第一章 趙始初陣
「いそぎ陣容をととのえ、三千の兵をひきつれ加勢せよ」
趙成など供まわりの郎党が常になく神妙な顔つきで、祝いの口上をのべた。
翌朝、趙始は勇んで
はやる心を抑えきれない趙始は、初陣の興奮を満面にみなぎらせ、馬上で夢を馳せていた。
「功名手柄をたて、初陣を飾るのだ」
目的地が近づくにつれ、緊張でからだが小刻みに震える。これが武者震いというものか。
敵は
ベトナムには、もともと紅河デルタ上流に
かれらは出撃のさい
「どう攻めてこようが、かならず
敵の力は未知数といっていい。ましてやいくさ経験のない初陣である。憶測が憶測を生み、妄想で興奮がよりつのる。勝利への期待が、いやがうえにも高まってくる。
南海郡治のある番禺からは、ほぼ西へ向かって進む。いまの広西
いまの南寧は広西
船で下り、嶺南の原野を駆けて、もう十日あまりになる。眼前に、天と地がつながったかと思えるほどの大平原が広がっている。
天空は紺碧に染みとおり、平原は緑で覆われている。ゆく風が頬にここちよい。この季節、中国の北方に位置する
「なんという違いだ」
この地は一年中、緑の絶えることがない。河川が領域を縦横に
進むにつれ、拳骨を突き上げたかっこうの奇妙な岩石の山が点在し、異土への興味をかきたてる。大地の色がしだいに赤みを増してくる。臨尖が近い。若者はもういちど身震いした。妄想が消し飛んだ。
嶺南を征服した秦が、南海・桂林・象郡の三郡を設置したのは十年まえである。
その秦もすでにない。始皇帝崩御のあとをうけ、中原で群雄が覇を競い、結果、漢を建てた劉邦が玉座を仕留めた。希代の英雄項羽ですら、天を恨んで散華した。
嶺南を
中原は戦後の復興に忙しく、南方にかまう余裕がない。趙佗はひそかに、嶺南割拠の機をうかがっていた。
嶺南征服戦争の開戦時、趙佗は秦の始皇帝の近侍をつとめていた。常に皇帝の身辺近くに侍り、警護する役目である。かつて巡幸の途次、張良の鉄槌投擲事件があり、咸陽微行中、刺客団に襲われたりもした。始皇帝の身代わりとして、いつでも命を投げ出す覚悟がなければつとまらない職務であった。
嶺南開戦から四年目、前線の指揮官南海尉の屠雎が戦死し、後任に次席の任囂が推された。任囂は副官に趙佗の起用を打診した。任囂は趙佗が兄とも慕う、同郷の先達である。
おりしも四回目の全国巡幸の帰途にあった。急使をうけ馬車を停めた始皇帝は、その場で任囂の起用を決断し、趙佗にたいし戦場への直行を命じたのである。
「増援の軍勢二万は、嶺北の軍営に駐屯する予備軍をもって充てる。それを直属軍としてひきつれ、ぞんぶんに働くがよい」
そこまでいうと、始皇帝は馬車の小窓をあけ、趙佗を眼前において、つけくわえた。
「嶺南平定のあかつきには、
趙佗は始皇帝の玉詔をおしいただき、脳裏に、あらためて「
「はっ、
拝礼し、巡幸の隊列を離れた趙佗は、嶺南に向かって悍馬にひと鞭くれた。
戦死した南海尉屠雎は、良くも悪くも「暴秦」の象徴であった。横暴な秦、激しく荒々しい秦を代表していた。屠雎は中原でおこなった施策を嶺南の占領地に導入しようとした。しかし性急に過ぎた。説明もそこそこに新法を強制したから反発が起きた。かれはいまの広西地域で西甌族の族長
任囂・趙佗正副将軍ひきいる新たな秦軍は楼船に分乗し、ふたたび嶺南に攻め入った。かれらは説得工作を優先し、和戦両様の構えで、地域によって臨機に対応した。玉砕を覚悟していた西甌族は困惑した。
族人にたいし、まず停戦を呼びかけた。応ずるものには、希望する開墾地へ集団で移住させ、衣服・食糧・住まいなどを提供した。一族挙げて投降するものには所領をかえし、従来の組織が温存できるようはからった。
はるかな奥地に山砦を築き、敵対を意思表示するもの、あくまでゲリラ戦による徹底抗戦をつらぬき、和平交渉に応じようとしないものだけが掃討作戦の対象であった。
過去三年余にわたる膠着状態から解き放たれた新たな秦軍は、かつての秦軍とは面目を異にした。開戦時に開削した運河・
秦軍はまず後方をかためた。ついで着々と陣営を進め、各地に城砦を築いた。送り込まれた民間人がそれぞれの経験や技術を駆使して、戦場下での街づくりに挺進した。あたかも殖民地開拓団の様相である。
任囂・趙佗の再侵攻軍は、またたくまに嶺南地域を制圧した。まず広東を完全に占拠し、南越族を支配下においた。ついで、いまの広西などの西甌地域で、西甌族の反抗を一挙に鎮圧した。その後、さらに南下し、駱越族をいまのベトナム方面へ駆逐した。
両
ときに紀元前二一四年。日本は縄文から弥生に移行する過渡期にあたる。大陸文化の影響が徐々に社会生活に反映され、稲作の発生が確認されている。
嶺南統治の
趙佗は南海郡に属する
一方、任囂は南海郡尉の名のもとに、嶺南三郡を統べ、将来の独立割拠に備えていた。
しかし秦末、中原の群雄争覇をよそに、ひとり病に没した。後事を託されたのが竜川県令趙佗である。
趙佗は南海郡を掌握し、任囂の遺訓に沿い、嶺南の中原に通じる街道や関所を封鎖し、外からの侵犯を遮断した。内にあっては秦朝派遣の悪徳官吏を一掃し、後任に自己の腹心をあてた。統治基盤をかためたうえで桂林・象郡を併合し、秦朝瓦解後の嶺南を統括した。
しかし象郡の南方に駱越族の甌駱国が勢力を張り、趙佗への服属を拒んでいた。
独立割拠を企図する趙佗のまえに、安陽王が立ちはだかり、南越建国に待ったをかけていたのである。
趙始は秦の首都
任囂病死のあとをうけて、竜川県令趙佗が南海尉となった年、趙始は父のもとへ引き取られた。十二歳になっていた。秦の二世皇帝
母もともにと願ったが、母の離京は許されず、都に留めおかれた。やむなく母とわかれ、趙始は一族の郎党にともなわれ、はじめて番禺にきた。父との再会は七年ぶりだったが、ほとんど初対面といってよかった。
父は逞しかった。顔も腕も日に焼けて赤銅色に輝いていた。ひっきりなしに人が出入りし、また自身も忙しくたちふるまっていた。
再会の日、父は母のことを訊ねた。托された衣服と手紙を父に手渡した。父は手紙を読み終えると衣服に手を合わせ、
「すまぬ」
とひとこと漏らした。それ以来、母のことは口にしていない。趙始にたいしては、
「都を忘れ、嶺南の男として、強く生きろ」
とだけいった。
首都咸陽では、年少ながら学問と武術の修行を欠かさなかった。都では同学のものに引けをとらない水準だと自負していた。しかしこの番禺にきて、学問はともかく、武術ではからきし歯が立たなかった。
「実戦と稽古の違いだ」
都からつれてきてくれた郎党が、笑いをこらえて指摘した。名は趙成という。趙氏一族につらなる武人である。趙始の武術の師を担った。剣も矛も弓も、かれにはかなわなかった。馬くらべでも後れをとった。
「焦ることはない。背丈が伸びるにつれ、腕も強くなる」
そのことばどおり、一、二年でぐんぐん身長が伸び、かれを越した。同時に武術の腕も互角に近づいた。
「海を見たことがあるか」
番禺に着いてまもなく問われたが、まだ知らなかった。見たことがないと答えると、
「いずれ見せてやろう」
といい、数日後、船をしたてて海に出た。十人くらいの少年少女が一緒に乗り込み、珠江を下って、南海に出た。
はじめて目にする海は、おどろくほど大きく、果てしなかった。波がしぶき、波頭が光った。息詰まるほどの感動に圧倒された。
趙成が合図すると、少年たちは着物を脱ぎ、海に飛び込んだ。
趙始は趙成を見やったが、かれはそしらぬ態で、帆をあやつっていた。ほどなく海面に浮かび上がった少年らが手にしたものを見て、趙始は仰天した。銛に突き刺した魚、籠いっぱいの昆布や貝、こどもながら、かれらはいっぱしの
翌年には趙始もかれらと一緒に海に潜り、
南越割拠をまえに、趙佗は象郡を奪取した。しかし象郡の南方には、なお甌駱国があり、完全な制覇にはいたっていない。安陽王の服属は絶対に必要だった。しかし安陽王はしたがわず、やむなく趙佗は全軍を結集し、嶺南統一の最終戦に打って出たのである。
趙佗の遠征軍は、趙始の一軍をふくむ嶺南各地の軍団が臨尖に集結するのをまって、さらに南下し、古螺城を包囲した。
安陽王の側近に
皋通は
神弩は一発で百人を射殺するという、驚異的な殺人兵器である。百本の矢あるいは百個の石塊をいちどに放つことができる。兵百人に匹敵する強力な大型弓弩装置と思えばよい。
趙佗はなんどか攻撃を仕掛けたが、前線を突破できなかった。そこでひとまず兵をひき、戦略を練りなおした。神弩が進撃をさえぎり、戦闘は両軍一進一退の膠着状態にある。趙佗は趙始を和議談判の全権大使として古螺城へ派遣し、戦局の好転をはかろうとした。
「趙始よ、心してゆけ。敵に神弩があるかぎり、わが方に勝ちは望めぬ。和議談判に名を借り、敵方の油断をみすまして、かの神弩を掠奪せよ。掠奪がかなわぬときは破壊せよ」
偽りの和議大使である。まだ若い趙始は内心
安陽王は勝利に驕っていた。無敵を誇る趙佗の遠征軍を足止めにしただけでも勝ち戦といえる。上機嫌で和議の使節をうけいれた。
安陽王は皋通が神人であることを理解しようとしなかった。ずば抜けた高級技術者であることを認めようとせず、正当に評価しなかった。神人相当の厚遇を怠ったのである。
皋通は失望し、安陽王のもとを去った。去り際に捨て台詞を残した。
「わが神弩をよく保持しうれば興り、さもなければ亡ぶ」
精一杯の抗議であったが、あいにく安陽王の耳にはとどかなかった。王は祝宴のはしごで多忙をきわめていたのである。
安陽王に
媚珠は趙始をひと目見て、その風姿の
開拓地の荒削りながさつさとは対象的に、趙始は端正で、磨きぬかれた耀きにつつまれていた。予期せぬことに触れ、茫然とした媚珠は思わず立ちくらみ、よろけそうになった。
「あ、あの」
生まれてこの方感じたことのない恥じらいに、媚珠は戸惑った。
「いかが召された。ご免」
床に崩れようとする寸前、趙始が駆けより抱きかかえた。からだ中が火照かえり、媚珠は己が身をもてあました。
「媚珠」とは婉媚なる宝珠、つまりしとやかで美しい宝をいう。女性にたいする最高の形容である。安陽王がかくあれかしと期待を込めて命名した掌中の玉である。期待にたがわず媚珠は美しく成長した。しかし本人にその意識はまったくない。無垢のまま、飾ることを知らず、女の自覚を封じたまま、こんにちにいたったのである。
巧みに武器を駆使し、荒馬を乗りこなし、海に出れば放胆に帆をあやつる。男勝りの自然児として奔放に育った。女の姿こそ借りてはいたが、荒くれ男を叱咤し、ときに励ます、怖いもの知らずの公主であった。
そんな媚珠が、その日から変身した。侍女の
戦乱の世、野獣が横行する未開の原野が領土を蔽っていた。環境もあったろうが、男どもに伍して戦場をかけまわる公主を、怪しむものはいなかった。男も女もない。強いものだけが自己主張を許される時代である。弱いものは隷属する以外に生きるすべがなかった。
媚珠の変身に周囲のものは戸惑ったが、東玉だけは媚珠の変身の理由を理解していた。
一方、密命を帯びた趙始である。和議の大使とはいえ、態のいい人質に違いない。ひとまず休戦に持ち込んだが、戦闘が再開されれば、真っ先に生贄となる。警護の目を盗み、城内で神弩の秘密を必死に探った。おのずと媚珠に近づき、神弩のありかを尋ねた。
媚珠は趙始の意図を察していた。趙始を知って、媚珠ははじめて女の意識をもった。恋に目覚めたのである。否やはない。父王を裏切ってまでも、趙始についてゆく覚悟を決めていた。媚珠は東玉に命じ、手引きさせた。
神弩は城外で使う。そのため城門の脇に格納されていた。人の背の三倍以上はある大きな設備である。木製の車がついている。前後左右に方向がかえられる。動力は備わっていない。移動するには人力が必要である。数名の供まわりのものだけでは容易に起動できなかった。時が迫っていた。掠奪がかなわなければ、破壊する以外にない。趙始は決心した。
折からの豪雨にまぎれて、神弩を
趙始は媚珠をともない、古螺城を脱出した。馬駈けは、日ごろ修練怠りないふたりである。追っ手をはるかに引き離し、味方の陣営に立ち返った。供のものも、続けて脱出した。
趙始は息せききって、ただちに復命した。
「でかしたー」
趙佗は、息子の功を称えようとしたが、とっさにことばを呑みこんだ。かたわらで思いつめた目を虚空に漂わす媚珠を、一瞥したからである。
かわりに、媚珠にいたわりの声をかけた。
「疲れたであろう。ゆるりと休むがよい。お父上のことは、わしに任せてくれ。悪いようにはせぬ」
安陽王を気遣う
趙佗はふたたび兵を起こし、進撃した。安陽王は悠然と構え、敵軍の到来を待った。神弩の威力を過信していたのである。
しかし神弩はすでに両断され、神妙の技は封じられていた。神弩を失った甌駱軍は張子の虎も同然である。趙佗軍の猛攻撃にさらされ、たちまち壊滅した。
壊滅のまえ、神弩が破壊されたことを知って、安陽王は烈火のごとく怒った。媚珠はすでに陣営を抜け出ていた。侍女東玉が引き出された。東玉はすこしも悪びれず処断にしたがった。安陽王は東玉を公主媚珠の身代わりに斬殺した。そのため史書には、媚珠が処刑されたこととして記されている。
処刑は紅河のほとりで執行された。斬首刀が一閃し、東玉は地に伏した。おびただしい血潮が紅河の水面を真紅に染めた。カラス貝がこの水をふくみ、やがて胎内に真珠を宿した。真珠貝に生まれかわったのである。
安陽王はことの次第を東玉から打ち明けられていた。「掌中の玉」がみずから選んだ道である。安陽王は次代の若者たちの選択を諒とした。あえて侍女を身代わりとしたのである。
趙佗から投降を呼びかける密書がとどいていた。趙佗に服属しさえすれば、王位も所領も安堵するとの好意的条件である。
しかし安陽王はこれをうけなかった。
「
といいおき、彩色して美麗に飾った
「ために海水は分かれて道を開き、三尺の通路となった」
と伝えられている。
伝説の世界に旅立ったのである。
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