パーフェクトワールド

大澤めぐみ

パーフェクトワールド

 お昼休みに教室で机をくっつけて一緒にお弁当しているときに、ズンズンがいつも通りいっくんの文句ばっかり言っているから、ちょっとうんざりしてしまって「そんなに嫌なら別れればいいじゃん」 と言ったら本当に別れてしまった。

 なるほど、その手があったか、みたいな。その発想はなかった、みたいな。右手がグーで、左手がパーで、ポンと手を打って「それね」 なんて言っちゃって。そこからもう、なんかね、もう電光石火。

 「え? 本当に別れちゃったの?」

 「うん」

 そう言って、ズンズンは長いツヤツヤの黒髪を春風になびかせながら、とても綺麗に笑った。朝の通学路。レンガ敷きの新緑のケヤキ並木。優しい木漏れ日がまばらにズンズンの上に降り注いでいて、その一瞬のあまりの完璧さにわたしは頭の中のカメラのシャッターを切る。心のインスタグラムに投稿する。一瞬にしていいね! が爆伸びする。でもさ、なんで前日に彼氏と別れたことを報告するのに、ねえ、どうしてそんなに綺麗に笑っているの?

 「え? それでいっくんはなんて?」

 「んー、別に? そうかーって言って、じゃあね、みたいな?」

 ズンズンはおっとりしているのに芯のところはしっかりしていて、ブレない自分を持っているって感じがして、勉強の成績がすごくいいとかそういうのではないんだけれども、頭の回転がすごく早くて理路が通っていて、でもちょっと世間知らずで天然なところもあって、スレンダーで手足も長くて、長い黒髪はツヤツヤでさらさらで、顔がめちゃくちゃに綺麗で。とてもじゃないけれど、わたしと同じ生物だとは思えない。

 いっくんはそんなズンズンの彼氏で、昨日まで彼氏だった人で、優しいんだけど周りには流されない感じで、同級生なんだけど他の男子よりもずっと大人びていて、弓道部の主将で、そのくせ近づくとほのかに牛乳石鹸の匂いがするさらふわヘヤーで、やっぱり顔がめちゃくちゃに綺麗で。名実ともに、総合評価で我が校のツートップって感じのふたりだから、ズンズンといっくんが付き合っているのは、それはもう当然の成り行きって感じで。みんな、ああそうだよね、みたいな納得があって。同級生のカップルなんだけれど、茶化したり冷かしたりするような対象でもなくて、敢えて喩えて言うなら、天皇皇后両陛下みたいな。みんな、遠くからお姿を拝見して、あらいいわね、みたいなね。

 なんでそこに地味なモブ子のわたしが混じっているんだか、自分でもよく分からないのだけれど、よく三人で遊んだりしていたの。フリスビーとかするんだよ。原っぱで。通りすがりのゴールデンリトリバーと戯れたりして。


 ズンズンといっくんじゃなかったら、本当にバカみたいな感じだと思うんだけど、ズンズンといっくんが原っぱでフリスビーをしているのは、本当に、なんかいいんだ。 


 春だからお花見をしようよってLINEが入ってきて、えー今から?みたいな感じで、着の身着のままパーカーだけ羽織って外に出て、近所の原っぱで待ち合わせして。

 普段は気にも留めないような、本当になにもないただの原っぱに、三本桜の木が生えていて満開になっていて、ああコレ桜の木だったんだねーこんなところにも意外な穴場スポットがあったんだねーって。

 唐突に思い立ってのお花見だから、もちろんなんの用意もしてなくて、コンビニで買ってきたペットボトルのお茶と、お菓子がちょっとあるだけなんだけど、いっくんが謎にフリスビーを持っていて。

 「フリスビー?」

 「うん、さっきズンズンと100均寄って、本当は最初バトミントン買おうとしたんだけど、フリスビーならこれ以外なにも道具いらないから100円で済むじゃんって」

 「え、するの? フリスビー?」

 「え、むっちゃんしないの? フリスビー」

 いっくんが買ってきたばかりのフリスビーを袋から出して、ズンズンがちょっと離れたところでよしこーいって言ってて、いっくんがフリスビーを投げたら、唐突に風が吹いてきてさ。

 桜の花びらが舞って、フリスビーが風に煽られて大きく曲がって、ズンズンがワーワー言いながら全力で走ってフリスビーを追いかけて、ピョンとジャンプして。

 なびく長い綺麗な黒髪。

 陽を反射して、ほとんど純白の桜吹雪。

 真新しい、安っぽいブルーのプラスチック。

 踏み切ったまま、綺麗につま先まで真っ直ぐに伸びた脚。

 笑ってる。

 ズンズンもいっくんも、突風に目を細めながら、笑っていて、とても綺麗で。

 その瞬間、わたしの目に写る世界は全てが完璧で、構図もライティングも、桜の一片、1ピクセルに至るまで、全てが綺麗で、正しくて完璧すぎて、音が遠のく。心がシャッターを切る。シャッターを切る。

 キャッチ。着地。

 「センスなさすぎー」

 「いや、風のせいだって。次は真っ直ぐ飛ばすよ」

 今度はズンズンがフリスビーを投げるんだけど、なんでかフリスビーはブーメランみたいに大きく曲がってまたズンズンのほうに戻って行って、ズンズンは「は!? なんで!?」って叫びながら必死に走って自分で取りに行ってて。

 いっくんもわたしも、すごく笑っていて。

 バカみたいだけどさ。楽しいんだよ。フリスビー。


 ズンズンといっくんの別れ話は、別れたよ、で本当にもうおしまいって感じで、続報も展開も伏線回収もなにもなくて、ズンズンはものすごく普通でいつも通りで、ただ、お弁当食べながらいっくんの文句を言うことがなくなったってだけで。

 でもさ、文句っていうか、どっちかっていうとノロケじゃないのそれ、みたいな感じだったんだよ。ずっとそうだったんだよ。

 ズンズンはたぶん性格はいいと思うんだけど、ちょっとブーたれやすいところがあって、文句を言っているのが好きなんだよね。人の悪口とかさ。でも、そんなに陰湿な感じじゃなくて、カラッとしてて、そんなに嫌な感じでもないんだけれど。

 で、いっくんのほうは不満点があるなら解決していこうっていうすごい前向きなタイプだから、ズンズンが文句を言っていると、じゃあこういう風に対策を取ったらどうか、とか、今後はこのようにしていくと良いのではないか、みたいな具体的な提案で返してくるらしいのね。とても建設的。

 いや、本当はあんまり知らないんだけれど。わたしはズンズンの友達であって、いっくんとはズンズンと一緒に三人で遊ぶこともあるっていうだけだし、そういう時のいっくんはある程度、よそいきのいっくんだから、わたしは別に本当のいっくんを知っているわけじゃない。顔が綺麗だな、とか、感じがいいな、くらいしか直接には知らないんだけれど、でも、ズンズンが毎日のようにお弁当を食べながら、いっくんがこう言ったああ言ったと文句を言うものだから、わたしはズンズンから入って来る情報で自分の中にイマジナリーいっくんを作り上げてしまう。ああ、分かる。いっくんをそういうこと言うタイプ。わたしの中のイマジナリーいっくんは。

 ズンズンは別に問題を解決したいわけじゃなくて、ロバ耳穴に不満を叫んでスッキリして、明日からまた頑張ろうってしたいだけだから、だから、いっくんは具体的な提案をしたりせずに、うんうんって聞いてわかるわかるって言っていればよかったのだ。それは大変だったね、頑張ったね。明日からまた頑張ろうねって言ってあげればそれでよかったのだ。わたしがいつも、ズンズンにそうしていたように。

 でも、なんだって「別れれば」なんて言っちゃったんだろう。それは、具体的な提案だ。

 なんだってズンズンはすんなり受け入れたんだろう。それは、具体的な提案だ。ズンズンが嫌いな具体的な提案だ。

 「なんかね、むしろどうして今まで別れなかったんだろうって思って。別れてもいいんだっていう発想がそもそもなかったんだよね。なんか当たり前になりすぎちゃって。完全に盲点だったわ」

 ズンズンに、むっちゃんありがとね、なんて言われちゃって、わたしの脳内逆転裁判所の検事は「異議あり!異議あり!」って喚いているんだけれども、裁判長は無表情で「静粛に」って言うだけで取り合わない。

 だって、ズンズンがすごく綺麗に笑うから。

 正しさと美しさというのは似ていて、正しいことっていうのは大抵が美しいものだから。だから、ズンズンがこんなに綺麗に笑っていて、それがこんなにも美しいから、やっぱりこれは正しいことなんじゃないかって、そう思えてきてしまう。


 それでもやっぱり腑に落ちないわたしは、放課後に水飲み場に居た弓道着姿のいっくんを捕まえて話をしてみる。考えてみると、ズンズンを挟まずにいっくんとふたりで話すのはこれが初めてかもなって思う。そう思ったらちょっと緊張してしまう。

 「まあ、しょうがないよな」

 柔軟剤の香りがするふわふわのタオルで顔を拭きながら、いっくんがそう言う。

 「俺たち、ずっと一緒には居たし、仲も良かったと思うけど、たぶん、お互いに別に、好きとかそういうのじゃなかったんだよ」

 ズンズンといっくんは、一年生の秋にいっくんのほうからズンズンに告白して付き合うことになった。古風にも、いっくんがズンズンを体育館裏に呼び出して、シンプルに「好きです、付き合ってください」と頭を下げたのだ。

 「すっごい気楽に、いいよ、って言ったんだよね。ズンズン。一緒にトランプやらない?って誘われたぐらいの感じでさ」

 いっくんはタオルを首にかけて、水飲み場の縁に腰掛ける。

 「あの時のズンズンの顔、よく覚えているよ。たしかに、はにかんでいたし、顔も赤くなってたし、恥ずかしそうな感じではあったんだけど。それ以上に、なんていうのかな、イタズラを仕掛ける子供みたいなさ。これから一緒に、大人を驚かせるイタズラをする約束をしたみたいな感じで」

 いっくんは、本当にちょっとどう言ったらいいのか困っている感じで。まるでカンペを探すみたいに空中に視線を漂わせて。

 「たぶん、ある種の共犯関係だったんだよ。俺たちは、お互いに降りたかったんだ。ちょっと疲れていた。ふたりで示し合わせてサボタージュをしようっていう、そういう取り決めだったんだ」

 いっくんもズンズンも、ちょっと非常識なんじゃないかっていうくらいに顔が綺麗だから、やっぱり当然モテるわけで、それはもう尋常でなくモテてしまうわけで、いっくんとズンズンが付き合うまでは、我が校はそれこそ恋愛春秋戦国時代だったのだ。いっくんもズンズンも、毎日のように下駄箱にラブレターを突っ込まれ、体育館の裏に呼び出され、休み時間に廊下に呼び出され、通学電車の中で他校の生徒に手紙を渡されていたのだ。いっくんとズンズンのふたりが付き合えばいい、というのは、誰がどう考えても最も妥当な天下平定の手段だった。ズンズンの隣にいっくんが、いっくんの隣にズンズンが居れば、誰だって「ああ、それなら仕方がないよね」って諦めがつく。そういうものなのだ。

 「でも、そんなのいつまでも続けているのも不健全だしな。いつかはどうにかしないといけない話だったんだ」

 むっちゃんありがとな、なんて、いっくんにまで言われてしまって、やっぱりわたしはどうにも腑に落ちない。


 たしかに、ズンズンといっくんはすごく仲が良かったんだけど、それは本当に仲が良い友達同士って感じで、あんまりイチャイチャっていうか、湿気っている感じがなくて、カラッと仲良しで。

 だから、そう、いっくんの言う通りに、ひょっとしたら一般的にわたしたちが想定するような、高校生同士の初恋てきな好きっていうのとは、それはちょっと違っていたのかもしれない。お互いに、別に好きってわけじゃなかったのかもしれない。

 やっぱり、天皇皇后両陛下みたいな感じ。天皇さまと皇后さまが熱烈に愛を交わしているところなんて、ちょっと想像ができないのと同じで、もっと、とても上品で綺麗で清潔な感じで、でも本当に、ズンズンにはいっくんしか、いっくんにはズンズンしかないって、そういう感じだったんだよ。わたしは、そんなふたりを傍で見ているのが、本当に好きだったんだ。


 ズンズンといっくんが別れて、2日経っても3日経ってもズンズンといっくんは別れたままで、でも別に険悪とかでもなくて、廊下ですれ違ったりすると「おー」ってお互いに挨拶してて。ただ、一緒に通学したり遊びに行ったりしなくなったっていうだけで。それから一週間経っても二週間経ってもやっぱり全然別れたままで、ふたりとも全然普通だから、我慢できなくなったわたしはズンズンに「ねえ、本当にいっくんとのことはこのままでいいの?」って聞いてみるんだけれど、「あ、わたしもう新しい彼氏できたから」って、え? は? えっ????

 「誰? うちの学校の子?」

 「うーん、違う。そもそもどこの学校の子でもない」

 「え? どういうこと? 社会人?」

 「まあ、そんな感じの」

 珍しくあまり喋りたがらないズンズンに根掘り葉掘り話を聞いてみたら、相手の人30歳の会社員だって。13コも年上。ダメダメダメダメ絶対ダメだよそんなのっ!!!! って、わたしは言うんだけれど、「いや、そんなことまでむっちゃんにいちいち口出しされる筋合いもないと思うんだけど」、って、超正論で返されてしまう。

 「だいたい、そんな年上の人とどこで知り合うのよ」

 「うーん、そうねー」

 ズンズンは教室のしょぼい椅子の背に身体を預けて、腕も脚も組んで虚空を見上げながら説明をする。

 「その日、わたしが学校からの帰り道を歩いていると、後ろでご婦人の助けを求める声が聞こえました」

 「なんなの、その露骨な説明口調は」

 わたしの突っ込みは全スルーして、ズンズンが続ける。

 「見れば、ご婦人は道路に転倒していて、婦人物のバッグを抱えて帽子を目深にかぶった男がこちらに駆けてくるではありませんか。わたしがそれをひったくりだと理解する頃には、ちょうど、男がわたしの真横を駆け抜けていくところでした。わたしはすぐさま、自分の鞄をその場に投げ捨てて男の後を追いました」

 ああ、分かる。その場面、簡単に想像ができてしまう。たぶん、ズンズンは本当にほんの数瞬のうちに、鞄を投げ捨てて爆発的に駆け出したことだろう。疾風怒濤。

 「あ、分かった! ひょっとして、そのひったくり犯を捕まえてくれたのがその彼氏さんってこと?」

 「ブブー。ちーがーいーまーすー。わたしは200メートルぐらい追跡したところでヘバりはじめたひったくりに追いついて後ろからドロップキックをかまして、倒れたところをキャメルクラッチで取り押さえました」

 キャメルクラッチってどんなのだ。たぶんプロレス技なんだろうけれど。

 「そこにわたしが投げ捨てた鞄を届けてくれたのがエーキさんです。エーキさんは警察にも既に通報していてくれたので、速やかにむくけつきポリスメンたちがぞろぞろやってきてひったくり犯は無事逮捕されました。もうハイタッチだよね。イエイイエーイ! って感じで。ポリスメンのおっさんもエーキさんも追いついてきたご婦人とかそのへんの全然知らないおっさんとかも混じって。イエイイエーイ! って」

 いっぱい写メも撮られたよ、とズンズンは真顔でダブルピースをする。なんだその絵面。

 「そんで、なんかエーキさんと付き合うことになった」

 待って。そこハショりすぎじゃない?


 そんな話をした数日後、委員会でちょっと遅くなって陽の落ちかけたケヤキ並木を駅のほうに歩いていたら、通り沿いのカプリチョーザの窓際席にズンズンが知らない男の人と一緒に座っているのを見つけてしまう。わたしは反射的にケヤキの陰に隠れて、こっそりと様子を伺う。

 相手の男の人、エーキさんだっけ? ズンズンの話だと30歳ってことだけど、なんだかもっと若そうに見える。スーツを着ていて髪型もピッチリまとめているからそれなりに大人って感じはするけれど、カジュアルを着せたら全然20代に見えそうな感じ。いっくんよりも、もっとずっと男らしい顔つきだけど、ちゃんとハンサムだし。うん、いっくんは男の子だけど綺麗な顔って感じだけれども、エーキさんはカッコイイって系統の顔。パッと見では、顔も髪型も体型も服装のセンスも、ちょっとケチのつけどころがない。でも、やっぱりこういうのはダメだと思う。なんか知らないけど、たぶん法律とか条例とかそういうやつ。

 それにさ、ズンズンがなんか、ちゃんと彼女していてヤだった。湿気っぽくて、なんかヤだ。ズンズンはもっと、冷たくて、硬質で、サラサラしてて、綺麗なはずじゃん。なんでそんな、普通の女の子みたいに、嬉しいと恥ずかしいを足して割ったみたいな、暖かくて柔らかい顔をしているの?

 そんな表情、いっくんと一緒にいる時には、見せたことなかったじゃん。


 っていうのをいっくんに報告しに行ったら普通に怒られた。

 「それはズンズンのプライベートだし、俺が知っていい話じゃない。ついつい覗き見てしまうのは、まあ趣味がいいとは言えないにしても、分かるけど、それをわざわざ俺に報告してむっちゃんはどうしたいわけ」

 いっくんは水飲み場の縁に浅く腰掛けて、珍しく腕を組んでいる。たぶん、本当にちょっと、怒っている時のポーズだ。

 「ごめんなさい……」

 なんか知らないけど色んな想いがグルグルしていて回転数が上がっているわたしは、わざわざ弓道部の練習中のいっくんを呼び止めて人気のないところにまで引っ張ってきて勢い切って報告をしたのに、いっくんに怒られて冷や水を浴びせられたみたいに一瞬にしてしゅんとなってしまう。頭に昇っていた血が一気にサーッと引いて、すごく嫌な動悸がしている。俯いて、スカートの裾をモジモジと弄っている。

 「いや、ごめんじゃなくてさ、説明を求めているんだけど。普通に、意図が分からないわけ。もう俺には関係のない話じゃんか」

 ああ、これがズンズンの言ってたいっくんの嫌なところなんだなってわたしは合点する。ごめんって言っても話が終わらない。うやむやにしない。問題を解決しようとする。原因を究明して対策を考えて実施したがる。

 でも、意図とか聞かれてもさ。わたしもそんなの分からないんだから、知らないよ。自分で自分が、なにをどうしたいって思っているのかよく分からないんだもの。

 「ごめん……」

 「だからさぁ」

 と、なにか言いかけたいっくんだったけれど、わたしがグスグスと泣いていることに気付いて、それ以上なにも言わずに黙ってしまう。

 わたしは泣いてちゃダメだって思うんだけど、なんでか涙が後から後から出てくるし、いっくんに迷惑だからせめてどこか目につかないところに移動しないととか、いちおう考えてはいるんだけれど、足も動かないし、立ち尽くしてスカートの裾をギュッと握りながら、ただただ俯いてグスグスと泣いている。

 こんなところ、誰かに見られたら確実に変なウワサ話されちゃうだろうに、いっくんはちょっと迷惑そうな、困ったような顔をしてはいたけれど、それでもそのまま、わたしが泣き止むまで黙って待っていてくれる。やっぱり、すごく優しくて、すごくいい人なんだなって、改めて思う。

 「ごめんなさい。もう、大丈夫。だけど、説明とかは、ちょっと、また今度」

 どうにかこうにか泣き止んだわたしは、途切れ途切れにやっとそう言う。いっくんは「うん、分かった」 って言って部活に戻る。去り際に、「なんか、ごめんな」 って言う。


 要するに、わたしはいっくんのことが好きだったのだ。好きになってしまっていたのだ。

 毎日毎日、ズンズンにいっくんの話を聞かされ続けていたわたしは、ズンズンの目を通じていっくんのことを深く知っていって、知れば知るほどに好きの気持ちが膨らんでいたのだ。

 わたしが好きないっくんのことを悪く言ってばかりのズンズンについイライラしてしまって、それで「別れれば?」 なんて言ってしまったのだ。

 最低だ。

 それに、いっくんのことが好きだといっても、わたしは別に自分がいっくんと付き合いたいというわけでもないのだ。

 いっくんの隣にわたし自身を並べてみたって、そんなの、全然パッとしない。ちっとも綺麗じゃないし、どこも完璧じゃない。わたしが本当に求めているのは、そういうことではないのだ。

 わたしは、いっくんの隣に並ぶズンズンになりたかったのだ。ズンズンになって、いっくんの隣に並びたかったのだ。

 嫉妬心?

 独占欲?

 なんなのか分からないけれど、こんなのは全然、綺麗じゃない。湿気っぽい。気持ち悪い。

 気付いてしまった。分かってしまった。

 意図。

 説明。

 自分で自分が、なにをどうしたいと思っているのか。


 気持ち悪い。


 とにかくこのままではダメだ。なにかをなんとかしないといけないっていう焦りだけが頭の中でグルグル渦巻いている状態で街を歩いていたわたしは、向かいから歩いてきた男の人とすれ違いざまに、それがエーキさんであることに気が付いて、つい反射的にパッと振り返って「エーキさん!」 と呼び止めてしまう。

 エーキさんは突然名指しで呼び止められて、驚いた顔だったんだけど、たぶん、わたしがズンズンと同じ制服を着ているから、それでズンズンの友達だろうなって察してくれたみたい。別になにか、考えがあったわけではないんだけれども、わたしが「お話があります!」 と言うと、エーキさんは一度袖をまくって腕時計を確認してから、いいよ、じゃあちょっとそこ入ろうかって言って、ふたりで目の前のサンクゼールカフェに行く。話の流れでホットカフェラテを奢られてしまう。

 「むっちゃんだよね?」

 「え? あ、はい」

 「淳子ちゃんからよく聞いているよ。一番の友達だって」

 ズンズンはズンズンだから、淳子ちゃんと言われて一瞬ちょっと戸惑ってしまう。だって、ズンズンは本当にズンズンって感じなんだもん。元々はじゅんじゅんってあだ名だったんだけどね。

 そうか、一番の友達か。ズンズン、そう思ってくれているんだ。そうだったらいいな。そうあれたら、いいな。

 「で、話っていうのは?」

 エーキさんにそう言われて、わたしは別にまとまってもいない自分の話をつらつらとする。話があっちにいったりこっちに行ったりするけれど、エーキさんは時々相槌を打つくらいのもので、ほとんど黙って、静かに聞いていてくれる。

 ズンズンといっくんはみんなが羨む完璧なカップルだったこと。一緒にフリスビーしたこと。実はわたしが、いっくんに横恋慕していてズンズンに嫉妬していたこと。それでつい「別れれば?」 って、軽い気持ちで言っちゃったこと。そしたら本当に別れちゃって、気が付いたらエーキさんと付き合っていたこと。

 「つまりは」

 手に持ったコーヒーカップをカチリとテーブルに置いて、エーキさんがそう言う。

 「えっと、むっちゃんは、全部が元に戻ればいいと、そう思っているということ?」

 エーキさんにそう問われて、わたしは少し、考える。全部が元通りに。

 なびく黒髪。桜吹雪。フリスビー。一分の隙もなく隅々まで完全に完璧な世界。

 「たぶん……そうですね」

 「でも、それが無理だっていうのは、分かるよね。時間は巻き戻らない。前にしか進まない」

 そう、言葉にされてしまうと、とても簡単に分かる話だった。ただの無茶を言っているだけだ。駄々を捏ねているだけだ。無いものねだりだ。

 「例えば、僕が淳子ちゃんと別れて、なおかつ、いっくん? と淳子ちゃんがヨリを戻して、形式上すべてが元通りに戻ったとして、むっちゃんが求めているのはそういうことじゃないんじゃないかな」

 「それも、たぶんそのとおりです」

 壊れてしまったものは元には戻らない。エントロピーは増大し続ける。宇宙はやがて熱的死を迎える。

 壊してしまった。わたしが壊してしまった。


 総合的に言うと、エーキさんはなんかいい人だった。変な事考えている変態のいやらしい人って感じじゃない。

 「本当を言うと、もっと現実的な方向性から怒られるのかなって思ってたんだけど」

 なにしろ30歳と女子高生でしょ。そっちで来られると、わりと言い訳できないしね。なんて、自分で言っちゃってて。

 「僕も馬鹿じゃないから、淳子ちゃんの言う好きっていうのが、まだまだ子供じみているのは分かっているし、それをそのまま素直に鵜呑みにするつもりもないんだよ。でも、僕が淳子ちゃんのことを好きなのは本当だから、まあ待つつもり」

 32歳と女子大生ぐらいになれば、それでも歳の差カップルではあるけれども、相対的にはもうちょっとマシかもしれない。

 「僕はもう気長に待つつもりだし、彼女がいつ気が変わっても仕方がないっていう覚悟もしてるから、できれば、むっちゃんも長い目で見守ってくれるとうれしいよ」

 静かな口調でそう言うエーキさんは、やっぱちょっとキモいなって気もしたりはするんだけれど、思ったほどには気持ち悪くもなくて、たとえば18歳になって今よりももっと更にむちゃくちゃに綺麗な大人になったズンズンの隣に並べようと思ったら、なんていうか、これぐらいの器の人じゃないと追いつかないかもしれないな、みたいな変な納得感もある。


 わたしだけがひとり、変な残尿感のようなものを抱えている。


 夜、変な残尿感を抱えて部屋でベッドで布団を抱いていたら、窓ガラスになにかがコツンコツンと当たる音がして、わたしは恐る恐る外を見る。街灯の下にズンズンが立っていて、わたしが顔を出すと綺麗に笑ってブンブンと手を振って来るから、わたしはカーディガンを羽織って静かに外に出る。

 「LINE鳴らせばいいじゃん」

 「いやいや、こういうのは形式が大事なのよ。夜こっそり友達を呼び出すなら、やっぱり小石を窓にぶつけないと」

 なんかよく分からないことを言うズンズンと二人で、近所の公園に行く。手ぶらで出てきて小銭すら持っていないわたしに、ズンズンが缶コーヒーを奢ってくれる。

 「エーキさんから聞いたよ。お話があります! だって」

 ベンチに腰掛けて、ズンズンが冷やかすみたいにそう言うから、わたしは突然に恥ずかしくなって無言で俯いてしまう。

 「すごく勇ましかったって言ってた。囚われのお姫様を助けに来た勇者みたいだったって」

 そう言って、あとはしばらく無言の時間が続く。ズンズンは自分から呼び出したくせに、缶コーヒーのふちっこを中途半端にかじったまま、足をプラプラさせて無言で星も見えない夜空を見上げている。

 「わたし、本当に、ズンズンといっくんと、三人で居るのが好きだったんだよ。ズンズンといっくんがカラッと清潔に、楽しそうにしているのを、すぐ近くで見ているのが、好きだったんだ」

 わたしもズンズンと一緒に黙って夜空を眺めていたら、なんだか自然と言葉が流れ出てきた。

 「なにもかもが完璧だったのに、わたしが全部ダメにしちゃった。つまらない無いものねだりで壊してしまった」

 そして、また今、無いものねだりで元に戻してって駄々を捏ねている。

 「むっちゃんは悪者を見つけたかったんだね」

 ズンズンが言う。あんまり見たことがないような、優しい顔をしている。

 「うまくいかないのは誰か悪いヤツが居るせいで、そいつをやっつければいろいろ解決するんだって、そう考えちゃって、でもどれだけ探してもどこにも悪いヤツが居ないから、自分が悪いヤツだったんだって思ってしまおうとしている」

 でも、そんなロープレじゃないんだからさ。そう言って、ズンズンは覗き込むみたいに、わたしの顔を見る。

 「悪いやつなんてどこにもいないのよ」

 「でも、わたし、いっくんのことが好きだったんだよ。ズンズンに嫉妬してて、それで別れればいいなんて言ったんだ」

 それが本当のわたしの気持ち。湿気っぽくて、気持ち悪い。

 「つまりはどら焼きなわけ」

 「どら焼き?」

 ズンズンは人差し指を一本立てて、「そう、どら焼き」 と言う。

 「袋入りのどら焼きってさ、裏側に必ず乾燥剤が入っているじゃない。表側からだと見えないけど、中を開ければ必ず裏側に隠されていて、どら焼きには不可欠なもの。でも、だからと言って、どら焼きの本質は乾燥剤じゃなくてどら焼きでしょう?」

 裏側に隠されていたから乾燥剤のほうが本質なんだ、なんて言ってたら馬鹿みたいじゃない?と、ズンズンは首を傾げる。長いツヤツヤでさらさらの黒髪が肩を流れていく。

 「人間には隠されていたのを自分で探して見つけ出したもののほうが価値が高いと思い込みたがる、そういう習性がたぶんあるのよ。でも、それ勘違いだから」

 嫉妬心なんか人間だれだって少なからず持ってるんだから、そりゃあ裏までひっくり返してみればそういうのも出てくるわよ。だいたい、わたしがむっちゃんに嫉妬してないとでも思ってんの?

 「ズンズンが? わたしに嫉妬するの?」

 「そりゃするよー。天然茶髪とか目がブラウンなところとか、背中がめっちゃ綺麗なところとか。わたし、セナゲめっちゃすごいんだよね」

 セナゲとは背中の毛のことである。まあ、たしかにズンズンは髪をアップにしたときの襟足とか、ちょっと毛深いほう。髪の量も多いし。

 「それにね、別になにも壊れてなんかいないの。ただ、変わっただけ」

 わたしたち、17歳なんだよ? これからどんどん大人になっていかなきゃいけないんだから、そりゃあ変わっていくわよ。

 「どんどん変わっていく。たぶん、最終的には、なにもかも」

 これからも生きていく以上は、完璧な世界を完璧なままに、そこで静止させてしまうことはできない。

 「わたしたち、きっとこれからどんどん変わっていくけどさ。それでも、むっちゃんは変わらず友達でいてくれる?」

 ズンズンが、とても綺麗にそう言って、いま、この瞬間もまた、世界は完全に完璧だったから、わたしは心のカメラのシャッターを切る。

 

 そうあれたらいいなと、心から思ったよ。


 次の日、勢いでいっくんに告白したらあっさりごめんなって言われちゃった。頑張んなきゃなって思った。

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