から駅を振り返ると、駅が川に浮かんでいるように見えるため、その光景を利用客に楽しんでもらおうという趣向のようだった。
空では太陽が燦々と照っているが、幅の広い川の水平線の上空から、雨雲が迫ってきている。桟橋には、人影が二つと、掃除用具を満載した台車が一つあった。一人は、長身で日に焼けた若い男性で、もう一人は、薄汚れた衣服に大きなエプロンを着けた少年だった。駅員は、二人に駆け寄る。
「お客様。いかがなさいましたか?」
男性が駅員を見てぽかんとし、困ったように駅員と少年を交互に見た。
「えっと……駅員さん?」
「はい、当駅駅員のエーレでございます。こちらは、Y路鉄道より派遣されております、清掃員のマヌでございます」
彼は少年を見下ろして、苦笑した。
「ごめんね、マヌ君。駅員さんだとばかり」
「駅員ではございませんと、何度も」
清掃員マヌは箒に目を落として、仏頂面でぼやく。男性は朗らかに笑って、マヌの肩を親しげに叩いた。
「ごめん、ごめん。心細かったんだ。ホームにいた人はみんな先に行っちゃったし、僕はどこに行けばいいのかわからないし。ごめんね」
「いいえ。では、わたくしは業務に戻らせていただきます。失礼いたします」
淡々と返答すると、大きな竹製の箒を抱えるようにして、清掃員は二人から離れていった。台車を押して庭園へ戻ると、黙々と清掃を始める。男性は申し訳なさそうな苦笑を浮かべて、清掃員の後姿を見送っていたが、やがて駅員へと向きなおった。
「それでね、駅員さん。僕、家に帰りたいんだけど、どのホームから乗ればいいのかわからなくて」
「恐れ入りますが、切符を拝見してもよろしいでしょうか?」
男性は頷くとポケットを探り、取り出した一枚の切符を駅員に見せる。駅員は切符を受け取りながら、男性を見上げた。
「お伺いいたしますが、なぜこちらへ?」
訊ねられて、男性は恥ずかしそうに笑って、目を伏せた。
「カヤックで川下りするのが、趣味なんだ。小さい舟なんだけど。ここへ来る前も乗っていてね、かなり流されちゃったみたいで。このあたりには、見覚えがないし」
「ありがとうございました、切符をお返しいたします。それでは、このホームでしばらくお待ちください。船が着きますので、お乗りください」
男性は返された切符をポケットに仕舞い、無邪気な笑みを浮かべた。
「鉄道なのに、船なの?」
「はい。お客様に快適にご利用いただくため、Y路鉄道では、お客様のご旅行の目的と道中の風土に適った、あらゆる運航手段がございます」
「そうなんだ。嬉しいな」
そう言って、男性は、緑豊かな平野を緩やかに蛇行する、川の遠くへ目を遣った。
「じゃあ、僕はここで船を待つよ。ありがとう、駅員さん」
「お役に立てましたら、幸いでございます」
「あのマヌ君にも、よろしく伝えてくれるかな」
「かしこまりました。旅のご多幸を、お祈りしております」
駅員は一礼して、桟橋を引き返した。振り返ると、男性がにこにこと手を振ってくれている。駅員は照れくさい気分ながら、手を振り返した。
庭園に着くと、清掃員が芝生の水やりをしていた。あたりの落ち葉や土埃はすっかり掃き清められている。庭園から五番線を振り返ると、男性が桟橋に立って、川を眺めていた。
「マヌさん。お客様が、君によろしく、と」
清掃員は顔を上げて駅員を見ると、ため息をついた。
「あの人、のんびりしすぎてちょっと馬鹿ですね」
駅員はぎょっとして清掃員を睨んだが、彼は涼しい顔をして駅員に目もくれない。スプリンクラーを止め、濡れた手や腕を、使い古したタオルで拭っている。
「何てこと言うんですか、マヌさん」
「僕もさんざん聞かされましたけれど。川下りが趣味だったなら、このホームからはとても家に帰れないことくらい、わかるはずです。流されてきたんでしょう? どちらへ川が流れているのか、ホームからでもわかります。川を上る方向には駅がありますし、床下の隙間もろくにありませんから、川を遡れる客船はおろか、お得意のカヤックでだって通れるわけがありません。見たらわかるはずです」
「ご要望に沿うホームへと、お客様をご案内することが、僕の仕事です。ご自宅がどの方向にあるのかまで駅員が首をつっこむのは、出過ぎだと業務指導されています」
駅員は黙って、先程の男性とのやりとりを思い返したが、かつて駅長から教えられた業務規則や行動規範から外れた言動はなかった。不安になって、うつむいて続ける。
「それに……お客様が家に帰ることを望まれた以上、あのホームから出発されても、そのご要望は叶えられます。そのための、カタコンベ駅です」
清掃員は再びため息をついて、タオルを台車の縁に引っかけた。
「あなたも、馬鹿ですね。だから、駅長が苦労するんです。戻れるわけがないでしょう。あの人は、このホームから発った以上、もう二度と、いくら望んでも、家になど帰れません。お客様のご要望に応えるなど。カタコンベ駅は、欺瞞と傲慢の塊です」
「言葉に気をつけてください、マヌさん! 僕のことはともかく、駅に……何てことを」
清掃員は、物問いたげな目で駅員を一瞥したが、何も言わずに背を向けて、掃除用具を台車へ片付けはじめた。すっかり満載となった台車を押して、振り返ることなく、庭園の外周を巡る石畳を歩いていく。
駅員は憤懣やるかたなく、そびえる巨城をふり仰いだ。巨大なアーチの三方を塞いで、増改築された城壁。階を重ね、塔を継いで、空高くまで悠然と伸びた、いびつな建造物。建材も色味もまちまちで、計画性も統一性もなく、建築物の恣意的なつぎはぎ以外の何ものでもなかった。
駅員は、駅を見上げて痛くなった首をさすりながら、肩を落とした。カタコンベ駅について、空間についても、業務についても、駅員には知らないこと、理解できないことばかりだった。カタコンベ駅の外観を見る限り、駅として使用されている空間はごく一部にすぎず、後づけも甚だしく増築されたと見える箇所が、大半を占める。七つあるホームはすべて地階にあり、駅員はその他の区域に足を踏み入れたことはなく、どのようにして入りこめばいいのかも、知らなかった。
目を落として、柱廊へと歩いていく。しばらく歩いたところで、外から遠く汽笛が聞こえた。桟橋に船が着いたのだろう。足を止め、暗い気持ちで桟橋を振り返ると、白い影の男性がこちらへ向かってきているところだった。彼は避けるそぶりを見せず、駅員は足がすくんで尻餅をつく。一瞬、視界一面を白い靄が覆い、すぐに見えなくなった。駅員が肩越しに背後を窺うと、体をすり抜けて通り過ぎた幽霊が、歩いて遠ざかっていく。革靴を履いているらしい足元が、霞んでいる。そしてまもなく、雲散霧消した。
駅員は震える手で、胸元のトランシーバを探った。冷えて感覚のない指で、送話するためのスイッチを押し、口を近づける。
「駅長。お訊ねしてもよろしいでしょうか」
――何だね。
「今日は、頻繁に……その、幽霊のようなものを、見ております」
駅長の、戸惑ったような声が聞こえる。
――ミロシュとマロシュにも、そんな話をしたそうだね。この駅に、幽霊は出ないよ。エーレ。見間違いだろう。
「しかし、何度も……」
――何度も見間違うこともあるだろう。気のせいかもしれないよ。
駅員は、目に熱く浮かんでくるものを感じた。自制してもうわずってしまう声で、祈る気持ちで訴えを続けた。
「駅長。正直に申し上げますと……恐いのです」
沈黙がややあって、駅長の、困りきったようなため息が聞こえた。
――すまないが、私には、どうにもできないよ。仮に幽霊を見たとしても、無視しなさい。いないものと思いなさい。いいかい?
「……わかりました。駅長」
駅長との通信が途絶え、駅員は力なくうなだれる。ごしごしと目元を拭うと、トランシーバを胸元にかけて立ちあがった。
十八時、列車が一番線のホームへと到着した。一時間の休憩を挟むため、十九時までこの列車は動かない。二十四時間体制の8番鉄道やY路鉄道では、客と職員が食事を取れるように、零時、六時、十二時、十八時からそれぞれ一時間は、業務の手を止めるよう、規則として定めていた。
駅の地階は、壁や柱に取りつけられた電灯、ガス灯、ランプ、蝋燭が入りまじった数多の照明が、煌々とホームへ明かりを投じている。上階では、うすぼんやりとした光が点在して、暗闇を照らしていた。夕方から雨が降りはじめており、中央広場をはじめ、駅構内じゅうで雨漏りがひどかった。ホームという大切な場所でもお構いなく、駅じゅうでほぼまんべんなく、雨漏りがしている。雨粒は、光の中で星や蝋燭の火のように煌いて落ちる。
列車から降りたばかりの客たちは、屋内に降る雨に、開いた口が塞がらない。しかしすぐに、見知らぬ同士で苦笑を交わし、たまたま傘を持ちあわせた者に声をかけて宿らせてもらうなどしながら、小走りにそれぞれのホームへと去っていった。中央広場からは、いつもより早いうちに人がいなくなった。
中央広場では、はるか頭上に巨大なばら型のステンドグラス――吹き抜けが高すぎて模様が霞み、ぼんやりと緑と黒、白という色だけが見える――があるにも関わらず、どこからともなく雨粒が落ちてくる。各ホームへと向かう、天井を塞がれた柱廊でも、天井があってないような雨の漏りようだった。食堂や医務室、事務所、遺失物管理所、駅係員の寮などは無事だが、商売道具であるホームをはじめ、駅長事務室や更衣室、ほぼすべての手洗では、雨の日は水浸しになった。
駅係員のために、ビニール傘が事務所に常備されているが、濡れて駆けていく客をさておいて傘をさすことは、とうてい駅員にはできなかった。運転士や車掌も、傘をささずにホームへ出ている。一方、当の客たちは、潔いほどの雨漏りっぷりには無頓着で、苦笑いをこぼすことはあっても、けしからんと事務所へ怒鳴りこみにくることはなかった。
駅員は、帽子の鍔から滴る雨水を拭いながら、苦々しい気分でトランシーバを手に取った。
「駅長。雨が漏っております。以前、お願いいたしました、修繕の件はいかがでしょうか? せめて、ホームだけでも雨漏りを直していただけませんか?」
応答する駅長の声も、駅員と同様、苦渋を滲ませていた。
――すまないね。取り次ぎの者に、再三、伝えてはいるんだが。なかなか、本部に連絡してくれないんだ。
「取り次ぎですか?」
――そうだよ。私の身分では、本部とは直接やりとりができなくてね。本部に用がある時は、ある職員に取り次ぎを頼まなければならない。
「では、その職員が?」
無線通信のむこうで、駅長がため息をつくのが聞こえた。
――まあ、そうだね。業者を寄越すよう、また頼んでおくよ。あまり、期待はできそうにないが……。すまないが、しばらく我慢しておくれ。
「わかりました。駅長、その職員というのは、どこにいるのです?」
――この駅にいるよ。本部とは、電話で連絡をする。電話交換手のようなものだね。
「電話? この駅に、電話があるのですか?」
――ああ、あるとも。
「僕、一度でもいいから、電話を使ってみたかったんです。僕もいつか、使えるようになるでしょうか?」
――この駅の事務所にも一つ置くようにと、取り次ぎを頼んでいるよ。きちんと本部に伝わっているかどうかは、わからないが。
駅長はしばらく言葉を切り、しばらくして答えた。
――もし、電話を使いたいなら、今からでも覚えておくといい。本部へは、***という番号で連絡できる。電話を見たことはあるね? 受話器を置いたまま、番号の書いた穴に指を入れて、ダイアルを回しきるんだよ。番号を回し終えてから、受話器を取りなさい。
駅員は、後で間違いなく手帳に書き残せるように、今は駅長の説明を、懸命に頭の中へ叩きこんだ。
――それでは、エーレ。休憩を取っておくれ。
「はい。駅長」
通信が途絶え、駅員は濡れそぼった手袋で、帽子の鍔を拭った。身動きすると、ずぶ濡れの制服がつっぱる。雨の降るホームから、雨漏りを免れた食堂へと向かった。
二十一時の列車が、一番線のホームを出て行った。夕方から降り続いている雨は、屋外では小降りとなりつつあったが、雨漏りにより駅構内で降る雨は、まだ弱まりそうにない。
人気のない一番線のホームで、三人の客が寄り集まって、立ち尽くしていた。女性が一人、男性が二人、困った様子で話しこんでいる。大時計のそばに立ち、ホームから人がはけていくのを見ていた駅員は、彼らのもとへ向かった。
「行きたいところがあるんだけれど、ホームがないの」
駅員がそばへ来たのを見て、女性が言った。理知的な目をきらきらと輝かせる、若い女性だった。無料配布している駅の案内図の紙をひらひらとはためかせて、困った風に笑う。
「皆様、どちらへお越しに?」
「私は、島。珍しい動物がたくさんいるっていう、島なの。三番線が海に面しているけれど、案内を見たら行先はちょっと違うみたいで、迷っちゃって」
女性が答えて、他の男性の方を見た。若い女性の隣に立っていた、がっしりとした体格の、顔が赤く日焼けした壮年の男性が答える。
「私は、山だよ。六番線の方から山が見えたので一度、行ってみたんだが、線路がないものだから、列車がどの地方へ向かうのかわからなくてね。また、ここへ戻ってきたんだよ。駅員さんが見つかって、よかった」
壮年の男性に促されて、褐色の肌の青年が口を開いた。
「僕は、砂漠です。砂漠にある故郷を出てきたのですが、旅をするにも、やはり慣れた風土がいいな、と。荒野に面している、七番線が砂漠に近いと思うのですが……」
駅員は、小さな手帳に書きこみながら、三人の話を聞いていたが、やがて筆記用具をポケットに仕舞った。
「申し訳ございません。島、山、砂漠方面へのホームは、当駅にはございません。個別輸送でよろしければ、六番線よりバスを手配いたします」
「個別輸送?」
女性が、好奇心に目を輝かせて訊ねた。
「はい。皆様にバスへご乗車いただき、目的地までご案内いたします。ただ、当駅とY路鉄道にはバスが一台しかございませんので、バス内あるいは当駅での順番待ちに、ご了承いただきたく存じます」
「順番は、どうするんだい?」
男性が、顎の不精ひげを撫でながら訊ねる。隣では、褐色の肌の青年が頷いている。
「お申しつけいただけますと、遠回りでもご指定の順番でお送りさせていただきます。当駅から近い順では、山、砂漠、島となっております」
三人は顔を見合わせた。しばらくぼそぼそと話しあってから、彼らは駅員に向きなおった。女性が代表して、口を開いた。
「ここから近い順に、お願いするわ」
「かしこまりました。それでは、バスを手配いたしますので、六番線でお待ちください」
三人の客は、安堵したように顔を見合わせていた。旅の道連れとなった互いの肩を、親しみを込めて叩いている。
「ありがとう、駅員さん。これで、いい旅ができます」
「違う方面に行かずに済んで、助かったよ」
「ホームで待っているわ。バスで旅行なんて、久しぶり」
客たちは駅員に手を振り、談笑しながら六番線へと向かっていった。駅員は彼らの背を見送り、胸元のトランシーバから、駅長に連絡する。
「駅長。六番線で三名様がお待ちです。バス手配の許可をお願いいたします」
――ありがとう、頼んだよ。お見送りにも出ておくれ。
「わかりました」
――ホームも、増築せねばならないかね……。
「増築ですか?」
陰鬱な声を聞いて訊き返したが、駅長からの応答はなく、通信は終わってしまった。駅員は、いつものトランシーバのチャンネルを切り替え、Y路鉄道臨時線を担当する、車掌へと繋いだ。女性の声が応答した。
――こちら臨時線です。
「臨時線、カタコンベ駅のエーレです。六番線にバスをお願いいたします。三名様をご案内しております」
――了解しました。
通信を終え、駅員はトランシーバを胸にかける。数日に一度、手配をするバスだが、いったい、いつもはどこで待機していて、どこから駆けつけてくるのか、駅員にはわからなかった。駅員は首を捻りながら、客を追って六番線へと向かった。
六番線には線路がなく、バスのタイヤのわだちが、暗い平野へと伸びている。雨はすでに止んでおり、わだちにできた水たまりが、月と駅の投じる光を反射する。駅の外壁に取りつけられた無数の照明が、不格好な巨城の姿を夜空に照らしあげていた。庭園とホームは、あちこちに立つ街路灯のおかげで明るい。多種多様な街路灯のうち、自動点火装置のないガス灯は、清掃員のマヌによって火が入れられてあった。
庭園から伸びる石畳の先、ホームでは、先程の三人の客たちが、立ったまま談笑していた。駅員は少し離れたところから彼らの背中を眺めていたが、やがて平野の暗闇のむこうに二つの目のようなまばゆいライトが見え、重たげなエンジン音が近づいてくる。そうして、駅の明かりの中へ、一台の二階建バスが現れた。バスは、ぬかるんで柔らかい地面とわだちの上で、水を跳ねあげ、弾むように揺れながら、ホームに寄り添うようにして停車する。
エンジンが切られ、静かになったバスの中から、男性と女性が一人ずつ、焦げ茶色の制服を着た運転士、象牙色の制服を着た車掌が出てきて、一礼した。運転士は初老の男性で、灰色の髪を几帳面に撫でつけ、よく手入れされた灰色の口ひげを蓄えている。柔和な雰囲気の紳士だが、鍛えられた体格をしているようだった。車掌は運転士よりひとまわりほど年下の女性で、白っぽい金髪を短く切り、凛とした顔立ちをしている。
「こんばんは、お待たせいたしました。Y路鉄道臨時線をご利用いただき、ありがとうございます」
「運転士ヨールカ、車掌イーヴァでございます。カタコンベ駅より、皆様の目的地まで、ご案内いたします。道中、皆様のお食事等のお世話は、わたくしイーヴァがさせていただきます」
三人は、運転士と車掌に案内されてバスの乗降口へ向かう。それぞれ、駅員を振り返り、笑顔で手を振った。駅員も、礼を返して見送る。帽子を胸に抱き、しばし目を閉じて、旅の安全と幸いを祈った。
バスは重厚に大きく揺れ、水たまりから飛び散る滴が、きらきらと輝いた。ホームを離れて速度を上げていくバスは、すぐに駅の明かりの届かない暗がりへと去ってしまった。後方からは、点灯したライトが照らすあたりの地面しか見えない。駅員は、バスが見えなくなってから、六番線を後にした。夜のしじまを割って、鐘が駅じゅうに響き渡る。
いまだに、わずかに雨の降る中央広場に戻ると、すでに二十二時の列車が一番線に到着していた。中央広場は、降りたばかりの、それぞれの向かうべきホームを目指す人々でごった返している。人の波のむこう、列車のそばで安全確認を行っているのは、ミロシュとマロシュではなく、若い二人の女性だった。ともに小麦色の肌で、長い黒髪を複雑に編みこんでまとめたものを、背中へ流している。彼女たちは、雑踏のむこうから駅員を見つけると、笑顔で手を振った。
一番線の人の洪水に秩序が生まれはじめた頃合いを見計らって、運転士と車掌が駅員のもとへやってきた。
「エーレ。もう十時よ、寝ないでいいの?」
運転士が、夏の太陽のような眩しい笑みを浮かべる。
「明日がつらくなるわ。早くお休みなさいな」
車掌は、夏の夕べのような艶っぽい声で言った。
「こんばんは。カルメンさん、カンデラさん。僕は、もうそろそろ……」
彼女たちはミロシュとマロシュと交代で、夜間、十九時から翌朝六時まで、カタコンベ駅の一番線へ入る列車を担当している。運転士はカルメン、車掌はカンデラという名で、彼女たちも瓜二つの容貌だった。
「いいこと? しっかり寝ないと、背が伸びないの。まだ若いんだから、なおさらよ」
「オリガさんに頼んで、特別メニューにしてもらったらどうかしら」
「その話はもうやめてください」
運転士と車掌は、駅員の帽子を取ってくしゃくしゃと頭を撫でた。短い白い髪が、かき回されてもじゃもじゃと乱れる。駅員の鼻梁にうっすらと散ったそばかすを、二人はくすぐるように指で撫でて笑った。
「カタコンベ駅だから、こんなに遅くまでいられるんだからね。外では、夜に出歩くのは恐いわよ。エーレみたいな女の子は、すぐに捕って食べられちゃうんだから」
「そうよ。だから、いい子は早く寝るの。駅長に心配されているうちは、まだまだ夜遊びもできないわね」
けらけらと笑う彼女たちを前に、駅員は制服の胸のあたりを隠すように押さえながら、口を開いた。
「他の駅は……カタコンベ駅の外というのは、どのようなものですか?」
二人は駅員を見て、それぞれ首を傾げて考えこんだ。やがて、運転士から答える。
「変な駅が多いわ。正直、いやな路線も多いけれど、どんなものも見慣れるし、慣れちゃった。私たちももういい歳だし、いろんな駅や路線を見てきたから、大抵のことでは驚かないしね」
「本部から指定された路線や区間は、私たちの都合ではどうにもならないの。決められた期間は、どんなにいやなところでも、苦行みたいな気分ででも、職務を全うしなければならないわ」
苦笑いで語った二人は、大時計に目を遣ると、駅員の頭に制帽を載せた。
「そろそろ、行かなきゃ。エーレ」
「またね、エーレ。早く寝るのよ」
「あ、あの……お二人は、幽霊を見たことがありますか?」
踵を返し、駅員に背を向けて駆けていく二人は、束の間足を止めて、声を投げた。
「見たことはあるけれど、この駅にはいないわ!」
「安心して、夜は一人でトイレに行くのよ!」
列車へ駆けもどり、二人は軽快に車内を駆けぬける。車内点検を終えて、彼女たちはホームから駅員に手を振り、車内へと消えた。駅員も手を振り返して、発車する電気機関車を見送った。
誰もいないホームを見まわして、トランシーバを手に取り、駅長に送話する。
「駅長。そろそろ退勤させていただこうと思うのですが、お困りのお客様はいらっしゃいますか?」
――いや、問題ないよ。もう休んでおくれ。
「それでは、失礼いたします。おやすみなさい、駅長」
――お休み、エーレ。明日もよろしく頼むよ。
「はい。よろしくお願いいたします」
通信を終え、駅員は帽子を取ると、駅係員控室に向かった。
静まりかえった事務所に、すでに見慣れた白い影の男性が立っていた。不意のことに、駅員は小さく悲鳴を上げた。駅員からは彼の背中しか見えないが、彼は四つある事務机の一つを調べるかのように、少しうつむいている。事務所の奥にある更衣室へ向かうため、駅長に指示された通り無視するよう心掛けつつ、駅員は避けるように大きく事務所を回りこみはじめた。ふと違和感を感じて幽霊を盗み見ると、日中に見たように透けてはおらず、彼の姿の向こうに、背景は見えなかった。
「お……お客様……?」
幽霊ではなく普通の人であることを祈りつつ、駅員は男性に声をかけた。しかしやはり、彼は駅員に気づくことなく、事務机を離れて歩きはじめた。足音まで聞こえて、怯えて後ずさった駅員をよそに、透けていない、生身に見える体で、駅係員控室の扉をすり抜けていった。
駅員は息を飲み、茫然と立ち尽くしていたが、扉に駆け寄ると、小さく開けて外を窺った。中央広場の濡れた石畳には、星の数の照明が投げる光が溶けて、その上を歩いていく白い影が見える。前に見た時と異なり、彼はすぐに消えてしまうことなく遠ざかり、やがて見えなくなった。
額に浮かんだ冷汗を拭い、ため息をつきながら、駅員は更衣室の扉を開けた。水浸しの床の上、六つ並ぶロッカーの片端から二番目に、脱いだ制服一式を仕舞う。空きのロッカーは扉が開け放されているが、端にある駅員の隣は、いつも施錠されていた。
洗濯物を抱えてロッカーを閉め、駅員はくつろいだ格好で、準備室のさらに奥にある扉に向かう。石造りの階段には、水が溜まっている。白熱灯のランプに照らされた通路は、何度か折れ曲がりながら、上ったり下りたりして続く。静まりかえった空間に、駅員の足音と、水が跳ねる音が反響する。階段を過ぎると、雨漏りの被害が窺える廊下があり、一方には扉が六つ、反対側には庭園に面した窓が並んでいた。駅係員の寮であるここで生活しているのは、駅員エーレ一人きりだった。一番目の扉に、駅員は入っていった。
小さな部屋だが、カーテンを開け放した窓の外に、よく手入れされた中庭が見えた。この部屋は雨漏りを免れているが、それもいつまでもつかはわからない。机、戸棚、窓に面した寝台があり、別室に小さなキッチン、浴室と手洗、洗面台がある。この寮や中庭は、大時計の背後、二番線と七番線の間に位置するのだろうと、駅員は見当をつけていた。駅として使われている部分と、城の私的な空間に挟まれた、隙間のようだった。駅員は手早く寝支度をして、寝台にもぐりこんだ。鐘の音が二十三時を告げているが、ここではずいぶんと遠く聞こえる。
寝台に横になり、眠る前に中庭を眺める。八角形の中庭の角にガス灯が立ち、背の高い塔の間に残る空から月明かりが差して、中庭は明るかった。夜の雨に濡れた草木の茂み、花壇の花が、雫にこうべを重く垂れ、月と星の明かりを映している。部屋の明かりを消しても、中庭から青白い光が差しこんできた。エーレは、愛する駅で、眠りと目覚めをともにしてきた、この中庭が好きだった。自分の家すら持っていないのに、いつか自分のための中庭を持ちたいと、密かに願っていた。そして、その時は、真っ先に、駅長を――敬愛する駅長を、お招きするのだ、と。
翌朝、自室で軽く朝食を済ませて、駅員は出勤した。住みこみで働く駅員は、朝の五時に出勤することになっていた。朝食は、六時からの休憩時間で、ユーリイさん――オリガさんと交替で、零時の夜食と六時の朝食を担当しているおじさん――が作ってくれる、きちんとした食事を取る。日が昇るまでに、まだ少し時間がある。駅長に挨拶を済ませて、駅員は一番線に立つため、駅係員控室を出た。昨日、雨が漏った駅構内では、壁や石畳はおおむね乾き、ところどころに浅い水たまりを残すのみだった。
五時の列車が着いたばかりの、一番線を見渡す。人々の動線が入り乱れてごった返すホームに、明るい灰色のカーディガンを着た男性が、ぽつねんと立っているのが見えた。川に顔を出す石のように、怒涛の人の流れの中で動かない一点は、遠くからよく見える。見覚えのある後姿に、背筋に冷たいものを感じながら、駅員は人混みに目を凝らした。彼の姿は、ゆうべと同じく透けてはおらず、すぐに消えることもなく、黒っぽいスラックスの足元が、霞んで揺らぐこともない。
普通の利用客だと安堵とともに確信して、駅員は人が流れる川に沿い、立ち尽くしているらしい彼のもとへと近づく。その途中、男性は駅員に背を向けたまま、流れに逆らってゆっくりと歩きはじめた。足取りは重く、朦朧としているかのようにふらつきながら、駅員の目の前で再び彼は消えてしまった。
苛立ちが混じりつつある恐怖を深呼吸で紛らせて、足を止めた駅員は、別のものに目を留めた。車両の最後尾の、車掌室のあたりで、流れに取り残されて動かない点がある。そこには、運転士カルメン、車掌カンデラ、そして一人の若い女性がいた。女性は車掌に詰め寄り、車掌が何かしきりに説得している様子だ。駅員は、人の流れを遮らないよう回りこんで、三人のもとへ向かった。
駅員が彼らのもとへ辿りついた時にもまだ、女性は車掌の腕を掴み、揺さぶるように激しく問い詰めていた。話に加わっていない運転士を見上げると、彼女は苦笑して、唇に指をあてた。車掌の仕事には、口を出さないようだった。駅員も黙って、車掌と女性の話を聞きとると、どうやら彼女は連れとはぐれたらしい。不安で取り乱しているらしく、車掌とのやりとりは堂々巡りしがちだった。車掌は根気強く、彼女に事情を説明している。
「ですから、お客様。お連れ様は、二駅手前でお降りになりました」
「どうして勝手に降ろしちゃったの? 一緒に旅行する予定なの! 切符だって、一緒に……」
「恐れ入りますが、お連れ様がお持ちの切符は、当駅より二つ前の駅行きでございました。ご本人様からもご了承いただき、お降りいただきました」
「どうして私も一緒に降ろしてくれなかったの! あのこの降りた駅で、私も降ろして!」
「お客様がお持ちの切符は、当駅行きでございます」
「じゃあ、切符を買うわ。おいくら?」
「たいへん申し訳ございませんが、当線、当駅では、折り返しの列車にはご乗車いただけません。引き返される場合も、大幅迂回のためご迷惑をおかけいたしますが、Y路鉄道の各線をご利用ください」
女性はようやく口を閉ざし、茫然と車掌を見つめた後、床へ座りこんだ。糸が切れたような力のない声で、呟く。
「私一人でなんて、意味がないの……」
それきり、彼女は黙ってしまい、うつむいたまま動かなくなった。時折、肩が小さく震えている。先程から、運転士と車掌は途方に暮れた様子で、時計を気にしている。駅員が二人に目配せをすると、申し訳なさそうにほほえんで、彼女たちは列車に戻った。冷たい石の床に座りこんだままの女性のそばへ、駅員は膝をついた。
「お客様。よろしければ、事務所でお話をお伺いいたします」
彼女は顔を上げて駅員を見つめたが、その背後でホームを出ていく列車を見、再びうつむいた。首を振りながら、蚊の鳴くような声で言う。
「もう……いいの。旅行はやめて、引き返すことにするわ。遠回りでも……」
「かしこまりました。それでは、四番線へお越しください」
立ちあがりかけた駅員の手を取り、女性は濡れた目で見上げた。
「ごめんなさい。力が抜けちゃって。ホームまで、一緒に来てくれる?」
「かしこまりました」
駅員は彼女を支えて立ちあがり、ゆっくりと二人で、四番線へと向かった。
中央広場を歩きながら、女性は疲弊した様子で口を開く。
「私たちね、駆け落ちしたの。お互いの家族はどこまでも追いかけてくるし、世間の風当たりも強いし。だから、気分を変えに、旅行することにしたの」
「駆け落ち、ですか?」
女性は寂しそうに、しかし満足げにほほえんだ。
「そう。駆け落ち。もちろん、その前に、私たちは周囲を説得したのよ。何度も、手を変え品を変え。世間一般とは少し違うけれど、私たちのあり方を認めてもらうために、筋を通そうとしたの。でもね、だめだった。だから、残念な方法だけれど……二人で逃げたの」
それから、二人の間で会話のないまま、暗く長い柱廊を抜けて、庭園へ出た。外は薄明るく、まだ日は昇っていなかったが、東の地平線は明るく、日の出はまもなくだった。ホームに立つ街路灯が、薄青い空気に白く輝いている。なだらかに起伏する草原を吹きわたる風に、草が波打っていた。昨日の雨のなごりは、さほど残っていない。
「どうして、お連れ様は切符を……?」
駅員は首を傾げた。女性は、泣きだしそうな苦笑を浮かべていた。風に髪があおられて、顔を隠す。
「また、邪魔が入ったのかしら。あるいは、単純にうっかりしていたのでしょうね。あのこ、ちょっとだけ、抜けたところがあるから」
「ご旅行に関して、お心変わりの様子は?」
「なかったわ。とはいっても、心変わりをしたとしても、責められないかもしれない。つらいことも多かったから。でも……二人だったから、平気だったのよ」
庭園からつきだした四番線のホームはT字型で、線路は左右に伸びている。右手から、煌々と線路を照らすヘッドライトの明かりとともに、遠雷のような轟きが近づきつつあった。汽笛を鳴らす漆黒の蒸気機関車が、灰色の蒸気を上げ、速度を落としてやってきた。汽車は、地面と同じ高さのホームから見上げるほど背が高く、重厚なたたずまいをしている。
蒸気機関車はホームに停まることなく、ゆっくりと左手へ通り過ぎていった。その先には、小さな倉庫のような建物がある。ホームからやや離れたところで、汽車は停車した。客の女性は、ぼんやりとその様子を眺めている。
汽車の客車から一人――象牙色の制服の車掌――が下りてきて客車を切り離すと、先回りして倉庫に向かい、何か作業をして巨大な扉を開けた。機関車、炭水車、貨物車二両が、倉庫のような建物に半分入って、再び止まった。機関室からさらに二人――焦げ茶色の制服の運転士――が下りてきて、倉庫と往復しつつ、機関車の整備を始める。
車掌が一人で、ホームへと走って引き返してきた。肩口で金髪を切りそろえた、小柄な若い女性だった。少し息切れしながら客の前に立ち、一礼する。
「お待たせいたしました。Y路鉄道広野線をご利用いただき、ありがとうございます。機関車の整備、転車を行いますので、しばらくお待ちください。機関士ルンメ、機関助士ヴァナモ、車掌ハルミオでございます。カタコンベ駅より、広野線を各駅にご案内いたします。道中、お食事等のお世話は、わたくしハルミオがさせていただきます」
そう言って再度一礼し、車掌は機関車の元へと駆けていった。女性が駅員を振り返る。
「整備はわかるけれど、転車って?」
「転車台がございます。あちらをご覧ください」
駅員はホームの縁まで行き、掌で左手を指した。ホームを過ぎてすぐ、倉庫へ向かうまっすぐな引き込み線から、線路が分岐している。小さなバイパスのように迂回して、しばらく先でまた合流する。切り離された客車は、引き込み線の途中、二つの分岐点の間で停まっていた。迂回する線路、機回し線の途中に、地面を広く円形に掘りさげた場所があり、その上を線路が渡っている。
「あの円形の広場のような場所、あれが転車台です。当線の蒸気機関車は、先頭の機関車が後ろすべての車両を牽引しますので、方向転換しなければなりません」
女性も平野へ地続きのホームから少し出て、乗務員たちの様子を眺めた。先程までの悲哀が和らいできた様子を見て、駅員は続ける。
「途中駅まででも長距離を走りますので、当駅でも整備を行っております。ここへ来るまでに出た灰を出し、各部に油を注し、燃料や水などを補給します。また、道中で入り用の物資も、ここで補充します」
「私一人のために?」
「はい。他にお客様がおられませんので、これから出る汽車には、お客様お一人でご乗車いただくこととなります」
女性は、平野へと向きを変えた。駅員から彼女の表情は見えないが、新しい旅のために、予定していた旅への未練を、断ち切りつつあるようだった。その後方では、彼女一人の旅のために、三人の乗務員が忙しく立ちまわっている。脚立を上り下りし、重いものを抱え、駆け足で倉庫と機関車を何度も往復し、背の高い台車を二人がかりで押し、シャベルで燃料を積みこむなど、それぞれよどみない動きながら、慌しかった。
やがて、三人の動きはまばらとなり、最後の点検をしているようだった。機関士と機関助士が機関室へ消え、車掌の誘導で機関車が後ろ向きに進みはじめる。車掌は倉庫の自動扉を閉め、機関車の後方へ駆けつけて誘導を続けた。機関車はゆっくりと後退し、機回し線に入る。
中央の転車台で止まると、車掌が台を操作して方向転換させた。薄灰色の蒸気が、回転に合わせてたなびく。機関車の向こう、東の地平線では、日が昇りはじめていた。駅員は、女性の様子を窺った。彼女は目を輝かせて、広々とした転車台の上で、炭水車や貨物車もろともくるりと半回転した、機関車を見つめていた。
向きを変えた機関車は、機回し線から引き込み線へ合流した。車掌に誘導されて少し後退し、客車と接続する。三人の乗務員が、一仕事を終えて短く歓声を上げた。再び一体となった汽車は、汽笛を上げながら、ホームへ入ってきた。機関室には、豊かな白髪とひげの壮年の男性、髪を短く刈りこんだ青年が見える。彼らの顔や白い襟、手袋などは、いたしかたなく煤に黒く染まっている。車掌が遅れて、小走りにホームへやってきて、客と駅員の前に立った。
「たいへんお待たせいたしました。整備が完了いたしましたので、ご乗車ください」
息を切らせて一礼する車掌に、女性は笑った。
「見ていて楽しかったわ。蒸気機関車には乗ったことがないけれど、いいものね」
車掌は彼女の笑顔を見て、花を咲かせたように顔を輝かせた。先程とはうって変わって、どうしようもなく煤を浴びたような顔をしている。よく見ると、白い制服は水に濡れ、煤や砂を浴びてしまっている。
「光栄です! 実はつい最近、ある国からおさがり――譲与された機関車のひとつでして、古式ゆかしさゆえの典雅さに、今なお現役の勇姿……」
はっ、と車掌は口をつぐみ、真っ黒な顔を赤く染めて、ふかぶかと頭を下げた。
「し……失礼いたしました。それでは、客車へどうぞ。客車の前方車両には、座席と食堂がございます。後方車両には、寝台、お手洗い、洗面台がございますので、道中、どうぞお使いください。わたくしは前方車両の乗務員室で控えておりますので、ご用がございましたらお呼びください」
上がった息で何とか説明を終え、車掌は女性を客車へと促した。客の女性は、駅員を振り返った。
「駅員さん。ついてきてくれて、ありがとう。私、この旅を楽しもうと思うわ。いつか、また恋人に会えるように」
「はい。思いを遂げられますよう、旅のご多幸とともに、お祈りしております」
駅員に手を振って、女性は車内へと消えた。機関車の白い蒸気が勢いを増す。
各種ロッドで繋がれた、大きな三つの動輪が、重々しく回転を始める。動輪の前後についた小さな車輪――ボイラー前方の先台車には二つ、機関室後方の従台車には一つ――も、それぞれ回りはじめる。煙突の下、ボイラーの左右を挟む、壁のように大きな四角い
客車の窓から女性が手を振り、機関室からは二人の運転士たちが掌をひらめかせる。開いたままの一号車の扉から、車掌が身を乗り出して、屈託のない笑顔で駅員に手を振った。
長い汽車がホームを去った。平野へと、線路が伸びている。砂利の上で並行する二本の鉄のレールは、ホーム右手へと進んだ後、なだらかな丘の間を抜けてホーム正面のあたりまで緩やかに曲がり、湖の左手に沿って続く。その先はまっすぐに伸びて、地平線で霞んでいた。雲のようにもくもくと蒸気を上げる蒸気機関車を、駅員は見送った。帽子を取り、目を閉じて、旅の平安と、実りが多くあるよう祈る。
まもなく、六時を報せる鐘が響いた。鐘の音を聞きながら汽車を見納めると、駅員は四番線を後にした。六時からの一時間は休憩時間で、この間に、カルメンからミロシュへ、カンデラからマロシュへと、運転士と車掌が交替するのだった。
朝食を済ませ、七時に一番線へと出たが、すでに列車はなかった。中央広場では、のんびりと各ホームへ向かって歩いている客の姿が、まばらに見える。遺失物拾いのため、駅係員控室へバケツを取りに向かう。
駅係員控室から、大時計の右側にある扉が、わずかに開いているのが見えた。駅長事務室と刻んだ銅板が掲げられているが、当の駅長はいつも留守にしている。一日に二回ほど、清掃員のマヌがここへ入って掃除をするが、いつもとは違い、掃除用具を満載した台車が扉の外に止まっていない。それに、清掃員は、扉を開けっ放しにすることはなかった。
駅員も、駅長に会えやしないかと、たびたびここを覗くことがあり、殺風景な部屋であることだけは、よく知っていた。部屋には机と椅子、そして上着や帽子をかける鉤が壁にあるだけで、樫の木の事務机の上には、雨に濡れてふやけたメモ用紙の束と、万年筆の他には何もなかった。盗難に遭うような品はないが、駅員は、室内を確認しておくことにした。
そっと扉を開け、隙間から室内を窺ったが、やはり誰もいなかった。しんと静かな部屋で、駅員はここにいるといつも、胸が痛むのだった。部屋へと足を踏み入れる。足元で、昨日の雨を吸ったじゅうたんから、わずかに水が染みでた。少し奥へ進むと、事務机の陰に倒れた人影が見えた。駅員が幽霊だと思っていた、あの男性だった。
明るい灰色のカーディガンと白いシャツ、黒っぽいスラックスと革靴。傍らに膝をつき、うつぶせに横たわる男性の体の向きを変えて、仰向けにする。衣服は、じゅうたんから水を吸いとって湿っていた。眠っているようだが、息は重く、あまりに深かった。丁寧に手入れされ、紳士然とした灰色の髪とひげの彼の顔に、駅員はある面影を見たが、念のため、客と考えて声をかけた。
「お客様」
細い肩を優しく揺する。男性はぐったりとして動かない。駅員は、胸元のトランシーバを手に取り、駅長に発信した。
「駅長。駅長事務室に、男性が倒れております。医師への連絡の許可をお願いいたします」
駅員の声が、隣から聞こえた。よく見ると、倒れている男性のポケットのあたりから、黒い小さなトランシーバの頭が覗いている。駅長からの応答はない。駅員は、トランシーバらしきものを凝視しながら、もう一度、無線通信のむこうにいる、駅長へ語りかけた。
「駅長。駅長事務室……に……」
トランシーバを握る手を取られた。駅員はびくりと身をすくめて、倒れている男性を見た。男性はうっすらと目を開けて、駅員を見上げていた。
駅員の目の前で、男性はポケットへ手を遣り、トランシーバを取り出した。駅員が持つものと、同じ形をしている。彼はトランシーバを口元へやり、消耗したような声で言った。
「私なら、大丈夫だよ。エーレ」
それだけを言って、彼は腕を下ろしてしまった。彼の声は、トランシーバから、そして目の前から聞こえた。彼は駅員を見上げて、力なくほほえむと、目を閉じて動かなくなった。再び、深い息が聞こえはじめる。
駅員は、駅長の肩を支えて医務室まで連れていった。駅員では力も背も足りず、ほとんど彼をひきずるような形となり、駅員は申し訳なさで潰れそうだった。しきりに謝罪の言葉を口にしながら、息を切らし、汗を流して彼を医務室の寝台に横たえた時には、次の列車が来る時間が迫っていた。眠りは深く、目を覚ましそうにない駅長の体に毛布をかけて、駅員は彼を見つめ、息をつく。駅員は、喉元に熱いものがこみあげてくるのを感じながら、呟いた。
「いつか、お会いしたかった。……駅長」
震える指で、雪の結晶に触れるかのように、駅長の額に乱れた髪を整える。
駅員は、一番線に列車が到着した時はホームへと出て客を案内し、それ以外の間は医務室で駅長に付き添った。彼は、束の間、目を覚ましてはすぐにまた眠りに落ちる、ということを繰り返している。時おり、意識が戻った際には、案内を必要としている客がいるホームを駅員に知らせ、指示を出して向かわせるのだった。駅員には、それが不思議でならなかった。
十時の列車を見送った後も、駅員は医務室にこもった。少しの間、冷めたお茶を下げるために事務所へ出ていた間に、駅長が目を覚ましたようだった。医務室には寝台が二つあり、寝具から薄絹の天蓋まで、何もかもが白い。駅員は、事務所で淹れてきたお茶のポットと、カップを二つ、寝台の脇のテーブルへと置いた。寝台のそばへ寄せた椅子に、駅員も腰かける。
「気がつかれましたか。駅長」
「ああ……。ありがとう」
駅員が差し出した、湯気を立てるカップを受け取って、駅長は憔悴した顔でほほえみ、礼を言う。駅員は自分のカップにもお茶を淹れて、少し口をつけた。
「幽霊だとばかり思っていましたが、駅長だったのですね。どうして、教えてくださらなかったのです?」
駅長は、困りきった顔をしている。
「ここでは、幽霊という話題は避けるべきなんだ」
「でも、駅長は昨日……」
言いよどんだ駅員を見て、駅長は苦笑した。
「幽霊という言葉は、私のような者にこそ、ふさわしいのかもしれないから」
駅員は、返答に困った。
「お疲れのようですね。駅長。今までお会いしたことがありませんでしたが、いったいどちらで、お仕事をされていたのです?」
「お客様から見えない場所が、私の仕事場なんだ。それで、お客様を直接、ご案内する業務を頼んでいる君とも、会う機会がなくてね」
「どのようなお仕事なのですか?」
駅長は、カップから立ちのぼる湯気に目を落としながら答えた。
「駅全体の保全だよ。だが、最近ではあちこち、ほころびができてきていてね。修復して回っているんだが、修復が追いつかない」
十一時を知らせる鐘が鳴った。医務室では、遠く、くぐもって聞こえる。駅長を見ると、彼はほほえんだ。
「行っておいで。エーレ。私はもう、大丈夫だから」
「しかし、駅長……」
駅長は、渋る駅員の肩をそっと叩き、扉の方へと促す。
「ずいぶん、楽になったとも。君のおかげだ。さあ、列車が来ているよ」
駅員は観念して、急いでお茶を飲み干して席を立った。扉の前で、振り返る。
「駅長。どこかへ行ってしまったり、なさいませんよね」
彼は、穏やかに、それでいてすでにどこか遠くにいるような、消耗しきった笑みを浮かべた。
「私はどこにも行かないよ。いつも、君とともに仕事をしている」
唇を噛みしめた駅員の表情を見て、駅長は苦笑する。
「そんな顔をしなくても。私はずっと駅にいるんだよ」
「でも、駅長、今まで僕はあなたに、一度だって、お目にかかったことが……」
うわずった声で訥々と口にする駅員に、駅長はため息をついた。
「私に会いたくなったら、
溜飲が下がりつつあるものの、駅員は食い下がった。
「どこにあるのですか? それに、現在は閉鎖されているのでは?」
「今は私の仕事場だから、閉鎖しているんだよ。場所は、自分で探しなさい。君が来るべきか、知らないでいるべきか、神様と賭けをするよ。この賭けだけは、神様にも覆せないだろうがね。……だが、もし、君に見つけられたなら、少しは私も、心配されてもいいのかもしれない」
まだ承服できない、後ろ髪を引かれる思いで、駅員は医務室を後にした。彼がまた、手の届かないところへ戻ってしまうであろうということが、口惜しかった。
中央広場へと出ると、到着した列車から客たちがあふれてきているところだった。駅係員控室の扉の前に立ち、怒涛の人の流れを見ながら、駅構内の地図を脳裏に思い浮かべる。地下墓地への入り口がどこにあるのか、駅員は駅長から聞いたことがなかった。駅長から教わったことは、業務であるか否かに関わらず、駅員は自分の手帳に書き留めていた。その手帳の内容を浚っても、目星がつくようなメモは見当たらない。
途方に暮れて、駅員は中央広場の吹き抜けを見上げた。数十に及ぶ階の、ひとつひとつにある回廊が、地層のように重なる。カタコンベ駅、この巨城には、部屋をはじめとした空間が無数にある。駅として使用されていない場所、巨城の私的な空間にあたる場所は、増築に増築を繰り返し、迷宮のように複雑に入り乱れた様相を見せているが、そこへはどうすれば入りこめるのか、駅員は駅長から教わったことがなかった。そして、初めて自分で考えてみても、見当がつかなかった。
回廊の手すりや柱を見上げ、よじ登れそうな場所を探していた駅員は、声をかけられて我に返った。慌てて姿勢を正すと、目の前には一人の青年が立っていた。顔が真っ赤に日に焼けて、肌はささくれだち、着ている衣服は袖が長いが、裾がほつれたような、ぼろぼろの半袖のTシャツも小脇に抱えていた。短い金髪には、乾いた砂や草のようなものが絡んでいる。彼はひどく嗄れた声で、駅員に訊ねた。
「連れと、はぐれちゃって。外から見えてた、あの荒野にあるホームって、七番線かな? 北の方にあったから、七番線か二番線かと思うんだけど」
「ご利用ありがとうございます。荒野は、七番線でございます」
そう答えて、駅員は右手、駅係員控室に向かってすぐ左隣にあるホームを、掌で示した。青年は、痛々しく日に焼けた顔をぱっと輝かせると、急いで踵を返した。
「ありがとう、駅員さん! ほんと、あいつすぐ先に行っちゃうからさ! 困るよね!」
肩越しにそう言いながら手を振り、彼は七番線へと続く、暗い柱廊へと消えた。駅員が足元を見ると、先ほど彼が手にしていたTシャツが、置き去りにされている。駅員は、慌てて青年の後を追った。
七番線のホームからは、見渡す限りの荒野が一望できる。乾燥した、赤茶けて平坦な大地が、地平線まで続いている。風雨に削られた岩が点在し、小さな、ごくわずかな草木の茂みが散見されるが、川も湖も、小さな池や水たまりすらない、不毛の大地だった。昨日の雨の痕跡も、まったくない。
すでに先発の列車が出てしまっていたホームに、青年が二人、残っていた。一人は、駅員が会った青年で、息を切らせて膝に手をつき、笑いながら悪態をついている。彼の前に立っている青年もまた、赤く日に焼けた顔で、ぼろぼろの上着を腰に結びつけていた。彼の黒髪にも、砂や草がこびりついている。
「お客様。お忘れ物です」
駅員が、上がった息で声をかけると、二人が振り返った。落とし主の青年が、弾かれたように体を起こして、差し出されたTシャツを受け取った。
「ありがとう、駅員さん。わざわざ追いかけてきてくれるなんて」
手元に戻ったTシャツを、再び小脇に抱える。強烈な日差しと乾燥した風を浴びていたのか、がさがさとひび割れ、薄皮の剥けた唇で、苦笑いを浮かべた。隣では、もう一人の青年がにやにやと野次った。
「頭にでも巻いておけよ、そうすりゃ忘れない」
「頭ごと落とすかもしれないだろ。試験も評判も、世の中、何が落ちるかわからないんだからさ。大事なものは、手で持っていた方がいいんだ」
「やめろよ。お前、ぜんぶ落としてきただろ」
「お前とも手を繋いでおくべきかな?」
「そうしたら、今度は手を忘れていくんだろ? 冗談じゃない」
ふざけて罵りあう彼らの様子に、駅員は笑みがこぼれた。
「ご友人なんですね」
二人は、駅員を振り返った。二人は、底抜けに晴れ晴れとした笑みで答える。
「そうなんだよね。うさんくさい言い方になるけど、いい友達だよ」
「そうそう。よく、こういう荒野で一緒に遭難したりしたけど、いい友達だよ。な?」
「まったくだ。よく、一緒に死にかけたけど、いい友達だよ。おい。睨むなよ」
二人が互いに、ふざけて小突きあっているうちに、遠く、地平線から黒い蒸気機関車の影が見えた。二人は歓声を上げた。
「汽車だ! 車でハイウェイなんてもうごめんだ!」
「水だ! 水! ぜいたくな使い方! 先人に感謝だ!」
「くそったれなハイキングコースを作った世界よ、四方八方に向かって土下座しろ!」
二人は、跳びはねながら口ぐちに囃したてる。
四番線と同様、七番線には蒸気機関車が発着するため、ホームはT字型だった。左手に引き込み線と倉庫、機回し線と転車台があり、地平線からまっすぐに伸びている線路は、途中で緩やかにカーブし、右手からホームへと入ってきている。
やがてもうもうと白い蒸気をたなびかせ、地響きと轟音を立てて、漆黒の蒸気機関車がやってきた。ホームに到着した蒸気機関車は、今朝、四番線へ来たものと同じ型のようだった。ボイラーの上につきでた太い煙突の後方へ並ぶ、二つの大きなこぶ、蒸気溜めと砂箱が、古風な雰囲気を漂わせている機関車だった。炭水車の他に、水槽車、貨物車、客車二両を牽引していた。
機関車は重々しく、ゆっくりとホームを通り過ぎていく。牽引されていく前方の客車の扉が開いて、車掌が飛び降りてきた。小麦色に日に焼けた、黒髪の妙齢の女性だった。長い黒髪を大きなシニヨンにまとめ、水色で厚い縁の眼鏡をかけている。
「お待たせいたしました。Y路鉄道荒野線をご利用いただき、ありがとうございます。機関車の整備、転車を行いますので、しばらくお待ちください。機関士ローズマリー、機関助士ブルーベル、車掌マグノリアでございます。カタコンベ駅より、荒野線を各駅にご案内いたします。道中、お食事等のお世話は、わたくしマグノリアがさせていただきます」
そう言って、猫のようなしなやかな身のこなしで、二人の客と駅員に一礼すると、引き込み線の途中まで進んだ機関車へと駆けていき、客車の切り離しを行った。二人の青年は、ホームから出て機関車の様子を眺め、今朝の四番線の女性と同じように、乗務員たちが何をしているのかを訊ねた。はしゃぎ疲れたのか、退屈になったのか、貨物車への物資の積みこみの段になって、彼らはとたんに無口になった。駅員は彼らに、気になっていたことを訊ねることにした。
「先程のお話について、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
二人は、荒野の硬い土の上に座ったまま、駅員を見上げた。元気が持ち直したようで、揃って頷く。
「遭難なさったのですか?」
彼らは、爆発するように笑いはじめた。目元に浮かぶ涙が日焼けにしみるらしく、二人とも眉間にしわを寄せている。黒髪の方の青年が、先に答えた。
「そうだよ。こういう、大自然の中で、よく二人でキャンプしたんだ。ある時、観光客の多いところは何かしっくりこないからって、かなり道を逸れたんだよね。そうしたら、帰れなくなって」
「食糧もないし、水もないし、日差しがきついし、道に戻れないしで、大変だったよ。まあ、結局はまたこうして、二人で旅することができているんだけど」
「そういえば、先輩たちの知り合いで、荒野で亡くなった人がいたよな。二人でキャンプに行って遭難して、一人は生きて帰ってきて……つらかっただろうな」
「ああ、お互いにな……」
着々と整備が進む、機関車と乗務員たちを遠目に見ながら、青年たちは故人を偲ぶように、言葉を切った。しばらくして、空気を変えるように、青年たちは無邪気な笑みをこぼして、駅員を見上げた。
「俺たちもそこそこ、死ぬような目に遭ったけど、キャンプや旅をしたこと自体に、後悔はしていないんだ。うさんくさい言い方になるけどね」
「そうそう。あくまで俺たちの場合はだけど、一緒だから平気だったんだよね。遭難でも、荒野でも、どこでも、何でも、今となっては、いい思い出だな。うさんくさい言い方になるけど」
そう言って、二人はまた、機関車に目を向けた。乗務員たちは物資の積みこみを終え、燃料と水の積みこみに取りかかっている。息を揃えて協力する三人の動きを見ながら、青年の一人が、ぽつりと駅員に訊ねた。
「駅員さんにも、そういう人、いる? いたら、何が何でも、手離しちゃだめだよ」
駅員は、胸に痛みを感じながら、短く返事をしただけだった。それから、青年たちとの間に会話もなく、機関車はようやく整備や転車を済ませて、ホームへと戻ってきた。車掌が二人の客の前に立ち、一礼する。
「たいへんお待たせいたしました。整備が完了いたしましたので、ご乗車ください」
青年たちは機関車を見上げると、顔を見合せて、車掌に訊ねた。
「燃料とか水って、途中で切れちゃったりしないの?」
「各駅の間に補給施設がございますので、道中、充分に整備と補給を行っております。燃料や水、お食事などに関しましては、ご安心ください」
「そうなんだ。ありがとう。しばらく、お世話になります!」
「よろしくお願いします!」
「お役に立てましたら、光栄でございます。それでは、客車へどうぞ」
青年たちは、元気よく駅員に手を振って、客車へと乗りこんだ。車掌が扉から半身を乗り出しながら、帽子を取って駅員に振る。機関室の窓からも、機関士の年配の女性、機関助士の若い男性が、窓から腕を伸ばして帽子を振るのが見えた。駅員は、一礼して、ホームから汽車を見送った。帽子を取って胸に抱き、旅の安全と多幸を祈る。
正午を報せる鐘が鳴る。駅員は胸の痛みを抱えたまま、踵を返した。
ざり、と粗い砂を踏む音が聞こえて振り返ると、ホームの右手に、若い男性と大きな馬が立って、駅を見ていた。駅員に気がつくと、彼は日に焼かれた顔をほころばせた。
「これ、何かの遺跡ですか?」
男性はしげしげと駅を見上げながら、ホームへと少し歩み寄ってくる。黒か深緑かわからないほど色褪せた、擦り切れた外套を羽織っている。三十歳ほどの年の頃に見えるが、旅の身のためか、垢じみて不精ひげの生えた顔が、老けてやつれて見える。綱を離された馬は、重厚な足取りで彼の後をついてきた。駅員は、庭園から胸壁ごしに答えた。
「8番鉄道のカタコンベ駅でございます」
「ああ、これが、カタコンベ駅なのか」
「はい。古い霊廟を増改築して建設されましたので、確かに遺跡でございます」
「増改築?」
男性はあっけにとられた様子で、再び駅を見上げる。彼の傍らに立っているのは、馬車をつけていないことが不思議なくらいの重種馬、若く立派な、白いペルシュロンだった。背中には、帆布や油布で包まれた、箱型の荷物をいくつか乗せている。体高は、駅員には見上げるほど高い。首や脚は短いものの、太く逞しく、骨太で筋肉の隆起した体つきで、大きな体の中では小さく見える、純朴で優しい、つぶらな瞳で、静かに周囲を見ていた。
男性は、外套の日除けのフードを少し持ち上げながら、駅員に訊ねる。
「雨の日は、大変じゃないかい?」
駅員は苦笑を抑えられなかった。
「おっしゃるとおりです。古いため、雨漏りは免れません。しかし、修繕を予定しておりますので、近日中には改善されることになっております」
「大変な工事になるんだね」
「そうですね。何といっても広いので、どこから雨が漏っているのかを特定することから始めなければなりません」
「どこからってどころじゃない気がするけれどね」
戸惑ったように笑いながら、男性は隣に立つ馬の首を撫でた。
「旅の方ですか?」
「そうだよ。東から西へ、この荒野を渡っているんだ。この子と一緒に」
「当駅をご利用にはなりませんか?」
「カタコンベ駅なんだから、8番鉄道の出国線だろう? 少なくとも今は、お世話になる予定はないかな。Y路鉄道にも。ほら、僕、まだこのとおり元気だしね」
男性は朗らかに笑って、フードを引き下げた。馬の綱を再び握って、駅員に手を振る。
「それじゃあ、僕たちはもう行くよ」
「お気をつけて。旅の安全とご多幸を、お祈りいたします」
駅員は一礼し、線路に沿ってホームの左手へと横切っていく、男性と馬を見送った。急いで、駅の中央へと引き返す。
一番線のホームでは、扉を開け放して列車が停まっていた。中央広場では、あちこちのベンチに人が憩っている。運転士と車掌は、すでに食堂に向かったのか、姿が見えなかった。駅員も昼食を取るため、事務所を抜け、食堂へと駆けこんだ。
食堂のテーブルでは、運転士と車掌が、それぞれ昼食を取っている。皿に残っている食事は、残り少なかった。駅員は脱いだ帽子を壁の鉤にかけ、奥のカウンターへ向かった。厨房では、オリガさんが駅員の分として、トレイに皿を乗せているところだった。駅員は、カウンターから身を乗り出した。
「こんにちは。オリガさん。今日は、駅長の分もお願いします」
オリガさんは、駅員に昼食のトレイを差し出しながら、首を傾げた。背後で、運転士と車掌の会話が止まった。
「駅長さん? 駅長さんは、ここでは召し上がらないことになっているのでしょう?」
「そうなんですか? でも、今日は、僕が運ぼうと思いまして」
トレイを受け取りながら、駅員は頬を緩ませて答えた。オリガさんは、ぷくぷくとした頬を掌にもたせかけて、再び首を傾げる。
「お会いしたの? 駅長さんに」
「はい。今、医務室にいらっしゃいます」
駅員の背後で、がたがたと音を立てて、運転士と車掌が勢いよく席を立った。椅子が倒れた音に、ぎょっとして振り返った駅員に、あたふたと二人は詰め寄った。好奇心と畏怖が綯い交ぜになった表情で、駅員に訊ねる。
「本当に駅長なのか?」
「人違いじゃなくて?」
「はい。ひどくお疲れのようで、今は医務室で横になられています。実は僕も、お目にかかったのは初めてで……」
駅員の返事を最後まで聞かず、二人は食堂から飛び出していった。オリガさんは戸惑ったような顔で、二人が開けっ放しにしていった扉を見つめていた。
「駅長さんが、こちらにいらっしゃるなんてねえ」
「ずいぶんとお忙しいようですが、そんなに珍しいことなんですか? 僕がここへ来る前も、そうでしたか?」
自分のトレイをテーブルに置いて、駅員が厨房を振り返ると、オリガさんは目を伏せて、首を振った。
「おいたわしい、駅長さん……」
ゆっくりと閉じかけていた扉が開き、運転士と車掌が戻ってきた。
「やっぱり、いないぞ。駅長」
「おかしいと思ったんだよね。駅長がここに来るなんて」
二人はテーブルに着いて、わずかに残っていた食事を平らげる。今度は、駅員が食堂を飛び出した。
医務室に、駅長はいなかった。ついさっきまで彼がいたかのような、めくれた毛布、しわの残ったシーツ、へこみのあるクッションなど、名残のある寝台を前に、駅員は立ち尽くした。トランシーバで駅長に語りかけても、応答がない。食事を済ませたらしい運転士と車掌が、医務室へと顔を出した。うつむいて立ち、もぬけの殻の寝台に目を落としている駅員の肩を、彼らは励ますように優しく叩いた。
「そんなに落ちこむなよ。会えないとはいっても、駅長はちゃんとこの駅にいるだろ」
「そうだよ。よく似た人だって、いるものだし。駅長だって、そうそう簡単に、人に会いには来れない人なんだからさ。仕方ないよ」
黙って頷くだけの駅員に、二人はため息をつく。懐中時計を見て、まだ時間に余裕があることを確認して、運転士が口を開いた。
「君、本当に駅長を慕っているんだね。僕たちなら、会ったこともない上司のことなんか、どうでもいいけど。指示には従うけど、人間としては見れないというか」
黙りこんだ駅員の脳裏に、記憶の奔流がよぎった。振り払うように軽く頭を振って、掠れた声で答える。
「駅長は、僕の命の恩人です。廃棄処分から、救ってくださいました」
運転士と車掌の表情が凍った。苦い顔で、二人は顔を見合わせる。
「僕は欠陥品です。養成施設でも、落ちこぼれていました。いろんなことが、同時にはできないんです。卒業までは何とか漕ぎつけましたが、最初の配属先から、欠陥品を寄越すなとのクレームとともに、施設へ出戻りました。もう、三年前になります。検査の結果、頭の中に、修復のできない傷があるのかもしれないということで、廃棄処分の対象となったんです」
「そこで拾ってくれたのが、駅長だったんだ?」
「はい。エッダさんという先輩が、迎えにきてくださいました。彼女も、僕の命の恩人です。駅員に欠員が出て、すぐに一人ほしいと。同期はみんな卒業して、配属されていましたから、施設では一時的に駅員がいませんでした。とにかく急いでいたようで、僕の欠陥を知った上で、配属を求めてくださいました。出勤初日、駅長は僕のあまりの不出来さに驚いていましたが……」
駅員は、言葉を切った。絶望の記憶と背中あわせの、幸福な記憶を目蓋の裏に見ながら、諳んじる。
「カタコンベ駅のお客様の大半が、自分がどこへ、どのように向かうべきかをご存じだ。だから、ごくたまにいらっしゃるお困りのお客様を、順番にご案内すればいい。そう、おっしゃいました。トランシーバ越しではありましたが。その日から、僕はここに住みこんで働いています。外にも、出たことはありません」
運転士と車掌は、寝台に腰を下ろして、静かに駅員の話に耳を傾けていた。車掌が、納得したような顔で呟いた。
「確かに、この駅の利用客は、自分のことは自分でできる人たちだな。駅の中で迷ったからとか、ホームが見つからないからとか、料金が高いとか、自分が切符を買い間違えたのは駅の案内が悪いからだとか言って、職員を罵倒したり、自分がどこへ行きたいのかさえわからないまま、職員を駅じゅう連れまわしたりはしないもんな」
運転士が吹き出した。笑いを噛み殺そうとしながら、頷いている。彼はひとしきり忍び笑いした後、懐中時計を見て立ちあがった。
「奇跡的な居場所に拾われたんだから、しっかりしなよ。エーレ。心配しなくても、駅長はどこにも行かない。ただ、会えないだけなんだから」
続いて、車掌も席を立った。二人は、医務室の扉へと向かっていく。駅員は目元を拭いながら、部屋を出ていきかけた彼らに、声を投げた。
「ミロシュさんとマロシュさんには……この人とは絶対に離れない、という人がいますか?」
きょとんとして、運転士と車掌は顔を見合わせる。揃って苦笑すると、代表するように、運転士が答えた。
「僕たち、お互いにそう思っているよ。少なくとも二人でいられるなら、どこでどんな目に遭っても、平気だ」
二人は医務室を去り、まもなく十三時の鐘が鳴った。くぐもって小さく聞こえる鐘の音を聞きながら、駅員は中央広場へと出た。
午後になって、駅長とも通信が繋がった。彼はもう大丈夫だと繰り返すばかりで、業務に集中するようにと駅員に言い聞かせた。駅員はいつも通り、列車が到着した際は一番線へ戻ってホームに立ち、困っている客について駅長から連絡と指示を受けた場合は、順に対応していく。それ以外の間は、各ホームを巡回して、あちこちに溜まった遺失物を拾って過ごした。
遺失物管理所と各ホームを何度も往復しながら、清掃員のマヌが持っているような台車が、遺失物用にも必要なのではないだろうか、などとぼんやりと考える。大量の遺失物は、通行の妨げにならないように誰かが寄せ集めてくれているのか、遺失物が寂しがって寄り添いあっているのか、いつも駅の各所で小さな山をなしていた。
十八時の休憩時間となった。昼食を取れずじまいだったため、駅員は空腹を抱えて、夕食のために食堂へと向かう。地下墓地への入り口とは、どこにあるのだろう? 毎日、各ホームを巡回しているにも関わらず、地下墓地への案内をかつて見たことはなく、今日も探してみたが、見つけられなかった。
「ミロシュさん、マロシュさん。
駅員と同様、テーブルで退勤前の食事をしている運転士と車掌に、駅員は訊ねた。二人は、何かを口に入れようとしたところで、あんぐりと口をあけて、怪訝そうに駅員を見た。駅員の二つ隣にいた車掌が、手を下ろして答えた。
「どう行けばいいって……いるだろ。ここに。ここ、カタコンベ駅だろ」
戸惑いまじりに答える車掌の向かいで、運転士はもぐもぐやりながら頷いている。車掌は駅員へと居住まいを正し、真摯な表情で言った。
「駅長が恋しいのはわかるけど、気をしっかり持つんだ。カタコンベ駅、ここが、エーレの仕事場だろう」
「そうそう。君、いったい今、どこにいるつもりな……ごふっ」
「落ちつけ、飲みこんでから喋れ」
むせている運転士のカップに、車掌はポットからお茶を注ぎ足す。運転士は、ひとしきり咳きこんだ後、勢いよくお茶を仰いだ。駅員は話を続ける。
「すみません、そうではなくて。この駅に昔あったという、地下墓地を探しているんです。今でも残っているはずなのですが……」
「うえっふ! ごふっ! げほげほ!」
運転士は急に激しく咳きこみはじめ、車掌は駅員の方を見ない。運転士の咳が、あまりにわざとらしいことに気がつき、駅員は車掌の方へとにじり寄った。
「もしかして、隠していますか?」
「いや……その、意地悪でしているわけじゃないんだ。エーレ」
困りきった顔でしどろもどろに答える車掌の向かいで、運転士があっさりと咳を止めた。平然と食事を再開しながら、咳ばらいをする。
「ここの地下墓地については、口外してはいけないことになっているんだ。駅長の仕事場だから、訊かれても答えちゃいけない。そういうわけなんだ。ごめんね、エーレ」
「でも、駅長は……」
途方に暮れる駅員を見て、車掌も同じ途方に暮れた顔で、言い足す。
「すまん。だが、規則には従わなければいけないんだ。8番鉄道の本部で決められたことだから」
「本部が、ですか? 駅長ではなく?」
「そうだよ。だから、俺たちや、カルメンとカンデラ、オリガさん、ユーリイさんは、エーレに教えてあげられないんだ。俺たちとしても、教えてあげたいけどな。他の人にも、訊かないでくれたら嬉しい」
申し訳なさそうにほほえんで、車掌も食事を再開した。駅員は肩を落として、自分の食事を続けた。
ミロシュとマロシュと交替する、カルメンとカンデラが食堂へとやってきた。駅員と二人の青年に挨拶をしながら、オリガさんからそれぞれのトレイを受け取る。駅員の向かいにはカンデラが、その隣にカルメンが、二人で並んで座った。
食事を終えたミロシュとマロシュが、席を立ってカウンターにトレイを返却した。制帽と制服の上着を小脇に抱えて、食堂を出る際、二人は少し振り返った。ミロシュが、マロシュの不安そうな顔を見ないふりをして、いたずらっぽい笑みで言う。
「口外は許されていないけど、発見は禁止されていないよ。エーレ。頑張って、自力で探したらいい。駅長もきっと、救われるだろうから」
訝しげなエーレに手を振って、ミロシュとマロシュは退勤していった。駅員の向かいでは、カルメンとカンデラが、察したような笑みを浮かべて夕食を取っている。ミロシュの言い残した言葉を繰り返しながら、二人とも神妙な顔で頷いている。
「駅長は、確かに働き過ぎだわ。8番鉄道の犠牲の、最たるものだわ」
「この会社、土地柄によれば、倫理問題で非難されて然るべきと思うのよねえ」
二人は、きびきびとした動作で、あっという間に平らげてしまった。休憩時間にまだ余裕を残して、食後のお茶で息をつく。駅員は、二人の話を黙って聞いていたが、車掌がカップにお茶を注ぎ足してくれたのを機に、二人に訊ねた。
「この鉄道のやり方は、やっぱり、あたりまえではないのですか?」
彼女たちは、暗い笑みで頷く。
「土地ごとに、価値観や倫理観、世界観があるからね。8番鉄道の手法……例えば、労働力のためだけにクローンを量産し、外的にも内的にも自由を認めずに教育すること。企業秘密の各技術が導入された特殊な駅では、多くの職員が肉体や頭脳を提供し、搾取されているわ。そういうことが許されない土地は、確かにあるの。エーレも、駅員の施設で育ったでしょう」
「はい」
「お客様って、一人ひとり違うお顔でしょう? 誰もが、自分だけの出自と、幼少時代を持っているの。故郷、生まれた家、家族を持っているのよ。けれど、私たちは職員になるために生み出されて、教育されたから、そういうのは持っていないでしょう。運転士と車掌ならば、唯一の肉親としてパートナーがいるけれどね。自分のものと言えるのは、自分の体、心、命だけ。それだけあれば、充分ともいうけれど」
拳を握り、運転士は熱心に語る。彼女を落ち着かせるように、肩に手を置いた車掌が、苦いほほえみで話を継いだ。
「でも、それらはすべて、この土地の倫理観では許容されているの。ここの人たちの倫理観、それ自体は、悪いことではないけれどね。私たちにとっては、承服できないものでも」
「客層がお上品じゃなければ、正当な戦略かしら? それとも、お上品じゃない会社を利用しているうちに、客層も堕落するものかしら?」
「お客様の大半は、遠くからいらっしゃるのよ。カルメン」
「そうだった? カンデラが言うなら、そうなのかしら」
新鮮な話題に、熱心に耳を傾けていた駅員に、二人は苦笑する。
「まあ、私たちも、あるお客様から伺っただけなの。おとぎ話か、昔話かもしれないわ。それに、労働力を期待しているとはいえ、実際に人を育てているというコストを考えれば、ある意味では、愛されているといってもいいかもしれないしね」
「それにしても、倫理にもとる技術を用いていながら、出国線のような、慈善事業みたいな路線を敷いたのは、どういうことかしら? ごくわずかな良心かしら?」
カップに口をつけながら、首を傾げる車掌に、運転士は再び拳を握った。
「当初は、良心のかけらもあったかもしれないけれど、今はもう違うわ。駅長一人の犠牲の上で、かろうじて持ちこたえているに過ぎないもの」
「駅長が、犠牲ですか?」
運転士は、空になったカップのそばに拳を置いて、頷いた。
「駅長の、この駅への献身ぶりは、度を超えている。強制されているわ」
「熱くなってきたところ悪いけれど。カルメン。そろそろ行かなきゃ」
車掌に促されて、懐中時計で時刻を確認した運転士は、慌てた様子でトレイを手に、席を立った。車掌も続き、二人は上着と制帽を手に、身支度をする。二人は食堂を出る際、運転士は車掌と腕を組み、駅員に沈痛にほほえみかけた。
「駅長の重荷、少しでも軽くなるといいわね」
二人が去った後、駅員も、カウンターにトレイを返却した。洗面台で簡単に身繕いして、食堂を後にする。
二十二時、駅員はいつも通り、一日の業務を終えた。更衣室で私服に着替え、列車がホームを出るのを待ち、寮へ向かう前に、中央広場へと引き返した。一番線と中央広場に人影がないのを確認し、円形の中央広場のはるか頭上へと伸びる、吹き抜けの柱の列を目でなぞった。
清掃員のマヌにさえもはや手に負えない、悠久ともいえる時間を経て化石となった、溶けた蝋。燭台の下へ裾を広げるような、灰色の蝋の滝とつらら。駅員は、二十以上ある柱とその足元にある蝋の化石の形を、一つ一つ吟味して、ある一つの柱の前に立った。翼の生えた人らしい柱像が石柱から彫りだされているが、風雨に晒された像は原型を失いつつあり、苔と羊歯と雑草を戴いている。私服に着替えたとはいえ、次の列車で来る利用客の邪魔とならないよう、駅員は急いで柱を登りはじめた。
多段をなした滝に足をかけ、溶けた蝋に補強された燭台を足場にして、柱像の台座へ辿りついた。すでに、床は遠い。ぶつぶつと像に対する謝罪の言葉を述べながら、駅員はあらゆる部位を足がかりとして、像をよじ登る。駅員が思ったより足場は多く、あっという間に像の上半身まで登った。二階はすぐそこだった。額に汗が噴き出し、背後や足元を見て、背筋が凍る。次のとっかかりを探して、駅員が像を見上げた。
――やめなさい、エーレ!
駅長の声が聞こえた気がして、駅員は像の首へと伸ばしかけた手を引っこめた。その手で、いつものようにトランシーバを探ったが、すでに制服を脱いだ胸元にはない。駅員は冷汗が顔を伝い、首筋へと流れるのを感じながら、おそるおそる口を開いた。
「駅長……?」
待ってみても、駅長からの反応はなかった。駅員は、目と鼻の先にまで迫った、二階の回廊を名残惜しく見つめる。五分もあれば、手が届く距離だった。駅員は唇を噛み締めて、慎重に柱像を降りはじめた。転げ落ちることもなく、無事に床に足を着けた駅員は、やりきれない思いで石柱を見上げると、更衣室へと向かった。
ロッカーに仕舞ったトランシーバを取り出し、駅長に繋ぐ。
「駅長。見ていらしたのですか?」
通信は繋がっているが、彼はしばらく何も言わなかった。呆れられているような気がして、駅員がうなだれはじめた頃、駅長がため息をついた。
――君がけがをすれば、駅の業務が滞る。今、この時期は、代わりの駅員を見つけるのは難しいんだ。
「申し訳ありません、駅長。僕はただ、地下墓地を……」
――危険を冒して、私からヒントを引き出すつもりではないだろうね?
「いえ、そんなつもりは」
しどろもどろに答える駅員に、また駅長のため息が聞こえた。
――二階から上は、駅ではないよ。地下墓地は駅にある。それ以外の場所は私の私物だから、触らないでおくれ。よじ登るのもやめるんだ。わかったら、もう休みなさい。エーレ。明日のために。
「駅長は、いつお休みになっているのです?」
いつも通りの返事ではなかったために、駅長は少し戸惑ったようだった。
――私は、不規則だが休める時には休んでいる。君が心配する必要はない。さあ、早く寮へ向かいなさい。
「はい。駅長」
釈然としないまま、駅員は返事をする。通信が切れたトランシーバをロッカーに仕舞うと、一つ、深い息をついた。冷たい金属の板に額を預けて、ふと隣を見ると、いつも鍵がかかったロッカーがある。これは誰のもので、何が仕舞われているのか、駅員は知らなかった。駅員エーレがここへ来るきっかけとなった、欠員の者が使っていたのだろうか? ロッカーの持ち主についても、いつか駅長に訊ねようと考えながら、駅員は更衣室を後にした。
寮の自室に戻り、寝支度をして寝台にもぐりこんだ。少し眠ったものの、地下墓地のことが気にかかり、まだ夜明けも遠い時間に目が覚めてしまう。仕方なく軽食を取り、駅員は私服で部屋を出た。8番鉄道の意向で、駅員だと一目で判別できる、白い髪と青い目、そばかすを少しでもごまかすために、駅員は、以前にオリガさんがくれたスカーフを頭に巻いた。頭から背中まですっぽりと隠せる、濃紺の地に、白い花柄のスカーフ。
廊下のつきあたりには左右に扉があり、一方は中庭へ、もう一方は廊下に面した小さな庭園に出ることができる。駅員は、庭園へと出た。日中は陽気に汗ばむことも多いこの時季、深夜に残るひんやりとした肌寒さが心地よい。庭園は、かつてはもっと広く、整った円形をしていたようだが、増築された部屋に埋めたてられて、いびつな四角形に削られている。
石畳に沿ってガス灯が立ち、取り残された庭園、生き延びた庭園を、ぼんやりと照らしている。駅員が庭園の石畳を歩きはじめると、奥の建物の角、光の届かない暗がりの前に、何か白っぽい影が見えた。足を止め、息を詰めて目を凝らすと、それは白い、長い髪だった。薄明りにかろうじて見える、苔色の制服。駅員と同じ制服を着た女性が、一つに束ねた長い髪を背に流して、こちらへ背を向けて立っている。駅員が、おそるおそるそちらへ歩みはじめると、彼女は暗がりに溶けるように、立ち消えてしまった。
駅員は、重い気分をひきずってその場を後にした。駅係員控室へと向かい、少し開けた扉からあたりを窺う。先ほど到着した、一時の列車から降りた人々で、ホームは日中と変わらずごった返している。運転士と車掌の安全確認、車内点検を終えて、列車が去っていく。しばらくして、困った様子でホームに立ち尽くす人が二人いた。駅員が、私服ではあるがスカーフを取って向かおうとすると、頭上から声が響いた。
――ご案内いたします。川でのご旅行のお客様、五番線へお越しください。切符をお持ちでないお客様、当駅では規則により、切符の有無に関わらずご利用を承っております。Y路鉄道の車掌に、お申しつけください。無料で切符を発行させていただきます。
駅長の声だった。駅員のいない間は、こうして客を案内しているのだろう。駅員は、外しかけたスカーフを、結びなおした。アナウンスを聞いた客たちは、胸を撫でおろして、それぞれの向かうべきホームを目指していった。駅員は誰もいなくなった中央広場を足早に抜けて、二番線から駅外周の庭園に出た。大木の森を左手に見ながら、静かな庭園を歩く。更衣室から持ってきた懐中時計を見ると、一時を少し過ぎた頃だった。
地下墓地は、どこにあるのだろう? 駅員は気にかかったまま、諦められなかった。駅にあるならば、毎日、巡回しているホームや柱廊で見た覚えがない以上、やはり別の場所のようだった。外周の庭園に関しても、ホームからホームへと移動するとき、庭園が近道となるので駅員はよく使っていた。ここでも、見た覚えはない。
庭園を歩きながら、カタコンベ駅の各所を脳裏に浮かべては消していく。食堂、寮、事務所、駅長事務室、更衣室、医務室、手洗。次々と可能性が消えていき、駅員は途方に暮れて、右手にそびえる駅を見上げた。暗闇と夜更けの霧を溶かして、真珠色の光をまとった眠らない駅。あと、何を忘れているのだろう? 森の木がまばらになり、暗い海が見えたころ、駅員ははっとして足を止めた。遺失物管理所を忘れていた。あの、忘れられたものと失われたものの居場所。迎えに来る人のいない、保管している遺失物そのもののような場所。駅員は、近くまできていた、三番線の柱廊から中央広場へと戻った。
遺失物管理所に入ると、個々の品物が持つ思い出の匂いが混ざりあった、胸が痛むほど知らない懐かしさと、どうしようもなく失われたものに対する共感に襲われる。めまいを感じながら、駅員は覚悟を決めて、いつもならば踏みこまない場所まで、遺失物の山を縫って、分け入った。駅長から、遺失物管理所の奥深くまでは入らないように言われているのは、山が崩れて下敷きになる危険を避けるためでもあった。駅員は慎重に、記憶の香る谷間をすり抜けて進む。
薄明りでは奥の壁まで見通せなかったが、最奥まで到達できる、単純な、巨大なドーム状の空間だった。最古の地層にある遺失物は、物として朽ちつつある。駅員は、足元にわずかに覗く、石の床を手で撫でた。遺失物の山脈の下に、地下墓地への入り口があるのだろうか。少しずつ、山を崩して移動させることは不可能ではないが、目星をつけるとすればどの位置だろう。駅員は、ここまで来るために流した汗を拭うため、スカーフを取った。ひんやりとした空気が首筋を撫でる。駅員は一息をつき、遺失物の地層を吟味した。
――何をしているんだね、エーレ!
不意に落ちた大音響に、びくりと身を縮ませて、駅員は動きを止めた。おそるおそる、あたりを窺うが、駅長の姿は見えず、トランシーバも持ちあわせていない。アナウンスか、と駅員は壁や天井を見上げたが、薄暗がりに、スピーカーや監視カメラなどは見当たらなかった。
「え……駅長……? どこからご覧に……?」
――どうして、よりにもよって危険な場所ばかり選ぶのかね、君は! 遺失物管理所の奥は危険だから入るなと、いつも言っているだろう!
かつてないほどの剣幕だった。駅員はすくんだ体で、あたりを見まわした。やはり、駅長らしき人影も見えない。
――今までに君に教えたことをないがしろにするくらいならば、地下墓地などを探すのはやめなさい! 私も、君に危険を冒させるために、あんな話をしたわけではない!
「も、申し訳ございません。すぐに出ます」
――そうとも。気をつけなさい。
「あの……では、地下墓地は、遺失物管理所にはないということですか?」
駅長の言葉が切れた。駅員は、慎重に来た道を戻りながら、返事を待った。
――ここにはない。……だから、二度と奥まで入るんじゃない。
「はい。駅長。ところで、駅長は、どうして僕がここにいるとご存じだったんですか? それに、トランシーバがなくてもお話ができるのは、なぜです?」
辛抱強く待っていると、観念したような駅長の声が聞こえた。
――私が駅を保全しているからだよ。君がここへ来る前に止められなかったように、見えにくいもの、気づきにくいものも、確かにある。だが、おおむね、私に隠しごとはできないものと思いなさい。
「駅長、それでは、答えになっていません」
出入口の扉へ続く階段を上りながら、駅員は食い下がった。駅長のため息が聞こえる。
――地下墓地まで来られたら、おのずとわかるだろう。知らない方がいいこともある。
「そんな! 駅長……」
――正直なところ、私はこのことに、期待してはいない。いいかい、エーレ。休める時に、少しでも休んでおきなさい。
陰鬱な、冷たく静かな苛立ちを滲ませた駅長の声に、駅員は胸が痛んだ。駅長の声は途切れ、駅員は遺失物管理所を出て、事務所に生還した。時計を見ると、二時を回っている。二時の鐘がまったく聞こえなかったことに驚きながら、駅員は寮へと戻りはじめた。
自室の扉に手をかけて、庭園を振り返った。ここで見た影はおそらく、前の駅員の亡霊だったのだろう、と駅員は思った。以前の駅員たちについては名前を知るのみで、駅長も多くは語らず、駅員も詳しく訊き出すことはなかった。
駅員には、何ひとつ手が届かなかった。もつれた気持ちを紛らわそうと、もう一度、庭園に出る。いびつな四角形を半周ほどしたあたりで、壁が崩れてできた小さな穴が、駅員の目に留まった。先程、駅員の制服の女性が立っていたあたりだった。遠くからでは見えなかった、杏色の煉瓦の壁の足元から、いくつか煉瓦が抜けている。子どもが一人、くぐれそうな小さな穴だった。
駅員は唇を噛みしめた。まるで、あの亡霊が教えてくれたかのようで、駅員自身には、決して見つけられなかったものだった。しかし結局は、駅員は石畳に這いつくばって、小さな穴に潜りこんだ。小柄な駅員にも、穴はやや狭い。つっかえてほしい気持ちがないわけでもないところはかすりもせずに抜け、気が抜けたところで尻がつっかえた。捨て鉢な気分で、弾みをつけて捩じこむようにして、何とか壁のむこうへとくぐりぬけた。
掌や衣服を叩いて土埃を払い落としながら、立ちあがる。先にいた庭園の一部のようだった。ここは完全に城の私的な場所で、駅として使われている空間ではない。駅以外の場所は私物だから触るな、と駅長に言われたことを思い出し、駅員は迷った。時計を見ると、二時半前。駅員は、先へ進むことにした。
慣れ親しんだ駅とは異なり、城の内部へ踏みこんだのは初めてだった。見知らぬこの庭園も、片割れの庭園と同じく、壁や胸壁に無計画に埋めたてられている。誰のために立っているとも知れない街路灯が点在し、あたりは明るかった。いまだ夜明けの遠い空に、窓に明かりの灯った塔が林立している。庭園に面した扉はなく、どの塔にも入ることはできない。駅員は、逸る胸を押さえて、周囲の暗がりにある壁に沿って歩き、どこかへと出られる場所を探しはじめる。
遺失物管理所を後にした時点で、駅員には、他に考えられる場所はもうなくなってしまった。ただ、すべての可能性を諦める前に、もう一度、初めから考えなおそうと思ったのだった。駅員となるべく生み出され、育てられて、今もなお駅員である8番鉄道の職員としてではなく、エーレという個人として。まったく新しい視点とは、どのようなものだろう。駅員としての自分の死角とは、何だろう。駅員は、ひとまず、駅を出てみることにした。ついでに、今まで使ったことのない道を通ることにする。
ある塔の壁に、鍵の開いた窓が一つ、見つかった。軋む窓を開けて、長年の風雨に晒されて腐り、ペンキもほとんど剥がれ落ちた窓枠に足をかけ、むこう側へ飛びおりる。中は、がらんとしたホールだった。明かりのない室内には、窓の外からの青白い光が冷ややかに射しこんでいる。大理石の床と階段、グランドピアノ、真鍮の手すり、擦り切れた分厚いカーテン、隅へ片付けられたテーブルや椅子、ソファ。賑やかな花柄の壁紙の上にかかった額の絵、高い天井に描かれた絵は、暗くてよく見えない。厚く積もった埃が足音が吸いこむ、静かなホールを横切り、駅員は、明かりのついている奥の廊下へと向かった。
別の建物へと続く渡り廊下は、すり減った木の床と白い漆喰でできていた。嵌め殺しの窓の向こうに、見たことのない庭園が見える。石畳や芝生の配置から、もとは正方形を曲線で膨らませたような形だったようだが、鋭角に切りこまれた多角形に削られている。軋む床の上を駆けて、駅員は廊下を抜けた。
駅員は、駅の外壁へ近づけそうな方向へと、建物を進んだ。開けることのできる窓はなかなか見つからないが、外壁が垣間見えはじめたため、望む方向へは着実に進んでいるらしい。間違いなく何らかの思い出が残された部屋の数々を、駅員は駆けぬけた。荒廃した温室。埃っぽい書庫。二人分の腐った食事が残る食堂。狭くて温かそうな、キルトをかけた寝台が一つと、火の消えた暖炉のある寝室。淀んだ水が悪臭を放っている、ダムのミニチュアやビオトープ。多彩な時計で埋め尽くされた部屋。井戸のある部屋。枯れた水草のこびりついた水槽が並ぶ部屋。イーゼルと絵の具がある部屋。
駅員は息を切らせて膝に手をつき、懐中時計を見た。三時。いつもとは違う、遠い鐘の音が聞こえる。まだ頭に被ったままのスカーフの端で、顔や首筋の汗を拭った。遠回りをしたが、外壁は近づきつつある。駅員は、再び駆けだした。
ようやく外壁に面した廊下まで辿りつき、駅員はようやく足を止めた。近くに、開けることができる窓や扉がないか探す。少し離れたところで、崩壊した温室が見つかった。ガジュマルの木がまるで脱走するかのように、天井と壁を突き崩し、床をぶち抜いている。温室の頭上は、こんもりと茂った枝葉に覆われていた。屋根からも流れるように根が垂れ、地に届いた根は外の庭園の石畳の下へ潜って、あちこちを掘り返している。駅員は、崩れた壁から外へ出た。外壁もガジュマルの猛攻に屈しつつあり、温室に近い場所では、壁の足元が少しばかり崩れている箇所があった。
駅員は、汗だくの顔をスカーフの端で拭い、芝生の上に這いつくばった。どこか、浮き立つような感情が湧きあがってきているのを感じていた。肩と尻がつっかえながら、何とか外壁をくぐりぬけ、庭園へと出る。周囲には、人影はない。衣服を叩きながら、また汗を拭う。懐中時計を見ると、三時半。出勤時間まで、あと一時間半だった。
四番線の近くらしく、左手の遠くには海が、右手いっぱいにはなだらかな丘が並ぶ草原が見える。駅員は庭園の胸壁に手をかけた。ざらざらとした煉瓦の手触り。知らぬうちに口角は上がり、手足の動きは軽かった。
胸までの高さがある胸壁を乗り越える際、足首が胸壁に引っ掛かり、駅員はむこう側へと転げ落ちた。硬いとも柔らかいともつかない衝撃とともに、視界は、駅が投じる光に照らされた草に埋め尽くされる。初めて間近で嗅いだ、湿り気のある草と土の匂い。草の葉にくすぐられるむずがゆさと柔らかさ。駅員は初めて、駅の外へと出た。
夜気が胸の洞を静かに満たし、冷たい夜風が体を清める。突き上げるように湧いてくる、覚えのない感情を持て余して、自身を抱くように小さくうずくまった後、とつぜん笑いだしたくなる衝動に襲われて、四肢をいっぱいに伸ばして空を仰いだ。まだ暗い空に残る、星と月の明かり。
火照った顔に、深夜の冷風が心地よい。草の触れあう、さらさらとした音。土の上、草の上に寝そべる感覚、新しい情報の群れが大きな波となって押し寄せて、ひどく乾いていたどこか深い場所が、潤って甦る。慣れ親しんだ寝台の上でも、陽だまりの石畳の上でも、冷たいモルタルの床の上でも、プレス機が待つベルトコンベアの上でも得られなかった、ただあるがままに続くだけの地面の感触と、果てしないということの手触り。
駅員は、まだ少し大地に寝そべっていたかったが、やがて袖で目元を拭うと、立ちあがった。目を上げて見た、廃墟のカタコンベ駅。目をこすって、もう一度、駅へと目を凝らしたが、駅のありさまは変わらなかった。天をついてそびえていた無数の塔はなく、増改築を繰り返して膨張した城壁もない。
歩き方を忘れたような足を引きずって、駅員は庭園の胸壁に歩み寄った。庭園のどこにいても、駅員の胸の高さで続いていたあの胸壁は、もたれるほどの高さもなく足元で崩れている。割れた煉瓦を厚い苔が覆い、石畳の継ぎ目から雑草が伸びて、道は波打っている。長年、手入れがされていない芝生は野生に還り、花壇とともに、天真爛漫な野の草花の天下。痛みとともに首に染みついた、駅を見上げるあの角度を、今は感じることがない。ひどく背が低く見える廃墟とその周囲を、申し訳程度に配置されたサーチライトが照らしている。石造りの、八方に黒い口を開けた八角形の小さな城が、荒廃した庭園の中心に立っている。
崩れた胸壁をまたいで、庭園へと戻る。こんなはずではなかった。いつもとは違う視点で、駅を見ようとしただけだった。駅員は、柱と石像の脚だけが残るアーチをくぐり、柱廊があるはずの場所を歩いた。見たことのない場所から、見えるはずのないものが見える。柱廊の奥、建物の角にある塔の残骸にも天井はなく、崩れ落ちた煉瓦や漆喰、折れた梁の残骸が床に散乱している。駅員は、脱いだスカーフをポケットに引っかけて、痛む胸を押さえて、建物の中心部へと足を踏みいれた。
中央広場だった場所。一番線があるはずのホームに残っているのは、月明かりを鋭く反射する、線路だけだった。大時計、吹き抜け、中央広場を見下ろしていた石像、見慣れたものは何もない。単なる石造りの廃墟にすぎない場所を、駅員は足を止めて見まわした。簡素な石の壁は飾り気がなく、苔と羊歯に覆われて、土に還る日を静かに待っている。吹き抜けだった場所には、せいぜい二階ほどの高さの、天井が崩れた跡しかない。建物を照らす冷たい蛍光灯の明かりは、広場ではなく、間を空けて並ぶ三つの扉を照らしていた。駅係員控室と駅長事務室の扉があった場所、そしてその間の、大時計があった場所に、見慣れない鋼鉄の扉がある。薄闇に散在する瓦礫を避けながら、すがる思いで歩いていく。
駅員は、駅係員控室の扉を開いた。何もない部屋。奥には、見慣れた数の、見慣れない扉。重く冷たい金属の扉を苦労して開けるが、食堂、手洗、遺失物管理所、どの部屋にも人影はなく、物も置かれていない。心細さですくむ足を叱咤して、駅員は外へ戻り、駅長事務室の扉を開いた。やはり、何もない部屋だった。
大時計のあった場所で、扉の前に立つ。重い扉の先には、地下へと下る、狭い石造りの階段があった。蛍光灯が煌々と照らす、ひんやりと湿っぽい空気の中、駅員は階段を下りていった。階段の先に、また一つ、頑丈な鋼鉄の扉がある。冷たい取っ手をしっかりと握り、駅員はゆっくりと扉を開ける。
少し開いた扉の隙間から、蛍光灯の明かりが漏れてきた。照明に目がくらみ、駅員は手で顔を覆いながら、靴を履いた爪先で足元を探り、部屋に入る。目蓋を薄く開けておそるおそるとあたりを窺うが、白い光に色彩が消し飛ぶようで、目を開けていられない。強光線の衝撃の後、遅れて異臭が漂ってきた。扉を開いた際のわずかな風が去ると、まるでタールのような粘度を持つ物質のように、強烈な異臭が駅員を包む。
「来ちゃったの?」
部屋の奥から、女性の涼しい声が投げられた。痛む目で声の主を探すが、まだ光に慣れない目では、とても見つけられない。遠い過去に忘れてきたはずの異臭が脳みそを侵し、何も考えられない。長い時間をかけて堆積した、汗、吐瀉物、排泄物、血と膿、生ごみのにおい。風前の灯火のようなわずかな消毒薬のにおいと、部屋の片隅から流れてくる、コーヒーと焼きたてのパンの香り。
駅員は、躍起になって部屋の奥を窺った。視界に焼き付く光と、息ができないほど壮絶なにおいの壁。白く色彩の飛んだ背景から、涼しげな忍び笑いが聞こえた。駅員は頭を抱えた。覚えがある……8番鉄道の職員たちが、死ぬ場所のにおい!
痙攣する目蓋を指で押さえつけ、駅員は部屋を見た。
「久しぶりね。エーレ」
天井に整然と並び、煌々と強光線を注ぐ、細長い蛍光灯の列。部屋の中央に置かれた、金属製の手術台。手術台の上の、部屋の奥を向いて横たわった男性。灰色の髪やひげはごわごわとした塊になって体の上や床に垂れ、垢の溜まった肌は、泥を塗ったように灰色にがさついている。ひどい床ずれのできた体の背面は、衣服に血や膿が染みて、赤や黄色に固まっている。垂れ流しとなっている排泄物で汚れた衣服や手術台の周囲では、虫の群れがうなっていた。駅員は、茫然と、目をかばっていた腕を下ろした。
部屋の奥には扉が一つあり、手前に、丸いテーブルと椅子が一つずつ置かれている。その席に着いていた一人の女性が、腰を上げた。彼女の前には、簡素なマグカップが一つ、食べかけのパンが一つ、黒い電話、赤い革張りの大きな本が置いてある。立ちあがった女性は、一つに束ねた長い髪、白く美しい髪を背に流して、暗紫色の制服に身を包んでいた。脱いだ帽子は、壁の鉤にかかっている。駅員エーレより少し年上の、しかし同じ顔をした、8番鉄道の元駅員だった。全員が同じ顔をした駅員の中で、彼女だけが纏う香り――春に咲く花の、切ない気分にさせる甘く可憐な香りが、主人を讃えるように、遠く駅員にまで届いた。せめてもう一度だけでもと願った、あの人の香り。
「エッダさん……?」
「元気だった? 少し背が伸びたようね」
懐かしそうに、元駅員エッダはほほえんだ。駅員は、部屋の中央の手術台に横たわる男性から目を離せない。
「エッダさん、ここは……この部屋は、いったい何ですか?」
元駅員は手術台に歩み寄り、男性の体に手をかけた。白く細く、傷のない手。桃色の唇を柔らかく結び、男性の肩を優しく握って、彼を仰向けにする。床ずれの傷から染みだした体液が手術台に触れて、湿った音を部屋に響かせる。初老の男性。灰色のひげには、乾いた吐瀉物がこびりつき、使い古したペンキの刷毛のように固まっている。変わり果てた姿であっても、なお見覚えのある横顔の面影。元駅員は、彼の汚れた頬を掌で撫でた。
「ここは、カタコンベ駅の裏方」
「その人は……駅長ですね」
「そうよ。そして私は、彼の監視係。駅員を辞めて、庶務員となったの」
駅長の目蓋は、固く閉ざされている。手術台を囲む、医療機器のような二、三の機械から伸びる雑多な管は、束になって胸元に埋めこまれている。針で腕に刺しこまれた細い管は、点滴の袋に繋がっている。針を刺されている周囲の皮膚には、血が流れた跡、そして過去の刺し傷が残っていた。駅員は彼の方へと足を踏み出したが、手術台を回りこんできた元駅員が、彼との間に立つ。
「エッダさん。駅長は、どうしてこんな状態に?」
元駅員は、駅長の硬直した目蓋を撫でた。
「簡単に言えば、カタコンベ駅を永遠のものにするため。知っていると思うけれど、駅長が、あの駅――私たち鉄道にとっては裏側だけれど、駅としては表側の――を保全しているでしょう? けれど、駅長が亡くなれば、あるいは鉄道を辞めれば、あの駅は失われてしまうの。消えてなくなってしまうのよ」
「でも、僕は、ついさっき駅から……」
絞りだした言葉も失ってしまった駅員に、元駅員は同情するように優しくほほえむ。
「駅長から、教わっていないのね。あの駅は、8番鉄道の中で、特殊な駅の一つなの。カタコンベ駅の場合は、実体がないお客様のための駅。駅長は、実体がない者から見る駅を、保全しているのよ」
「実体がないなんて! お客様は、普通の……」
「そうね。普通の人間。種族層は単一、人間だけ。でも彼らは、細かい分類はあるけれど、おおまかに言えば死者なの。それぞれの死後へ向かう前に、旅をしたい人、あるいは自分の死に気づくまで、もう少し時間が必要な人。お客様は、そういう人たちなの。あなたにも、思うところはあったと思いたいけれど……本当に、何も教わってもいないし、自分で気づきもしなかったのね」
落胆を隠さず、元駅員は手術台にもたれかかり、手をついた。掌に吐瀉物や血が付着するが、彼女は頓着しない。駅員は侮蔑には反応せず、さらに疑問を投げる。
「では、駅長はどうやって、駅を保全していたのです?」
「内面の一部を、提供するの。私も詳しくは教えてもらえなかったけれど、技術の一つとして、8番鉄道にはそんなことができるの。表の駅と裏の駅、それぞれへの出入口となる共有点を作って、駅として使われる表側には、駅長の内面の、ある空間――『小部屋』を、提供してもらっているの」
「小部屋?」
「そう、小部屋と呼ぶの。誰もが持っている、内面のどこかにある自分だけの空間。記憶や感情、知識や影響、外界から否応なく流れこんでくる異物を、自分なりのやり方で消化するのが、内面世界。その中に、小さな、殻のような場所がある。いわゆる健康ではない時、外界から流しこまれるものを消化できなくなってしまうわ。そんな時でも、一時の逃げ場、安全地帯、無菌室であってくれる場所――戦う必要のない嵐を耐えるため、態勢を整えるため、自分で結論を出すための、静かな場所。本来は誰にも侵せない場所だけれど、8番鉄道は、これを使うの」
「そんな……。それが、許されているのですか?」
元駅員は、駅員に背を向けた。駅長の額を撫でながら、答える。
「ある地方では、ある人の妄想が、現実に漏れることがあるわ。どうしてかは、今でもわからない。またある地方では、複数人で共有する妄想を、現実にしてしまうことができる。8番鉄道の技術部の人たちは、そういうところで学んだんじゃないかしら。いろんな人が……本当にいろんな、個々の出自、個々の事情、個々の目的、個々の行先を持つ人が、鉄道を使うわ。例えばカタコンベ駅のような、特殊な駅も必要になるの。許されているというよりは、やむを得ず、ね」
「だからって……駅長お一人が、こんな状態に置かれていいわけはありません」
「じゃあ、どうするの? あなたがお客様を一人ひとり、目的地までお送りするの?……冗談よ。8番鉄道としては、やっぱり面倒なの。外部の影響を受けない、隔離された場所に、妄想を素にして、望む通りの、大型で、特殊な例にも対応できる余裕を持たせた駅を、ひとつ作る。それで、かなりのお客様をご案内できるし、多くの問題を解決できるわ。駅長一人の協力だけでね」
返す言葉が見つからず、納得できずにうつむく駅員に、元駅員は振り返ってほほえんだ。彼女のほほえみは、どこか、駅員には決して手の届かない場所にあり、もう何も望むもののない、晴れやかさがあった。駅員には、いやでもそのわけがわかってしまう。駅の存在も、駅長その人も、彼女の手の中にあるからだった。
駅員は唇を噛んだ。虐待同然の扱いを受けている駅長を、どうにかして、あのカタコンベ駅へと連れて帰りたかった。カタコンベ駅について、これほどまで知らない物事で溢れていたことが、手に負えないほど悔しい。
「あの大きな駅が、本当に、その……小部屋に、あるというのですか?」
「一人の人間の内面世界にあるものだから、どれだけ大きくても部屋は部屋、らしいわ。ここで見るカタコンベ駅は、私たちにとって現実の世界の一つ。あちらで見るカタコンベ駅も、ある種の死者にとって現実の世界の一つ。仮想空間の一種? 他者に別次元の世界を見せる強力な暗示? それともやっぱり魔法?……私も、よくわからないのよね。魔法みたいなものだと思えばいいんじゃないかしら」
駅員は、再びうなだれた。力なく、小さく首を振る。
「駅長のために、僕にも何かさせてください」
「ごめんね。エーレには、任せられないの」
元駅員は、眠る駅長に目を落として、手術台の縁を掌でなぞった。
「8番鉄道と、契約したの。私は、駅長を監視しなければならないわ」
「それなら、あなたはどうして、駅長の身辺の世話を……」
言いかけて、駅員は口を噤んだ。元駅員は、続きを待つように首を傾げて、駅長を見つめている。
「駅長は、どうして、眠っているのです?」
元駅員は、しばし目を閉じた。晴れやかな恍惚の表情で、しかし自らを抑えるように、左右に首を振った。顔を上げた彼女の顔は、同じ顔であっても作り方もわからない表情ながら、駅員はまるで自分の本性を見せられるようで、目を逸らすことができない。
「エーレには、関係ない」
「関係ないことはありません! 駅長は、ものではありません!」
元駅員は、悩ましげなため息をついた。
「いっそ、ものであってほしい。いつも身綺麗にしていれば、駅長がもし目覚めた時、いつでも、すぐにでも、どこかへ行ってしまえるでしょう? でも、それが難しければ……少しの間でもいい、それだけの時間、駅長は私のもとを離れられないわ。駅長を監視するのは、私」
「エッダさん。どうしてしまったんですか? どうしてそんなことを? 駅長は……」
「その顔、むこうへ向けてよ!」
マグカップが飛んできて、駅員は息を飲んで小さく屈んだ。背後で、扉に当たった陶器のマグカップが砕ける。飛散した破片とぬるいコーヒーが背中へ降り注ぎ、勢いの余った欠片が、駅員の首筋を薄く切る。静まりかえった部屋を、駅員はおそるおそると顔を上げて窺った。ポケットへ引っかけていたスカーフを取り出して、震える指で頭や顔に巻いてから、立ちあがる。
「エッダさん……。何が、あったんですか?」
くぐもった声で、駅員は訊ねる。元駅員は、少しうつむいて、駅長へと目を向けている。しばらくの沈黙の後、彼女は口を開いた。
「駅員の代わりなんか、たくさんいるじゃない。鉄道にとってはもちろん、駅長のことを私がどれほど思っていても、駅長にとっても、私はいつでも交換できる部品。こうでもして、他の駅員と違うことでもしなければ、きっと私は、私でさえいられないわ。そうでなければ、誰か他の駅員と入れ替わっても、お互いに不便はない。私自身でさえ、そうだもの。駅長にとっては、なおさらだわ」
駅員は、互いのために否定したかったが、かけるべき言葉が見つからなかった。ただ、正直な思いを彼女に告げる。
「でしたら、今はあなたの望む通り、駅長のおそばにいられるのに、どうして、そんなに悩んでいらっしゃるのです?」
「単純なことだったの。駅長、名前を間違えたのよ。私が来る前にいた、駅員と」
「そんなことで……!」
駅員は、一息に元駅員へと詰め寄った。彼女の背は、少し高い。冷たい目で駅員を見下ろす彼女は、激昂した駅員の額を、指先で押しやった。
「そんなこと? それならば、あなたは何とも思わないの? 頼んでもいないのにこの世に生み出されて、どこかの誰かのクローンとして作られて、選択の余地もなく駅員として育てられて、皆が皆、同じ顔、同じ体。命と心と記憶だけは自分のものだと、皆で慰めあったものだけれど、もとは全部、何もかも一緒よ。違うのは、名前だけ。これだけは、他の駅員と区別するためのものだからね。それを間違えるということは、結局のところ、駅長にだって、駅員は誰でもいいの。区別する必要すら、ないの」
駅員は、元駅員の肩へ手を置いたまま、うつむいた。
「僕だって、エファさんと間違えられました。エッダさん、あなたとだって……」
それ以上は、とても言えなかった。彼女の気持ちは、駅員自身の気持ちでもあった。自分たちの出自と過去について、誰かが償ってくれるわけではなく、償うべき誰かがいるわけでもなく、また、何かで償われ得るものでもなかった。
「エッダさん、でも、僕は、あなたのこと……」
言葉を見失い、途方に暮れて、駅員は元駅員を見上げた。自分と同じ、白い髪、白い眉と睫毛、鼻梁に散った薄いそばかす、晴れの日の海のような、群青色の目。そして彼女だけが身に纏う、甘酸っぱい、いじらしい小さな花の香り。元駅員は、黙りこんだ駅員を見つめ、ポケットから垂れた、懐中時計の鎖に目を留めた。鎖を手繰り、時計を掌に乗せる。
「もう、四時半だわ。あなた、五時に出勤でしょう」
鎖でぶらさげた時計を、駅員にちらつかせる。慌てて受け取り、時刻を確認した駅員は、元駅員を見上げて逡巡した。駅長と彼女を、放置するわけにはいかない。同時に、いつも通りの駅の業務を怠るわけにもいかない。元駅員は、諦める様子のない駅員にため息をつく。
「駅長に迷惑をかけたくないのなら、行きなさい。駅長も、私も、どこにもいかない。いつも、ここにいるわ」
駅員は唇を噛み、元駅員と手術台から、ゆっくりと一歩、下がった。元駅員は、満足げに頷いている。足を止めた駅員は、急いで手術台を回りこみ、奥のテーブルの上にあった、黒い電話に手をかけた。手術台のむこうの元駅員は驚く様子もなく、空恐ろしいほどゆっくりとした、何気ない歩調で、駅員の方へと向かってくる。駅員は、記憶を辿り、駅長から聞いた話を思い返して、電話のダイアルを回した。受話器を取り、呼び出し音ひとつで繋がった相手の声も聞かずに、駅員は口を開いた。
「カタコンベ駅です! 駅長が、身辺の世話もされず……!」
言葉の途中で、白い手が伸びてきて、受話器を奪われる。愕然と振り向いた駅員の目の前で、うっすらとほほえみを浮かべた元駅員が、電話の上に元通り、受話器を下ろした。
「早く、駅に戻ることね」
どこまでも凍りついたような沈んだ目で、元駅員はほほえむ。駅員は、思わず後ずさりそうになるのを堪え、彼女を見つめて、訊ねた。
「僕は、どうすれば、いつものカタコンベ駅へ戻れますか」
「いったん外へ出て、線路を歩いて駅へ入るといいわ。線路、手段としての鉄道は、二つの現実を持つカタコンベ駅が、表と裏で共有する出入口」
「……エッダさん。僕はまた、来ます」
駅員は、手術台を回りこみながら、冷たく硬い金属の上に横たわる、駅長の姿を見つめた。胸が痛む。ゆっくりと、入ってきた扉へと向かい、元駅員を振り返る。
「やっぱり……駅長お一人が苦しまなければならない道理は、ないはずです。それに、あなたがこれ以上、あんなことで悩む必要も、ないはずです」
元駅員は、何も言わずに目を伏せた。手術台の駅長の上にかがみこむようにして、静かにたたずんでいる。駅員は何もできず、鋼鉄の扉に手をかけ、部屋を後にした。地上へ続く階段を、とぼとぼと上る。
外では夜明けが近づいており、いつものカタコンベ駅では考えられない場所から、白みはじめた東の空が見えた。駅員は、部屋に置いてきてしまった重い心を引きずって歩いた。荒れ果てた、もうひとつのカタコンベ駅の中央を抜け、庭園へと出る。残骸ばかりの胸壁をまたいで、外の草原へと出ると、踵を返して線路に入った。砂利の上で並行する、二本の鉄のレールの間、枕木の上を、もつれそうな足で歩く。
線路が途切れて顔を上げると、見慣れた、懐かしいほどのカタコンベ駅が、視界いっぱいに広がった。背が高く、無駄に広く、不格好で、いびつで、古ぼけていて、雨漏りがひどい……捨てられた自分を受け入れてくれる、駅員にとって、愛おしい駅。敬愛する駅長がいる、自分のいるべき場所。駅員は、出勤前の身支度をするため、寮を目指して駆けだした。べっとりと、コーヒーに濡れた背中が冷たい。
いつもの準備を済ませ、駅員は時間通りに出勤した。カルメン、カンデラ、ユーリイさんと挨拶を済ませた後、一番線に立つ。運転士と車掌が発車前の点検をしている列車を眺めながら、胸元からトランシーバを取り、駅長に語りかける。
「おはようございます。駅長」
駅長との通信は繋がっているが、しばらく応答はなかった。列車がホームを去る。根気強く待っていると、気まずそうな、陰鬱な駅長の声が答えた。
――驚かせてしまって、すまないね。君に教えていなかったことも、多かった。
「いいえ。……ご存じなんですね」
――あの部屋では、私は、動けないだけだよ。君たちの話は、聞いていた。管のようなものが、たくさんあっただろう。あれが、私の生命維持装置だ。あの機械があるがために、私は、命を永らえている。
脳裏に、駅長の現実の一つが甦る。ろくな身辺の世話もされず、囚われた彼の姿。
「駅長。僕は、駅長を見つけました。だから、心配させてください」
悲惨な彼の姿を脳裏に見ながら、少しだけ、冗談めかして言う。駅長は笑った。
――正直なところ、君には無理だと踏んでいたよ。期待してはいなかった。
「それでも、手がかりをくださいましたね」
――そうだね。やっぱり、どこかで期待していたのかもしれない。身動きの取れない私の代わりに、君に頼ろうと。私自身、そろそろ、終わらせたかったんだ。
「エッダさんのことですか?」
駅長は、沈黙する。やがて、穏やかで真摯な声で、毅然とした答えが返ってくる。
――いいや。私の命だよ。機械を使ってでも永らえるべき命が、多くこの世にあるのは確かだ。だが、私に関していえば、私は、潮時だと考えている。
駅員は、思わずトランシーバを見つめた。そこに駅長が見えるはずはないが、声があるということは、おそらく、彼が囚われているあの部屋ではなく、駅として機能しているカタコンベ駅のどこかに、存在しているのだろう。駅員は、どちらの現実にいる駅長も、失われてほしくはなかった。喉元に熱いものがこみあげ、何かがつっかえたような息苦しさに襲われる。
「そんなことを、おっしゃらないでください。必ず、お迎えにまいります。僕はまだ、駅長から……教えていただきたいことが、たくさんあります」
――君には、駅での業務はおおかた教えたはずだよ。それに、私も、自分の死ぬ時や死に場所を選びたい。少なくとも、どちらかは。この駅のお客様と同じようにね。
「お客様と同じように?」
――そう。エッダは、そこまでは話さなかったね。この駅をご利用になるお客様は、望んだ時と場所、あるいは好きな時、あるいは好きな場所で、亡くなった方々だ。私にも、そのどれかを選ぶ権利があってもいいと思うんだよ。エーレ。
駅員には、答えることはできなかった。駅長は、黙りこんだ駅員との通信を切らなかった。駅員は、乾いて思い通りにならない喉から、掠れる声を絞り出す。
「駅長のご意思だったのですか?」
――もちろん、同意していない。
駅長が、長く深く吐いた息が、ざらざらとした音となって聞こえた。
――私は、鉄道を去ろうとしていた。この路線の主任にも、その旨を伝えてあったんだ。しかし、この駅は、私の小部屋に寄生する形で存在している。私が鉄道を去っても他の駅長を据えればいいのだが、他の駅長の小部屋は、当然ながら私のものとは異なる。駅を誰かに引き継ぐ場合も、多少なりとも手間がかかるんだ。
「それで、無理やり?」
――まあ、そうだね。8番鉄道は、少しでも面倒は避けたかった。だから、利害が一致したエッダと契約を結んだんだよ。鉄道は私を拘束し、エッダが私の監視と世話をする。当の私が気づいた時には、もう手術台の上で、体を動かすことができなくなっていた。
駅員は、多くの情報を頭に詰めこむことで必死だった。駅長の語ることを、逐一、手帳へ書きこみながら、それを読み返す暇もなく、彼の声に耳を澄ませる。駅長は、その様子をどこかで見ているかのように、駅員に時間を与えながら話を続けた。
――業務を通して、私のこと、駅のこと、客のことを知る者たちは、口止めされているからね。君があの部屋へ行かなければ、私自身、君に明かすことはできなかったよ。こういう形で、私の助けになってくれるとは、思ってもみなかったが。
「僕は、駅長の死ぬお手伝いなど、したくはありません!」
駅員は、メモを取る手を止めて、声を荒げた。駅長の、朗らかな笑い声が聞こえる。
――してもらわなければ、困るよ。エーレ。私は、あんなことがあったとはいえ、この駅から旅立ちたいからね。
「いいえ、駅長のお言葉でも、お断りします」
駅長の声が、少し沈んだ。優しくほほえむ口元が見えるような声で、言い聞かせるように、彼は続けた。
――君に見送ってほしい、とでも言えば、頼みを聞いてくれるのかね? 君は毎日、大勢のお客様をご案内し、お見送りしているだろう。私も、遅かれ早かれ、この駅の客となる。そうなれば、君の仕事だ。他の誰の仕事でもないし、他の誰にもできないんだよ。
「でも……」
――さあ、この話は、今はここまでだ。次の列車が来るまで、時間がある。夜の間に溜まった遺失物を、拾ってまわってくれるかね。エーレ。
反論しかけた駅員の言葉を遮って、駅長はいつも通りの口調で、指示を出した。駅員は、渋々と反論を飲みこむと、背後の扉を開けて、事務所に戻った。バケツと軍手を手に、遺失物拾いのため、まずは二番線に向かった。
誰もいない二番線には、まるでたくさんの人たちが脱ぎ散らかしていったかのように、身に着け、そして外すことのできる品々が置き去りにされ、寄せ集められて、小さな山を作っている。昨日は、一人の女性が地べたに横たわって眠っていた、森の中のホーム。庭いじりとサボテンが好きだと言っていた彼女は、どのような道を辿って――望んだ時と場所、あるいは好きな時、あるいは好きな場所で――この駅へと来たのだろう。駅員は、彼女の、ひどく眠そうだった様子を思い出す。
軍手を着けた手で、苔むした石畳から、遺失物を一つずつ拾いあげていく。いつもの通り、バケツはすぐにいっぱいとなる。二番線と遺失物管理所を何度か往復し、駅員はホームの遺失物をすべて拾い終えた。時計を見ると、六時の列車が来る時間が迫っている。駅員は、軍手を外して普段の手袋を着けなおし、バケツを手に、中央広場へと引き返した。
暗い柱廊を歩きながら、トランシーバを手に取る。
「駅長」
――何だい?
「駅長はどうやって、駅のことをご覧になっているのですか?」
――この駅は、私の内面に寄生しているのだから、駅の様子は、私にも見えている。自由の身ならば、こちらのカタコンベ駅を歩きまわることができるのだがね。体のすみずみにまで感覚があるように、心の動きも、自分ではよくわかるだろう? ただ、気づかないうちに感情が生まれ育っていたり、知らぬ間に何かの影響を受けていたりするように、本人にもすべてを把握できるわけではない。昨日、スカーフを被った君に私が気づけなかったようにね。
「それでは、やはり、本当はトランシーバも不要だったということですね?」
――そうだね。お客様にも不審に思われないよう、これまでどおり、使っておくれ。
長い柱廊から、中央広場に出る。頭上に抜ける、高い天井。日が昇ったばかりの蜂蜜色の空が、天窓のステンドグラスの隙間に見える。
「雨漏りの理由、今はわかる気がします。裏方のカタコンベ駅で雨の降らない場所ならば、こちらでも雨が降らない。そういうことでしょうか?」
駅長が笑った。
――そうだよ。私のいるあの部屋でさえ、雨が漏っているんだ。ひどいものだよ。
「エッダさんは、何も言わないのですか? 取り次ぎというのが、彼女でしょう?」
――彼女は、雨など気にも留めない。雨の日はずぶ濡れのまま、一日中あの部屋で座っているようだ。奥に彼女の部屋があり、そこでは雨が漏らないらしいのだがね……。目が開かないので見たわけではないが、雨の日でも、彼女の立てる物音がすぐそばから聞こえるよ。彼女への伝言はマヌに頼んでいるが、聞きいれられたことはないね。
六時を報せる鐘が鳴り、駅員はしばし、通話を中断する。一番線に列車が到着し、客たちが続々と連なって降りてくる。鐘が鳴り終わる頃、壁際に立って客の流れを見送りながら、駅員は駅長に訊ねた。
「マヌさん、ですか?」
――Y路鉄道の職員で、8番鉄道の指示とは無縁だからね。他言無用と念を押してはいるが、彼は余計なことはしない。清掃員だからあの部屋にも巡回にくるが、いつもエッダが追い返しているようだ。伝言は、その時に伝えてもらっている。
客の流れは途切れず、駅員はなかなか大時計へ向かうことはできない。カタコンベ駅を利用する客は死者だと聞いたものの、駅員にとっては、知らなかったことへの驚きはあれど、そのために客との接し方が変わるわけではなかった。こちらのカタコンベ駅にはこちらの現実があり、客は実体を持つ人に違いはなかった。客の流れを遮れば誰かしらとぶつかり、話しかければ返事があり、反応のある人々だった。
「駅長。駅長はなぜ、ゆ……その……」
避けるべき言葉に代わるものを探して言いよどむ駅員に、駅長が苦笑のまじる声で助け舟を出した。
――こちらの駅に現れた、私の姿のことだね。
「はい。あれは、なぜだったのです?」
――私も、こちらの駅の客となりつつある、ということだ。初めは、何だか夢を見ているようで気づかなかったよ。あの生命維持装置が私の体の命を永らえさせているが、機械がお粗末なのか、脳や内面は着実に死に向かっている。私の内面の手入れができるのは、私だけだ。体を延命するだけで、心身ともに健康で、永遠に生き続けられるほど、私は強くはない。今は内面だけが私の持ち物だから、その延長として駅も保全してきたが、もう潮時だ。昔は、こちらの駅は雨が漏らなかった。私も歳をとり、疲れてしまった。今は雨漏りで済んでいても、間違いなく、今後は荒廃するばかりだろう。内面が、駅が荒廃しきる前に、私はこの駅から旅立ちたい。誰かに、駅を引き継いでもらわなければ。
「そんな……」
――その時が来たら、よく、見ていてごらん。まず、駅の周りから消えていくだろう。私の私物だと言った、城の部屋や塔だ。あれは、私の記憶と思い出。そして、感情と思考の残滓。駅ではない、あの城が、私の心。私が死ねば、あの城も消える。城に寄生する駅は、いちばん最後まで残るだろう。それでも、こちらのカタコンベ駅はすべて消えてなくなる。残るのは、裏方のカタコンベ駅だけだよ。
駅員は、目の前を怒涛のように過ぎる人の波を見つめた。いつもと変わらない、談笑と衣ずれ、足音の、遠く柔らかなさざめき。
「駅長の、この駅は、初めからこんなに広かったのですか?」
――いいや。初めは、もっと小さかったよ。一番線と二番線しかなくてね。駅のために提供したのは、小部屋の片隅だけだった。本部の要求に応えるうちに、駅は肥大していった。私のためだけに存在するはずの小部屋を占領し、持ち主である私と、私が小部屋に仕舞っていた大切な思いを追い出した。行き場を失った、あの塔や建造物、部屋や庭たちは、小部屋の外壁にしがみつくようにして、どうにか私のもとに留まった。あれが、あの城の形が、8番鉄道の技師たちが『中庭』と名付けた現象、そして存在のあり方の一例だ。何かに囲まれた小さな空間という意味では、似ているだろう?
人の流れの勢いが、徐々に落ちつきはじめた。駅員は、人混みの切れ間を縫って、大時計へと向かった。大時計の左側、駅係員控室の扉の前に立つ。
――話が過ぎたね。朝食にしておくれ。エーレ。
「はい。駅長。お先にいただきます。……あの、駅長は、お食事は?」
――私は、いつも点滴だよ。気にしなくていい。行っておいで。
「……はい。失礼いたします」
通信を終え、胸元にトランシーバをかける。扉を開き、朝食のため、食堂へ向かった。
七時の鐘が鳴り、休憩時間が終わった。一番線のホームでは、カルメンとカンデラと交代したミロシュとマロシュが、車内点検や発車前の安全確認をしているのが見える。駅員は、人気のない一番線で列車を見送った後、引き続き遺失物拾いに向かうため、バケツと軍手を手に、三番線へと向かった。
潮の香りの風が吹きこんでくる暗い柱廊を抜けて、庭園に出る。三番線のホームである桟橋が、入り江へと伸びている。庭園には、掃除用具を満載した台車が一台、止まっていた。そのすぐそばで清掃員のマヌが、刷毛のような形をした羊歯箒で、石畳に吹き寄せられた浜の砂を掃き集めている。薄汚れた衣服に大きなエプロンを着け、緩く波打つ栗色の髪、琥珀色の目をした、いつも無愛想な少年だった。駅員に気がつくと、清掃員は、帽子の鍔に手をやるだけの簡単な挨拶をする。駅員も帽子を取って、彼に挨拶を返した。
清掃道具の台車を見ると、バケツが覗いている。駅員は、清掃員に訊ねた。
「マヌさん。もし今、使っていなければ、バケツを一つ、貸していただけませんか?」
清掃員は、仏頂面を隠さず、手を休めずに答える。
「どうぞ。遺失物でしょう」
「ありがとうございます。お借りします」
駅員は、台車からバケツを一つ、取り出した。使い古された、少し錆の浮いたバケツだった。両手にバケツを持ち、駅員は置き去りにされた遺失物を拾いながら、桟橋の先まで歩く。ところどころに寄せ集められた遺失物は、今回はどうにか二つのバケツに収まった。
遺失物管理所に品々を置き、急いで庭園に戻ると、清掃員が石畳に膝をついて、花壇の雑草取りをしていた。そのそばには、抜いた雑草が小さな山になっている。どこかで見たような気がしながら、駅員が台車にバケツを戻そうとすると、清掃員が呼び止める。
「すみません。バケツ、こっちにください」
駅員は引き返して、礼の言葉とともにバケツを差し出した。彼は立ちあがって受け取る。そのまま駅員に背を向けて、花壇に沿って道しるべのように点々と続く雑草の小山を、バケツに拾いあげていった。駅員は、ようやく気がついた。雑草でいっぱいになったバケツを手に、清掃員が石畳を引き返してくる。
「ホームの遺失物、寄せて集めてくれていたのは、あなただったんですね」
清掃員は駅員に目もくれずに通り過ぎ、台車からごみ袋を引きずり出した。バケツをひっくり返して、袋の中へ雑草を落としていく。答えを待って近づいてきた駅員に、あからさまにため息をつくと、ぶっきらぼうに返事をする。
「そうです。ああでもしなければ、足の踏み場がなくなります」
「ありがとうございます。助かっています」
清掃員は、またため息をついた。
「あなたのためではありません。あなたの巡回が追いついていないだけです。この駅では遺失物の管理が駅係員の仕事ですから、僕にはこれ以上のことができませんが、せめてこれくらいは、と」
「他の駅では、あなたがしているのですか?」
「そうですね。今は、僕は専属でここへ派遣されていますが、以前は別の駅で、清掃と遺失物拾いをしていました。他のY路鉄道の職員も、同じようなものです。ですから、遺失物が放置されていることが忍びなく、つい」
棘を覗かせながら言う彼に、駅員は頭が上がらなかった。改めて日頃の礼を伝えると、彼は気まずそうに黙りこみ、掃除を再開した。
「一つ、伺ってもいいですか?」
石畳の目から、丁寧に砂を掃き出している清掃員に、片手に自分のバケツを持ったままの駅員が声をかける。
「何ですか」
「Y路鉄道の方々は、みなさん、それぞれ違うお顔をお持ちですよね。8番鉄道みたいに、クローンという形で職員に統一性を持たせるのは、やっぱり、変ですか?」
「僕個人としては、さほど変だとは思いませんが。どうしてですか?」
眉をひそめて手を止め、清掃員は訊き返した。エッダの名前を出すべきかどうか、ためらって黙りこんだ駅員に、彼は何かを察したようにため息をつく。
「8番鉄道にしても、Y路鉄道にしても、このあたりの企業は特殊ですから、どんな出自にせよ、悩みもあるし、楽なこともあります。どうにもならないことは、敢えて受け入れるか、忘れるか、無理をしてでも変えるか……取れる道も、いくらかありますから。ただ、生まれてきてしまった以上、そのことで悩むのは、疲れるだけですよ。特にあなた方の場合は、些細な違いが目につきやすいですから。……それで、誰の話なんです?」
清掃員は足元の石畳に目を戻して、少し笑う。珍しい様子に、駅員は驚きながら答えた。
「エッダさんのことです。よく、お会いになるんでしょう? 彼女は、駅員がみんな同じ、クローンであるせいで、とても悩んでいらっしゃるんです」
「ああ、彼女ですか。確かに、どうも病んできていますね」
さらりと口にして、清掃員は掃除を続けたが、ふと顔を上げた。
「彼女の様子を知っているということは、あの部屋に行ったんですね」
駅員は、黙って頷いた。あの部屋が脳裏に浮かんで、胸が痛む。ぴりぴりと痛みが走る首筋の軽い切り傷に、軍手を着けたままの手で触れた。清掃員は、暗い表情を隠すように伏せて、箒と石畳に目を落とす。
「いずれは、そちらの本部に知られる時が来ます。当初こそ利害が一致したとはいえ、契約違反は契約違反ですから、厳罰でしょう」
「契約違反ですか?」
「聞いていないんですか? 契約の内容について」
ただ呆然とする駅員に、清掃員は困惑した様子で黙りこんだが、やがて口を開いた。
「彼女は、駅長の世話をするという条件で、庶務員としてこの駅に残っています。8番鉄道にとっては、どんな形であれ、駅長が長生きさえすればいい。そのための世話人として、駅長のそばにいたい彼女と利害が一致したんです。彼女ならば、他言もしませんから」
駅員は慌てて足元にバケツを置き、手帳を取り出して、清掃員の話を書き留めた。そのすぐそばに、先程の駅長の話、元駅員は駅長の監視と世話をする、ということが書き残してある。何か取り返しのつかないことをしたような気がしてきた駅員が、蒼ざめていくことに気づかず、清掃員は話を続ける。
「彼女が駅長の世話をしていないことが、そちらの本部に知られれば、彼女はただでは済まないでしょう。駅長の寿命を縮ませたとして、責任を負わされかねないことです。何もできない僕に、言えることでもありませんが……」
顔面蒼白で、手で口元を覆った駅員に、清掃員はようやく気がついた。手帳とペンが、石畳に落ちる。ぎょっとして少し後ずさり、警戒するように遠巻きに様子を窺う彼を、駅員は愕然と見つめた。
「僕……本部に電話、してしまいました。契約のことを、知らずに……」
清掃員もまた言葉を失い、石畳に目を落として考えこむ。彼が再び目を上げた時、途方に暮れるばかりの駅員に、苛立ちをぶつけた。
「何をしているんですか。あなたは、どうしたいんです?」
「わ……わからないんです。駅長の置かれている状況を、改善したいのですが……エッダさんにも、無事でいてほしいのです」
「それなら、今は時間を稼ぐんですね」
「はい。もう一度、本部に連絡してきます」
駅員は踵を返した。足元に置いていたバケツや、落としたままの手帳とペンを蹴り飛ばしてしまう。がらん、がらん、と鐘に似た大きな音を立てて、バケツが勢いよく転がった。もどかしい思いでバケツや筆記用具を拾い、駅員は駆けだした。
胸壁によじ登って、むこう側へ下りる。すぐにまわれ右をすると、すでに目の前には、荒廃した小さな、裏方のカタコンベ駅があった。崩れて低い胸壁を飛び越えて、庭園から少し距離のある、駅の中央へと駅員は走った。
三つ並ぶ、鋼鉄の扉の真ん中。地下へと続く階段。駅員は、息を切らせて、地下の扉を開いた。目がくらむほどの、強く白い蛍光灯の明かり。駅員は目を瞬かせながら、部屋へと一歩、踏み出した。物音のしない部屋を見回すと、手術台の上に横たわる駅長と、そのむこうに、元駅員の座っていたテーブルが見えるが、席に彼女の姿はない。部屋の奥にある扉、彼女の部屋だと聞いた場所へ向かおうとすると、踏みつけたマグカップの破片が、コンクリートの床を削って音を立てた。
思わず足元を見た視界の端、手術台の足元に、まだ鮮やかな色をした、血溜まりが見えた。駅員は駅長に駆け寄ったが、彼の体にあるのは、じゅくじゅくとした床ずれの傷ばかりだった。もう一度、血溜まりに目を落とすと、手術台の陰になっていた場所へ、うずくまるようにして横たわる、元駅員の姿があった。
「エッダさん!」
声をかけて、彼女のそばにかがみこむ。血は、彼女の手首から肘へ向かって伸びる傷から流れていた。手元に落ちた、血のついた果物ナイフ。深い切り傷から、勢いよく噴き上げるようにして、血が流れ出ている。何度、名前を呼んでも、彼女の目は開かなかった。安らかな表情をした顔が、血の気を失っていく。駅員は持っていたハンカチ――毎日、洗濯をして清潔なものに替え、今日はまだ使っていない――を傷に宛がったが、みるみるうちに赤黒く染まり、重く濡れて、使い物にならなかった。
祈る気持ちで、ハンカチの上から傷を抑えて、駅員はあたりを見まわした。何か、使えるものはないか。何か……。テーブルの上の電話が、駅員の目に留まった。同時に、何を目的にこの部屋へ来たのかを思い出す。駅員は、腕を伸ばしてテーブルから電話を下ろし、ダイアルを回して受話器を取った。
呼び出し音ひとつで、本部に繋がった。
「カタコンベ駅です! 医師を……医師をお願いします!」
――どうしましたか?
「エッダさん……カタコンベ駅の庶務員エーデルガルトが、手首から血を……」
――それでは、あなたは?
遮るように問われた内容に、駅員は、頭に血が上るのを感じていた。
「僕は、駅員エーレントラウトです! 早く、医師の派遣を……」
――今朝、未明の電話は、あなたがなさったんですね?
「そうです! ですが、先に……」
――あなたの連絡を受けて、監査員がそちらへ向かっております。今朝の件は、彼女が担当いたします。
「違うんです、あれは……」
――庶務員の件は、駅長の件と併せて、監査員にお伝えください。彼女が対応いたします。それでは、失礼いたします。
一方的に電話を切られ、駅員は唖然と受話器を見つめた。制服の膝に、生温かいものが染みこんでくるのを感じて、目を落とす。電話の間、圧迫を緩めてしまったエッダの傷口から、止まる様子のない血が滴っている。駅員は、電話をかけなおすことを諦め、手首の傷を強く押さえた。
片手で、トランシーバで駅長に発信するが、彼には繋がらなかった。車掌、運転士、六番線の車掌――知る限りのチャンネルに発信するが、誰にも繋がらなかった。額を汗が流れる。
「エッダさん、まだ……」
途方に暮れ、血が止まるよう祈りながら、傷を押さえる。手術台の向こうで、扉が開く音がした。上がった息と、車輪の音と、何か金属が軋む音が聞こえる。
「エーレさん!」
清掃員マヌの声だった。がらがらとけたたましい音を立てて、何かを部屋へと引きずってきている。駅員が手術台の脇から覗きこむと、彼はひどく息を切らせて、汗だくで、普段は医務室に置いてある
「マヌさん……」
部屋の奥にいる駅員に気がついて、彼は二人に駆け寄った。
「駅長から、連絡が。二人で運びましょう。医務室の方が、誰かしら目が届きます。Y路鉄道の方で、医師を呼びましたが、この部屋までは来られないようです」
そう言って、医務室から持ってきたらしい、ガーゼと包帯の封を切る。手を洗ってきたらしく、清掃員の手元から石鹸の香りがした。長い間、力を込め続けて手が痺れた駅員の代わりに、手早くガーゼを当て、圧迫するように包帯で縛る。小柄な二人で四苦八苦しながら、元駅員を担架に乗せて体を固定すると、部屋を出た。すでに息が上がっている二人の前に、地上への階段が伸びる。
「前をお願いします。僕が、後ろを支えます」
疲れた息を吐く清掃員に、駅員は黙って頷いた。血まみれの手で担架の縁の、金属のパイプを握り、階段へと向かった。担架の脚を折りたたむ。慎重に階段を踏みしめ、ゆっくりと地上を目指す。駅員は、駅長をまた、あの部屋へ残していくことが口惜しかった。すぐに戻ってこようと念じながら、元駅員の担架を支える手に、力を込める。清掃員が、敢えてつらい下方を支えてくれている。
ようやく階段を上りきったころには、駅員も清掃員も、汗みどろで虫の息のようだった。元駅員には、まだかろうじて息がある。散在する瓦礫を避けながら、二人は担架を押して走った。一番線の線路へと向かい、力を絞り出すようにしてホームから担架を下ろすと、線路に沿って庭園まで出た。胸壁を過ぎるとすぐさま回れ右をし、いつものカタコンベ駅へと一息に駆けこんだ。
一番線に列車の影はなく、また幸いにも、ホームから中央広場に人影はなかった。大時計の巨大な文字盤は、九時前を指している。あの部屋にいる間に、列車の発着があったはずだが、駅員は気付かなかった。事務所を過ぎ、医務室に駆けこむ。
医務室では、白衣を着た男性が、手近な椅子に腰かけていた。足元に、黒い革鞄が置いてある。担架とともに医務室へ入ってきた駅員と清掃員に気がつくと、彼は弾かれたように席を立って、元駅員に駆け寄った。温かみのある柔和な顔つきを気遣わしげに曇らせ、白髪まじりの鳶色の髪を几帳面に撫でつけた、四十代ほどの男性だった。白衣の下には、白いシャツと焦げ茶色のスラックスを身に着けている。
「先生、手首を……」
医者は、消毒薬の匂いのする手で、元駅員の手首からガーゼを取り、傷口を調べた。駅と清掃員は、今は息をすることで精いっぱいだった。医者が、何かを言おうと口を開いた時、遠く、くぐもったようなような音で、九時を知らせる鐘が聞こえた。
「二人とも、よく、ここまで運んできてくれた。後は、私に任せて。手当てをしておくから、君――エーレさんは、仕事に戻った方がいい」
「でも……」
元気づけるように、駅員の肩を優しく叩き、医者は困ったような笑みで見つめる。
「駅の仕事が落ち着いたら、また戻ってきてくれたらいいよ。彼女は、大丈夫だよ」
「……わかりました。後で、戻ります」
駅員は、医務室を後にした。一番線へ出る前に、駆け足で寮へと向かった。制服には、白いシャツ、苔色の上下と帽子、いたるところに血がついてしまっている。駅員は自室で制服を脱ぐと、浴室で腕や顔、脚についた血も落として、予備の制服に着替えた。急いで駅へと戻った時には、列車はすでに一番線を出た後で、それぞれの向かうべきホームへと流れていく客も、まばらになりつつあった。駅員は、息を落ち着かせるために深呼吸を繰り返しながら、駅係員控室の扉の前に立った。
客に呼び止められることもなく、中央広場から客の姿がなくなると、駅員はトランシーバを手に取った。今度は、駅長に通信が繋がる。
「駅長。先程は、ありがとうございました」
――あの部屋では、通信ができないからね。礼なら、マヌに言っておくれ。
「エッダさんは……?」
――Y路鉄道の医者も来てくれたんだ、大丈夫だよ。
駅員は、深く息をついた。着替える際にポケットに入れた、新しいハンカチを取り出して、噴き出てくる汗を拭う。
「駅長。監査員の方が、こちらへ向かっているそうです」
駅長は、困惑に言葉を失ったようだった。駅員は、石が転がりこんできたような、重く沈んだ気分に襲われる。
「本当に、申し訳ありません。僕のせいです。今朝、本部に、電話をしてしまいました」
――君が謝ることではないよ。監査員といっても、様子を見にくるだけだろう。今のところ、駅はきちんと機能しているのだから、恐がることはない。
「でも、エッダさんが処罰されるのでは?」
――あの状態なのだから、医者ならともかく、監査員にできることなど何もないよ。誰が来るかにもよるがね。厳重注意だけで、帰ってくれることを祈ろう。
駅員は、ハンカチをポケットに仕舞った。
「駅長。八時の列車の到着の際……先程も、業務に戻らず、申し訳ございませんでした。お困りのお客様は、いらっしゃいませんでしたか?」
――問題ないよ。数も少なかったからね、私の方で対応できた。だから、気にしなくていい。それより、エッダについてくれて、ありがとう。礼を言うよ。もし、制服の予備が必要ならば、あの部屋の電話から本部に連絡するといい。
「はい。ありがとうございます」
誰もいなくなった中央広場をもう一度、見渡して、駅員は医務室へと戻った。
医務室では、医者が部屋の奥に備えつけられた洗面台で手を洗い、清掃員が担架についた血を拭い落しているところだった。元駅員は、包帯を巻いた腕をシーツに乗せて、寝台に寝かされている。駅員に気がついた医者が、手を拭いながら、奥から出てきた。
「かなり失血していたが、命に別状はないよ」
安堵の息をつき、駅員は、医者と清掃員にふかぶかと頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました。お二人がいなければ、エッダさんは……」
医者はほほえむと、すでにまとめてあった荷物を黒い革鞄に仕舞い、それを片手に、駅員の肩を叩いた。
「彼女は、もう大丈夫だよ。安静にして、よく休ませて。どうしても跡は残ると思うが……いつかは、それが彼女の力となる時が来ることを、祈ろう。私は、もう行かないと」
駅員は、目元を拭いながら、万感の思いでただ頷いた。医者は、駅員の脇を抜けていった。部屋を出る前、隅で担架を拭いている清掃員に、親しげに声をかける。
「マヌ。私はもう行くよ」
「はい。先生。ありがとうございました」
清掃員は、束の間、手を止める。駅員の見たこともないような笑顔を見せ、医者に一礼した。医者が去って、静まりかえった医務室で、作業を再開した清掃員が立てる音が響く。駅員は、清掃員に歩み寄った。彼は、うっすらと赤褐色に染まった白いタオルを、バケツに満たした水で洗っている。担架に張ってあった、血に濡れた布は、取り外されてすぐそばに置かれていた。
「マヌさん。先程は、ありがとうございました。助かりました」
「駅長から連絡を受けて、行っただけです。担架の布は、こちらで洗濯します」
手を止めることなく、清掃員は答えた。駅員は、再び小さく頭を下げて、元駅員の寝台へと戻った。そばへ椅子を引きよせ、腰かける。
元駅員を見つめて、駅員は小さなため息をついた。元は自分と同じ顔だというのに、元駅員の、可憐な、女性らしい顔立ちや、たたずまいは、いったいどのようにして身につけたのだろう。後頭部で結んだままの髪から、制服として規定された髪留めを外す。雪の色の、長い髪の先が血で固まっていることに気がつき、駅員は席を立った。医務室の洗面台から、白い琺瑯の、小さな洗面器を持ち、事務所の給湯器から湯を汲んでくる。
元駅員の枕元まで近寄り、湯に毛先を浸す。駅員は熱さを我慢しながら、ゆっくりと、固まった血を溶かしていった。清掃員は血を落とし終えた担架を、元の場所、部屋の奥の物置へと押していく。戻ってきて、ふと、駅員と元駅員を交互に見た。駅員が顔を上げると、彼は何か訊きたげな、不思議そうな顔をしていた。
「どうかしましたか?」
駅員が手を止めて訊ねると、清掃員は戸惑いつつ、ためらいがちに答えた。
「二人とも、クローンだそうですが……とても、同じ人間には見えなかったので」
駅員は苦笑した。元駅員が聞いたら、喜ぶだろうか? それとも、比較対象が自分では、気を悪くするだろうか? 駅員は、血の塊になった髪を湯の中で解しながら、答える。
「おっしゃる通りです。8番鉄道の駅員は、百二十七期生までは、女性として生み出されていました。三年前、本部の決定で、百二十八期生以降は従来通りの体で、性別だけがなくなりました。僕は、百二十七期生です。女性の体で生まれ、卒業しましたが、駅員の養成施設へと出戻った際に、性別がなくなりました。だから、完全に女性であるエッダさんとは、違う人間のようなものです」
清掃員は、言葉を失っているようだった。駅員自身は、自分の体について悩むことはなく、むしろこのことを知った他人がたびたび暗い気分になることの方が、あまり好きではなかった。冗談めかして、付け足した。
「時々は、ですけれど。僕も、憧れたりはしますよ。柔らかい体とか、大きな胸とか」
何も言わず、ただ苦笑するばかりの清掃員を見て、駅員は、失敗したなあ、とぼんやり思う。駅員は、元駅員の髪を解す作業に戻り、清掃員は、床に置いてあった担架の布を拾いあげた。
「それでは、僕はこれで」
扉の前で立ち止まり、いつも通りの、淡々とした声で言う。駅員は肩越しに応えた。
「いろいろと、ありがとうございました。マヌさん」
清掃員が医務室を去り、再び静寂の降りた部屋で、駅員は黙々と手を動かした。
血で固まった髪をおおかた解し終え、駅員は洗面台に赤茶色の湯を捨て、手を洗った。時計を見ると、十時が近い。元駅員の寝台へ戻り、濡れた髪を新しいタオルで拭うと、駅員は、凝って痛む首や肩をさすりながら、医務室を後にした。
十時の列車が、一番線に到着した。駅員は、駅係員控室の扉の前に立ち、列車がホームへ入ってくるのを見ていた。甲高い音を立てて、電気機関車がゆっくりと停車すると、ぷしゅ、という気の抜けた音とともに、車両のすべての扉が開く。潮が満ちるように、人の立てる物音がさざめき、穏やかに、広大な空間を満たしていく。
駅員の目の前を、大勢の客が流れていく。駅員に声をかけてくる客はおらず、中央広場から、少しずつ人がはけていった。運転士と車掌の他は誰もいなくなった一番線のホームに、黒い制服の女性が降り立った。客が全員、列車から降りるまで、車内で待っていたらしい。彼女は、ゆったりと落ちついた挙動で、ホームから駅員の方へと歩いてくる。
駅員は、体が凍りつくのを感じた。黒い制服は、8番鉄道の事務員の証。こちらへ向かっているという監査員も、事務員に含まれるからだった。監査員が近くまできて、駅員はまた目を疑った。帽子の下、上品に編みこんでまとめられた彼女の髪は、駅員や元駅員と同じく真っ白で、鼻梁には薄いそばかすが散り、目は海の青色。彼女も、元駅員だった。彼女は、内心で訝しく思っている駅員の前に立つと、柔和なほほえみで見下ろした。
「おはよう。エーレさん。監査員のエファといいます」
そう言って、帽子を取る。言葉を失っている駅員をさておいて、彼女は続けた。
「今朝は、電話をありがとう。出国線の近くにいたものだから、私が来ることになったの。八年ぶりになるかしら。懐かしいわ。あなた、あの時の……私の後輩よね。髪はもう、伸ばさないのかしら?」
中央広場や吹き抜けへ目を遣りながら、屈託なく笑う。彼女が、エーレの前、エッダのさらに前に、カタコンベ駅にいた駅員――そして、かつてはエッダやエーレが名前を間違えられたほど、駅長に強い思い出を残して去ったらしい、エファだった。駅員は、からからに乾いた舌を引き剥がすようにして、彼女に答えた。
「はじめまして。エファさん。お目にかかれて光栄です」
「この駅、私がいた時より広くなったわ。お仕事、大変でしょう?」
監査員が朗らかに笑うたびに、少しずつ駅員の緊張が高まる。監査員は、懐かしそうに吹き抜けを見上げていた目、深い青い、底がないような目で、駅員にほほえみかけた。
「さあ、お話、しましょうか」
そう言うと、彼女は駅員を先導し、勝手知ったる足取りで、駅係員控室へと向かった。駅員は、慌てて彼女を追う。事務所を横切り、医務室に入って、監査員は元駅員の眠る寝台のそば、先程まで駅員が座っていた椅子に腰を下ろした。駅員は困惑しながら、彼女のそばに立った。
「トランシーバ、貸していただけるかしら」
駅員は、胸元から外したトランシーバを差し出した。しばらく見つめてから、彼女は駅長へと発信する。
「お久しぶりです。駅長」
――よく戻ったね。元気そうで何よりだよ、エファ。
「今朝の本部への電話によると、エッダがあなたのお世話をしていないようですが」
――その件だが、私は何ともないよ。訂正の連絡もしたんだがね。
「そうですか。何ともないんですね。それで、エッダの件は、どうなりました?」
黙って聞いていた駅員は、また頭に血が上るのを感じた。口を挟まないように自制して、二人の会話を見守る。
――エーレからそちらへ、医師の派遣を電話で要請したはずだが、取り合ってもらえなかったようだよ。
「あら。それは、私まで伝わっておりませんでした。お詫びいたしますわ」
――あいかわらずだね。エッダの手当てには、Y路鉄道の医師が来てくれた。命に別条はないそうだ。
「わかりました。訂正の旨、エッダの旨、本部にも報告しておきます。それでは、特に問題はないということで、よろしいのですね」
――ああ。そうだ。
監査員は、トランシーバを手に、席を立った。駅員が受け取ろうと手を伸ばした時、思い出したように、彼女は駅長に訊ねた。
「エッダが復帰するまでの間、あなたのお世話は、こちらの――エーレさんが?」
――そのように考えている。
「それでしたら、エッダを本部へ連れて帰ってもよろしいですね」
――いや、こちらで面倒を見るつもりだ。
「いいえ、それには及びません」
――傷が塞がり次第、すぐに復帰させたいのだが。
「お手間は取らせませんわ。駅長」
駅員は背筋が凍った。自身にも覚えのある、話の流れだった。駅長の声にも、隠しきれない緊張が覗いていた。監査員は、二人の様子には気にも留めず、話を続けた。
「エッダは手首から血を流していたとのことですが、あの部屋でこれほどの怪我を負うとは、到底、考えられません。自殺未遂だったのでしょう? それならば、本部で詳しく事情を聞かなければなりません。今日からの、駅長、あなたのお世話は、こちらのエーレさんにお願いするとして、エッダは本部に連れて帰ります。本部へは私から連絡しておきましたので、明日の朝八時の列車で、彼女を迎えにまいります」
――やけに強硬だね。
「監査員の判断です。駅長。本来ならば、あなたが本部に要請するべきことではありませんか? 自殺未遂をするほど不安定な職員を、自身の世話のために手元に置くなど。8番鉄道の駅長としては、考えられません。しかも、その職員には、どうやら契約違反の疑いがある……。私は、エッダをかばいにきたわけではありませんの」
――何とでも言えばいいが、とにかく、エッダを連れて帰られては困る。一から説明しなければならない新しい職員より、彼女の方が、この駅にとっては価値がある。
駅員は、胸の内で何かが焦げているような気がした。よくよく考えると、自分が要らぬことを口走ったために、このような事態になってしまったのだった。駅長は今、何とかしてその収拾をつけようとしている。焦りか、憤りか、心の底へ沈めたはずの恐怖か、わからないまま、駅長の努力を台無しにしないように黙り、祈りながら二人の会話に聞き入っていた。エファの横顔には、決して揺らぐことのない余裕と権力が、朗らかさの奥に垣間見える。
「あいかわらずですね。駅長。では、監査員の権限で、決めてしまいましょう。今日の午後以降、あなたのお世話に手が回らないようでしたら、ご一報ください。代理の者を出します。エッダは本部へ帰還させます。契約違反にかかわらず、場合によっては廃棄処分となりますが、ご了承のほど」
――エファ……!
「ごきげんよう、駅長」
放るように駅員にトランシーバを返して、監査員は扉へと向かう。駅員は、もはや何も考えられないまま、彼女の腕に縋りついた。
「待ってください、お願いします! 廃棄処分だけは! どうか、お願い……!」
足を止めた監査員は、夜の窓のような目で駅員を見つめた。底知れない深淵の暗がりから、駅員の目を通して脳みそを見透かすように、静かな目を向ける。
「まだ、廃棄処分と決まったわけではないわ。あなたとエッダは違うわ、エーレ」
「本当ですか? エッダさんを、ちゃんと帰してくださいますか?」
監査員は、扉の取っ手へ伸ばしかけた手を、駅員の、髪の短い頭へと置いた。
「それとも、期待しているのかしら? 駅長を独り占めしていた彼女が、廃棄処分になることを。あなた、見たのでしょう? あのプレス機を」
囁くように、蕩けるような声で訊ねながら、駅員の髪をかき分けて、頭皮の古傷を指でなぞる。プレス機に、髪を巻きこまれてできた傷。もう髪は生えてこないと思われたほど、広範囲に渡って毛根や頭皮が傷ついた場所。その後、手当てをしてくれた誰かが、憐れに思ってか手を尽くしてくれたものの、もう二度と、髪を伸ばすことはできない。
駅員は、蘇った記憶に戦慄し、息ができなくなるのを感じながら、無我夢中で監査員を見つめ返した。
「僕も、あなたとは違います。あなたが、エッダさんをプレス機にかけたくてたまらないことは、よくわかりました」
めまいがして、視界が暗く塗りつぶされる。駅員は、監査員の腕の感触だけを頼りに、彼女のいるあたりを見上げた。
「エッダさんを、連れていかないでください……」
駅員の手に、冷たい手が添えられる。監査員の腕を掴んだ手が、優しく、引き離される。
「そのためには、何が必要かしら。わかるなら、あなたの望みを聞きましょう」
徐々にめまいが去っていく視界で、駅員は監査員を見上げた。彼女は、真意の読めないほほえみを駅員に向けると、扉を開け、颯爽と医務室を去っていく。閉まった扉を、駅員は茫然と見つめた。
しん、と静まりかえった医務室に、トランシーバから、駅長のため息が響いた。
――あいかわらずだな。彼女は。
「駅長……本当にあの方が、エファさんなのですか?」
――そうだよ。彼女が初めてここへ来たのは、十年前。本部の事務員として引き抜かれてから、八年になるかね。監査員とは、出世したものだ。
医務室の隅に並べてあった手近な椅子に、駅員は力なく腰を下ろした。駅員自身、ここへ来たばかりの頃は、監査員エファや元駅員エッダと、よく名前を間違われた。駅長は、彼女たちについて話すことはなく、駅員も訊ねることはしなかった。だが、エファという名前がエッダを悩ませていた以上、駅員も、知らないでいるわけにはいかなかった。
「駅長。エファさんと何か、あったんですか?」
再び、駅長のため息が聞こえた。しばらくして、疲れた声で、返事があった。
――彼女は、君と同じく、養成施設を卒業してすぐ、ここへ配属された。君もそうだったように、当時、十五歳だったか。この駅が、彼女が初めて知る、外の世界だったんだ。まだ、視野が広いとはとても言えない年頃だった。つまり……。
駅長が言いよどんだ続きは、駅員にも想像がついた。
「つまり、エファさんは……駅長に執着した、ということですね」
――そうだね。君はまだ若いのだから、と言い聞かせたんだ。私はもう、おじいさんだからね。彼女は、もっと外の世界を見て、多くの人に出会うべきだった。そのうち彼女は落ち着き、優秀さを本部に買われて、事務員となった。そして、エッダが配属された。その後もエファは、事務員としてここへ来ることはあったが、仕事と結婚したんだと、しばしば口にしていたよ。やはり……彼女は心のどこかで、私を怨んでいるのかもしれない。私は、彼女の努力ではどうにもならないことを盾に、拒絶してしまった。
「駅長は、そのことを後悔されているのですか? だから、僕たちの名前を?」
駅長の、消耗したような小さな笑い声が聞こえた。
――自分の対応がまずかったことについては、後悔はある。そうはいっても、もう十年になるのだし、彼女も、この駅を巣立った後、大人になったのだから。今では分別もあるだろう。私の対応の意味を、理解できるはずだ。
「では、なぜ名前をお間違えに?」
――名前を間違えるのは、私の欠陥だよ。昔からそうだった。努力してはいるが、人の名前を覚えることに、かなりの時間がかかる。君は気にしないでいてくれるが……エッダを、あれほどにまで悩ませてしまっていたことに、私は気づけなかった。そう考えれば、今のこの状況も、私の自業自得だ。君たちには、申し訳ないことをしていた。
駅長は、言葉を切った。部屋に降りた静寂の中、遠く、十一時の鐘が聞こえる。
――さあ、私たちも仕事に戻ろう。とんだ邪魔が入ったね。
いつも通りの口調で駅長に促され、駅員は医務室を出た。駅係員控室を出ると、客は決して乗車することのできない折り返しの車両へ、ただ一人、エファが乗りこむのが見えた。駅員は唇を噛み、彼女の涼しげな後ろ姿を見送った。
二十二時の鐘が鳴り、一番線に列車が到着した。中央広場から人がはけてしまうと、一番線に立っていた駅員に、駅長からの無線通信が入る。
――エーレ。もう休んでおくれ。今日は大変だっただろう。
「お困りのお客様は、いらっしゃいませんか?」
――大丈夫だ。後は、私の方で対応するよ。
「わかりました。……駅長」
――何だい?
拳を握りしめて、駅員は口を開いた。
「申し訳ございませんでした、駅長。僕が余計なことをしなければ、あんなことにはなりませんでした」
――ずいぶんと気にしているね。地下墓地のことを仄めかしたのは私だし、君に駅の真相を知らせなかったのは、鉄道の指示だ。君は悪くないよ。
「ですが、エッダさんが……」
――エファは、エッダを廃棄処分にはしないよ。おそらく、人質として連れていくのだろう。彼女にとっては、8番鉄道のため、この駅が存続さえすればいい。彼らが期待するよりは長く続かないことに、ようやく気がついたわけだし、そろそろ次の駅長を探す気になっただろう。私たちは、それまでの辛抱だ。
駅員は、望んだことだというのに、胸が痛むのを抑えられなかった。
「では……駅長はもう少し、ここにいてくださるんですね」
――予定を少し、先延ばしにするだけだがね。然るべき時、君に頼むことには変わりはないよ。内面の荒廃は、私自身にも、もう止めることはできない。駅がいつまでもつかは私にもわからないが、今ばかりは、あの忌々しい生命維持装置に感謝するしよう。当面、駅の存続に支障がないとわかれば、エファも納得するだろう。
駅員は、帽子を取った。
「それでは……お先に、失礼いたします」
――ああ。おやすみ、エーレ。
駅員は更衣室で私服に着替えると、引き返して医務室に立ち寄った。医務室では、数時間前に意識が戻った元駅員が、大きな、二つ折り判ほどの大きさの、赤い革張りの本を開いている。駅員に気がついた彼女は、弱々しい、戸惑ったような微笑を見せた。
「もう、そんな時間ね」
「はい。エッダさんも、そろそろお休みに」
「……そうね」
彼女は、傷のない片手で本を閉じた。四隅に鋲が打ってある表紙が、重たげな音を立てる。地下のあの部屋にあった本で、意識が戻ってからの彼女は、寝台の上に体を起こして、いつまでも飽かずにこの本を眺めているのだった。駅員は、置き忘れたバケツを取りにあの部屋に戻った際、この本を取るために、彼女の部屋も訪れた。その際、開きっぱなしだった本の内容を、ちらと目にしていた。ほんの数ページ分だけ、白黒の写真が収められている。駅長、エッダやエファ、その他の同じ顔をした駅員たち、駅員の知らない女性、駅長の友人らしい壮年の男性たち、ミロシュやマロシュと瓜二つの男性たち、カルメンやカンデラと瓜二つの女性たちが、笑顔で写っていた。
止めなければ、元駅員は何度も、何度も、最後のページから折り返して、際限なく写真を眺め続ける。駅員は、元駅員の膝の上から本を手に取り、枕元に寄せたテーブルへと移した。表紙の縁や背表紙に突き出たバンドは革が擦り切れ、本文に用いられている厚紙は、どこもなめされたように柔らかい。テーブルに置かれた本を、元駅員はまだ目で追っている。手当ての際、少し輸血されたようだが、顔色はまだ優れない。
「何か、召し上がりますか?」
元駅員は、黙って首を横に振った。
「……お水をいただけるかしら」
アルバムへ目を落としたまま、掠れた声で、ぽつりと言う。駅員は、席を立った。
まだ温かい、作り置きの白湯をポットに注ぎ、カップとともに運ぶ。元駅員は、傷のない手で受け取った。再び腰を下ろした駅員を、元駅員はカップの縁越しに見つめる。
「放っておいてくれたら、よかったのよ」
「それはできません」
「遅かれ早かれ、私は廃棄処分になるもの。契約違反でもあるからね。今、助けてくれたって、どうせ無駄になるのに」
駅員は、下ろされたままの彼女の片手を見た。縦に長い傷のため、手首から肘のあたりまで包帯が巻かれている。青白い肌の上の包帯、青い生地の、ゆったりとしたパジャマ。夕方の休憩時間、駅員は、渋る彼女を何とか宥めて、体じゅうに付いて乾いた血を拭って清めた。その際に、医務室の備品である替えの衣服を着せたのだった。
「どうすれば、廃棄処分を免れることができるでしょうか?」
「できないわ。私の都合で、駅長の健康を害したのよ。駅の存続を危険に晒したの。あのプレス機の世話になって然るべき罪を、犯したはずよ」
脳裏に、廃棄処分場の記憶が蘇る。鼻と唇と喉と咥内に今でも染みついている、血と脂と臓物のにおい。挽き潰される肉と骨、命の断末魔。不平をこぼす術を与えられなかった、働き者の機械の声。駅員は、頭を振って、記憶を追い散らそうとする。
「何も進んで、廃棄処分になることはありません。エッダさん。自殺という選択肢は……まだ、取っておくべきです」
元駅員は、カップの中の白湯に目を落とす。
「駅長のお考えでは、エッダさんは、人質ではないかと。駅長が、かばうほどのあなたです。本部も、みすみす廃棄処分になどしないでしょう」
「それならなおさら、私は死んでおく方がいいわね」
「そんなことはありません!」
駅員は声を荒げた。フラッシュバックが思考を蝕んでいく。横たえられたベルトコンベアの肌ざわり、焼けたようなゴムのにおいと、染みついた血のにおい。がたがたと機械に揺られて向かう先で、円筒形の鉄の塊が回転していた。その先には、ごみ箱という形の棺が口を開いている。頭蓋より一足早く、長い髪が巻きこまれ、ゴムと鉄に挟まれて引き寄せられた髪が、痛みとともに皮膚ごと引き抜かれる。恐怖と痛みのあまりに発することができなかった、叫ぼうとした、祈りの言葉が、内側から胸を突く。駅員は、目が回りそうなほど勢いをつけて、頭を振った。
「……機械に罪はないけれど、あんなものは、なくなってしまえばいいんです! わざわざエッダさんが行くことなんか、ないんです!」
分厚いガーゼと包帯に、幾重にも守られた元駅員の傷口のあたりに、駅員はてのひらを振りおろした。元駅員が、驚きと痛みに小さな悲鳴を上げる。駅員は、彼女の顔を両手で挟み、覗きこんで、言葉を続けた。
「痛いでしょうが!……あなたが自殺を図ったって、どうせあなたの体は、最後の最後まで生きようと、しぶとく抵抗するでしょうとも。頭と違って体には、知ったことじゃないですから。エッダさんの意思なんて、お構いなしです。本部だってそうです。上位規格外も欠陥品も関係ない、意に沿わなければ彼らはみんな殺します。僕たちの意思なんて、廃棄処分で出る生ごみほども価値がありません。だから……」
過去の残滓が遠ざかり、目の前の元駅員に、目の焦点が合う。そして、彼女を透かして、駅長を見る。駅員は、元駅員の頬から、彼女の肩へと手を下ろした。
「まだ少しでも、元気があるなら……死ぬ時と場所を、進んで選ぶ時ではありません」
元駅員は、疲労と諦念の色濃い顔で、駅員を見つめる。
「ご立派なことを、言うようになったのね。私と五つも違うのに」
「浅はかなことを言っているとは、自分でもわかっています。正直なところを言えば……ただ、死に急がないでほしいだけです。それに、あなたに罪の意識があってなお、いずれ自殺をするおつもりなら、せめて……その体と命、駅長のために、使い潰してください」
元駅員から体を離し、駅員は椅子に座りなおす。元駅員に話したことを、みずからの身にもあてはめる。漠然とした決意と、一つの案が、徐々に形をとっていく。
「私にできることは、もうないわよ」
「いいえ。あります」
元駅員は、探るように駅員を見つめた。彼女の不安を見つめるほど、駅員の胸に、これから歩むべき道が明確な姿をもって開けて伸びる。駅員の表情から、決意が固まっていく様を見てとり、元駅員は目を離した。
「……まあ、いいわ。しばらくは本部で人質になるけれど、廃棄処分にならないうちは、自殺はするな、ということね」
「はい。お願いできますか」
「これが、駅長への償いの足しになるならね。あなた、どうするつもりなの」
「一度は、鉄道に捨てられた身です。拾って育ててくださった駅長、僕を見つけてくださったあなたのために、僕は僕を、使い潰すつもりです。僕みたいな欠陥品でも、生ごみになる前に、まだできることがあるはずですから」
「つまり?」
「僕は、駅を継ぐ準備をします」
元駅員は、小さく首を振り、どこへともなく目を落とした。
「どうして、あなたが? 駅長の代わりが、いずれ来るでしょう?」
「駅長も、それまでは頑張ってくださるとのことです。でも……来なかった場合、どうするのです? エファさんや本部が、代わりの駅長が見つからないと言って、このままずっと、駅長を引き留め続けたら? 駅の引き継ぎには、多少とも時間がかかるのでしょう?」
駅員は、喉にしがみつくように引っかかる言葉を、無理やり吐きだした。言いたくない言葉だった。駅員自身が望むこともまた、鉄道が駅長に強いるであろう運命と、同じ場所にあった。しかし駅員は、叶えてさしあげたいと願う駅長の望みに、躍起になって自分の覚悟を沿わせる。元駅員の表情から、心情を窺う。彼女も、本当はわかっているのだろう。得体の知れない案に対してではなく、その現実味のなさに対して、彼女は不安げに顔を曇らせている。
「新しい駅長が来たとしても、駅の業務が滞れば、エッダさんは契約違反で廃棄処分になります。駅長の体は延命されても、内面が荒廃しきってしまえば、駅は機能しなくなります。本部は、駅長をも廃棄処分とするでしょう。あるいは……。そうならないように、僕は備えようと思うのです。次の駅長に、問題なく引き継ぎが行われれば、それが一番とは思いますが」
「本当は何のために、あなたは進んで保険になろうというの?」
「駅の業務に滞りなく、引き継ぎさえできれば、エッダさんと本部との契約も、無意味になります。そうして、やっと……駅長に、望む時と場所を、選ばせてさしあげることができます。……駅長は、あなたのために、ご自分の望みを後回しにされました」
元駅員は、口を閉ざした。悔恨と思案に満ちた顔を、自身で傷つけた手首に向ける。黙りこんだ元駅員を残して、駅員は席を立った。
「おやすみなさい。エッダさん」
駅員は、後ろ手で医務室の扉を閉めた。忘れていた寝不足と疲れが、体を重く締めつける。事務所から更衣室に抜け、乾いた目を瞬かせながら、寮へと向かった。
自室へ戻ると、重い体を引きずるようにして、浴室へ直行した。衣服を脱ぎ落とし、熱いシャワーを浴びる。石鹸を手に取ると、まだ残っている血の跡を探して、丹念に洗い落としていく。熱い湯で泡を流しても、それでもどこかに残っているような気がして、駅員は時間をかけて、繰り返し体を洗い続けた。クローンなのだから同じ血なのだと頭ではわかっていても、やはり他人の血は他人のものだった。元駅員と同じ白い肌が、長く湯に洗われて火照り、桃色に色づいていく。
血まみれだった元駅員の体を清めた際に見た、女性の体が脳裏をよぎる。自分も、手にするはずだった体。なすすべなく奪われたものに対して駅員は執着はなく、素直に諦めがついていたが、中途半端な自分の体に対しては、もう少しくらい、どうにかならなかったのかという思いがあった。成熟して丸みを帯びたとはいえない骨格、男の子とはいえない程度に、手遅れでほんのわずかに膨らんだ胸、後天的に生殖器を抜き取られた下腹部。
過渡期に置かれて、自分と同じ境遇にある同胞たちが多くいるはずだが、彼女たちは今、どのように感じているのか、駅員は時おり気になった。しかし、駅を離れることはなく、それを知る術もない。当初、急に太ったり、心身の調子が狂ったりと、起こったことは業務の邪魔ばかり――きっとそれぞれに、思うところはあるだろう。中には、性そのものから解放されて、喜んだ者がいたかもしれない。
体を洗うことに、そこそこに区切りをつけて、駅員はシャワーの湯を止めた。バスタブの掃除を簡単に済ませて、水を滴らせながら、バスタオルをかぶって浴室を出る。考えなければならないことは全て明日に後回しにしたくなるほど、もう何も考えられないほど疲れきって、駅員はまだ濡れた体を部屋着に捩じこみ、寝台に潜りこんだ。閉じかけた目に、夜の中庭が見える。月明かりの射す、静かな……。
蛍光灯の照明が眩しい、廃棄処分場の光景。三年間、夢と記憶に見続けた光景だった。自分が生まれ、育ち、暮らしていた場所の地下に、廃棄処分場はあった。見慣れない場所を、黒い制服の、見知らぬ人の後について、歩いてきた。硬質で涼しげな、明るい白い光の溢れる、白色に統一された、小さな、四角い空間。
部屋の中央に、プレス機があった。五歩ほどで渡りきることのできる小さなベルトコンベアのラインと、その先で休まず回転する、円筒形の鉄の塊。さらにその向こうには、大人を三、四人ほど詰められそうな、プラスティック製の大きな箱が鎮座している。プレス機の向こうにある扉は、大きなごみ箱に溜まった生ごみを廃棄するための搬出口のようだった。広くない部屋には、焼けたようなゴムのにおいと、血と脂と臓物のにおいが充満している。
ここまで案内し、監視してきた職員に促されて、駅員はベルトコンベアの端に横たわった。機械の振動が、全身を震わせる。体の下敷きになった長い髪を、職員が慌てて横から手を伸ばし、頭の上へと広げた。恐怖にせばまる視界に映る天井は、あまりに速く行ってしまうのに、プレス機に到達するまでの時間は、ことさらに緩慢で、狂乱したくなるほど長かった。
効率的に、不良品という名の人間を処分するために、なぜ、ギロチンでも、絞首台でも、銃殺でもなく、プレス機なのか。駅員は、口元を両手で覆いながら、その答えがわかったような気がした。生ごみでしかないと、告げられているのだ。
案内役の職員は、ラインの裾で待機している。駅員の長い髪の先が、ベルトコンベアのゴムとプレス機の回転に巻きこまれはじめた。痛みと、もう逃げだせない恐怖に、眼尻に涙が浮かんだ。首から頭をもぎ取るような力で、髪が巻きこまれていく。湿り気のある音を立てて、一部の髪が頭皮ごと引き抜かれた。間もなく、熱さも痛みもわからない頭に、硬い鉄が触れたような気がした。満身の憎悪をこめて、誰にでもなく、祈る。
ベルトコンベアが止まっていることに気がついてからは、靄の中を泳いでいるかのようだった。案内役は、黒い制服の職員から苔色の制服に身を包んだ女性へと交代し、手を引かれて医務室へと連れていかれた。血が顔に流れ、目に入った駅員は、彼女の手に導かれるままに、痛みに朦朧としながら歩くことしかできなかった。
「遅くなって、ごめんなさい。でも、間に合ってよかったわ」
部分的に頭皮を剥がれて出血する頭に、真新しいようなきれいなハンカチを宛がわれる。ふと、清涼な花の香りが鼻先をよぎった。香水を名札代わりにする者が多いこの場所にありながら、駅員の知らない人だった。激烈な痛みとともに、自分がまだ生きていることを思い出した。医務室に所属する、多忙な医師たちの間で何度か盥回しにされ、ようやく誰かが、駅員を引き受けてくれた。手当てを受けている間、うわごとを言う駅員の手を、花の香りをまとったあの女性が、しっかりと握っていてくれた。
「あなたは、もう一度、駅で働くのよ。頑張りなさいね。エーレ」
名前も告げずに、彼女は医務室を去ってしまった。医務室の一角、そして駅員の衣服に残った彼女の、ある花の香りも、徐々に薄れていった。傷の手当てだけでなく、失った皮膚の移植や人工の毛髪なども気遣った処置をしてくれた人も去り、駅員は気を失って眠っていた。しばらくして、枕元に誰かがやってきたのを、夢うつつに感じる。もう一度、と願ったあの花の香りが漂ってくることはなく、誰かの声が、別の誰かに言う。
「この子にも、お願い」
「彼女は、百二十七期生です。あなたが決められた通りならば、このまま……」
「念には念を。そうでなければ、意味がないの。出戻ってきたのが、運の尽きだわ」
彼らの話を聞いているうちに、駅員はまた、意識を失った。夜半に目が覚めた時には、すでに自身の体に、取り返しのつかない変化が起きていたことを、駅員は誰に告げられるともなく悟った。その後、包帯も取れないうちに、駅員はカタコンベ駅へと送られる。そしてようやく、命の恩人たちの名を、知らされたのだった。
「……!」
駅員は、喘ぐように大きく息を吸った。カタコンベ駅にある、自室の寝台。窓の外にある中庭から、静謐な、青白い月明かりが射しこんでいる。あの記憶と夢のために、深夜に目を覚ますことは、珍しくはなかった。あの夢が、死の恐怖の場面だけで終わらないことが、駅員にとっては唯一の救いだった。
冷えた汗を拭いながら、寝台から滑りおりる。駅員は疲れた息をつきながら、重い足取りで小さな台所へと向かった。小さな冷蔵庫の中から水差しを取り出し、冷たい水を飲む。熱く火照って膿んだかのような体を、冷たい水が洗う感覚に身を任せる。寝台に戻り、静かな中庭を見つめた。
まだ夜更けのうちに、駅員は軽く食事を済ませると、身支度をして、タオルと洗面器を手に部屋を出た。更衣室で制服に着替えると、いつも事務所の隅にあるモップと雑巾とバケツを取りに向かったが、予備のものしか残っていない。首を捻りながら、予備の掃除用具を持って、駅係員控室を出た。午前三時過ぎ。一番線と中央広場の人影はまばらで、深夜ののどかな静寂が駅に降りていた。駅員の胸元で、トランシーバが音を立てる。
――おはよう、エーレ。ずいぶんと早いが、休まなくてもいいのかね。
「おはようございます、駅長。したいことが少し、ありまして。……駅長。一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
――何だね?
駅員は、七番線へと向かいはじめた。暗い柱廊に並ぶ列柱に沿って歩き、燭台の火を足しながら歩く。
「駅長が、小部屋をこの駅に提供した時、どれほどの期間が必要でしたか?」
――そうだね。一番線と二番線だけだった当初は、半年だった。他は、当初は予定していなかったホームの増築に手間取り、全線で四、五年くらいになったか。……本気で、この駅を継ごうと考えているのかい?
「はい。もちろん、保険として、ですが。僕には……気のせいだといいのですが、エファさんは、新しい駅長は探さないだろうと思うのです。また、たとえこの駅が機能しなくなったとしても、駅長を解任しない、とも」
――まあ、その可能性もなくはない。彼女にとっては、怨みを晴らすいい機会だろう。
駅員は、マッチの火を吹き消した。柱廊も出入口に近い。使用済みの軸ばかり入った箱へと、最後の一本を仕舞った。
「いくつかある可能性の中で、おそらく最も駅長を困らせるのは、復讐ではなく、むしろ、エファさんが今でもまだ、駅長に執着しているという可能性です」
トランシーバの向こうで、駅長が疲れたように小さく笑うのが聞こえた。
――それは……考えたくないね。
柱廊の先、庭園のむこうに、夜の荒野が広がる。駅の照明と月明かりに青く照らされた、乾いた大地は、海の底にも見える。駅員は、ホームのある方向を外れて、庭園に向かう。
「僕も、本当はエファさんに賛成です。駅長には、ずっとここにいていただきたい。エファさんも、エッダさんも、僕も、鉄道も、お客様のためにも……駅長に、ここにいてほしいと願っています。ですが、駅長は、そうではないのですね。だから、考えてみたんです。鉄道とお客様にとっては、駅が機能すれば問題はありません。問題は、エファさんです」
――彼女にとっても、駅の存続が問題だろう?
「そうだと思います。しかし、それだけでなかった場合に、備えたいのです」
胸壁に手をかけて、立ち止まる。
「駅長は、なぜ、駅員から性別がなくなったか、ご存じですか? 五年前から本部で検討され、三年前に実現した、あの件です」
――単に、駅員に性別は必要ない、という結論だっただろう。
「そうです。他の職員と関係を持たないよう、とのことでした。ただ、僕たち駅員の養成施設では、もう少しだけ、尾ひれがついていました。本部のある事務員が、強硬に進めている話だということ。彼女は元駅員で、ある職員に恋をしたらしい、ということ。彼を手に入れる計画のため、彼女は事務員へ転向した。そして、どの駅員にも彼を奪われないよう、配属先がまだ決まっていない、これから外へ出る駅員から、性を奪うのだということ。駅員は通常、配属先が変わることはありませんから」
駅長は黙りこんでいる。
「もちろん、噂や憶測の域を出ません。ただ、可能性の一つではありますから、何度も申し上げているように、備えだけは、と思うのです。駅長、いずれ駅が機能しなくなるとお思いなら、その後はいったいどうなってしまうのです? もし、エファさんが今でも駅長を愛していたら、何らかの名目と彼女の権限であなたの身柄を引き受け、手元に置くという場合も、考えられるのではありませんか?」
――それは、さすがに考え過ぎではないのかい?
「そうですね。エファさんが新しい駅長を見つけてきたなら、ただの杞憂だったということで済みます。そのために僕も、駅が機能するための保険となろうと思ったのです。……僕にできることなら、少しでも、駅長とエッダさんを、守りたいのです」
駅員は、胸壁によじのぼりはじめた。
「本当に、駅長が望んでおられるのなら。そして、駅長の望みを叶えられるのが、僕しかいないのなら……あなたの望みを叶えようと思うのです」
胸壁から下り、荒野に出る。胸壁を境にトランシーバの通信は切れてしまい、駅長からの返事を聞くことはできなかった。駅員は荒野へと少し歩き、引き返して、荒廃した庭園へと足を踏みいれた。
地下への階段を降り、鋼鉄の扉を開ける。眩しいほどの蛍光灯の明かりとともに、思いがけない騒音が、静まりかえった通路へと溢れてきた。先日の壮絶な異臭は、清掃用の洗剤の匂いに取って代わられ、石鹸の香り、元駅員が纏う花の香りが、ほのかに漂ってきた。駅員は、目を瞬かせながら、清掃員と元駅員に声を投げた。
「お二人とも、どうして……?」
清掃員は、いくつかの掃除用具を部屋に持ちこんでおり、赤黒く乾いた血が広がる床にデッキブラシをかけている。元駅員は、医務室の洗面器とタオルを手に、駅長の体を清めていた。その背後には、事務所の掃除用具が立てかけてあった。清掃員が、長いデッキブラシの柄を持つ手を止めて、答えた。
「僕の仕事ですから。この人も、同じ考えなんでしょう」
元駅員には目もくれず、ぞんざいに指さすと、彼は掃除を再開した。撒かれた水と洗剤とともに、デッキブラシが陽気な音を立ててタイル張りの床を磨く。赤黒く汚れた水は、手術台の足元の排水口へと流れていた。清掃の邪魔にならない場所で、元駅員は、包帯の上にゴム手袋を着け、洗面器に汲んだ水でタオルを洗っている。
「エッダさん、具合はもう、いいのですか?」
元駅員は、困惑したような笑みを浮かべた。薄褐色に汚れたタオルを絞って立ちあがると、手術台のそばに戻った。駅長は横を向いて寝かされ、衣服の袖が捲りあげられている。駅員も手術台のそばに寄り、元駅員を見上げた。まだ顔色の優れない彼女は、駅長の腕を拭いながら、口を開いた。
「わかっているわ。許されないことをした。でも、できることも、その術もある限り……償わなければ、人ですらないでしょう?」
それきり口を噤み、彼女は血の気のない駅長の肌を清め続ける。駅員は上着を脱ぎ、白いシャツの袖を捲り、彼女に続いた。部屋の隅に備えつけられた水道で水を汲み、タオルを湿らせて、肌に刺しこまれた点滴の針や管に触らないよう、慎重に駅長の体を拭く。
駅長のシャツに手をかけた際、胸のポケットに何かが入っていることに駅員は気がついた。取り出してみると、小さな鍵だった。ひとまずポケットに仕舞う。
しばらくして、ためらいがちに、清掃員が口を開いた。
「髪とひげ、整えましょうか」
駅員と元駅員が、揃って手を止めて彼を見たので、清掃員は戸惑ったように駅長の方を見る。ちょうど、駅長の顔を拭いていた駅員は、脇へ避けて場所を空けた。
「洗面器、貸していただけますか」
「ぜひ、お願いします。でも、どこで身に着けられたのですか?」
駅員が少し濁った水の入った洗面器を差し出すと、彼は受け取って部屋の隅の水道に向かった。
「専門的に身に着けたわけではありませんが、仕事の一環ですので、人並みには」
石鹸で洗面器や手を洗い、駅長の頭の位置へと戻ってくる。
「エッダさん。お湯か、沸かせるものは、ここにありませんか」
「奥に、ポットがあるわ」
元駅員は、奥の部屋へと消えた。すぐに、電気ポットを手に戻ってくる。電源コードを部屋の隅のコンセントに挿し、木のテーブルに置く。洗面器を受け取ると、彼女はボタンを押して湯を注いだ。湯気を立てる洗面器を清掃員に手渡すと、彼女は、駅長の爪を切りに戻った。
「……よかった。こんなの、使ったことがない」
「Y路鉄道には、置いていないんですか?」
「ええ。いまだに、暖炉と薪ストーブです」
清掃員は洗面器に水を足して戻ると、いつも着けている、色褪せた黒の、着古した大きなエプロンの裏側から、理髪用らしい鋏や櫛、剃刀が仕舞われた革製の小さな鞄、柔らかそうな筆のようなものと、金属製の小さなカップを取り出した。
長く伸びた髪やひげを、鋏でざっくりと短く切る。湯に浸して絞った温かいタオルを、口元から顎にかけて乗せておく。駅長の頭をそっと動かして手術台から少し出し、石鹸で簡単に髪を洗う。すすいだ湯はそのまま床の排水口へ流し、タオルで軽く乾かすと、鋏と櫛で、髪を切りはじめた。
濡れた髪をおおかた切り終えた清掃員は、駅長の顔に乗せていたタオルを取ろうと手を伸ばし、手を引っこめた。考えこんだ様子のまま、ざっくりと短く切ったひげを、鋏でさらに短く整えていった。駅員は、何か迷っているらしい清掃員に訊ねた。
「どうかしましたか?」
「肖像画は毎日、見ていますけど……駅長がどのようにひげをお立てになるかわからないので、今は多めに残して、後でご希望を伺うことにします」
悔しそうな表情でそう言いながら、小さなカップで粉石鹸と湯を溶かし、柔らかなシェービングブラシで泡だてる。駅員と元駅員は手を止めて、清掃員の手元を見守った。クリームのような泡を塗られた頬や顎の下、首筋を、よく研がれた剃刀が、美しい軌道を描いて滑っていく。
やがて、息を詰めていた清掃員が駅長から手を離し、深く息をついた。駅長の顔を、何度もタオルで拭う。使っていた道具を手入れして、再びエプロンの裏へ仕舞いこむと、清掃員はいつも通りの仏頂面で、淡々と、床掃除に戻った。
駅員は、駅長の顔を覗きこんだ。丁寧に理髪された灰色の髪は、今はまだ湿ったまま、几帳面に撫でつけられている。ひげ剃りとともに丹念に拭われた肌には、肖像画より十年以上の年月を感じさせる皺が見える。彫りの深い目元、高くしっかりとした鼻梁は、やつれた顔に濃い影を落としていた。駅員は、洗ったばかりの指で、固く閉じられた、もう二度と開くことのない目蓋をなぞった。胸に痛みを感じるとともに、元駅員の心情に同調する。心の底にじわりと滲んだ、恐ろしく冷たい考えを、温かな未来への期待で相殺する。
駅員は、刃物を扱う清掃員に配慮して止めていたもろもろの作業を再開した。
肩を叩かれて、駅員は我に返った。石鹸の香りが、ふと鼻先をかすめる。
清掃員がいつもの仏頂面で、壁にかかった時計を指さした。四時半。彼の使っていた掃除用具は、すでに出入口の扉のそばにまとめられている。
「僕は、先に戻ります。失礼します」
そう言うと、彼は返事を待たずに、掃除用具を手に部屋を出ていった。駅員も出勤時間に遅れないよう、慌てて道具を片付けはじめた。
血と糞尿にまみれていた部屋の床は、清掃員が見違えるほどに磨きあげてしまった。長年の汚れの下から現れた白いタイルが、まだ濡れたまま蛍光灯の照明に輝いている。駅長の体は駅員と元駅員で拭き清めて、傷は医者に見せるため、ひとまずガーゼを宛がった。駅長には、今は医務室の備品のパジャマへ着替えを済ませ、元駅員の部屋に仕舞われてあった毛布をかけている。手術台も、三人がかりで駅長の体を移動し、きれいに磨いた。
洗面器やタオルを洗い、清掃員が来ていたために使わなかった、二人分のモップや雑巾やバケツを抱える。出口で部屋を振り返ると、元駅員が、やはり駅長を見つめていた。
「エッダさん。後で、駅長を医務室へ運ぶのを、手伝っていただけますか?」
元駅員は、駅長の顔へ目を落としたまま、黙ってうなずいた。その拍子に、目元から涙が落ちる。駅員は何も言えず、手いっぱいの掃除用具たちが立てる騒々しい音とともに、部屋を後にした。
夜明けの近い、薄青い空気の中、廃墟を走る。いつものカタコンベ駅へと戻ると、人気のない中央広場を横切り、駅係員控室に駆けこんだ。四時五十五分。事務所の隅の定位置に掃除用具を戻し、医務室の備品は医務室へ、自前の洗面器とタオルは更衣室のロッカーへと仕舞う。
息を切らせて、再び中央広場へ戻ると同時に、五時を報せる鐘が鳴り響いた。駅係員控室の扉からほぼ正面に見える、一番線の線路の頭上を渡る巨大なアーチをくぐって、銀色の電気機関車がホームへと入ってくる。開いた扉からあふれてくる人々の雑踏の中で、駅員の胸元のトランシーバから、駅長の声が届いた。
――手間をかけたね。エーレ。
心底、申し訳なさそうな沈んだ声で、駅長が言う。
「いいえ。僕一人では、とても。エッダさんとマヌさんのおかげで、助かりました」
――いや……本当に、ありがとう。
駅員の目の前を、大きな波となって人が流れていく。
客の案内に区切りがつき、中央広場や各ホームから人気がなくなると、駅員は、駅係員控室に向かった。医務室から担架を出してきて、予備の布を張る。事務所からは、重い物を運ぶ際に使う台車を持ち出し、四苦八苦しながら押していく。午前中は、二番線、三番線、四番線のあたりにいる清掃員を探し、助力を乞う。
元駅員は、地下の部屋にいた。テーブルのいつもの席に座り、傷のない手でぼんやりと頬杖をついて、駅長を見つめている。けたたましい音をたてて、担架や台車とともに部屋へやって来た駅員と清掃員に気がつくと、彼女は席を立った。
三人で苦労しながら、駅長を担架に乗せて固定し、彼の体から各種の管が抜けないよう慎重に、生命維持装置を台車に乗せる。担架、台車、点滴スタンドとともに、難関である地下から地階への階段を乗り越えた時、三人とも汗だくで、肩で息をする始末だった。次の電車が来ないうちに、いつもの駅へ、そして医務室へと戻る。
医務室の寝台に駅長を横たえて、三人はようやく安堵の息をついた。
「お二人とも、手を貸してくださって、ありがとうございました」
荒い息で、駅員は頭を下げた。清掃員はいつもの使い古したタオルで汗を拭い、元駅員は乱れた髪を結いなおしている。時計を見ると、六時前。
「それでは、僕はこれで失礼します」
「はい。無理を聞いてくださって、ありがとうございました」
清掃員が医務室を去る。駅員が元駅員を振り返ると、彼女はやはり、駅長の寝台のそばに立って彼を見ていた。
「エッダさん。朝食は、食堂で召し上がりませんか?」
「いいえ。食欲がないの。私、部屋を片付けてくるわ。八時には、こちらへ戻るから」
答えに困っている駅員に、彼女は少し苦笑する。
「ちゃんと戻るわ」
立ち尽くす駅員の目の前を横切り、彼女は扉に向かう。
「やっぱり……エッダさんが、他の駅員と代わりがきくなんてこと、ないと思います」
足を止めて振り返った元駅員の、表情のない顔を、駅員は見つめた。
「駅長、おっしゃっていました。新しい駅員がここへ来るとしても、一から説明しなければならない者より、あなたの方が、この駅にとってはよほど価値があると」
「それも、時間が解決するわ。私でなければならない必要は、ないのだから。命と心と、経験あるいは記憶は自分だけのものと、私たちは言っていたものだけれど……結局、最後に手元に残るのは、命だけ。経験も記憶も、その上に育つ心も、誰かに穴埋めされ得るものだし、命だってそう。……でも、慰めてくれて、ありがとう。エーレ。今のは、皮肉じゃないわよ」
元駅員は、扉に手をかける。駅員は、急いで彼女に駆け寄った。
「エッダさん。香水か何か、着けていらっしゃいますか?」
袖を掴み、息せききって訊ねた駅員に、元駅員は怪訝そうに首を傾げる。唐突な質問への困惑で黙ってしまった彼女を、駅員は見上げた。
「施設では、香りを身に着けることが流行っていましたけど……命を持つものなら、自分だけの匂いも持つといいます。エッダさんは、今――いえ、三年前も、何も着けていらっしゃいませんよね? 花の香りを……」
元駅員は、きょとんとした後、弱々しくほほえみ、駅員の頭を撫でた。
「あなたの、そういう優しいところ、好きよ。大事になさいね」
駅員の反応を見ることもなく、元駅員は開いた扉から医務室を去っていった。数多の駅員とともに、長い時間を過ごしてきた駅員エーレの記憶の限り、庶務員エッダだけが纏う花の香り、彼女の残り香が、医務室に留まった。彼女の言葉の真意を掴めないまま、駅員の耳に、六時を報せる鐘の音が届く。
八時が迫りつつあった。駅員は、いつものように、困っている客を案内し、遺失物を拾って過ごしていた。時計を見るたびに、ぎりぎりと締めつけられるように胃が痛む。七時四十五分。駅員は、七番線付近の庭園での遺失物拾いを中断し、一番線へと向かった。
中央広場につくと、八時の鐘とともに、一番線に列車が到着した。駅員が、駅係員控室の扉の前に立っていると、背後で開いた扉から、暗紫色の制服に着替えた元駅員が出てきた。不安も、恐怖も感じさせない平静な表情で、駅員の隣に立つ。列車の開いた扉から、ダムの放水口のような様で、客たちがホームに散らばっていった。
駅員に声をかけにくる客はおらず、徐々に人の波が治まり、中央広場から人影が消えていく。すでに人のいなくなった一番線のホームに、監査員エファと、彼女と同じ黒い制服の男性が降り立つ。監査員は駅員と元駅員に目を止めると、男性を先導してまっすぐに向かってきた。
「おはよう。エッダ、エーレ。こちらは、事務員のフロレンツ。監査員見習、というところかしら。エッダの意識が戻らなかった場合に、手を借りようと思ってね。でも、自分で歩けそうね」
監査員の隣に立った事務員が、小さく会釈をした。三十代にさしかかるかというほどの歳の頃で、陰のあるまなざしをした男性だった。寡黙そうで、監査員の言葉に言い足すこともない。榛色の髪と苔色の目。車掌や運転士である男性と、瓜二つの容貌だった。元運転士、あるいは元車掌のようだった。
「駅長の状態も、確認していくわ。駅長は、あの地下室かしら?」
「いえ、今は医務室です」
「ありがとう。では、お邪魔するわ。エッダは、ホームで待っていてくださるかしら」
「……わかりました」
元駅員は、駅員を振り返ることなく、一番線へと歩きはじめた。彼女の香りが遠ざかる。駅員は、毅然とした彼女の後ろ姿に、声を投げる。
「エッダさん。荷物は、どうされるのですか?」
何か思い出したように、彼女は足を止めた。少しだけ振り向く。
「私の持ち物は、何もないの。あのアルバムは、あなたに預けるわ」
それだけ言うと、再び前へ向きなおって歩きはじめ、一番線にあるベンチの一つに腰かけた。元駅員から目を離せない駅員は、監査員に肩を叩かれて促され、彼女たちに続いて医務室へと向かった。
駅長の眠る寝台を前に、監査員は口を開いた。
「エッダを信用しすぎたのは、こちらの怠慢であり、手落ちだったわ」
他人事そのものの、無感動な様子に、駅員はじりじりと頭に血が上るのを感じる。事務員は、静かにその場を見守っている。
「エファさん。駅長の健康管理のため、定期的な医師の派遣を、お願いしてもよろしいでしょうか。せめて、床ずれの傷の手当てだけでも」
「ごめんなさいね。生命維持装置が機能している以上、医師は派遣できないの。でも、彼にそれを頼もうと思って、来てもらったのよ」
「フロレンツさんが?」
「彼には、経験があるから。フロレンツ。駅長のこと、お願いできるかしら」
「……はい」
駅長の上へ、暗い目を落としている事務員は、監査員を見ることなく答えた。監査員は、駅員に向きなおった。
「答えは出たのかしら。エーレ」
「はい」
「聞きましょう。……フロレンツ、お願いね」
「わかりました」
監査員に続いて、駅員は医務室を出た。事務所に戻ると、彼女は事務机の一つに腰掛けた。椅子を勧められて、駅員も隣の机の椅子に腰を下ろした。
「エファさん。次期駅長の候補を、早急に探してください。万が一の時のために」
「もちろん、こちらでも探しているわ。ただ、条件が条件であるだけに、難しいことではあるのよ。私たち職員と違って、ここのような特殊な駅の駅長は、養成できないわ。候補の特性や都合と、駅の特性が適合する瞬間を、しらみつぶしのように探さなくてはならないの。私の方で努力はするけれど、この事情だけは、わかっておいてね」
「もし、候補が見つからないまま、この駅が機能しなくなってしまった場合、駅長はどうなるのでしょうか?」
監査員は、腿の上で組んだ指に、目を落とした。
「駅長は、こちらで引き受けるわ。ご家族が、今はもういらっしゃらないから」
「エファさんが、ですか?」
「そうだといいわね」
駅員は、彼女を見上げた。真意の読み取れない目を見つめる。
「エッダさんは、これから、どうなるのです?」
「本部で、自殺未遂に至る事情を聞きとりながら、彼女の心身の状態を検査するわ。その後は、昨日、お話したとおり。駅の引き継ぎが完了するまでに、この駅が機能しなくなった場合、彼女は契約違反。契約時の駅長の年齢や健康状態からすれば、彼は二十年以上、駅を保全することができたはず」
「そんな……二十年もあれば、何が起こってもおかしくはありません」
「そうよね。だから、契約時から三年は駅長の健康に配慮するという契約で、エッダは庶務員となっているの。駅長が無事に、健康に過ごす三年間は、彼女の命の三年間でもあるの。けれど、一度目の健診と更新を目前に、こんなことになってしまった。駅長自身は、問題はないとは言うけれど……客観的に見て、心身ともに健康が害されていることは、否定できないわ。彼の命、あるいはこの駅の機能が終わる時、それは彼女の命が終わる時でもあるということを、エッダは、よくよく言い聞かされているはずよ。彼女自身、言い逃れするつもりもなさそうだけれど、どのみち、廃棄処分は免れないでしょう」
「身体と内面の健康は、別なのではありませんか? 今、駅長の内面と駅の荒廃をとどめているのは、駅長ただお一人です」
「本部では、身体が健康で、さらに外界の刺激と影響を受けない環境にいる場合、内面は荒廃しないと考えているの。表沙汰にはできない状態とはいえ、エッダを信用して、定期的な監査を怠ったことは、私たちの責任だわ。だから今、急いで駅長候補を探している。それでも、エッダが駅長に対して果たさなかった責任が、消えるわけではないのよ。さて、あなたは、その彼女を守りたいようだけれど、いい考えでも浮かんだのかしら」
駅員は、彼女を前にして委縮する心を奮い立たせて、口を開いた。
「その件なのですが……」
「断っておくけれど、五年も待たないわよ。駅長と本部とで、手探りでこの駅を完成させた時と今とでは、事情が違う。それに、こちらで候補を探すにしても、もっと早く済むと思われるからね」
監査員を見上げると、意地悪なのか、ただ率直なのか、どちらともとれない笑みを浮かべている。愕然としている駅員に、平然と小首を傾げる。
「さあ、あなたはどうしたいのかしら」
「……僕も、この駅を継ぐ準備をします。もし、エファさんが次期駅長の候補を見つけるよりも早く、僕が駅の引き継ぎを完了できたら……エッダさんを、廃棄処分ではなく、この駅の駅員として、復帰させてください」
祈りに似た真摯さと、なけなしの攻勢で、駅員は監査員を見つめた。彼女は、挑発を受けたような熱いまなざしで駅員を見下ろし、唇を舐める。
「次期駅長の引き継ぎが終わるまで、でなくても、いいのね?」
「はい。候補が正式に決まり、引き継ぎが開始される時に」
「あなたがいま言ったことを、契約とする覚悟は、できているかしら? 実現できなかった場合、エッダともども、廃棄処分になってもいいという覚悟は?」
「覚悟はできています」
「わかったわ。それならば、明日にでも書類をお送りするわ」
弾むように活き活きとした挙動で、席を立った監査員の袖を、駅員は慌てて掴んだ。
「僕が駅の引き継ぎを完了させた場合、エファさんだけではなく本部も、その契約を覆さないという約束は、していただけるのでしょうか」
「約束するわ。契約は契約。どちらに転んでも、本部にとっては、願ったり叶ったりよ」
「エファさんにとっては?」
「さあ、どうかしら。ただ、約束は守るわ」
駅員が手を離すと、監査員は駅員の胸元へと手を伸ばした。トランシーバを取り、慣れた手つきで駅長へと発信する。
「駅長。聞いておられましたね。こういうことですので、よろしくどうぞ」
――ああ。さっそく今日から、引き継ぎを始めるとしよう。
監査員は、悩ましげなため息をついた。失望の覗く声で、続ける。
「ご自身で経験されたのですから、よくご存じのはずでしょう? 小部屋に、広大な駅を構築するということが、どういうことなのか。人の聖域ともいえる自分の内面を、数多の他人の土足のために提供するということが、どのような感触なのか。一度は廃棄処分の決まった、欠陥品の駅員に、はたして務まるのでしょうか? 立派なご決断ですわ」
――その子が自分で考えて、自分で決めたことだよ。幸いにも、私はそれに応えることができる。やってみることにするよ。
監査員は再び、何かに火がついたような熱い目で、笑みを浮かべた。
「わかりました。それでは、ご健闘をお祈りいたしますわ。ごきげんよう、駅長」
通信を終えたトランシーバを放って駅員に返すと、監査員は清々しい足取りで出口へと向かった。扉に手をかけて振り返り、彼女は振り返る。
「私は、エッダに話があるから。もう、仕事に戻ってくださってけっこうよ。エーレ」
駅員は、黙って頷いた。彼女が事務所から消えると、反対に医務室へと引き返した。
医務室では、事務員が駅長の床ずれの手当てに、区切りをつけたところのようだった。要り用のものは自分で見つけ出して使ったらしく、寝台の脇にあるテーブルの上に、備品や薬品がいくつか残っている。血や膿に汚れたガーゼや脱脂綿がごみ箱に捨てられており、衣服をはだけた、痩せこけた駅長の体には、真新しい包帯が巻かれている。
事務員は、白いシャツの袖を捲りあげ、部屋の隅の洗面台で手を洗っていた。黒い制服の上着や帽子は壁の鉤にかけられている。戻ってきた駅員に気がつくと、事務員は洗い終えた手を拭いながら、駅長の寝台のそばへと戻ってきた。
「おつらかったことでしょう」
呟くように言って、駅長の衣服のボタンをかける。駅員は言葉もなく、ただ駅長を見つめる。事務員は駅長に毛布をかけてその場を離れ、制服を着こみはじめた。
「治るでしょうか?」
「治らないものではありません。ただ……数時間おきに、体の向きを変えてさしあげるように、お願いできますか」
寝台のそばへ戻ってきて、事務員は小さな身ぶりで説明した。まだ若い顔にかかる榛色の髪には、白髪が混ざっている。彼ともクローンであり、さほど年齢の変わらないミロシュやマロシュとは同じ顔に見えない、疲れた、寂しげな顔だった。
「できるだけ毎日、手当てに来るようにします。今日は、エファさんに同行しなければならないのですが……。可能でしたら、適宜、寝具や衣服の皺を均していただけますか。あと、手足のマッサージと、それから……」
駅員は、事務員が指を折りながら説明することを、手帳に書き留めた。
「フロレンツさん。本当に、ありがとうございます」
「いえ……。本来なら医師を派遣すべきところなのに、私では力及ばず、申し訳ない。本部の医師にも、声をかけてみます。一人くらい、こっそり来ることはできるはずですから」
「ありがとうございます。どうか、よろしくお願いします」
事務員は、壁の時計に目をやった。次の列車が来るまでにまだ時間があるのを見て、テーブルの上に散らばったものを、片付けはじめた。駅員も手伝う。
「差支えなければいいのですが……フロレンツさんは、運転士か、車掌を?」
「はい。車掌でした」
傷を拭ったらしい、赤褐色に染まった脱脂綿の山をごみ箱へ落としながら、彼は答える。表情の変化の乏しいまま、彼は続けた。
「四年前、相方が亡くなりました。六年ほど闘病しており、その間、私も何かできないかと、少しばかり勉強しまして……。だから、エファさんは、私を連れてきたのでしょう」
駅員は、テーブルや寝台の周囲に落ちた、体液が染みて重いガーゼを拾いあげる。
「お名前は、何と?」
「フロリアンといいます。明るい、いいやつでしたよ。私と違って、前向きで」
事務員はあたりを見まわし、ごみが残っていないことを確認すると、いっぱいになったごみ袋の口を縛った。懐かしく、心を痛めた淡い笑みで、話を続ける。
「駅員のあなたも、おおよその仕組みはご存じでしょうけれど……。運転士と車掌は、二人一組で育ち、仕事をします。互いが、唯一の肉親です。互いにとっては、かけがえのない肉親であり、親友であり、恋人であり、兄弟姉妹であり、親と子なんです。どの組も、二人でならどこででも生きていける、と思っている。だからこそ、否応なく配属された路線でも、どうにかやっていけるんです。あいつが寝たきりになり、廃棄処分が決まった時、私は上司に頼みこんで、事務員に転向しました。あいつが快復するまで、あいつの分まで、私が働くから……廃棄処分だけは待ってくれ、と」
事務員は、小さく鼻をすすり、痛々しいほほえみを浮かべる。
「あいつは……自分の廃棄処分と、私に課せられる仕事を天秤にかけ、死ぬ方を選ぶやつでした。そういうやつでした。この鉄道で、相方を失った車掌が、一人で生きていけるはずがないのに……。それでも、私のわがままを聞いて、六年もの闘病の末……さんざん苦しんだ末、死にました。遺体は、例にもれず、廃棄処分場へ」
駅員は、彼の声に黙って耳を傾けた。本来は朗らかであるはずの顔つきに、心の穴が深い暗がりを投げかけ、どうしようもなく何かを失った者にしか知り得ない、悲痛と絶望の淵の冷たさを垣間見せている。
「相方のいない車掌も、あいつのいない私も、生きていることに耐えられませんでした。自棄になっていたところ、エファさんに拾われたんです。どうせ捨てるのなら、と。それから私は、自分がいったい何の役に立つのかわからないまま……。駅長のお役にでも立てたら、あいつも喜んでくれるでしょうか。遺体を埋葬できなかった墓に行ったって、そこにあいつはいないのに」
事務員は言葉を切ると、口を縛ったごみ袋を手に、出口へと向かった。
「……辛気くさい話をして、すみません。ごみ捨て場は、どちらでしょうか」
「置いておいていただけますか。清掃の方がいらっしゃるので、いつもお願いしています」
「わかりました。では、私はこれで……失礼します」
ごみ袋を壁際に置き、扉に手をかけた、うなだれた背中に、駅員は声をかけた。
「フロレンツさん。来てくださって、本当にありがとうございました。これから、お世話になりますが、どうか……よろしくお願いします」
振り返った事務員は、絶望に疲れきった、弱い笑みを返した。
「はい。また、伺います。……またお会いできて、安心しました」
戸惑って返事をしそこねた駅員を置いて、事務員は去り、医務室に静寂が降りる。生命維持装置のかすかなうなりが聞こえ、部屋に充満した消毒薬の匂いが、呼吸も消毒するように清涼に鼻腔を通る。駅員が駅長の寝台へ戻ろうとすると、九時を知らせる鐘が遠く聞こえた。駅長に付き添うことをひとまず諦め、駅員は一番線へと向かった。
列車を降り、それぞれの向かうべきホームを目指す人の海の向こうに、元駅員、監査員、事務員の姿を探す。客が乗ることのない折り返しの列車に、遠く霞む三つの影が乗りこんで消えた。いつものように、駅員は駅係員控室の扉の前に立つ。先の一時間、駅長が対応していてくれたであろう、通常の業務に戻った。
一日の業務を終え、駅員は自室で寝支度を済ませると、医務室へと戻ってきた。部屋の明かりを少し落とし、二つある寝台のうち、残る一つに潜りこむ。手の届くところにあるテーブルには、元駅員が残していった、赤い革張りの、大きな本が置いてある。
――ここで寝るのかい?
トランシーバではなく、構内アナウンスのように、部屋のどこかから駅長の声が聞こえた。駅員は、寝台の上で体を起こしたまま、もう一つの寝台に眠る駅長を見る。
「はい。何時間かごとに、駅長の体の向きを変えますから。何か、お困りのことはありませんか? 痛みなどは?」
――いいや。本当に助かっているよ。ありがとう。
「駅長。引き継ぎの方は……?」
終日、いつも通りの業務にあたっていた駅員は、いつ、どのように引き継ぎの準備をすればよいのか、ずっと気がかりだった。住みこみで働いている以上、自由に使える時間は、退勤から出勤までの七時間、勤務中に三回ある各一時間の休憩時間だけだった。
――ああ、そのことだがね。君が眠る前に、時間をもらおうと思っているんだが、大丈夫かね。
「僕は構いませんが、いったい、どうすればいいのでしょうか?」
――では、いつも眠る時のように、横になってくれるかね。
駅員は、ひんやりとした寝具の中へと滑りこんだ。自分のものではない、医務室の寝台の匂いと感触に包まれながら、駅長の方を向いて横になった。
――目を閉じて、私の声を聞いてくれるかね。楽にして、気持ちを鎮めるんだ。
駅員は言われたとおりに目を閉じ、深呼吸をする。疲れのため、今すぐにでも眠りに落ちてしまいそうだった。駅長の声は穏やかに、静かに、ゆっくりと続けた。
――……快適な、小さな部屋を想像しておくれ。君の、よく馴染んだ部屋。君は、心地良い、小さな部屋にいて、座り心地の良い椅子に腰かけている。目の前には、テーブルがあり……。
駅員は睡魔と闘いながら、言われるとおりに想像する。
――……テーブルには、小さな模型がある。駅の模型だ。広場が一つ、ホームが七つ、駅係員控室各種、手洗といった設備の他は、君の好きなように作ることができる。君は、その模型の中を覗きこむ。屋内の様子が、よく見える……。
駅員は、想像を続けた。想像の中で、ぼんやりとした形の駅の内部へと、歩いていく。広い、大きい、ということだけを、漠然と捉える。
「駅長。今のカタコンベ駅と、同じにはできないのですか?」
――そうだね。この駅は、私が作ったものだからね。同じものにする必要はないし、不可能であることは、本部も了承しているよ。駅として機能するための設備がきちんと整ってさえいれば、後は君の自由だ。それは駅長の権限というよりも、小部屋の提供者の都合だよ。もちろん、新しい駅を今の駅に似せて作ることはできるが……同じものになることは、決してない。外観や内装に関しては、君に任せるよ。
「……わかりました」
――さあ、続けようか。模型に、さっき言った設備を配置しておくれ。今は、位置だけでいい。必要なものを、適切な場所へ……。
「後で移動させることは、できないのでしょうか?」
――できるとも。心配しなくていい。ただ、移動の前後で不都合がでないことをよくよく確認すること、移動が完了するまでは立入禁止にすること、お客様や職員への案内などは、忘れずに行うといい。……今日は、これだけに集中するように。
「これだけですか?」
――ああ。後は眠りに落ちるまで、ずっと駅の構造を意識するようにしておくれ。無理に起きておく必要はないよ。じっくり、ゆっくりと駅の中を歩きまわり、どこに何があるのかを体で覚え、地図ができるように……。それが、君のカタコンベ駅になる。
駅員は、重い目蓋を少し開き、薄明りの先に見える駅長へと目を向けた。
――どうか、忘れないでおくれ。君の、カタコンベ駅だ。君の小部屋の中にある、小さな模型……。あくまで、君が主であるように。模型がふんぞり返ることはなく、部屋の主である君を追い出すこともないように。いいね。エーレ。
「……はい」
――これから多くの作業と、同じことの繰り返しがあるが、まずは、その土台を作るんだ。設備の配置は、駅の礎となる。駅が実体を持ち、現実となるのも、礎があってこそ。それでは、おやすみ。エーレ。
「はい。……おやすみなさい。駅長」
眠る前にいつも見ていた中庭は、今夜は見えない。駅員は駅長をじっと見つめると、やがて目を閉じた。居心地の良い小さな部屋、座り心地の良い椅子、テーブルの上の小さな模型……模型の内部へと入り、配置したばかりの各設備を巡った。踏む感触のおぼつかない床を歩き、漠然とした、不定形な壁と床の間を進む。
一つの広場、七つのホーム、駅係員控室各種、手洗の場所を巡り終えて、駅員は足を止めた。これが、自分の――駅員エーレのカタコンベ駅となるのならば、その礎となるものならば、必要なもの、あるべきものが、もう一つある。
鬱蒼とした森へと消えていく、ディーゼル機関車を見送る。巨木に守られた三番線のホームは、いつも穏やかな静けさで満たされている。駅員は帽子を取って胸にあて、しばし目を閉じて、先ほど発った客たちの、旅の多幸を祈った。再び帽子をかぶりながら、懐中時計で時刻を確認する。正午より少し前。駅員は、駅の中央部へと引きかえしはじめた。
木々に見下ろされたホームを出ると、駅の外周を円形に巡る庭園が左右に広がる。日々、春めいていくこの時季、いつの間にか花壇に群生するようになった、フリージアが花の盛りを迎えている。さして手間をかけられていないながら、毎年この時期になると、凛々しい花姿で可憐な、あるいはお祭り騒ぎのような群れを作り、清涼で少し甘い香りを、慎ましく風に乗せるのだった。
駅員は、同じ香りを纏う同僚を思いながら、カタコンベ駅を見上げた。外壁や塔の屋根は崩落し、かつては頭を覗かせるのみだった巨木も、幹や根本まで見えている。駅の外側に張りついているかのような無数の増築部分や、空に伸びて林立する塔は、日に日に崩壊し、姿を消していく。駅員がこの駅の引き継ぎを始めてから、とどめる術もなく、荒廃は進んだ。三年前より、カタコンベ駅は少し小さくなった。
鐘が鳴る前、一番線に列車が到着し、中央広場がごった返す前に、駅員は駅係員控室へと戻った。正午の鐘を聞きながら、医務室へと入る。すっかり業務の中に溶けこんだ、駅長の身辺の世話――この時間は、ただ体の向きを変え、寝具や衣服の皺を均すのみ――のためだった。
いつもと違い、医務室の人影が多いことに気がつき、駅員は二人の男性を交互に見た。眠り続ける駅長の寝台のそばに、懐かしい、明るい灰色のカーディガンの男性が立っていた。この駅でのみ、自由でいられる駅長だった。彼の姿は、背後にある景色を透かして見せている。三年ぶりに目にする人に、駅員は目を瞬かせた。駅長は、顔を上げて駅員にほほえみかけた。
「おかえり。エーレ」
「駅長……」
「自分で自分を見るのは、不思議な感覚だね」
苦笑しながら、彼は眠り続ける自分自身へと目を落とす。今でも事務所の壁にある、若い頃をうつした肖像画と違い、どちらの駅長も、今は灰色のひげを蓄えていた。彼は、かつて清掃員がひげを整えた際の、そのままの形を気に入ったようだった。今でも時おり、清掃員が手入れに訪れている。
駅員は、少し後ずさった。この駅では自由でいられる駅長がここにいるということは、つまり、そういうことなのだった。駅員は、駅長と直接、言葉を交わす日を待ち焦がれていながら、同時に、その日を心から忌避していた。後ずさった駅員の背中を、医務室の扉が受け止める。駅長はゆっくりと、座りこんだ駅員の方へと歩み寄ってきた。
「もう何度も、君のカタコンベ駅の機能を、試運転したね。エーレ」
駅員の前にかがんで、駅長は静かに言った。駅員は、無言の拒絶をこめて、彼の目を見つめ返した。駅長の、薄青い、灰色の目。
「もう何ら問題なく、駅として機能することも……私のカタコンベ駅と変わらず、お客様にご利用いただくにふさわしく働く駅であることも、証明された」
「……いやです」
駅長は苦笑した。長身の体を苦労して折りたたみ、駅員と同じように床に座りこむ。
「約束だっただろう?」
「約束はしていません」
「そうだったかね?」
「そうです」
駅員は、抱えた膝に顔を伏せた。駅長の手が、肩に置かれる。
「約束ではなかったなら、今、君に頼みたい」
「……まだ、早すぎると思います」
困りきったように、駅長の小さなため息が聞こえた。駅員は黙りこんだまま、ただこの時間をやり過ごしたかった。そうして、二度と来なければ良いと願った。しかし駅長は、しかるべき返答を聞くまで、動かないつもりのようだった。
駅員にも、遅かれ早かれ避けられないもの、変えられないことは、悔しいほど身にしみて、よくわかっていた。ただ、自分の祈りと献身への思いがけないご褒美として、思いがけない奇跡が降りることがないだろうか、と絶望的に願っていたのだった。駅員は、小さく首を振った。一度は覚悟のできたことだった。嘘をついてはいけない。
「本当に……もう、僕が学ぶべきことは、ないのですか。駅長」
重い頭を持ちあげて、駅員は駅長を見上げた。弱りきったような、優しく見守る笑みで、駅長は駅員を見下ろしていた。駅員の言葉を聞いて、彼はゆっくりとうなずく。
「ああ。ないよ」
「駅は、本当に、ちゃんと機能しますか」
「するとも。君は、よく頑張った」
駅員は、再び顔を伏せた。やがて、ふらつきながら立ちあがる。
「……わかりました」
続いて立ちあがった駅長を見上げると、彼は申し訳なさそうにほほえんだ。
「ありがとう。すまないが……頼んだよ」
駅員は、眠る駅長の寝台へと歩み寄った。視界がぐらつく。やがてはこの駅の客となる駅長が、後に続いてきた。駅員と、その手元を静かに見守っている。
眠り続けた駅長。もはや開かれることのない目蓋。駅員はゆっくりと、腕から点滴の針を抜いた。細く長い管を、点滴スタンドにかける。深く息をついて、また寝台を振り返った。痩せた駅長の胸に埋めこまれた、雑多な管の束。奥歯を食い縛ったり、下唇を噛み締めたりしながら、駅員は、それぞれがどう機能しているのかもわからない生命維持装置の管を、ひとつひとつ手にかけた。血のついた管の端が、床に垂れて赤い軌跡を描く。
最後の一本を抜き取り、駅員は寝台に屈みこむようにして手をついた。背後から、肩に手を置かれて振り向く。
「本当に、ありがとう」
視界が滲み、駅員は唇を噛んだ。見上げている駅長の顔が、よく見えない。
「もう一つ、頼みがある」
「……」
「どこでもいいから外へ行って、この駅を……私のカタコンベ駅を、見ていてほしい」
首を振ることも、何も考えられない駅員に、言い聞かせるように、駅長は続けた。
「私のカタコンベ駅から、君のカタコンベ駅へと、引き継がれる様子を……見ていてくれないか。エーレ。さあ、早く」
駅員は、ためらいから少し俯いた。目元から零れた涙が足元に落ち、決断を促す。
急いで寝台へと向きなおり、駅員は、まだ温かい駅長の顔を、震える両手で包んだ。彼の顔の上へいくつもの涙を落としながら、口付けをひとつ残す。
体を起こして振り返り、もはやこの駅の客となった駅長を見上げた。少し鮮明になった視界に、彼の姿を焼き付ける。駅長は、親愛の情のこもった手で、駅員の頭を撫でた。
「……大好きです。駅長」
「ありがとう。……私の大切な、駅員エーレ」
駅員は、医務室を飛び出した。
駅係員控室を出ると、駅員は何も考えず、まっすぐに中央広場を駆けぬけた。中央広場では、そこここのベンチで人々が憩っている。前も見ないで走っていく駅員の姿を、彼らは気遣わしげに見送った。駅員は息を切らせて、もつれる足で、五番線へと続く柱廊を駆けた。客がいないことを幸いに、駅員は庭園を一息に抜け、長い桟橋の先端まで駆けつけると、荒い息で足を止めた。
桟橋の先には、二階建ての、ずんぐりとした蒸気船が停まっている。その足元で、川へと足を投げ出して、二人の若い女性が腰かけていた。二人とも象牙色の制服を着て、靴を脱いだ白い足を川面に浸し、つま先で小さな水しぶきを上げながら昼食をとっている。彼女たちは食事の手を止めて、尋常ではない様子の駅員を見上げた。
「どうしたんですか?」
「何かありましたか?」
駅員は、思い通りにならない呼吸を整えて、答えようとした。しかし、喉が潰れたように、声を出すことができなかった。また溢れてきた涙をふるい落として、ただ駅の方を指さす。Y路鉄道の車掌たち――名札には、タツェッテ、リンデ、とある――は、駅員の示した駅を、訝しげに見上げた。
駅員も、乱暴に目元を拭いながら、カタコンベ駅をふり仰いだ。五番線から見る、川面に浮かぶ巨城の姿。外壁に部屋を貼りつけたような、内部から膨張して飛びだしてきたような、いびつな無数の部品たちが、剥がれるように、静かに消滅していく。悠々と空にそびえていた塔は、背後にある青空を透かして見せた後、瞬きの間に消えた。巨城が、みるみるうちに痩せ細っていく。
駅員の足元で、車掌たちが畏怖の声を小さくあげた。互いに肩を寄せあって、片手で口元を覆い、瞬きもせずに駅を凝視している。駅員は滲んでかすむ視界を叱咤しながら、駅の変貌を見つめた。柔らかな粘土をこねているような、滑らかな、穏やかな変化が、粛々と進んでいった。静かな、静かな、死と継承の時間だった。
駅はふたまわりほど小さくなり、三、四階建てほどの、背の低い円筒形の建物が現れた。変化は小さくなりつつあり、多種多様な建材や色、石像、植物に覆われて、遠くからはくすんだ橙色に見えていた外壁は、白く滑らかに塗りつぶされ、のっぺりとした壁へと変貌する。バルコニーや崩落などの凹凸は白い壁に綻びを埋められ、一方では、円形の建物に八つの尖塔が伸びた。駅より少しだけ背の高い、ずんぐりとした塔だった。白い壁に整然と並ぶ、盾形の窓が光を受けている。
「引き継がれたのですね」
「お別れなのですね……」
車掌たちが、呟くように言うのが聞こえた。駅員は、熱い目元を拭う。
カタコンベ駅の変化が止まった。駅員は、まだどこかが変化しているような気がして、諦められずに見つめつづけた。やがて、車掌たちに優しく肩を撫でられて、我に返る。彼女たちは、濡れた裸足で桟橋に立ち、黙って駅員を見つめる。
引き継がれた駅の外観は、小さく、白く、のっぺりとして、こぢんまりとしていた。駅長のカタコンベ駅と比較すると、機能はそのまま、配置もおおむね同じ場所、しかし外観は、まったく同じものに再現することはできなかった。機能の引き継ぎを完了させた後、外観の再現を何度も試みては失敗する駅員に、駅長は繰り返し、こう言い聞かせた。
――その方がいい。歳や経験の違いが、駅の外観の違いだから。
駅員にとっては、口惜しくてたまらなくなると同時に、それが希望にもなった。歳や経験の違いでしかないのならば、これから再現できる可能性は残っている、と。
駅員は、桟橋の上に座りこんだ。引き継ぎの期間中、カタコンベ駅は、駅長と駅員、どちらの内面にも存在していたはずだった。その片方が失われても、駅員自身には、何の感触も残さなかった。ただ、駅の各所で起きていることが、膨大な情報ながら、漠然とした感覚として――心の中に生まれては消える、感情を捉えるような、淡い感触で――駅員の内面へと、流れこんでくる。カタコンベ駅は、引き継ぎという重大な瞬間を経てなお、変わらずに存在していた。
車掌たちは休憩時間の終わりに備えて、濡れた足を拭い、身支度をしている。座りこんだまま、うなだれている駅員の肩をそれぞれ、優しく叩いて、彼女たちは蒸気船へと乗りこんでいった。一時間先、十四時の列車の客が来るまで、船内で待つらしい。
駅員は、内面へと流れこむ感覚と情報に身を任せた。内面にある小部屋、そこに寄生するカタコンベ駅は、駅としての判断基準を独自に持っている。優先順位を勝手に決め、それをもとに、宿主である駅員に駅の様子を知らせる。駅員がするべきことは、まずは駅が提供する優先順位と情報を俯瞰し、それから駅係員として判断し、順次に行動する――それだけだった。今は、案内を必要としている客はいないようだった。様々なことを同時にするのが苦手な駅員にも、無理のない手順となっているのは、駅長がそのように駅を作らせたからだろうか。
十三時を知らせる鐘が、駅じゅうに響き渡った。この鐘の音色は、駅員が苦心して再現したものだった。時報としては問題ないが、音色そのものの再現はまだまだ不完全らしく、時おり、鳩時計のような素っ頓狂な声を上げるという難点がある。一度、これを聞いた駅長は、息ができなくなるほど笑いながら、時間が解決してくれるだろう、と駅員を慰めた。
駅が、新たな感触を投げかけてくる。清掃員が、駅員を探しているようだった。駅員は、駅の中心部へと引き返しはじめた。
以前の駅の周囲を覆っていた建物、駅長の小部屋から追い出された記憶や感情たちが消滅したため、建物そのものは、ずいぶんと小さくなった。その分、円形の駅を囲む庭園が広くなっている。駅長のカタコンベ駅、そして裏方のカタコンベ駅と同じ、赤い煉瓦で、庭園は彩られている。かつては空白だった場所の芝生、花壇、噴水、ベンチなどの配置は、駅員が駅長と相談しながら決めたが、庭園の大半は以前の姿を残している。庭園は、駅の裏方と共有している場所であるため、比較的、容易に再現することができたのだった。
赤煉瓦の胸壁と石畳の先に、滑らかで白い大理石の、駅員エーレのカタコンベ駅が佇んでいる。陽を受けて、映す色を変える、白亜のカタコンベ駅。柔らかな曲面が左右へ伸び、各ホームと駅中央を繋ぐ廊下へと、以前の半分ほどに小さくなったアーチが口を開いている。石像は再現することができず、出入口の左右には、ただ滑らかな壁があるのみだった。今はただ、七つのホームに面した位置と一番線の向かいの位置に、アーチとともに塔を置き、再現できる時が来た時のための余白を残すことが、駅員の限界だった。
暗かった柱廊は、明るい廊下となった。左右の列柱は、燭台の形をした照明を備えている。駅長の説得により、蝋燭ではなく電気による照明となり、駅員の意地により、以前と同じ橙色の、暖かな色と光に、廊下は包まれることとなった。
短くなった廊下を抜けると、円形の中央広場に出る。広さや形はそのままに、立ち並んでいた柱像や女人像は姿を消し、吹き抜けは三階分となった。霞んで見えなかった天窓のステンドグラスの模様は、切符と同じくオリーブ色の唐草模様だということを、中央広場の内装について駅長に相談した際、駅員は初めて知ったのだった。今ではよく見える天窓は午後の陽を透し、淡い緑色の光を拡散している。
大時計は、かつてと同じ場所に立っていた。全体の大きさ、文字盤、振り子などを再現できたことで駅員は喜んだが、本体はなぜか焦げ茶色の木製となってしまい、時に鳩時計と化すことに、納得がいかないでいる。これも、時間とともに解決できることなのだろうか。大時計の足元の左右には、以前と変わらずに、二つの木製の扉がある。
駅の内装は、駅員の本意ではないながら、すべてが白い大理石でできている。駅員は、建材や色味の統一感のなさによる温かみを持つ、以前の中央広場を再現したかったのだが、やはり叶わなかった。白色に統一された中央広場と吹き抜けの中で、大時計や扉の焦げ茶色、天窓の緑色、各ホームへ続く出入口の頭上に掲げられた銅板の赤銅色が、白く霞んでしまいそうな空間を、引きとめているようだった。
駅員が駅係員控室に戻ると、入ってすぐの事務所で、清掃員が手持無沙汰そうに待っていた。駅員に気がつくと、彼は待ちかねたように席を立つ。この三年で、彼はずいぶんと背が伸び、体も鍛えてきたらしく、立派な青年へと成長しつつあった。
「マヌさん。お待たせしてすみませんでした。何か、ご用でしょうか?」
「駅長に、埋葬を頼まれました」
彼は取り乱すこともなく、いつも通りの、平静な様子で答える。駅員は、また浮かびそうになる涙を抑えようとしながら、うわずる声で訊ねた。
「ご存じなんですね」
「駅が……駅を引き継がれたのが、庭園から見えたので。駅長は、先にご希望のホームへと向かわれました。少し、駅を散策されるそうですが、もし見送ってくれるなら、先に埋葬を頼みたい、とのことでした。可能ならば、急ぎで、と……」
「……そう、ですか」
「手を貸していただけますか」
駅員は黙って頷き、医務室へと向かう清掃員に続いた。
眠りについた駅長を前に、二人で並び、しばし黙祷する。やがて、清掃員は帽子を壁の鉤にかけると、袖を捲りあげながら駅員に向きなおった。医務室にはすでに、黒塗りの棺と、専用らしい立派な台車、二本の大きなシャベルが持ちこまれていた。
「場所は、決まっていますか。駅長は、あなたに任せるとおっしゃっていましたが」
束の間、駅員は駅長に目を落とす。
「中庭に」
間を置かずに答えた駅員を、清掃員は意外そうな顔で見た。
「決めてあったんですか?」
「はい。このために、駅を引き継ぎましたから。駅長を……」
駅員は言葉を切ると、棺を載せた台車を、寝台のそばまで寄せた。訝しげな清掃員とともに、駅長の体を寝台から棺へと安置する。白く柔らかな絹の内張りに、駅長は沈みこんだ。いつも彼の枕元に置いておいた小さな鍵を、駅員は拾いあげた。地下室で駅長の体を清めた際に見つけたものだったが、後で彼から、ロッカーの鍵であることを知らされた。小さな鍵を見つめて、駅員はふと医務室を出た。
更衣室の、いつ見ても使用中で、施錠されていたロッカー。駅員は、鍵を開けた。中には、苔色の、男性用の制服一式が仕舞われていた。埃が舞い、長年、囚われていた空気のにおいがする。制服一式を抱えて、駅員は医務室に戻った。案内を必要としている客が今のところはいないことを、駅員は幸運に思う。
清掃員とともに、棺に重い蓋を載せ、二つのシャベルを抱えながら、台車を押して医務室を出る。駅長の制服は、彼とともに棺の中に納められた。事務所の奥に並ぶ扉――食堂、遺失物管理所、医務室、更衣室、手洗――のうち、更衣室へと入り、さらに奥の扉に向かう。以前と同じく、駅係員の寮に続く扉だった。以前と異なるのは、更衣室と寮の廊下が直結していることだった。駅長の提案により、更衣室から寮までの入り組んでいた通路を整理した結果、寮は食堂と駅長事務室の中間のあたりへと移動した。
緩やかなスロープを下った先、半地下か地下一階の高さに、寮の廊下があった。並ぶ扉の向かいの窓からは、庭園と、その先の食堂を見上げることができる。廊下の先には左右に扉があり、一方は庭園へ、もう一方は中庭へ繋がっている。中庭は、寮の各部屋と駅長事務室との間に位置する。駅員は清掃員を案内しながら、二人で台車を押しつづけた。
中庭は、今の駅員にできる限り、駅長のカタコンベ駅にあったものを再現してあった。白い壁に囲まれた、八角形の小さな庭。人の手を借りずに点灯する街路灯が立ち、人の世話を必要としない草花が盛大に繁っている。
「ここですか」
「はい。中央に、お願いします」
「わかりました」
駅員と清掃員は、それぞれ大きなシャベルを手に取った。芝生を崩さないように剥がして、脇へ置く。剥き出しになった土肌を、二人は無言で掘り返しはじめた。作業をしながら、駅員は駅の方へも気を配る。十四時の列車が到着するまでにまだ時間があるものの、駅員は焦りを感じはじめていた。列車が到着した時の他は、客がいつ案内を必要とするかを予測することはできなかった。
「マヌさん。どうして、あなただったのですか?」
作業の中で、駅員は訊ねた。少しずつ息が上がり、汗がにじんでくる。
「本職だからです。僕にとっては、Y路鉄道の、旅客輸送に携わる業務は副業です。ここへは、清掃員として派遣されていますが、本職は遺失物の管理、そして葬儀です。Y路鉄道はそもそも、失われるもの、忘れられたものを相手にする会社ですから。……この路線も、その遠い一環のようです」
「だから、この駅の遺失物にも、目をかけてくださっていたのですね。では、駅長の、髪やひげの手入れをしてくださっていたのは?」
「葬儀の際に、必要になることがあるので。研修があります」
清掃員は、悔しそうに続ける。
「本来ならば、駅長にふさわしい葬儀を、執り行いたかった。僕たち二人だけでなく」
「これで、いいんですよ。マヌさん」
泣きだしそうな声で言う、駅員の微笑を、清掃員は苦い表情で見ていた。
必要な深さ、広さを備えた穴を掘り終えると、二人は肩で息をしながら手を止めた。清掃員は棺の何箇所かに幅広の紐をかけていく。駅員は、中庭のあちこちから花を摘み、小さな花束を作った。清掃員は、棺の頭の方の紐を駅員に手渡し、彼は足の方の紐を手にとる。息を合わせて棺を持ちあげ、穴の底へと横たえる。駅員は、清掃員に花を分けると、穴のそばに膝をつき、手を伸ばして、棺に花を捧げた。清掃員もそれに続く。
再び、黙祷する。二人は再びシャベルを握り、哀悼の言葉とともに、棺と供花を土で覆っていった。湿った土のにおいが立ちのぼる。最後に、剥がした芝生を土肌に置く。二人は、肩で息をしながら深い息をつき、額の汗を拭った。
「あなたは、お見送りに」
清掃員が、駅員を促した。駅員がシャベルや台車に目を遣ったのを見て、彼はため息をついて言い足した。
「これは、僕の仕事道具ですから、片付けは僕がします。あなたは、駅長を見送ってさしあげてください。……お願いします」
逡巡の末、駅員は清掃員にふかぶかと頭を下げた。
「ありがとうございます、マヌさん」
中庭を後にして、駅員は駆けだした。鐘の音が、駅じゅうに十四時を報せて響き渡る。
一番線には十四時の列車が到着しており、中央広場はいつもと変わらず、怒涛の人の波で溢れかえっている。駅員は、洗ってきたばかりの手に手袋を着けて、駅係員控室の扉の前に立った。間もなく、一番線のホームで立ち尽くしている客たちの様子が、駅から駅員へと伝えられる。客の流れが治まりはじめると、駅員にも困っている客たちの姿が見えた。人の間を縫い、彼らのもとへと向かう。
「駅長!」
灰色の髪とひげ、明るい灰色のカーディガン、黒っぽいスラックスと革靴――駅長が、泣きじゃくっている女の子のそばに立ち、困ったように笑っていた。
「君の駅を一回りしてきて、戻ったところだったんだが……。彼女が一人で、泣いていたものでね。君を呼ぼうかと思っていたんだよ」
「駅長、いったい……」
言葉を失う駅員に、彼は朗らかにほほえんだ。
「もう、駅長ではないよ。私はただの客だ。自分でも、忘れそうになるが……私の名は、レネだよ。エーレ。……いや、エーレさん」
「どちらへ……?」
「私は、三番線だよ。幼い頃は、船乗りになりたかったんだ」
駅員は唇を噛みながら、元駅長レネと、泣いている女の子へと目を向けた。まだ幼い彼女は、目元を赤く染めて、ごしごしと涙を拭っている。駅長は、弱りきったように、女の子の頭に手を置いた。
「この子のことを、頼めるかね。駅員さん」
「はい――かしこまりました」
駅員は白い床に膝をつき、うつむいた女の子の顔を覗きこんだ。自身を鼓舞し、ほほえみを絞り出す。
「お客様。切符はお持ちでしょうか?」
女の子は、黙って首を振る。おそるおそる、駅員を見る。
「怒る?」
駅員は小さく首を振ると、ポケットから切符を一枚、取り出した。
「当駅では規則により、切符不所持でのご利用も承っております。また、当駅駅長の意向により、8番鉄道からY路鉄道へのお乗り換えに限り、切符不所持をお申し出のお客様には、無料で切符を発行させていただきます」
「えっと……」
きょとんとするばかりの彼女に、駅員はもう一度、ほほえみかけた。
「この駅では、切符がなくても大丈夫です。どうぞ。切符をお受け取りください」
白い手袋に差し出された、淡いオリーブ色の切符を、女の子はおずおずと受け取る。元駅長はほほえんで、黙って二人を見守っている。駅員は膝をついたまま、さらに訊ねた。
「お伺いいたしますが、どうしてこちらへ?」
「おとうさんとおかあさんと、海に……」
「海は、お好きですか?」
言いよどむ彼女に、駅員は助け舟を出した。何気ない質問のように訊ねるのが、業務の規則となっていた。今では、駅員も、この質問の目的を知っている。
「うん! あのね、浮き輪でね……」
彼女は泣き顔をぱっと輝かせたが、また表情を曇らせ、うつむいてしまった。
「浮き輪……失くしちゃった。おとうさんとおかあさん、怒るかな……」
海辺のよく似合う、ふんわりとしたワンピースの胸元から、水着が覗いている。
「三番線へ、お越しください。お客様。ホームまで、ご一緒いたします」
女の子は、涙を拭いながら頷いた。
駅員は女の子と手を繋ぎ、元駅長とともに、三番線へと向かう。廊下へ吹きこんでくる風に、潮の香りが混じる。元駅長は、明るい廊下を見上げ、口を開いた。
「いい駅だ」
何も言えず、駅員はただ、元駅長を見つめる。胸が痛んだ。彼は朗らかにほほえむと、また前を向いた。アーチ型の出口の先に見える青い海に、女の子はにわかにはしゃぎはじめた。入り江の浅瀬のエメラルドグリーン、沖のウルトラマリンの美しさ。晴れの日の空の青と、まばらな羊の群れのような雲の白を背に、入り江の先に、三本マストの帆船が停泊している。
「どうにか、間に合いそうだね」
「あれに乗るの?」
駅員の手を引きよせ、女の子が訊ねる。廊下を抜け、暖かな潮風に吹かれながら、三人は庭園を横切って桟橋へと出た。桟橋には艀が残っていなかったが、帆船へと向かっていた三、四隻の艀のうち、ひとつが引き返しはじめた。
「お家に帰れる……?」
女の子は、不安そうな顔で駅員を見た。駅員は、沈痛な思いを抑えて答えた。
「大幅迂回――とても遠回りとなり、ご迷惑をおかけいたしますが……お客様がお望みならば、ご両親のもとへ、きっとお帰りになることでしょう。どうか、それまでは……道中、旅を、お楽しみいただけますか」
詰まりがちな駅員の言葉を、女の子は黙って聞いていた。桟橋に、引き返してきた艀が到着した。ゴンドラのような小さな舟で、Y路鉄道の職員が漕ぎ手を務めるが、時には本職らしい客が漕ぎたがる場合もあった。艀から、象牙色の制服を着た二人の若い女性が、三人に声をかけた。白い手袋に櫂を握り、濡れたような艶をたたえた黒髪を、一人は肩口で、もう一人は腰のあたりで、美しく切りそろえている。
「Y路鉄道海洋線をご利用いただき、ありがとうございます。船長ヨモギはじめ、海技士一同、乗務員一同が、カタコンベ駅より海洋線を各港にご案内いたします」
「乗船のご案内は、乗務員ウメとサクラがいたします。道中、お食事等のお世話も、わたくしども乗務員一同にお任せください。お手をどうぞ。お足元にご注意ください」
桟橋にぴたりと寄せたゴンドラから、乗務員たちが、元駅長と女の子へと手を差し伸べる。女の子は、一度だけ駅員を振り返ると、乗務員に抱きつくようにして艀に乗りこんだ。元駅長は乗務員に断りを入れて、駅員に向きなおった。親しみと労いをこめて、駅員の頭にそっと手を置く。駅員は彼を見上げるが、言葉が喉につかえて苦しい。
「元気で。エーレさん。切符を、ありがとう」
きょとんとする駅員に、元駅長は胸のポケットから、一枚の切符を取り出した。
「この駅にとっての切符の意味が、わかっただろうね。本当に、ありがとう。マヌにも、私からの礼を、伝えておいておくれ」
彼の指に挟まれた、小さな一片の紙切れ――オリーブ色の唐草模様と、焦げ茶色の駅名の印字を、駅員は見つめる。切符を再び胸のポケットに仕舞った元駅長は、ほほえみ、ポケットを掌で押さえた。それは、誓い、そして感謝のしぐさでもあった。
「切符があっても、なくても、この駅へ来た客を拒むことはできないよ。拒んでしまったら、彼らはいったい、どこに行けばいいというのか……」
駅員は一歩、元駅長の方へと歩み寄った。祈る気持ちで、彼を見上げる。
「大幅迂回でも……いつか、また、お会いできるでしょうか」
苦笑を浮かべた元駅長は、駅員の頭を撫でた。少し身をかがめて、ゴンドラに乗る人々、とりわけあの女の子に聞こえないよう、駅員の耳元に囁く。
「このホームを発てば、もう二度と、会うことはできないだろう。もし会えたとしても、互いに気づくことはないだろう。カタコンベ駅は、欺瞞と傲慢の塊だ」
駅員は弾かれたように顔を上げ、元駅長の、カーディガンの胸元を握りしめた。
「なぜ、そんなことを……!」
「一つだけ、君に教え忘れていてね。これを知ったうえで、お客様をご案内するんだよ」
「そんな……駅長……!」
詰め寄る駅員の肩を、元駅長は元気づけるように優しく叩いた。
「少し早いが、カタコンベ駅駅長就任、おめでとう。私はもう行くよ、エーレ」
衣服を固く握る駅員の拳をそっと剥がし、元駅長は差しのべられた乗務員の手を取り、ゴンドラへと乗りこんだ。慌てて伸ばした駅員の手が、宙を掻く。
艀が、桟橋を離れた。二人の乗務員が息を合わせて櫂を操り、波の音とともにゴンドラが遠ざかる。駅員は、桟橋に立ち尽くした。
他の艀はすでに入り江を去り、入り江に残っているのは、先ほど発ったものだけだった。帆船のそばに着いた艀は、どういうわけかそのまま甲板へ引きあげられる。客を船に乗せ終えると、甲板に置かれるか、また海に下ろされて牽引されるのだった。最後に桟橋を発った艀も、やがて慎重に帆船に引きあげられて見えなくなる。
何も見えないほど涙に滲んだ視界で、濡れた青い世界を見つめた。帆船に立つ三本のマストにかけられた白い帆が、ぼんやりと、あの人の居場所を教えていた。駅員は震える腕で帽子を取り、胸に抱いて目を閉じた。目蓋から、雫がいくつかこぼれ落ちる。言いそびれた言葉を、駅員はうわずる声で口にした。
「旅のご多幸を、お祈りいたします」
水平線に消えるまで、駅員は帆船を見送った。
やがて、踵を返す。海の上空はまだ晴れているが、駅の頭上には、灰色の雨雲が広がりつつあった。
駅員は、十五時の鐘とともに、中央広場に戻った。中庭や医務室に立ち寄ったが、清掃員と彼の仕事道具は、すでに姿がなかった。駅は、彼が仕事に戻っていることを知らせる。庭園にいること、そして、外では雨が降りはじめたことを。駅員は、目の前を流れていく人の波を眺め、駅が伝えてくる情報に身を任せる。
案内を必要とする客がいないまま、各線のホームや中央広場から人影が消えた。駅員は深く息をついて、白い天井を仰ぎ見た。今はもう、雨が漏ることはない。駅員は、誰もいなくなった中央広場を見渡した。午後からは遺失物拾いに手が回せずにいたため、駅じゅうで遺失物の小山が増えていくばかりだった。通行の妨げにならないよう、清掃員があちこちで寄せ集めてくれている。
遺失物拾いの前にすべきことがあり、駅員は事務所に立ち寄った。駅の引き継ぎを始めてまもなく、事務所に一つだけ、電話が引かれた。駅員は事務机の席に着き、かつて教わった通りの手順で、ダイアルを回した。受話器を取ると、呼び出し音ひとつで、本部に繋がる。
――はい。
「カタコンベ駅の駅員エーレントラウトです。監査員のエファさんをお願いします」
――お待ちください。
無音が続き、駅員は、ため息をついた。引き攣るような、胃の痛みが強くなる。彼女の存在を前にする時は例外なく、心身が萎縮するような気分に襲われるのだった。しばらくして、涼やかな女性の声が届く。
――エファです。ご無沙汰だったわね、エーレ。
「ご無沙汰しております。エファさん。カタコンベ駅の引き継ぎを、本日完了いたしました。庶務員エーデルガルトの、駅員への転向と当駅への配属を、お願いいたします」
電話のむこうが、しばし沈黙した。やがて、ほほえんでいるかのような声が答える。
――そう。終わったの。……負けちゃったわ。先を越されてしまったわね。エッダは、明日にでもそちらに向かわせるわ。駅長は、どうされているの?
「駅長は、本日、亡くなられました」
――……そう。では、形式上の駅長をこちらで選定するわ。
「エファさん。その件なのですが……。昨日、前駅長より当路線の主任への、次期駅長の推薦が受理されました。当駅の駅長は、正式に決定しております。本部での公示には、まだ時間がかかると主任から伺っております」
監査員のため息が聞こえる。駅員は、彼女の返答を待った。
――つまり……あなたなのね?
「はい」
――前駅長のご遺体を、こちらでお引受けしたいのだけれど。
「前駅長のご希望により、葬儀は本日、内々に執り行いました」
――……そう。そうなの。
時おり黙りこむものの、彼女の声は終始、動じることはなかった。駅員は、彼女に関するいくつかの印象が、杞憂だったのではないかと思いつつあった。あいかわらず真意は読み取れないが、彼女の口調はいつでも、朗らかで、悠々としている。
長く沈黙が続いた後、駅員はおずおずと切り出した。
「エファさん。それでは、僕はこれで……」
――エーレ。私には、ちゃんとわかっているわ。
駅員は息を詰め、冷水を浴びせられた気分で、彼女の声に耳を澄ませた。
「何が、でしょうか」
――これで、永遠に、あの人を手に入れたつもりなのね?
受話器を放り出しそうになるのを堪えて、駅員は震える声で答えた。
「駅長は……本日、三番線より、発たれました。海へ……」
――嘘はだめ。幸せな声をしているわ。
駅員は、口を噤んだ。やがて、平静を装って答えた。
「僕の幸せがどこにあるのか、エファさん、あなたには決して、わからないでしょう」
受話器が置かれた音が聞こえた。そして、通話が途切れたことを告げる音が鳴り続ける。駅員は受話器を置いた。静寂の降りた事務所で、胸に突き上げてくるような感情を抑えこみながら、じっと耐えて唇を噛む。
しばらくして落ちつきを取り戻した駅員は、事務机に立ててある、一冊の本を手に取った。二つ折り判ほどの大きさで、赤い革張りの表紙の四隅には、重々しく鋲が打ってある。三年前よりさらに擦り切れた、表紙や背表紙のバンドを撫でながら、本を開く。
はじめの数ページには、本来の持ち主、元駅員エッダが撮ったらしい、白黒の写真が収まっている。その後からアルバムの最後のページまでは、駅員が撮った写真だった。以前のカタコンベ駅のいたるところを撮影した、カラー写真。眠る駅長の写真も、何枚も残っている。写真と併せて、建材に関する情報、質感や季節による変化などを事細かに書き残してもいる。
アルバムをめくりながら、いつも一緒に置いてあるカメラへと、駅員は目をやった。フィルムを使う、さほど高価ではないごく普通のカメラだった。駅員は、カメラを購入することができなかった。生涯、駅員であるべく生み出された8番鉄道の駅員は、わずかな例外を除き、給与を受けていなかった。しかし、いずれ失われるカタコンベ駅の姿を残すため、そしていつの日か再現するために、駅員にはカメラが必要だった。そこで、わずかな例外であるエッダ――休養という名目で本部に囚われていた間、暇を持て余して書いた物語が、8番鉄道の外部で少しばかり売れた――にいくらか無心し、カメラを購入したのだった。使い道については、彼女にも賛同を得ている。
元駅長の埋葬、そして旅立つ様子を撮影する暇がなかったことを、今になって駅員は口惜しく思う。しかし同時に、かえってよかったのかもしれない、とも思う。
駅員はアルバムを元の場所に戻して、席を立った。ようやく、遺失物拾いに手を着けることができる。バケツを取りに、遺失物管理所へと向かった。
午前零時の夜食の後、休憩時間にまだ余裕があったので、駅員は中庭へと向かった。疲れが覆いかぶさっているような、重い体で歩く。今夜から、規則正しい眠りの時間は決して訪れない。元駅員が駅員としてこの駅へ戻ってくるまでは、駅員一人が、すべての業務にあたらなければならなかった。
夕方からの雨は、今も変わらず降っていた。しとしとと、優しく静かに降る雨だった。中庭の街路灯には明かりが灯り、雨の滴に光を投げて、星のように煌かせている。駅員は、事務所に残っていたビニール傘を差して、中庭に出た。濡れた石畳は街路灯の光を溶かし、芝生は雨粒を受けて暗闇に輝き、柔らかく音を吸いこむ。
駅員は、元駅長の墓前に立った。芝生は、やはりまだ少し乱れている。しかしそれも、すぐにまた根を張り、一度は剥がされたこともわからないくらい、青々と繁るはずだった。季節は、初夏に向けて、日に日に陽気を迎えている。
靴の爪先や踵で芝生を掘り返さないよう、そっと、駅員はかがみこんだ。手袋を外した指で芝生をなぞり、雨が落ちてくる暗い夜空を見上げる。八方向を囲む、白い壁は高い。この中庭を、駅員は、かつての駅長が囚われていた部屋、裏方のカタコンベ駅の地下室と同じ位置に置いた。あちらの地下室は元駅員が去った後、置いてあった物はすべて処分され、閉鎖された。以来、誰も足を踏み入れてはおらず、また今後も、人が入ることはないようだった。
駅員は、再び墓へと目を戻した。墓標が必要だろうかと、ぼんやりと考える。
「……駅長」
呟くように語りかけた声は、雨音に溶けて消える。
「この駅で、あなたとともにいられるから……僕は、生きていられます」
駅員は、ゆっくりと立ちあがった。唇に、仄かな笑みが浮かぶ。カタコンベ駅は、駅員の内面に存在していた。この中庭も、また……。
「また、来ます。駅長」
振り返るということも、今やもう必要ない。みずからの心を覗きこめば、いつもそこに、あの人のためだけの、
駅員は、幸せな中庭を後にした。
(了)
2014. 04.
夢みる駅舎 家々 @ieieirie
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