第三章 海のシルクロード

 

 呂太后が悶死したのち、呂氏一族は皆殺しに遭った。劉氏一派の報復である。

 その翌年、漢の文帝劉恒が即位した。かれは、呂氏集団の壊滅をもって決着した激烈な内部闘争を収拾し、天下の人心を休ませなごませる必要のあるときに皇帝となった。

 かれは南越にたいし、劉邦路線を踏襲した。呂太后の対南越政策の誤りを根底から正したのである。

 さらにかれは、人を遣わして趙佗の父祖の墓を修復し、一族を見舞わせ安撫した。また趙氏一門で皆殺しを免れた眷属を探し出し、官職につけ禄高を与えた。こうしたやりかたは、趙佗の心に大きく響いた。

 さらにそのすぐあと文帝は、陸賈をふたたび起用した。太中大夫に封じ、南越国へ遣いすることを命じたのである。

「一死をもって趙佗にわびる」

 高齢の陸賈は、己がいのちを賭ける覚悟であった。前回の旅から十六年の歳月が経っていた。すでに七十歳を超えている。

 文帝即位の年、老陸賈は一名の副使をともない、再度、嶺南へ赴いた。

 一方趙佗は、こんど来る漢の使者はやはり陸賈だろうと予感していた。しかしこんなにすばやく文帝が反応するとは、思ってもみなかった。心中おおいに恐れいりかしこまった。

 それにもまして、陸賈がなつかしかった。

 使節の到着を聞きつけるや、前回とは異なり、趙佗は大急ぎで城門を開けさせ、みずから群僚の隊列をひきつれて出迎えた。旅の疲れのせいもあろうが陸賈は老いてみえた。

「すまない」

 趙佗は陸賈の手をとって、小声でわびた。

「いや、わびるのは老生わたしのほうだ」

 陸賈が屈託のない笑顔でこたえた。心が通いあった。ときの隔たりが一気に遠のいた。

 陸賈は、漢文帝の親書をたずさえていた。

 高祖劉邦の人を威圧する高飛車な口調とはうってかわり、文帝の詔書はつつましくへりくだった調子でつづられていた。

 翌年、使命を終えた陸賈が嶺南を去った。趙佗はかれを徳慶まで見送った。徳慶はいまの広西との境にある。

 なごりはつきなかった。陸賈の年齢から推して、この世でふたたびまみえることは至難に思えた。趙佗自身すでに還暦を超えている。

 越漢の対立は解消した。帝位にこだわる気は、趙佗にはない。王として南越国内の経営に専念できればそれでよい。

 しかし、南越の領土は広い。西に南に開拓の余地はまだまだ残されている。国内の世論対策もある。南越国内と一部の外国にたいしては、その後も皇帝と称しつづけた。

 漢を欺いたわけではない。漢にたいする尊崇の念は忘れていない。朝貢も欠かさない。

 ただ漢の存在を知らない地域や国も多い。英語のCHINAの語源は秦(QIN)にあり漢(HAN)ではない。始皇帝の秦帝国は十五年と短命だったが、前代の秦国は春秋時代の襄公からかぞえ約五百三十年の歴史があり、知名度には大差がある。秦を継承した南越国皇帝のほうが通りやすい。国内統治と対外折衝に便利であれば、遠慮は無用と達観した。

 秦の始皇帝は西方の秦国から出て、東方世界を制覇した。さらに海を隔てた東海の三神山の獲得に意欲を燃やしていた。その夢は徐福に託したが、結果を待たず他界した。北は長城で線引きし、化外の地として封じ込めた。

 南にたいしては、これも趙佗の南越建国の報告を待たず、帰らぬ人となった。

 いまにして、趙佗は思う。

 ――嶺南においては領土そのものよりも、その先にあるものを望まれたのではないか。

 かつて始皇帝は、嶺南派遣軍五十万をまえになにを下知したか。

「南越には中原では手にはいらない犀角・象牙・翡翠・宝珠など、優れて珍しい異国の財宝がある。みなのもの、朕がためにその地を占領してまいれ」

 始皇帝は、南越の先をみていたに違いない。

「嶺南平定のあかつきには、朕がため南海に遠洋航路を拓け」

 これが始皇帝の最後のメッセージとなった。


 始皇帝の時代、嶺南地域には南海・桂林・象の三郡がおかれた。いずれもいまの広東から広西にかけての地域である。趙佗の時代になっていまのベトナム中北部まで版図を拡大した。安陽王の甌駱国を征服したのである。

 しかしベトナムとていまのインドシナ半島の一部にしかすぎない。

 ――その先に大海があり、大海の先にまた国がある。

 趙佗は越秀台にのぼり珠江を見据えた。

 往時、珠江デルタは形成途上で、湾内の砂洲越しに、いまの珠海と澳門マカオが珠江口のあたりに垣間見え、さらにその先に南海の広がりが望見できた。いまの番禺・中山と順徳の一部は、番禺湾のなかに大小の砂洲として点在するにすぎず、満潮時には湾内に水没した。

 南海のかなたには、まだ見ぬ異国が数限りなく存在しているのだ。趙佗の眼はさらにはるか遠くを追っていた。

 あたかも始皇帝没後三十二年である。始皇帝の没年は五十歳、いま趙佗は始皇帝よりも十二年余分に生きたことになる。

 ――それでなにをなした。なにが残った。

 かつて始皇帝が琅邪台でいつまでも厭かず海を眺めていたように、趙佗もまた陽の落ちた珠江を食い入るように見つめていた。またたくまに夜の闇が広がり、静寂が孤独な老王を包んでいった。

 趙佗はあたためて決意した。

 ――船団をつくろう。さらに大きな船を何隻も建造して船隊を組み、世界の果まで交易の航路を拓くのだ。

 始皇帝の事業は、戦争による領土と人民の征服ではなく、多くの国ぐにとの交易を通じて、友好的に達成できるのではないか。

 いまのことばで通商帝国といったニュアンスの国際組織が構築できれば、始皇帝のいう「因習をうちやぶり、民族の垣根をとりはらい、広く海外に智識を求め、秦の文化と技術を伝播する」ことが可能なのではないか。

 見返りに、世界中の物産を交易するのだ。

「琅邪の盟」から三十七年経っていた。血盟の友の多くは、すでに物故するか、つぎの世代に引継がれていた。趙佗もまた趙始に托する決意である。

 趙佗は筆をとった。一人ひとり盟友の顔を思いうかべつつ、意中をつづった。書信は百通にのぼった。しかし行方の知れぬ相手も少なくなかった。それを承知のうえで、趙佗はあえて己の覚悟を告げたのである。

老夫わしらの時代は終った。しかし次の世代がいる。かれらに始皇帝との血盟の事業を継承してもらうのだ。波頭万里のかなたを遠しとしない、有為の青年を推挙してもらいたい」


 折りしも、趙始が媚珠ともども帰国した。

 呂太后の「別異蛮夷」政策で軟禁された中原の母を案じて南嶺山脈を越えて以来、五年ぶりの帰還である。三隻の帆船に分乗してきたかれら船団三百名は、みなひとかどの航海者に変貌していた。そのなかには蓬莱からくわわった徐福の子孫もふくまれていた。造船の差配、大船団の編成にはうってつけである。

 五年前、趙始らは山東に逃れたあと、すぐには朝鮮へ渡らなかった。山東で徐福の縁者を探しあて、徐福流の造船技術を学んだのである。みずから遠洋航海用の大型帆船をつくり、処女航海で徐福の軌跡を忠実に追った。蓬莱からきた徐福の一党が水先案内に立った。

 渤海を北上し、釜山経由で対馬を越え、北九州に上陸、現地を数ヶ所踏査したのち、瀬戸内海を巡航し、熊野にいたった。

 徐福の東渡から二十七、八年経っていた。徐福はすでに亡くなり、かれに同行した童男童女のなかには孫をもつものさえいた。


 当初、山東から入植した徐福ら移民団の一行は、現地の民と一体となって開拓活動をおこなった。

 森林を伐採し、原野を耕地にかえ、耕作に従事した。五穀の種は、数代にわたる品種改良をほどこされ、みごとな花を咲かせ、たわわな実をむすんだ。稲作の伝播にも成功した。かれらの開拓事業は、文字どおり成果を得た。

 養蚕をおこない生糸を紡いだ。牛・馬・豚・鶏などの家畜・家禽を飼育した。魚介類を捕獲し、やがて養殖に移行した。百工はそれぞれの技術移転をなしとげ、初歩的な鉱工業、採鉱・鍛冶・製鉄の技法が芽生えていた。

 未開の原住民に大陸の先進的な技術と文化を移入し、子々孫々永遠につづく生活手段を伝承したのである。かれらは四季の移りかわりにしたがい、子を生み育て、争いのない安穏な日々を送っていた。

 不老長寿の仙薬こそ手にはいらなかったが、野生の植物や自然の鉱物から薬を調合し、病気や怪我けがに対症した。この時代すでに中国医学は経験的医療の積み重ねで、かなり高度な水準に達していた。歴史上、名医として著名なのは扁鵲へんじゃく華佗かだである。華佗は三国時代の人だから、まだ存在していない。当代の扁鵲は死人を生き返らせたことで名を挙げた。「神医」の異名をもつ。もっとも本人にいわせると、「死人を生き返らせたわけではなく、まだ死んでいない人を治したのだ」ということになる。

 この中国伝統医学の初歩的技術が徐福を通じて伝播し、やがて日本に根付き、江戸時代に漢方として隆盛をきわめる。

 倭人が中国の正史にはじめて登場するのは『漢書・地理志』である。

「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となり、歳時をもって来たり、献見すという」 

 という記事で世に知られている。

 楽浪は漢の武帝によって前一〇八年、朝鮮半島に設置された四郡のひとつで、郡治はいまの平壌付近にあった。趙始東渡の七十数年後ということになる。この当時の百余国は、約三百五十年後の三国時代には、「使訳通ずるところ三十国」に集約されている。有名な「邪馬台国」は、そのうちの一国である。

 当時、趙始ら一行が航海の途上で見聞した各地の情況は、小国乱立にさしかかるころであったろうか。すでに一部では淘汰がはじまっていたかも知れない。

 弱肉強食は世の習いである。強者が弱者を吸収し、領地を広げ、支配下の民を増やしてゆく。新興の征服者が虎視眈々、侵略に有利な地域を物色して移動を重ねていた。

 この時期、日本は縄文晩期から弥生前期への過渡期にあたっていた。

 趙始ら一行は、移動するつど各地で交易をおこない、鞘稼ぎで生活の糧を得つつ、地域の情況を探索した。抗争のなかで軍団ごと雇用されたこともあった。帆船をあやつり、紆余曲折を経て一年かけてようやく熊野にたどりついたのである。

 このころ媚珠の心に変化がきざしていた。望郷の念がつのったのである。

「南に帰りたい。父祖の地にもどり、祈りをささげたい」

 たまらなくそう思った。

 倭人の風俗習慣は、中国南部からインドシナにかけての地域に酷似していた。媚珠の出自はかつての甌駱国、いまのベトナム北部に存在した国である。

『魏志倭人伝』に文身や貫頭衣の風俗が記されている。

「男子は大小となくみな黥面げいめん文身す」

 黥面は顔にほどこす入墨であり、文身はからだにつけた入墨である。身分の尊卑にかかわらずみな入墨した。所属する国や身分ごとに位置や模様に区別があった。一種の魔よけであるが、大きな魚や水鳥を脅かし、害を防ぐという実効性もあった。中国江南からインドシナにかけて、龍やワニの文身がみられる。ベトナムでは中世まで王はからだに龍の入墨をした。ラオスでは下肢にワニの入墨をした。この漁民の風俗が倭人にもあったのである。

 また貫頭衣という女性の衣服もインドシナに共通のものである。

「衣を作ること単被のごとし。その中央を穿ち、頭を貫き、これを着る」

『魏志倭人伝』は三世紀中国の倭人観を示すものであるが、春秋時代、呉越以来の伝統風俗とも認められるから、趙始らがゆく先々で眼にしていたと仮定して矛盾はない。

 父安陽王が媚珠の夢枕に立った。父はからだにみごとな龍の入墨をほどこしていた。龍は王族の証である。安陽王は犀にうちまたがり、沖に向かっていた。媚珠は浜辺で父を見送っていた。振りむいて媚珠を凝視した安陽王は、内陸を指差した。あたかも媚珠に甌駱国を託すかのように指差し、やがて波頭のなかに消えていった。媚珠の身代わりに処刑された侍女東玉の姿が波間に浮かんでは消えた。

「東玉、どうすれば、あなたに償えるの」

 媚珠は夢のなかで、いくども侍女に詫びた。

 媚珠の望郷の念は、趙始らを動かした。

かれらは乗ってきた船を念入りに修理し、さらに新たな船を二隻建造した。一隻に百人、いまや三百人の船団に成長していた。食糧を蓄え、交易の品々を積み込んだ。携帯する大小の武器類は細かい作業工程を指示し、現地でつくらせた。このおり培った武器製造の経験は、のちに平和な共存共栄の村を一変させることになる。この技術は日向ひゅうがから熊野にいたった神倭かんやまと伊波いわ礼毘れび古命このみことの東征軍団に、工匠もろとも引継がれたのである。つまりのちに神武天皇の国づくりに貢献することになる。

 むろん巷説である。文献に記録はなく、真偽のほどは定かではない。

 日本九州の博多湾を出発し、東シナ海を横断すれば、中国浙江省の沿岸 寧波ニンポー付近に到着し、それから海岸に沿って南下すれば広州に達する。徐福の子孫が、その当時、すでに江南の会稽かいけいまで定期的な交易ルートを確立していたことは、『後漢書・東夷伝』に記されている。さらに浙江から福建 東冶とうや(いまの福州付近)を経由し番禺にいたる沿海ルートは、経済封鎖のうらをかいて、南越国が切り拓いていた。

 やがて趙始と媚珠にひきいられた船団は熊野を出航し、浙江を経て番禺の港にはいった。

 先触れが伝わっていた。

 大勢の国人が港を埋めつくしていた。五年ぶりの帰還である。出迎えの人びとは、身内をみつけるや肩を抱きあって無事を喜んだ。抱擁する夫婦、見つめあう親子、はじめて見るわが孫を大きく抱き上げる祖父もいた。趙始と媚珠の双子の男子はすでに青年である。

 趙佗は高楼に立ち、そんな港の光景に見入っていた。かれもまた趙始や媚珠の帰国をだれよりも喜んでいた。

 城内で連夜にわたって歓迎の宴が催された。

 趙佗はじぶんの構想を披瀝した。大型船を十隻建造し、千人からなる交易船団を組んで、一年後、南から西に向かって遠征するのだ。

 まず趙始と媚珠が立ちあがって賛意を示した。つづいて帰ったばかりの海の男たちがわれもわれもと立ちあがり参加を訴えた。地元で海事にたずさわる若者たちも、臆せずなのりをあげた。またたくまに千人の候補者が出揃った。波濤万里のくにを遠しとせず、操船技術と度胸をかねそなえた海の荒武者が勢ぞろいしたのである。中原の各地から推挙された血盟の縁者らがそれにくわわった。

 趙始は南越国後継者の地位を捨てた。無名の海の男で生きる決意をあらためて表明した。媚珠もまた一度は捨てた命である。海の果てまで趙始についてゆく覚悟を口にした。

 双子のわが子も同行を望んだが、さすがにこれは許すわけにはゆかなかった。祖父趙佗に、ふたりの将来を託した。

 一年後、かれらは番禺の港を出帆した。

 船団は、一隻また一隻、別れを惜しむかのようにゆっくりと船出していった。

 その後、一、二年おきに、季節風の方向と海流の流れに乗って、交易物資を満載した帆船が一隻ずつ帰港した。犀角・象牙・玳瑁たいまい(海産のカメ、甲は鼈甲べっこうになる)・銀・銅など、貴重な物産の交易利益は南越国を繁栄に導いた。

 帰港した商船は積荷をおろしたあと、修理改装され、ふたたび航海に出るのである。

 大洋は穏やかな日ばかりではない。暴風で荒れ狂う海域では、怒涛に翻弄され暗礁に乗りあげたり、沈没したりすることも珍しくはない。ときには海賊に襲われ、放火されることもある。板子一枚下は地獄の世界である。しかしかれらは懲りもせず、また海にもどる。


 趙始らの船団は風を孕んだ帆をつらね、海流に乗って南下した。ゆく先々のおもな港市で帆をおろし、水を求め食糧を積んだ。交易の実績と交流の足跡を南洋各地に残した。

 ときに入港を拒まれ、攻撃をうけたり、海賊に襲われたりもした。趙始ら一行は、交易主体の商船隊であるが、南越国の文化交流使節団でもある。頑なに門戸を閉ざす国にたいしては、意を尽して文化交流の有益さを説いた。因習に縛られ新たな文化を拒否する部族にたいしては、武器をもって威嚇してでも、その固陋な精神をぶち破った。安易な眠りは平和につながらない。遠からず新たな文明の餌食になるだけだ。目覚めよ、一刻も早く。

 かつて南蛮と蔑まれ、蛮荒の百越と恐れられたものたちの後生こうせいが、父祖に成りかわって惰眠からの脱却を説いたのである。頑迷の輩には実例で示すのが、もっともわかりやすい。

 そこで、媚珠の出番である。

 媚珠ははじめ、鎧兜に身をつつみ、武器を手に騎馬で登場する。そして数人の男を相手に、武術を演武する。女だてらに華麗で激しい神技の数々に、観客は圧倒される。

 さらに、鉄製武器の試し斬り、大型弩弓の迫力ある実演で度肝を抜いておいて、媚珠は再登場する。「早変わり」である。

 化粧をほどこし、絹の衣に珠玉の装身具で飾り、冠を戴いた媚珠の艶やかさは、天女の化身かと見まがうばかりに神々しい。

 女のため息に古今東西の差異はない。媚珠はもとベトナムの公主である。同じアジアの女性ならではの凝った演出にため息がでる。

 いずれの国も王族の皇后貴妃がまっさきに文化交流に興味を示し、男どもからイニシャチブを奪いとった。

 珠玉の産地をもつ国には、絹織物を原石と物々交換した。珠玉の細工技法を伝授し、付加価値をつける智恵も教えた。縫製技術を身につければ絹綾の民族衣装ができる。要求に応じて養蚕の指導者を残留させた。百工いずれの分野においても、相手国が導入に意欲をみせれば、技術指導を惜しまなかった。武芸百般、航海技術、治世の極意、習得に時間のかかる分野については、南越国への留学をすすめた。

 数世代を経て、かれらのなかから有力な新興国家が誕生することになる。

 一方、海賊行為にたいしては、容赦しなかった。生け捕りにした襲撃の首謀者は、衆人看視の面前で、理非を正したうえ処刑した。絞首・磔・火焙りなど、罪の軽重に応じ、刑に変化をもたせた。一罰百戒の見せしめである。組織的で悪質な大型の海賊集団にたいしては、根城を攻撃し、徹底的に破壊した。

 趙始は限られた時間のなかで己が使命を全うするため、神ともなれば悪魔ともなった。

 交流は順調に展開した。現地官民の理解を得られ、各地の物産情報が寄せられた。帰路に持ち帰る物産については、人を残して手配させた。残置者のなかには、現地がよくて帰国せず、そのまま居留をつづけるものもでた。これが数代つづくと華僑のはしりとなる。かれらは近隣の残留縁者同士で連絡を取りあい、国境をこえて通商情報を交換しあった。

 趙始らは、さらに西方世界をめざした。

 はじめのうちこそ本国との連絡は絶やさなかったが、西に行くほどその通信はまばらとなり、やがて途絶えた。時おり、地元に定着した華僑の子孫が、関係者の不確かな消息を母国の縁者に流し、それによって奇跡的に伝えられるのみであった。

 さらに時が流れ、西方渡航者の行方を知るものはいなくなった。


 前一一一年、宰相呂嘉と最後の南越王趙建徳を抹殺し、南越国を滅ぼした漢の武帝は、趙佗に倣い、大規模な海外貿易に乗り出した。

 趙佗が百三歳という高齢で大往生してから、二十六年後のことである。

 目的は、新たな国家財源を捻出するためだった。たび重なる匈奴遠征と西域開拓、さらには「陸のシルクロード」の維持に膨大な費用をかけ、「腐るほどある」と豪語したさしもの財源も、もはや枯渇寸前にまで追いつめられていた。「海」の交易量は、「陸」をはるかに凌ぎ、とうぜん交易利益もそれに比例したから、狙いは正しかった。交易規模はより拡大した。漢の武帝は大型船団を派遣した。

 武帝の船団が寄港した地域が、史書に残されている。日南(ベトナム中部フエ)・象林(ベトナム広南濰川南)・都元とげん国(スマトラ)・湛離たんり国(ミャンマーイラワジ川沿岸)・黄支こうし国(インドマキラス付近)・已程不国(スリランカ)などである。かれらは寄港地に上陸するや、真っ先に通訳を捜した。

 どこの港でも、捜す必要はなかった。地元民のなかにかならず通訳できる人間がいて、漢船の寄港を待っていたのである。おまけにかれらはただの通訳ではなかった。地元の特産品情報に通暁しており、漢の物産知識にも明るかった。試みに数代まえの出身地を尋ねると、多くは南越国に集中していたが、その先の先祖を聞くと中原の地域をいうものもいたから、漢船の水手かこらは驚いた。通訳の示唆で購入した現地の特産品は、漢に持って帰ると、かならず高値で売れた。

 ただ、もう一度会いたいと思って捜しても、ふたたび現地で会うことはできなかった。

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