趙始と媚珠

ははそ しげき

序 章


「もう秋葉原はごらんになりましたか」

 急に問いかけられ、食べかけたギョーザが、思わずのどもとにからまった。

「えっ、あのアキハバラですか。東京の」

「ええ、あの電気街です。番禺賓館ばんぐうひんかんの向かいにある-」

 社内食堂で、もくもくと昼食をとっていると、となりに割り込んだ男が話しかけてきた。

「まだなら、ご案内しましょうか」

「はあ、ご迷惑でなければ、ぜひ」

 明日は休日である。工場へ出てやらなければならない急ぎの仕事もない。だいいち赴任して四日目、まだ街へ出ていない。毎日、宿泊先のホテルと工場との往復で、いささかマンネリ気味である。週末の今晩あたり、夜の街へ繰り出そうかと考えていた矢先だったから、渡りに舟と、ふたつ返事で約束した。

 男は山川という。わたしの前任者である。業務引継ぎで毎日顔をあわせていたが、仕事以外でのつきあいはまだなかった。来週には帰任することになっている。

 番禺賓館は、その当時、街にふたつしかない三ツ星ホテルのひとつで、わたしの泊っているホテルから歩いて十分もかからなかった。

「どうですかこの街は、なじめそうですか」

 退勤の専用バスを降り、連れ立って歩きながら、山川は先輩風の口をきいた。

 かれの駐在歴は長い。工場立上げ以来だというから、十年は越えている。東南アジアの他の工場をふくめると二十年近くになるだろう。肩書きこそ総務部長だが、かれの本領はもっぱら対外折衝にあり、工場長並みの力量を発揮する。

 警察・税関・労働局など公的機関との対応に、山川は欠かせない人物だった。出番は裏の折衝、食事とカラオケの接待である。中国語が達者で、ある程度地元の広東カントン語もできる。健啖家で大酒飲み、流暢な中国語でテレサテンを歌う。おまけに女好きとあって中国側の受けがいいから、だれも口の出しようがない。

「どっちが中国人で、だれが接待しているのか分からない」

 他の日本人は精一杯皮肉り、「夜の工場長」とか「工場のヌシ」とか揶揄するが、本人は知らぬ顔の半兵衛を決めこんでいる。

 工場の立上げ当初、日中双方の認識不足からさまざまなトラブルが頻発した。そんなとき、かれは率先して中国人のなかに飛び込み、問題点を究明し、解決の糸口を探った。

 非が中国側にあれば、かれらが納得ゆくまで根気よく教え諭した。非が日本側にあれば、中国側に付いて日本側を糾弾した。是非の判断は客観的にみてほぼ公平だったから、みなは納得し、かれにしたがった。面子を潰された日本側の責任者は根にもった。

 かれの口ぐせは、「おれは現地化第一号だ。中国のことはおれに任せろ」である。

 それがここ数年、すっかりおとなしくなったという。いささかもてあまし気味だった本社は、これ幸いとかれを工場に封じ込めた。

 そのあげく定年まであと一ヶ月という直前になって、人事がかれの存在を思い出した。

「それは、それは、めでたいことだ」

 入社時期では後輩にあたる海外事業部長は、厄介払いができると大喜びで、日本へ呼びもどすことにした。定年退職手続きのためである。後任のわたしは香港支社に中途採用され、委託加工先の中国番禺工場勤務となった。

 番禺は当時、「広州市番禺県」、人口八十万の中堅地方都市だった。その後、県級の市となり、「広州市番禺市」という奇妙な表示になったが、いまは「広州市番禺区」である。人口も百万を超えた。ホテルのあるあたりは市橋しきょう鎮といい、区の行政機関所在地でもある。

 治安は悪くないし、食事もうまい。しかし、なじめそうかと山川に問われても、来たばかりで、なじむほど長居できるかどうかはわからない。

「サア、どうでしょう」

 わたしは気のない返事をかえすにとどめた。

 香港から高速フェリーで二時間、広州から車で一時間というふれこみだった。広州空港からは東京まで直行便が出ている。所要時間四時間弱、それほど不便な場所ではない。

 ただ、以前北京に住んでいたことのあるわたしには、狭い繁華街の雑踏と、やたら大声で話す広東語が気に入らなかった。

 とにかく北京は、街も道路も広かった。

 それをいうと山川は、

「そのうち慣れますよ」

 といって、赤信号を渡ろうとした。わたしはあわててかれの腕を引いた。

 鼻先を車が掠めていった。

「ゆっくり渡れば、車がよけて走ってくれます」

 わたしはあぜんとして、かれのうしろ姿を見送った。

 大北路ターベイルという通りをはさんだ番禺賓館の向かい側が、易発イーファー商場という「電気街」である。ここが「中国の秋葉原」と呼ばれ、大げさでなくまさに一世を風靡した家電製品の巨大アングラ集散地であった。偽ブランド品と密輸品が白昼堂々と売られていたのである。

 いまは近代的ショッピングセンターとして瀟洒なビルに生まれかわっているが、当時はドーム状のアーケード街だった。数百を越す小店舗が密集し、店頭には家電製品がところせましと積まれていた。なかには、日本でまだ発売されていない新製品もあった。オーディオ製品の専門店が目立って多かった。

 中国でVCDが出たてのころである。携帯電話のブームは、もう少しあとになる。

 深圳しんせん東莞とうかん・広州・番禺に代表される珠江デルタに改革開放の成果が実りだしたのは、九十年代はじめ、とう小平しょうへいの『南巡なんじゅん講話こうわ』以降である。香港に中継拠点をおいた委託加工生産方式が華南地域のニーズにマッチした。

 広東は、大連や上海に比べると、日本人にはなじみが薄い。「人件費が安い」というキャッチフレーズを頼りに、中堅・中小の日系企業が、製造技術のベテランを裸ひとつで送り込んだ。物づくりのたくみたちは現地に腰をすえ、二十はたちまえの素人ワーカー相手に、手取り足取り本気で仕事を教えた。その素人が、みるみるうちに器用な技術者に育っていった。

 来料加工という免税貿易がうたい文句で投資を募ったから、はじめは労働集約型の中小企業を中心に工場進出し、のちに大企業も参入、中国の大手企業と提携するにいたり、「安かろう、悪かろう」の製品評価が一変し、「低価格で、よりよい品質」が定着してくる。

 その一方で、日本の老練な匠に学んだ中国の若い促成技術者は、独立志向旺盛だった。高利の資金を元手に、実業家に転身した。自ら工場と設備を借りて、従業員を寄せあつめた。プライベート・ブランド製品を市場に出荷しようというのである。たとえ検品漏れの部品を組立てたB級製品であっても、短期の使用なら機能に大差はない。「SANY」や「BANASONIC」といったまがいのブランド製品が、飛ぶように売れたものだ。

 むろん、「ひと昔まえ」、「ふた昔まえ」のはなしである。

 珠江デルタは大海を通じて、世界につながっている。海に国境はない。密輸はお手のもので、きのう新宿で盗まれたプロ野球某スタープレーヤーの高級外車が、三日後、番禺から広州に向かう公道上を疾駆していた、そんな無責任な噂が飛びかったこともある。

 いずれも、「いまは昔」のはなしにすぎない。

 蛇足とは思うが、番禺の名誉のために、ひとことつけくわえておきたい。

 その後、家電製品・OA機器・電子部品などで、「気がつけば世界の工場」となった珠江デルタは、さらに大きく変身した。自動車産業のメッカとなったのである。

 いまやホンダ・ニッサン・トヨタという日本の三大自動車メーカーが勢揃いし、傘下の協力工場が大挙して進出、世界的な自動車産業の集積工業地帯に発展した。ことに広州はトヨタの番禺 南沙なんさ進出以来、衰退した本家に替わって、「中国のデトロイト」という異名をとるまでになったのである。秋葉原には悪いが、電気街の比ではない。規模が違うのだ。

 電気街をひと回りしたころは、もう八時を過ぎていた。わたしたちはホテルにもどり、付近の日本料理店の暖簾をくぐった。仕事の引継ぎは終えている。まもなく帰任する山川のため、慰労をかねて街の事情でも仕込んでおこうかと、軽い気持ちで酒に誘ったのである。噂にたがわず、山川は強かった。

「ふだんから白酒バイチュウで鍛えていますからね」

 挑戦的な口調で応じた山川は、燗酒を呷ると講釈をはじめた。はなし好きらしい。

 白酒というのは中国の蒸留酒で、高梁コーリャン酒や茅台マオタイ酒の総称である。強いものではアルコール分六十度を超えるという。

「あなたは中国での駐在経験がおありのようですが、南ははじめてですか」

 型どおりの質問であった。隠す必要もないので、北京で五年ほど駐在していたと答えた。

白話バイホワはどうですか。聞いてわかりますか。広東語のことです」

 わたしが耳にうるさく感じた方言語である。普通話プウトンホワという標準語しか知らないわたしには、まったくべつの外国語に聞こえる。幸い現地の若い人たちは学校で普通話を習ってきているので、どの地方の出身であろうが、工場のなかでことばに不自由はない。ただ街へ出ると、最初に交わすことばは白話である。

番禺ばんぐうという地名はごぞんじでしたか。以前は広州全体の名称だったようです。二千三百年まえから使われていたらしいですね」

 これは初耳だった。もともと番禺についての予備知識はない。かわった地名だ、という程度の認識である。

「秦の始皇帝が中国を統一したのが、たしか紀元前二二一年だったから、二千三百年まえというと、そのあたりですか」

 うろ覚えの知識をひけらかすと、山川は大げさに驚いてみせた。

「いや、よくごぞんじですね。そういえばあなたは、大学は東洋史のご専攻でしたね。その始皇帝のころ、華南地域に南越国なんえつこくという国を建てて独立した趙佗ちょうたという国王がいましたが、そのはなしは聞いたことがありますか」

 知らないと答えると、山川はいかにももったいないといったていで首を振り、ぜひ知ってもらいたい、聞いてほしいと、なんども繰りかえした。この男酔ったのか、と顔をのぞいたが、そんな風でもなかった。まあ時間が許せばということで、語るにまかせた。

「この付近には前漢・後漢、中国ではふつう西漢・東漢といいますが、その時代の墓がたくさん残っていて、いまも発掘がつづけられています。つい最近、といっても十年以上まえになりますが、広州駅付近で建設中の中国チャイナ大酒店ホテルのとなりから、西漢初期の南越国王の陵墓が発見されて大騒ぎになりました」

 陵墓はいま、「西漢南越王墓博物館」になっている。このニュースは日本でも話題になった。発掘された王の全身が、「絲縷しる玉衣ぎょくい」という千百九十一枚の玉片を赤いシルクの糸で綴じあわせた埋葬衣で覆われていたのである。

「南嶺山脈から南を嶺南れいなんといいます。南越国というのは、秦がその嶺南を征服した七―八年後、秦が滅亡したあとをうけて独立した王国です。最盛時には広東・広西カンシーからベトナムの中北部まで領有していたといいます」

 南嶺山脈は、広東・広西北部と湖南・江西を南北にわけて東西にそびえる山脈で、大庾嶺だいゆれい騎田嶺きでんれい都龐嶺とほうれい萌渚嶺ほうしょれい越城嶺えつじょうれいという五嶺がつらなっている。

「その後、南越国は、特使として派遣された陸賈りくかという人に説得されて漢に帰属し、漢の諸侯国になりました。これを『帰漢』といいます。劉邦が亡くなる一年まえのことです。ただ古代のことですから、帰属したといっても表向き朝貢するだけで、じっさいは自由に振舞っていたようです。『漢倭奴かんのわのなの国王』とか『日本国王足利義満』という例が日本にもあります。朝貢で得られる利益は莫大だったようですから、名よりも実をとったのでしょう」

 出土した金印「文帝 玉璽ぎょくじ」から、陵墓の被葬者は二千余年まえの南越国第二代国王 趙昩ちょうばつと認められた。金印には「文帝」という帝王の諡号しごうが刻まれていたのである。

「ふつう諡号というのは、おくりなというくらいで、亡くなったあとにつけられるものですが、文帝のばあいは、生前から使用していたようです。つまり、漢に帰属しながら国内では帝王を自称していたわけです」

 金印と同時に出土した副葬品のうち、象牙・香薬・瑠璃製品・銀の小箱などは、明らかに、はるかかなたのアフリカやペルシャ湾地域からもたらされたものであった。南越国はいったいどのような方法で、これらの財宝を手にいれたのか。

「海のシルクロードは、ごぞんじですか」

 シルクロードと聞いて、反射的に月と砂漠と駱駝の隊商を連想した。年代としが知れる。

 しかし山川は、「海の」といった。そういえば以前テレビで見たことがある。風で帆をふくらませたジャンクの船団が、南洋の大海原を進む。ゆく先々の港で、絹織物・茶・陶器などとガラスや銀の容器・象牙・ルビーが交易される。さまざまな人種が登場し、異国情緒あふれる光景が映し出されていた。

「秦の始皇帝は五十万の大軍を動員して、嶺南を征服したといいます。領土の拡大というよりも、南越の黄金・ぎょく犀角さいかく象牙ぞうげ翡翠ひすい・真珠などの掠奪が目的だったと書かれている古書もあります。その一方で、海のシルクロードの制覇をねらったものではなかったかという専門家もいます。のちに独立割拠した南越王趙佗は、もとはといえば秦の武将でしたから、始皇帝の意を汲んで、この航路を拓いたのではないでしょうか」

 南越に産する豊富な財宝の源は、じつは海のシルクロードを通じてもたらされていたというのである。古代中国の交易のスケールは、日本人の想像をはるかに越えた、未知のかなたのものだったのか。

「いいえ、当時、日本はまだ縄文後期でしたが、一部の日本人は、すでに海を越えてこの航路開拓に参加していました。伝説の徐福じょふくの子孫たちです」

 つぎつぎに飛び出す山川の新説に、東洋史専攻が負けて堪るかと、熱しかけたところだったが、その当時、学問的にはタブーだった徐福伝説が出てきて急速に冷めてしまった。まあまあとその場は取りつくろい、お開きとした。時間はすでに十二時をまわっていた。店のものが早く帰れといわんばかりに、目のまえで後片付けをはじめている。

 翌週、山川は日本へ帰った。帰国の挨拶に立ち寄ったさい、小声で「いずれつづきを聞いてもらいたい」と念を押していった。わたしは生返事をしたきり、忘れてしまっていた。

 そして半年後、山川はわたしにEメールを送ってよこし、「二千三百年まえの物語をまとめたのでぜひ読んでもらいたい」といってきた。

 たまたま工場の人事考課の時期にあたっていたので、しばらく放っておいたが、ある日ふと思いだし、パソコンを開いてみた。

 古代中国の物語である。はじめて聞く、かわった話だった。眉につばをつけたくなる部分もあったが、目をつぶって読みついだ。以下は、その全文である。


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