終 章
一九九七年七月一日、香港が中国に返還された。中国語で「
返還の日が近づくにつれ、わたしのいた工場では、女子工員の帰郷申請がめだって増えはじめた。当初はあまり気にならなかったが、噂が噂を呼び、日に百人単位の帰郷申請が出るにおよび、パニック状態になった。なかには半泣きで、帰郷を訴える女子工員もいた。
原因はテレビのニュースである。
人民解放軍が、各地から軍列をなして深圳に集結し、香港進駐の機をうかがっていた。
一方香港では、港に停泊するイギリス海軍の戦艦が、日ごと、その数を増していた。
「すわ、戦争か」
一触即発の危機をはらむかのような画面に、したり顔で解説する香港人ニュースキャスターが危機を煽った
事情に
いまとなっては笑い話に近いが、実話である。みな信じられなかったのだ。
「香港はイギリスの領土だ。戦争もなしにただで返すわけはない。かならず戦争がある」
領土は人民の血と汗の結晶である。ただで返還される道理がない。なにかあると思うほうが理にかなっている。親も子も動揺した。
結局、緊急朝礼を開き、工場の中国人董事長が噂を否定し、帰郷志願者を説得した。
「紳士の国イギリスは、約束どおり香港返還に同意した。戦争なしに間違いなく香港は中国に戻ってくる。これはわが祖国の偉大なる勝利である。これを祝って返還の前日、会社の招待で祝賀晩餐会を開く。全員かならず出席すること。欠席者は欠勤一日とみなし、給料から天引きする」
なかば
祝賀晩餐会のツケは日本側へまわされたが、日本の本社は文句をいわず、黙って認めた。
香港返還の当日、わたしは香港にいた。たまたま式典の入場券が手に入ったのである。
朝から雨模様の、ぐずついた天気だった。
式典のクライマックスは、チャールズ皇太子の返還宣言である。チャールズが宣言文を読み出すと、小降りの雨がとつぜん、土砂降りになった。雷鳴がチャールズの声を掻き消した。豪雨のなか傘も差さず、かれは最後まで読み切った。
ユニオンジャックが降ろされ、五星紅旗が掲げられた。来場者は豪雨をものともせず、総立ちになって、思いおもいの喚声をあげた。
その昔、海賊の根城でしかなかった岩だらけの不毛の島が、百数十年後、何万倍かの価値をともなって、帰ってきたのである。
もとはといえば、アヘン戦争の賠償で割譲されたのである。この理不尽な戦争を恥じるイギリス人は少なくない。ただし、アヘンの売買を積極的におこなった中国商人の非を責める声もある。いずれにせよ当時の清国人にアヘン吸飲の悪習を植えつけた
その一方で、植民地香港の果たした役割は微妙である。香港は、大陸の駆け込み寺に利用できたのである。かつては英国領ということで、晩年の清国や新たに生まれた中華民国には手の出せない聖域であった。だから避難場所にはもってこいである。
上海などにいた民族資本家は財産を移し、事業の本拠地にかえた。孫文など革命家は敗れるたび香港に逃げ帰り、再起を養うリハビリセンターとした。新中国になってからも、飢饉や災害時の逃散地となり、政治犯にとってはかっこうの亡命経由地となった。
また、この「回帰中国」にさいし、実業家のあいだで外国籍の取得が流行った。とりわけ、カナダとシンガポールに人気が集中した。わりと容易に国籍が取得できたのである。かれらは外国人となって、香港に舞いもどった。
いずれにせよ新生香港を象徴する「一国二制度」がスタートしたのである。
わたしは土砂降りのなか、タクシーもつかまらず、地下鉄で
ずぶ濡れだった。
ロビーに着くと、知った顔の男がわたしを待っていた。そう、山川である。かれも今日の返還式典に参加したが、混雑のまえに帰ってきたらしい。要領のいい男だ。わたしがこのホテルに泊ることは、もとの同僚に聞けばすぐわかる。
今日は、かれのほうからわたしを誘った。わたしはいちど部屋に入り、濡れたシャツを着替えてロビーに出た。まだ夕食まえである。
「なにか腹の足しになるものをつまみに、一杯やりませんか」
山川はわたしの意図を察してか、先回りして誘った。わたしは黙ってうなずいた。
ホテル近くに行きつけのレストランがある。香港返還の夜、感傷に浸るのも悪くない。
かれがEメールで送ってよこした物語は、読み終えていた。ただ終りが釈然としなかった。まだつづきがあるのか、とも思った。
尋ねると、あれで終りだという。
「あの先、ふたりがどうなったのかは、わたしにもわかりません」
退職後の生活を、かれに尋ねてみた。
「年金受給者になり暇があるので、趙始らの航跡をたどって船旅をつづけています」
ただし帆船というわけにはいかないので、ローカルの定期船を海岸沿いに乗り継いで、海流や風向きなどを確認しているのだという。
「倭の時代、江南に向かうのに、ふたつの海路がありました。朝鮮半島を西海岸に沿って北上し、黄海から山東半島沿いに進み、中国東海岸沿いに南下するコースと、直接東シナ海を横断するコースのふたつです。帆船だと貿易風が利用できることを知っていましたから、季節さえ間違わなければ比較的安全な航海ができます。冬の東北貿易風に乗れば、日本から南洋まで、大陸の東海岸沿いに、南下西行という絶好の条件を利用できるのです。貿易風は北半球では、冬には東北から西南に向かい、夏には反対に、西南から東北に向かって吹くのです。翌年の夏、この西南貿易風に乗って北上東行すれば、一年で往復が可能です。インドシナ半島・マレー半島・スマトラ島を経由して、一気にセイロン島まで到達すれば、わりと容易にペルシャ湾に通じる西方への道が拓けます。趙始らは、この航路を開拓して、東西を行き来し、交易範囲をさらに拡大していったのではないかと思います」
古代中国に「陸と海」、ふたつの「シルクロード」があった。
「陸のシルクロード」は、長安から出発し、中央アジアを横断してローマにいたる東西陸上交易路である。紀元前二世紀ころから数百年にわたって、中国特産の絹がこの道をとおって西方へもたらされたことからこの名が生まれた。むろん一本だけの道ではなく複数の街道の総称である。物資だけではなく、文化や民族などの東西移動の幹線道路でもあった。
一方、「海のシルクロード」は陸よりも歴史が古い。先秦時代、すでに嶺南地域において、海浜沿いの百越民族は小舟による南太平洋諸島への往来を開始しており、時代をくだるにつれ海上交通はしだいに活発化していった。
ポリネシア・北ボルネオ・インドシナ半島・フィリピン・インドネシアなど各地の新石器時代の遺跡から、百越民族が用いた石斧・
海路を通じて伝播した明らかな証拠といっていい。
秦の始皇帝が嶺南を統一するまえから、南越の海人は海外と交易をおこなっていた。当時、すでに広州一帯は海外からもたらされる犀角・象牙・翡翠・珠玉の集散地として名を馳せていた。
海のシルクロードとはいうが、交易物資は絹にかぎらない。陶磁器・茶葉も輸出し、金・銀・珍珠・玉璧・瑠璃・象牙・沈香・犀角・玳瑁などを輸入した。南越王墓からの出土品をみると、趙始の時代にはすでに華南を発して、南シナ海、インド洋を経て、ペルシャ湾ないし紅海をとおり地中海世界につながる航路が拓かれていたとみてよい。
ただ残念なことに趙始には、漢武帝の船団のように具体的な航海記録が残っていない。想像だけでは頼りないので、それ以上の追及は終わりにした、と山川はいう。
「もっとも、初代南越王趙佗の陵墓が発見されれば、絹布に書かれた航海日誌が出てくる可能性は残っています」
静かな口調でそうつけくわえると、確信するかのように杯を挙げて「
ところで、「琅邪の盟」という始皇帝の未完の事業とは、いったいなんだったのか。
わたしは山川に質してみた。
「常に時代を先取りする始皇帝のことです。海外に朝貢国や同盟国をいくつも持ち、自由に行き来できる世界を期待したのではないでしょうか。ことによると始皇帝は、趙始のように帆船に乗って、じぶん自身で自由に飛びまわりたかったのかもしれませんね」
中国古代、計画された組織的大規模航海は始皇帝が最初だったという。前二一九年、第二次巡幸において
「始皇帝は船が好きだったようです。嶺南征伐には五十万の兵士を楼船で移動させていますし、広州には古代の造船基地を築造しています。秦代の大型船の造船所遺跡が、広州市内で発掘されているのです。出土した遺跡から嶺南統一のころ、つまり始皇帝の時代の造船技術は、かなり高度な技術レベルにあり、幅八メートル、長さ三十メートル、積載量五十―六十トンの大型外航船の建造が可能であったろうとみられています。これでしたら、遠洋航海にも十分適応できるのです。漢代、南越国のころには、貿易風の知識もあり、太陽や星を航海に利用する観測経験を積み重ね、航海技術は一段と向上していたといいますから、始皇帝に時間があれば、ペルシャ湾まで乗り出し、大英帝国は無理にしても、海のアレキサンダー大王くらいは実現していたかもしれません」
歴史にイフはナンセンスである。すでに始皇帝はじぶんの持ち時間を使い切っていた。だから次の世代に夢を託したのではないか。
「始皇帝は幼児のころ趙に人質として母と暮らしていましたが、その当時の栄養不足がたたって、病弱だったのではないかといわれています。おまけに仕事の虫だったですから、休む間を惜しんで働いていました。その疲労の蓄積も常人の比ではなかったとみられます。それにくわえて巡幸です。好んで命を縮めていたといわれても仕方ありません。ですから仙薬探しは、不滅をイメージするためのカモフラージュではなかったかと思います。長寿が不可能なことは、誰よりも本人が一番よく知っていたのではないですか」
永遠の寿命が不可能であるのと同様、武力による制覇は、より強い武力に取ってかわられる。永遠の武力なぞ存在しない。
だから趙佗は、武器を放棄しようとした。武力によらない「通商帝国」の発想である。
「始皇帝が大英帝国なら、趙佗は香港だった、といえばわかりやすいでしょう。一国二制度は、すでに漢にたいし、趙佗が南越国で実践済みです。中原からの南遷移民といい、南方や西方の物産の中継貿易といい、よく似ていると思いませんか。今回、香港返還における一連の手続きには、中国数千年の伝統が生かされているように思います」
「さしずめ趙始と媚珠は、始皇帝の意を汲んだ具現者ですか。それにしても気になるのは、かれらのその後です。かれらは帰ろうとすれば南越に帰れたわけでしょう」
「趙佗は
てきぱきと解説するきょうの山川は、どこか若やいでみえる。少なくとも離任時に悄然として工場をあとにした印象にくらべると、格段の差がある。
「自由に生きると、若くなりますか」
すこし皮肉っぽくいってみたが、山川は気にもとめず、正論で応じた。
「会社を辞めて束縛がなくなった分だけ、自己責任が重くのしかかってきました。いずれにしても、社会的拘束から逃れられないなら、じぶんの意思で好きなように生きてやろうと、腹をくくったということです」
長く留守宅を守り、こどもをそだてた配偶者とは、どちらからいうでもなく、退職後、協議離婚し、退職金を分けたうえ、じぶんから家を出たという。こどもたちも社会人になっており、とくに反対はしなかったらしい。
「たぶん、こんな親父じゃしょうがないと、呆れかえったのでしょう」
在職中、半生のほとんどを東南アジアや中国の工場で勤めた山川には、老後の行き先に不自由はない。過去の知り合いを尋ねあてながら趙始と媚珠の足取りを追って、東南アジアを転々としていたとして、違和感はない。
単身赴任で海外暮らしの多いわたしには、なんとなく納得できる。
ところで、さいぜんから気になることがあった。前の席に座った妙齢の美女がしきりに振りかえるのだ。東南アジア風のおもだちである。山川にうながすと、かれは破顔して、
「わたしの媚珠、ミチャウです。ベトナムで知り合い、一緒に旅をしています」
抜けぬけといったものである。
やがてふたりは、わたしに軽く会釈すると席を立って、外に出た。外はまだ雨だった。ひとつの傘に寄り添うふたりのうしろ姿は、やがて闇のなかに溶けこんでいった。
夜の香港にとても似合ってみえた。
(完)
趙始と媚珠 ははそ しげき @pyhosa
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