第二章 南越建国


 前二〇四年、趙佗は南越国を建て、自立した。南越武王と称し、都を番禺に定めた。

 秦の制度にならって郡県制を維持し、中央と地方の両管制からなる独自の官僚システムをつくった。秦の三郡は甌駱アウラク国の攻略で領域が広がったため、もとの象郡を交阯こうしと九真の二郡にわけ、南海・桂林とあわせ四郡にした。

 いまの広東・広西からベトナム中北部にいたる広大な地域を領有したのである。

 丞相の職には、越人の呂嘉りょかをあてた。父のあとを継ぎ、いまは一族の長として順徳の民を治めている。血気盛んな時期もあったが、徳を重ね、地元の信望も篤い。趙佗とは気心が知れ、「おれ、おまえ」の仲である。順徳は、いまの仏山市順徳区、広州の西隣にあたる。

 趙佗は呂嘉に宣言した。

寡人じぶんは嶺南統一戦を最後に、武器を捨てる覚悟だ。南越国の過剰な兵卒と軍備を徐々に減少させていきたい。ことに国内の統治にさいしては、武器の威嚇による中原人の百越支配体制を脱却し、越族のすべての族人が中原人と同等の権利を主張できる『和集百越』の精神でおこないたい。これにはおぬしの協力が欠かせない。おぬしが先頭に立って、百越の有力者を領導してもらいたい」

 呂嘉はかねがね趙佗に信服していたから、絶対の信頼をもって委ねられれば否やはない。

「陛下の思し召すところにしたがい、南越国の発展のため、身命をなげうちます」

 このことばどおり呂嘉は趙佗亡きあとの南越国の最後を見届け、国と運命をともにする。

「広大な土地に住民は疎らである。官の先導により、短期間に一定レベルまでの開発を達成したい」

 趙佗の発想で、数十万人規模の人員を膨大な官営システムに組み込んだ。

 後宮の妃嬪、内官、侍従の人員、中央・郡県の長官・官吏、国境防衛の武将吏卒らに従者がくわわる。城郭建設、道路工事、共同住宅建築など公的事業にたずさわるもの、造船工場・器物工房・農場・果樹園など官と名のつく作業所で働くすべての人びとがシステムの構成員となった。越族で賛同する部落は、部落ごと官営農場とした。

 総人口約百五十万人の半数が原住の越族各部民で、残りが秦以来の駐留軍人と新来の南遷移民である。治安対策や就業保障、食糧の確保など、社会の安定を早期に確立するためには、官業が多面的計画性をもって率先して動く必要があった。南越国の初期段階においては、末端の小吏と中原からの南遷移民が、多くの役割を担ったのである。

 官営工場で生活用品を製作し、官営農場で農作物を生産した。時代はやや下るが、郡治など比較的大きな城鎮に設置された「きょ」「」という市場いちばは朝から人で賑わった。

 民営の事業も機に応じ、社会に溶けこんだ。屯田経験のある士卒は武器を捨て、容易に帰農した。腕に職のあるものは技能を生かし、工房をひらいた。商才に長けるものは商賈しょうこに転じた。

 操船の巧みな趙始は、媚珠とともに商船隊を組織し、南海を往来する交易をはじめた。師傅しふの趙成が後見した。趙始は治所で執務することを嫌い、媚珠は宮中での生活を楽しめなかった。ともすれば趙佗の名代と称し、ふたりして他出するほうを望んだ。

 治世には向かぬ。趙始も思い、趙佗もまた南越国の後継にはなかば諦めていた。しかし趙佗にはまだやり残したものがあった。悲願といいかえてもよい。「琅邪ろうやちかい」である。

 趙佗は趙始に、始皇帝との「魂の誓い」を承継させる決意で、趙始の太子を廃嫡した。始皇帝との盟約を優先し、その達成を趙始に期待したのである。

 媚珠との婚姻の前日、ふたりをまえに、趙佗は「琅邪の盟」を語り聞かせた。

「趙始よ、そもそもなんじの母との婚儀においては、始皇帝陛下が御みずからご媒酌下されたのだ。わしがまだ二十はたちで、お側にお仕えしていたころだ」

 その母は南越建国後も中原に留めおかれたままである。秦が滅んでからも解放されず、漢の長安にいる。人質の立場はかわらない。

 趙佗は身の回りの世話をさせる側室そばめはおいたが、本妻はかえなかった。空位とはいえ、趙始の母を南越国の皇后として、終生敬ったのである。

「なんじが生まれたとき、始皇帝陛下よりなんじの名に、始の一字を賜った。さらに趙始に子が生まれたときは、上は蘇、下は胡とするようにと仰せられた」

 蘇は長子の扶蘇ふそから、胡は末子の胡亥こがいから、いずれも始皇帝の御子の名より一字づつあらかじめ賜っていたという。

「陛下は、これをもって誓いの証とし、代を重ねてもけっして忘却せぬようにと、ご叡慮いたされたのだ。わしにたいしては、嶺南の開発と西方世界に通じる海洋の開拓を仰せつけられた。一代で足りなければ、二代,三代にわたってでもなしとげよとの仰せであった」

 趙佗が嶺南に去るにさいしてのはなむけのことばである。結果的に遺言となったが、「琅邪の盟」の具体的指示のひとつだといっていい。

 だが、「琅邪の盟」の本質は、さらに深く、はるかに広い。無限のときを相手にしなければならないのだ。いまはまだ南越の開発と発展にのみ全力を注ぐべきときである。

 趙佗はまぶたを閉じて、在りし日の始皇帝を回顧した。慈顔はあらわれなかった。いつもどおりの厳しい面貌が脳裏に浮かび、たちまち一喝された。

「なにをためらうか。はよう、ことをなせ」

 始皇帝は、中原統一の十一年後に崩御した。その間、五度の全国巡幸をおこなったが、うち琅邪へは三回も足を運んでいる。滞在期間も比較的長い。天下経営の構想を練るのに適した場所だったのだろうか。琅邪はいまの青島チンタオ膠州こうしゅう湾の南西、膠南市南境に位置する。

 始皇帝の側近くに仕え、警護にあたる近習は、全国から選び抜かれた俊英ぞろいである。歳こそ若いが、みな己が一身を犠牲にして始皇帝の身代わりとなる覚悟をもっていた。

「近侍のわしらに、陛下はときにおことばをかけてくださることがあった。ただそれは生易しい問いかけではなかったから、うかつな答えは出せなかった。たとえば、なにをもって刑名というか、法術とはなにか、というようなことで、まさに学問のご指導をされているかのようであった」

 ちなみに、「刑名」とは名実一致をいう。君主は、臣下の評価にさいしては、ことばと実績をつきあわせ、言行一致の有無を重視すべきだとする。また「法術」とは行政技術をしめす。秦の政治においては、国家統治の根本原則を法と賞罰においたのである。いずれも『韓非子』の説くところである。

「そんなとき、厳格な始皇帝のお顔が、わずかに緩むことがあった。わしらが答えに窮したときや、的外れな答えをいったばあいだ。厳しさの一方で、わしらの成長を見守っておいでになっていたと、いまになって思う」

 始皇帝の「私塾」とでもいっていい光景がほうふつとされる。冷酷非情なイメージで語られることの多い始皇帝であるが、愛弟子たちには慈父や師父の面影が残されている。

「あるとき、方士の徐福殿がおいでになり、船にまつわるおはなしを聞かせていただいた。造船法、航海術、各地の探検談、さらに仙薬探しなどだったが、なかでも東方海中にあるといわれる三神山、蓬莱ほうらい方丈ほうじょう瀛州えいしゅうのことは、いまも記憶にある」

 いずれも伝説の島々である。徐福はすでに踏破したのか。四季があり、自然の色がとりどりに変化する。花が咲き、五穀が実る。争いを好まぬ温和な民が住む。ことに蓬莱には不二ふじの山という、いただきに雪を冠した美しい神山があり、神仙が棲んでいる。神仙は不二の山の清らかな谷川の水辺に自生する薬草を練って不老長寿の妙薬をつくるという。

「徐福殿はこの仙薬を皇帝に献上するとお約束された。その見返りに、秦の偉大な文化と技術をかれらに伝えたいと仰せられ、のちに大勢の若者と百工をともなって、かの地へ渡られた。いずれ機会もあろう。なんじらに徐福殿の後裔がどうされているか、ぜひ見届けてきてもらいたい」

 四回目の巡幸で琅邪滞在の一日いちじつ、かれらは始皇帝のまえで血盟した。「琅邪ろうやちかい」である。徐福の東海船出の五年前のことで、とうぜん徐福も顧問格でくわわった。

 始皇帝の事業を、世界の果てまでもくまなくおよぼそうという壮大なる血盟である。因習をうちやぶり、民族の垣根をとりはらい、広く海外に智識を求め、同時に秦の文化と技術を伝播し、万世一系の始皇帝王朝の礎をさらに強固にうちかためようという盟約なのだ。

 血盟には、過去と当時の近習を中心に、始皇帝の身近で直接薫陶をうけた縁者がくわわった。韓非の係累、呂不意の子弟も名をつらねている。


 太子廃嫡後も趙始の日常に変化はなかった。

 趙始は帆船に風をうけ、喜々として南海を自在に動きまわり、新たな航路の開拓に余念がなかった。航路の先々に未知の世界がひろがっていた。

 媚珠は懐妊の一時期、船を離れた。やがて双子の男児を産んだ。兄は趙蘇、弟は趙胡と命名された。この趙胡が、のちに二代目南越王となる趙眜ちょうばつである。


 みずからも漢朝建国の緒についたばかりで多忙をきわめていた劉邦は、南越国を暫定的に黙認していた。それが前後八年にもおよぶと、さすがに王朝内部から批判が噴出した。「過分な南越を打擲ちょうちゃくせよ」という武断論である。戦火の再発に危惧をいだく劉邦の意を汲み、謀臣 陸賈りくかが火消し役にまわった。

 前一九六年、漢朝は大夫たいふ(政府高官)陸賈を南越国に派遣した。

 趙佗を説得し、漢室の臣であることを承知させる、劉邦直々の使節である。条件は南越を諸侯国待遇とし、南越王の称号を承認するというものである。

 接見のとき、趙佗は越族にみまがういでたちであらわれた。頭巾をつけず、槌型のまげを頭髪の真上で結いあげ、両足を投げだしたまま座った。倣岸不遜の態である。

 陸賈はすこしも動じず、漢に帰服することの必然性を説明した。

「戦えば万にひとつも勝ち目はない。平和裏に手をうてば戦火は免れる。中原の協力を得て国土を開発し、経済交流を活発におこなうことこそ民の意にかなうのではないか」

 陸賈は淡々と正論で説いた。

「たとえば、南越のもつ異国の財宝は、漢土においてこそ数倍の価値がある。南越国内で物々交換してみたところで、価値は知れている。また、秦以来の造船技術は漢に引継がれ、特段の進歩をみている。さらに遠方へ向かうとき、新技術の習得は必至である」

 陸賈の弁には、誠実さがこめられていた。漢との経済交流こそ、南越の発展に通じる。

 しばし黙考ののち、趙佗は己が非を認めた。

「じぶんは蛮荒のなかでの生活久しく、中原の礼儀を忘却し、ご無礼つかまつった」

 威儀を正し、漢朝への帰服を誓ったのである。漢高祖より賜った南越王の称号をおしいただき、南越王の印綬と宝刀を拝受した。

 漢朝は南越国に鉄器と耕作用牛馬などの物資を供応することを約束し、南越国も不定期に漢王朝にたいし、貴重で珍しい品を貢納することに同意した。そこで新道を開き、国境貿易を公式に開始した。嶺南と内地との通商往来は、相互に利益を享受した。両地の経済的発展や文化的交流が平和裏に促進された。


 出産を終え、媚珠が船にもどった。

 一日いちじつ、趙始は媚珠をともない、船を仕立てて南下した。もとの甌駱アウラク国都城・古螺コーロア城へ向かったのである。

 媚珠にとっては一年ぶりの航海である。ましてや故国への帰参は八年ぶりのことになる。

 これまでいくどとなく、紅河口付近まで船で行き来してはいたが、心の整理がつかず、上陸をためらっていた。父安陽王のこともあるが、非業の死をとげた侍女東玉を思うにつけ、つい足が遠のいていたのである。

「東玉にはかわいそうなことをしました。わたくしの嫌がることは、死ぬことさえも厭わず、すべてかわってくれた優しいひとです。こたびの御子を生むことだって、東玉がいてくれれば、かわってもらっていたかもしれません」

 そういって媚珠は、いたずらっぽく笑った。

「ああ、もとの媚珠にもどってくれた」

 船を離れて内宮に住まいして以来、鬱々として楽しまぬ媚珠を見ては、気にかけていた趙始である。しかし、いまはもう心が晴れた。

 思い切り抱きしめようと腕を伸ばした。ところが媚珠はその腕をかいくぐって逃げた。「こいつ」と趙始は追った。ふたりは甲板上を駈けまわった。

 水手かこらが銅鑼どらを打ち、海笛チャルメラを鳴らして囃したてた。にぎやかな祝福をうけ、帆船は滑るように南海の洋上を南に下った。

 海南島と雷州半島の間の瓊州けいしゅう海峡を抜けるといまのトンキン湾(北部湾)である。海の桂林といわれる下竜ハロン湾の絶景を右に、海岸沿いにさらに下ると紅河口に出る。紅河を一気に遡ると河内ハノイである。古螺城はハノイ郊外にある。この時期、伝説はまだ定着していない。

 投降した見知りのもと部下に当時の様子を聞き、媚珠は紅河ほとりの処刑場跡に立った。

 かつて見慣れた光景のはずが、一変して見えた。媚珠は己が長い緑髪をほどき、髪を切った。ひとにぎりの髪を手元に残し、残りは紅河に流した。東玉への手向けであり、己が頭髪を東玉の形見としたのである。

「東玉、あなたの分まで、もっともっと幸せになります。趙始殿とともに世代を超えて、生き抜いてみせます」

 媚珠は決意した。媚珠はいわば亡国の公主である。国土はなくとも、魂でつながる王国を趙始とともに築こうと、東玉に誓った。いまにいう「華僑の世界観」といってよい。

 媚珠のふたりの姉や安陽王につながる係累の消息は、その後も知れなかった。安陽王の血脈を継ぐのは、媚珠のふたりの子しかいない。安陽王に報いるには、長子の趙蘇を甌駱国の後継として、交阯郡の王侯に立てることだ。趙佗は腹のなかで平和裏に、甌駱族ゆかりの地をかれらに委譲する考えでいた。


 しかしときには、平和を望まぬものもいる。

 劉邦の妻 呂雉りょちである。劉邦・恵帝崩御のあとをうけ、呂太后となった呂薙が、執政として前面に躍り出た。

 その五年目、とつぜん呂太后は「別異蛮夷、隔絶器物」(南越を差別し、鉄器の貿易を禁止する)という政令を発布した。

 南越の関市せきいちの国境貿易で、銅鉄製の武器・農具・工具などの南越への輸出を禁止したのである。牛馬羊は雄だけは交易を許可したが、雌は許さなかった。蛮夷として南越を蔑視し、中原との自由な交易に制限をくわえるものであった。いまでいう「経済封鎖」である。

 背景には政治的意図が隠されていた。南越国の貿易の利益を妬む、長沙国の横槍である。

 趙佗は耐えた。ひたすら辞を低くし、許しを請うた。あくまで恭順の姿勢をくずさず、嘆願し、釈明の機会を求めたのである。

 中原には親族がいた。ことに中原出身の首脳陣は、親族の多くが長安に留められていた。

 情勢が緊迫化するにつれ、かれらの安否が気遣われた。趙佗の命により、趙始と媚珠が数十名の供のものをひきい、ひそかに漢土に潜入した。かれらは陸賈を頼って長安に向かった。趙始は劉邦拝受の宝刀を背に負うていた。

 趙始は秦の嶺南統一後、母のもとを去った。少年のころである。媚珠にとってはまだ見ぬ義母しゅうとめである。心が急いた。旧時の直道伝いに駒を駆った。街道を砂塵で撒き、土煙でおおった。

 ゆく先々で、趙佗のかつての盟友の係累があらわれ先導した。父から聞かされていた琅邪の盟友の手配である。その絶妙のタイミングに趙始は舌を巻いた。始皇帝の死から二十七年、誓いの絆はなお健在であった。

 前進の途次、陸賈の使いが事態の急変を告げた。母をふくむ眷属が郷里へ護送されたという。罪人あつかいである。かれらは馬首を右にかえ、真定(いまの河北石家荘、北京の西南二百八十キロ)に向けて北上した。長安を追われた一族の郎党が一行にくわわった。

 しかしかれらの到着を見透かすかのように、すでに刑は執行を終えていた。

 呂太后の仕打ちは、残忍をきわめた。

 趙佗ら趙国出身者の先祖代々の墳墓はすべて破壊されていた。土を掘り起こし形あるものは丹念に打ち砕かれ、樹木でおおわれていた小高い丘は、平らな更地に変形していた。むきだしの土地はなかば砂漠化し、灰白色を呈していた。その上に、処刑した眷属の遺骸が放置されていた。野犬や野鳥が食い散らかし、もはや原形をとどめていなかった。

 薄暮のなか、趙始らが駆けつけたとき、警護の兵が目ざとく認め包囲した。

「武器を棄て、投降せよ」

 隊長とおぼしき男が槍を突きつけつめよった。趙始の馬が一声いななき、棹立ちになった。趙始は馬上で矢をつがえ放った。矢は隊長の胸に深々と突き刺さった。これが戦闘の引き金になった。殺戮が開始された。

 趙始らは無言のまま、警護の兵団に立ち向かった。あまりの怒りに声が出なかった。百人を超える趙始らの軍団は、実戦の経験を踏んでいる。肉親の復仇とばかり、怒りにまかせて漢兵を薙ぎ倒した。烏合の漢兵は蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。

 趙始は咸陽と嶺南で育ち、父母の生国だった趙国を知らない。趙佗が始皇帝の近侍をつとめて巡幸にしたがっていた当時、都城咸陽で生まれ育ち、父の帰りを待っていた。少年のころ、嶺南の父のもとに引き取られ、すでに二十五年の歳月が流れていた。母の記憶は少年の日のものでしかない。

 いま、漢兵の逃げ散ったこの父祖の地に立つと、脳裏に母は紛れもなく蘇えった。母の笑顔は若かった。母は優しく微笑み、趙始に手をさしのべた。こらえきれず趙始は号泣した。膝から大地に崩れ落ちた。大地をかれは掻き抱いた。真っ赤に目をはらした媚珠がそのうえに折重なった。

 かれらはだれのものともわからないほど毀損された遺骸のかけらと肉片をひとつひとつ丹念に拾い集め葬った。無地の碑を立て、劉邦より賜った宝刀を墓に突き刺し、抗議の証とした。翌朝、漢兵が押し寄せたころ、殺戮の現場は無人の墳土と化していた。

 趙始は急使を仕立てて、ことの顛末を父に報告した。怒りの収まるまでは帰国しない、と付け加えた。追っ手を避け、東路山東に逃れた趙始ら一行は、やがて渤海を越え朝鮮半島に渡り、その後、蓬莱島にいたった。徐福の子孫をたよったものであるが、始皇帝の「琅邪ろうやちかい」に導かれたものともいえる。

 呂太后は中原に残った趙佗らの宗族を誅殺し、あげくのはてに父祖の墳墓を根こそぎ叩き壊してしまった。この報が伝わるや、日ごろ怒りを表に出さない温厚な趙佗が、呂太后にたいする復讐を口にした。これは同時に中原との訣別をも意味した。

「女狐、ただではすまさぬ。目にものみせてくれようぞ」

 始皇帝の死報以来、枯渇していた涙がふたたび趙佗の頬によみがえった。いちどは捨てた武器を、かれはふたたび手にした。

 古来、中華の文明圏において、埋葬を重要視する習俗は、各民族の垣根を越えて共通に認識された不可侵の領域であった。南越国においても、中原出身の人びとのみならず、百越住民のすべてが趙佗らに同情した。わがことのように憤り、ともに号泣し、漢にたいする復仇をかたく誓いあった。鉄の一枚岩となって漢に対抗しようという世論が、たくまずして形成されていったのである。

 呂太后の暴挙は南越国の一致団結に、思いがけない逆効果をもたらした。これを契機に、嶺南の中原にたいする独立自尊の風潮は、長い歴史時代を通じて徐々に陶冶されていった。近年にいたるもなお嶺南の民衆は心の片隅に、中央への不信と反発を宿している。

 たとえば華僑となって海外へ雄飛する独立不羈の精神がそれである。

 戦乱や飢饉で生活に窮したとき、かれらは海外に逃げ場を求めた。いざというとき、中央に頼るのではなく、一族を頼りとした。

 古くは、日本・東南アジア・インド・中東・アフリカ、近世にいたり、ヨーロッパ・アメリカなど、こんにち、世界中に中国各族の末裔が存在する。華僑・華人である。

 漢に服属を誓って十三年目、趙佗は「帰漢」を破棄し、みずから「南越武帝」と号した。

 漢の「経済封鎖」に真っ向から挑戦したのである。

 趙佗が漢に反抗し帝号をなのるとは、呂太后には思いもよらなかった。すっかり消極的になり、このときばかりは派兵せず、南越攻撃はすべて中止した。

 一方、趙佗は長沙王呉回の卑劣な南越誹謗にたいし、宣戦布告した。ただちに派兵北上し、長沙国を攻撃した。南部辺境の桂陽郡と零陵郡の数ヶ所の小県をまたたくまに劫略ごうりゃくし、長沙王の鼻を明かした。しかし深追いはきつく戒めた。

 長沙一国が相手ならまだしも、総力戦になれば、南越軍はとうてい漢軍の敵ではない。趙佗は十分にわきまえていた。短時日の間にすばやく五嶺を乗り越えて引き返し、天険に拠って守りをかためたのである。

 長沙国を攻撃されては黙っていられない。呂太后は、「かつて趙佗に封じた南越王の爵号を剥奪する」と命令を下し、隆慮侯 周竈しゅうそうと博陽侯 陳濞ちんびを派遣、南越討伐の兵を挙げた。

 趙佗はすでにこれを見越していた。陽山の嶺に拠り、要塞を築いてかたく守った。

 長躯の遠征で戦うまえに疲労困憊の漢軍にたいし、迎え撃つ南越の兵は十分に英気を養っている。余裕をもって敵に対峙した。

 九月といえば、ときあたかも南方は、炎熱猛暑の盛りである。北方からきた漢兵は嶺南の高温多湿の気候に遭遇し、からだが風土に順応できなかった。軍中に疫病がはやり、戦うまえに落伍者が続出した。

 猛暑に南方の高く険しい山中で戦えば、わりを食うのはとうぜん漢軍である。趙佗は五嶺の天険にたのんで戦略要地を占拠した。漢軍を五嶺の外に防げば成功といえた。漢越両軍は膠着状態に入った。漢軍は終始五嶺を越えることができなかった。

 折りしも漢軍側に赤痢やコレラなど流行病が蔓延した。手当てするまもなく、罹病した将士の大半が死亡した。軍中、恐慌状態をきたし、戦意は吹き飛んだ。前進の下知も空しく漢兵の腰はひけ、足並みが乱れた。

 こうして双方は一年余のあいだ対峙していたが、呂太后の病死をしおに漢軍は撤退した。

 戦はおわった。趙佗も兵を引いた。

 呂太后の病死には怪異説がともなった。犬に咬まれた傷が悪化して亡くなったのだが、劉邦の寵姫であった戚姫の子、趙王如意のたたりだというのである。

粤犬吠雪えつけんゆきにほゆ」という成語がある。「粤」は「越」と同音同義で、広東をさす。この成語は、なんでもないことも不思議に思う、見識の狭さのたとえである。明らかに粤を誹謗している。元来、粤に雪は降らないから、犬がこれをみて怪しみ、吠えて不思議はない。それを見識の狭さと蔑んでいる。嶺南を蛮夷と決め付けた呂太后の悪意に通じるものがある。その不見識な犬が呂太后に一矢報いたのである。反呂派の人びとは心中ひそかに喝采した。

 呂太后は亡くなる年の三月中旬、厄除けで他出した帰路、長安の郊外にさしかかったあたりで蒼い眼をした犬のようなけものに出くわした。その動物は一瞬、腋の下を掠めるやたちまち見えなくなった。それ以来、腋の下が痛み出し、やがて傷があらわれ、重病に陥ったのである。恐水病にかかった犬にひと咬みされ感染したものであろう。七月、病はますます篤くなり、やがて病死した。死ぬまでにどんな夢を見たことであろう。恐怖にひきつった呂太后の死に顔は、人の目をそむけさせた。

 この一件に趙佗ら一党が関与した事実は定かでない。しかし恐水病の犬をけしかけたり、占い師を使って亡霊のたたりと信じ込ませることなぞ、かれらにとっては造作もない工作である。蒼い眼をした犬が襲いかかったというが、あるいは道教方士の幻術にたぶらかされた可能性もある。趙佗の怨みは、呂太后の自然死を待つほどやわではなかった。せめて呂太后に精一杯死の恐怖を味わわせ、たたりの悪夢におののかせる積極的な作為があったとして、非難にはあたるまい。

 趙佗がつらぬいた反漢のメッセージは、周辺諸国に自立心を植えつけ、中央からの離脱をうながした。趙佗は、漢王朝に盾突いた反逆者のイメージで一躍、英雄視され、南越国の威望は大いに高まった。周辺諸国のかれを見る眼がかわった。見直したのである。

 趙佗はこれを契機に、漢の残留兵を駆逐し、辺境地域を制圧した。また資金援助で閩越・西甌・駱越など越族を抱きこみ、領土を東西一万余里(約五千キロ)まで拡大発展させた。

 これ以後、かれは皇帝の服装を着用し、皇帝の儀仗を使用した。幌の裏に黄色のしょう(絹)をはった黄屋こうおく車(天子の車)に乗った。車の左側にはヤクの尻尾の毛で作った大旗がたててある。これは漢の皇帝と同等の礼式である。


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