後編

「私は、アリシアというの」


 ずっと遠くで憧れてきた相手に名乗ることに面映ゆい気持ちになりながら、そっと微笑みを浮かべた。ここまで辿った道筋を思えばとても笑えないけれど、目の前の奇跡のように美しい存在にまみえただけですべて報われた気分だった。

 城に上がってからはじめて晴れやかと行っていい気分になれたことが嬉しくて、つい高揚する気分のまま「あなたに会いに来た」と伝えると、少女はくしゃりと表情を歪めた。


「アリシア。……あなたも、わたしを歌わせに来たの?」


 思ってもみなかったことを言われて言葉に詰まっている間に、少女はますます身を縮めて首を振った。


「帰って。わたしは喉を壊して歌えない。もし治ることがあったとしても、それはきっと続かない。だから、諦めて」


 自分と彼女の意図がすれ違っていることはわかっていたけれど、今にも泣きそうな顔の少女は完全に心を閉ざしていて、何かを言ったとしても届くとは思えなかった。


「今までにもそういう人はたくさんここへ来た。声を、歌を、もっと聞かせろって。自分のために歌ってみせろって。嫌だって言っても、領主が許さない。客に自分の持ち物としてわたしの歌を誇示したいから。だから歌いたくもない歌を歌ってきた。だけど、そんなことはもうしたくない。どちらにしろ、きっともうすぐできなくなる」


 悲鳴のように紡がれる言葉は痛ましくて、胸がふさがれる思いだった。話を聞きながら、アリシアは気づいた。天蓋の柱に巻かれた鎖が、彼女の足元、長い裾の中につながっていることを。


 少女は、鎖で繋がれた籠の中の鳥だった。

 どんなふうに声をかければいいかなんてわからなかったけれど、少女の言葉の中で一番気になったことが無意識に問いかけとなって口からこぼれていた。


「今までずっと歌っていた、朝の歌声も。あれも、嫌々歌わされたものだったの?」


 少女は俯いていた視線を上げて、不思議そうにアリシアを見た。


「……あれは、違う。毎朝、神に祈りを捧げるために歌う歌だから。神殿で暮らしている間、それがわたしの仕事だった。三年前にここに繋がれるまではずっと」


 話には聞いたことがあった。朝日を神と考える隣国では、毎朝神殿で礼拝が行われるという。その儀式において神に歌声を捧げる役割の者たちは、それこそ天の恵みとしか思えない美しい声を持っているのだと。この少女もその一員であったらしい。


「そう、良かった」


 否定の言葉を聞いて、思わず安堵してしまった。それはきっと声にも表れていただろう。彼女を傷つけかねない言葉だと口に出した後で気がついて、慌てて謝った。


「ごめんなさい。私、いつもあなたの歌が聞こえてくるのを楽しみにしていたから。私だけじゃなくて、城下の人みんな。もしもそれがあなたが歌いたくもないものだったとしたら、喜んで聞いていたことがすごく申し訳ないなって思ったから」


 傷つけて怒らせ、嫌われても仕方ないと思って悄然と肩を落としたけれど、少女はますます不思議そうに首を傾げただけだった。


「……アリシアは、変な人だね」


 ぽつりと呟いた彼女の身体からは、怯えや強張りがとれたようだった。

 ベッドの陰から出てゆっくりと明かりの中に立った少女は、本当に美しかった。さらりとした極上の金糸のような髪や、同色の可憐な扇形の睫毛に見とれてしまう。


 宝石のような瞳に見つめられてぼうっとしかけたアリシアに、少女は言った。


「今までの人たちとは違う。わたしを無理に歌わせに来たんじゃない。なら、あなたはどうしてここに来たの?」


 その言葉で、アリシアはようやく本来の目的を思い出す。すっかり忘れていた自分に呆れながら、肩にかけていたヴェールを外した。それを真っ直ぐに差し出す。

 目を丸くする少女に笑いかけ、アリシアはようやくこの言葉を言える時が来たことを嬉しく思った。


「私は、これをあなたに渡したかったの。会って、直接お礼を言いたかった。三年前、私の命を救ってくれたあなたに」

「いの、ち……?」


 困惑する少女に頷いて、ヴェールの表面を軽く撫でる。つかの間、目を閉じて思い返した。


 そう、あれは今夜と同じ、綺麗に晴れた星月夜だった。はじめて彼女の歌声を聴いたあのとき。


「私はあの日――死のうとしていたの」



    ✵✵✵ 



 三年前。それは領主さまが隣国に攻め込み、見事勝利を収めた年だ。

 それは、侵略と行っていい戦だった。夜のうちに密かに国境まで軍を進め、夜明けと同時に最も近い都市へと攻め込んだ。儀礼にのっとった宣戦布告も何もないままに。


 それまでは目立った小競り合いもなく、ごく普通に交易をおこなっていた国同士だったから、不意を突かれた隣国の対応は遅れた。その間に領主さまの軍は一気に首都まで攻め込み、僅か五日足らずで隣国の全土を制圧下に置いたのだ。

 後々、独自の信仰に固執し国民に強いる風土は前時代的で国際関係に良くない影響を与える、などと言いがかりとしか思えない理屈をつけたけれど、当然領地が属する連合国にも無断で行った侵攻は非難を浴びた。


 だが、戦で得た利益を惜しみなく連合国全体に還元すると発表しそれが現実のものとなると、途端に批判の声は沈静化した。

 強者が弱者を蹂躙し、得た利益が全て。それが事実としてまかり通るのが今の世界の“常識”であり厳然たる“時代の流れ”であれば、誰も逆らえはしない。実際、それは今まで何度も繰り返されてきたことで、いつも通りであれば日常の一端として、いずれ忘れ去られていく類のものでしかなかった。


 そう、いつも通りであったなら。他人事でいられたなら、多くの戦の中に消えて行った事実の一つで済んだはずだったのに。

 それでも当時十二歳だったアリシアに降りかかった現実は、否応なく当事者として彼女を巻き込んだ。


『アリシア。ご両親とお兄さんが亡くなったの』

 

 真っ青な顔で飛び込んできた大家さんのそんな言葉に、アリシアはぽかんと口を開けた。昨日、家族は留守番としてアリシアを残し、行商と仕入れに隣国へと出かけたばかりだった。まだ幼いから長旅は無理だと、きっと来年には一緒に行こうと約束して。

 父と兄に頭を撫でられ、母にはぎゅっと抱きしめられて、大家さんと一緒に三人が乗る馬車を見送ってからまだ一日しか経っていない。


 だから嘘だと、何かの間違いだと信じて疑わなかったのに。連れて行かれた先で見たのは、見覚えのある馬車と分厚い布を被せられた血まみれの三人の身体。信じたくないのに、衣服も靴も、確かに彼らの物で。父のたこが目立つ武骨な手も、母の柔らかな髪も、兄の腕のほくろの位置も見間違えようがなくて。立ち尽くすアリシアを抱きしめて大家さんが泣くのを、他人事のように感じていた。


 彼らは国境近くの街に逗留していて、突然始まった戦から逃げきれずに巻き込まれた。そんな説明をされても、まるで心をどこかに落としてきたみたいに、何も感じなかった。


 だって変でしょう? 数日後には戻るって、温かな手で抱きしめて、笑顔を見せてくれた家族がこの冷たい骸になってしまったなんて。もう声も聞けない。呼んでも叫んでも、二度と応えてはくれないなんて。

 ひとりぼっちになってしまっただなんて、どうして受け入れられただろう。


 大家さんに抱えられるようにして家に帰ってからも、何も考えられなかった。涙さえ出ない乾いた目で家の中を見渡した。

 父がいつも作業をしていた暖炉の前の椅子。母が忙しく動き回っていた台所。兄が膝にアリシアを載せて本を読んでくれた窓辺のソファ。

 どれも空っぽで、ひんやりと冷たくて、とても自分の家に帰って来たとは思えなかった。


 母に教わっていた、まだ編みかけのレースが椅子に引っ掛けてあるのを見て、衝動的な感情が湧いた。怒りなのか、悲しみなのか、悔しさなのか。その全部であったかもしれなかった。とにかく空っぽの家に一人でいることに我慢できなくなって、父の道具が仕舞われた棚に駆け寄って目的の物を見つけ出すと、そのまま家を飛び出した。


 とうに日が暮れた街を走り、道を外れて森の木立の中を闇雲に走ったから終いには自分のいる場所もわからなくなった。それでも関係ない、とアリシアは思っていた。戻らないのなら、今いる場所を知ることに何の意味もないのだから。


 息を切らして足を止めると水の流れる音が聞こえた。それを頼りに歩くと、視界が開けて眼下に暗く深い淵が見えた。城壁の周りに張り巡らされた堀だ。水面で揺らめく白い色に惹かれて頭上を見れば、よく晴れた夜空に白い月と瞬く無数の星が広がっていた。

 いつもなら歓声を上げただろうその美しさにも、今は胸がふさぎ苛立つだけだった。アリシアは全部失くしたのに。それでも空はこんなに綺麗だ。それがひどい裏切りに思えて、荒んだ感情のまま懐に手を入れた。


 取り出した手のひらには、父が愛用していた飾り彫り用のナイフがある。鞘を取ると、恐ろしく鋭い切っ先が月光をはじいて光った。作業している父の傍で兄とふざけると、いつも雷のような声で叱られたものだった。

 今はもう、叱る父はいない。その事実が苦しくて、鋭い輝きに救いを求めるように切っ先を手首に当てた。


 手首を切って、堀に飛び込もう。痛いし苦しいだろうけど、自分で頸を掻き切るよりは少しだけましだろう。

 そう決めて、ナイフの先を肌に沈める。玉のように丸い血が滲んできて、ぞくりと背筋を粟立たせたその瞬間。



 ――声が、聞こえた。



 咄嗟に周囲を窺ったけれど、誰の気配もなく僅かな風が葉をそよがせる音が響くだけ。けれど、声はずっと聞こえていた。それを追って、堀の向こうの城壁を見る。そのまま上へ辿って、黒く夜空に聳える塔を仰いだ。


 声は歌っていた。今まで聞いたことがないほど、澄んでよく響く繊細な声だった。月や星と同じ、アリシアの頭上から降り注ぐ美しいもの。

 それでも苛立ちは起こらず、意識を引きつけられる。抗えない引力を持つけれど、不快ではない。むしろ、空になった心に清い水を注がれているかのような心地良さがあった。


 注がれた水はやがて溢れ出す。アリシアは、自分の頬が濡れていることに気づいた。いつの間にか、涙が零れ落ちている。

 気づいたら止まらなかった。嗚咽が漏れ、拭っても拭っても涙は零れ続ける。それでも不思議なほどすんなりと、歌声は胸に響いた。


 その歌は、天地の恵みに感謝し神を讃え祈る歌だったけれど、声はひどく悲しげでところどころかすれ、感情でひび割れていた。聴いていると胸がつぶれそうな、かすれた悲鳴のような歌。それでも歌声は何より美しく温かく、アリシアを慰めた。


 そして、気づく。

 深い悲しみを孕んだその歌声が気づかせてくれた。


 だからこの星月夜から、アリシアにとって“鳥”の歌声は特別になったのだ。



   ✵✵✵  



「特別……?」

「そうよ。あなたの歌声が、私に気づかせてくれたから」


 あの時聞いた、今にも壊れそうな薄氷にも似た美しく脆い声。それがアリシアの心を満たしたのは、アリシア以上の怒りを、悲しみを、悔しさを、声の持ち主が抱いているとわかったからだ。


「悲しくて、胸が痛くてたまらないって、あなたの歌は叫んでた。だから認めるしかなかった。私は、自分を憐れんでいただけだって。家族の死を悼んで泣く前に、ひとりぼっちの自分を憐れんで命を投げ出そうとしていたの」


 ただ悲しいと泣く歌声を聴かなかったら、そんなこともわからないままだった。ひどい話だ。家族に温かくくるむように守られてきたその支えを失ったとたん、与えられたたくさんの物を見失ってしまっていた。


「家族がいなくなってしまったとしても、私には自由な手足も、母さんから受け継いだ技術もあったのに。行こうと思えばどこへだって行けるのに。私は、全部を失くしてなんかいなかった」


 その時からずっと、塔の上の存在に救われてきた。会いたくて、愚かな自分を止めてくれたことにお礼を言いたくて。だから今、アリシアはここにいる。

 もう一度、両手で捧げ持つようにしてヴェールを差し出す。あれからいくつも仕事として作品を仕上げてきたけれど、これほど誇らしい気持ちになったことはなかった。


「だからこれは、あなたのために編んだもの。あなたに一目会いたくて、あの日のお礼が言いたくて、ここまで来た。どれほど危険でも望みが薄くても。あなたに貰った命だから、あなたのために使いたいと思ったの」


 呆然としているようだった少女が、恐る恐ると言うように手を伸ばし、ヴェールを受け取った。一瞬重なったほっそりとした手のひらに何か違和感を覚えたけれど、すぐにそれは押しやられてしまう。

 彼女はヴェールを眺めてゆっくりと撫でると、小さく微笑んだのだ。仄かでぎこちなかったけれど、それは月光の中でほころぶ花のような、沁みるほど綺麗な表情だった。


「……ありがとう」


 アリシアも笑みを返す。ひどく満ち足りた心地だった。もし今この瞬間、ここに兵がなだれ込んできて胸を刺し貫かれたとしても、なんの不満も悔いも残らないと思えるほどに。


 けれど、一心にヴェールを見つめる少女の瞳から涙がこぼれるのを見て、幸福な気持ちはしぼんでしまう。


「どうしたの……?」


 慌てて尋ねれば、彼女は白い頬にはらはらとしずくを零しながら首を振った。


「アリシアの気持ちが、とても嬉しいのに。はじめて、歌っていてよかったと思えたのに。それでも、わたしにはあなたの感謝もこんなに綺麗な気持ちも受け取る資格がない。……きっともうすぐ、失くしてしまう」


 失くす、と言う単語に先ほど怯えていた少女の言葉が重なる。


「それは、もう歌えなくなるってこと?」

「歌えないことは、ないと思う。でも今の声は確実に、失くすことになる」


 震える息を吐いて、青紫色の瞳がアリシアを見た。


「わたしにはもう、変声の時期が来ているから」

「へん、せい……」


 呟き、ぽかんと口を開けてしまう。変声。声変わり。意味がつかめても、目の前の存在とつながらない。

 長い髪に可憐な睫毛、床にたおやかに波打って流れる衣装はどれも“少女”に似合いすぎていて。先ほど触れた手のひらに感じた違和感が正しかったことを知る。


「……ごめんなさい、勘違いしてた」

「仕方ないよ。こんな恰好をしているんだから」


 “少女”と見紛うばかりの美しい“少年”は、長い裾をつまんで自嘲した。


「領主が着せたんだ。この方が見栄えがするって。もともと髪は伸ばしていたけれど、まさか女の格好を強いられる日が来るとは思わなかった。……この先は、それだけでは済まなくなるだろうけれど」


 暗い瞳で彼は語る。


「喉を壊したと伝えてはあるけれど、おそらく領主は本当の原因が変声だと察している。彼はわたしの声に固執しているから、きっと許さない。そして変声には、……それを止める手段がある。わたしにとっては尊厳を奪われるひどく惨い行為だけれど、領主に躊躇う理由はひとつもない」


 滲んでいた涙が一筋右の頬を伝う。苦痛を訴えるように、震える指がヴェールを握りしめる。


「わたしに許される未来は、生きるために心を殺されるか、服従を拒んで命を奪われるかのどちらかだ。どちらも怖い。生き残って声を保ったとしても、二度と自分の意志で歌う日はこない。囚われたまま、変化を奪われたままこの先を生きることはつらい。選ぶことなんてできない……」


 少年のかすれてひび割れた声は、いつかの夜を思い起こさせた。星月夜の下で聴いた最初の歌。あの時と同じように、彼の声は悲しくて苦しいと悲鳴を上げていた。身を折って泣く姿はあまりに痛ましくて、アリシアの視界も滲んで喉に声がつかえた。


 けれど、あの夜とはまったく異なることがある。

 それは、アリシアの目の前に彼がいるということ。震える肩に触れ、零れる涙を拭える場所に立っているということ。


 アリシアは進み出て、壊れ物に触れるようにそっと、ほんの少しだけ目線の低い彼を抱きしめた。記憶にある母のように。出来る限り優しく、思いが伝わるように願いながら。


「大丈夫、泣かないで。あなたもまだ、全部を失くしてなんていないから。ちゃんと選ぶことができる道があるわ」


 身体を離すと今までで一番近い距離に青紫の瞳があって、戸惑いに揺れていた。不安そうな彼に向かって手のひらを差し出す。


「悲しいのなら、あなたも一緒に外へ出ましょう」


 少年は目を見開き、はじめて聞いた言葉のように鸚鵡返しに呟いた。


「そとに、でる……?」


 何度も唇を動かして確かめるように呟き、やがて首を振る。狼狽で声は上ずり、唇は戦慄いていた。


「できない。塔には鍵があるし、それにわたしには枷が……」

「鍵は、そんなに猶予はないけれど何とかなるわ。その鎖はこれでどうかしら」


 ドレスの胸元に隠していたものを取り出す。それは、あの日のように父の棚から持ち出してきたナイフだ。硬い石の加工にも使っていた硬く鋭いそれならば、可能性はある。

 跪き、鎖を手繰り寄せて確かめる。白銀色のそれは繊細ながら素手では到底壊せない強度だったが、見た目を重視したためか造りが細く、道具を使えば充分望みがあると思えた。


 床に鎖を固定しナイフを添える前に、ふと少年を見上げた。ヴェールを握りしめて立ち尽くす彼は、途方にくれた子どものようだった。


「ここを出るのは、怖い?」


 訊ねると、彼は小さく頷いた。

「……怖い。先のことは考えないようにしていた。外の世界に出ることなんて考えたこともなかった。でも」


 形の良い唇を噛みしめ、彼は苦しげな表情でアリシアを見つめた。


「今はそんなことより、あなたを巻き込んでしまうことが一番怖い。あなたはわたしの歌に意味を見出してくれた。ここまで来てくれた。それなのに、これ以上を求めるのは」

「なんだ、そんなことなの」


 拍子抜けして言うと鼻白む気配がしたけれど、自信を持って微笑んで見せる。


「言ったでしょう。私はあなたに貰った命を、あなたのために使いたいの。そのためなら無茶もするわ」

「わたしはもう十分だよ。このままここに繋がれても、命を失くしても、それを受け入れる」

「だったら」


 アリシアは立ち上がり、視線に強く力を込めた。


「あなたがここで命を投げ出すのなら、今度は私があなたを救うわ。私が貰ったように、あなたにも命をあげる。誰にも囚われない、奪われない未来を。それを用意するから、見ていて」

「……アリシア」


 呼ぶ声には答えずに、再び跪き今度は躊躇なくナイフを鎖に振り下ろした。金属と金属がぶつかる鈍い音が響く。手応えはあるけれど、さすがに木材でも石材でもないものが相手だ。ナイフを握る手が痺れ、滑る刃先が何度か鎖を抑える手をかする。幾筋も傷ができても、刃がこぼれても、諦めるつもりは毛頭なかった。


 父さん、母さん、兄さん。どうか力を貸して。幸運をもたらして。

 強く願うアリシアの腕に、手が触れる。痺れる手を押さえ、ナイフを奪い取ってしまう。鎖にはもう亀裂が入っている。あと少しなのに。


 痺れてろくに力の入らない手のひらを握りしめ、悔しさに唇を噛んでいると、彼は真剣な表情で見つめ返した。


「わたしが代わる。少し離れて」


 聴いた言葉が信じられなくて呆然としながら、言われるまま場所を開ける。少年は言葉通り床に膝をつき、ナイフを握って鎖を壊し始めた。白い手には不必要なほど力が籠もり震えていたけれど、横顔に迷いは見えなかった。


 胸元で手を組み合わせて見守るうち、間もなくかしゃん、と儚い音を立てて鎖は切れた。すぐにもう一本の鎖にも取り掛かり、こちらはコツを掴んだのかさほど時間もかけずに両断された。

 立ち上がった少年の足にはまだ短く鎖が残るけれど、もう彼を繋ぐ役目は果たしていない。彼はナイフを見下ろし、ぽつりと言った。


「ごめん、刃がぼろぼろだ」

「いいよ。そのナイフはちゃんと役目を果たしてくれたんだもの」


 父に感謝しながらそれを受け取ろうとして、彼に押しとどめられる。


「もう少し、貸してくれる?」


 戸惑いながら頷くと、彼はおもむろに髪をかき上げ首の後ろでまとめた。そこにナイフを当て、意図を察したアリシアが止める間もなく、一息に刃を入れる。

 声を失っている間に、長い金糸の髪が足元に美しい模様のように散らばっていった。切れ味の鈍った刃を苦労しながら何度か滑らせ、少年がようやく手を下ろした時には、その髪は肩にぎりぎり届くくらいの長さになっていた。


 次いで床に引きずる長い裾にも半分破くようにして刃を入れていくと、嵌められた枷が痛々しい細い足首が露わになる。残った短い鎖を巻きつけて固定する少年の手つきには、もう迷いはない。

 一息にすべての作業を終わらせると、彼はとても深いため息をついた。


「……本当に、生まれ変わったような心地がする。こんなに身も心も軽いのは、とても久しぶりだ」


 満足げに声を弾ませて、アリシアを見る。

 刃こぼれしたナイフのおかげでどうにも不揃いな髪は彼の美貌にはひどくアンバランスだったけれど、すっきりした表情で見せた笑みは思わず見惚れるほどに生き生きとしていた。

 少し唖然として見つめた後、思わず吹き出してしまう。


「なんだかほとんど、あなた自身が用意してしまったみたいね」

「そんなことはない。アリシアがここに来なかったら、わたしは自分に手足が、意志があるということすら、きっと忘れたままだった」


 微笑む彼が丁寧に柄を向けて返してくれたナイフを受け取り、鞘に納めて胸元に戻す。


「行きましょう」


 もう一度、彼に向かって手を差し出した。きっと、もうそれほど時間は残っていない。

 重なる手のひらをしっかり取り合って、二人は部屋を出た。





 ひたすらに階段を駆け下り、扉を開けて外に出る。火照る身体にひんやりとした夜気が気持ちよかった。息を切らした少年は、裸足で地面を踏んでいる。靴を探す余裕がなかったので仕方ないが、白い足が汚れてしまうことにはなんとなく罪悪感を覚えた。


 しかし、すぐに違和感を覚えてアリシアは全身を緊張させた。

 一度彼の手を離し、茂みの奥を見る。そこに隠したはずの侍女の姿がどこにもなかった。同時に、荒々しい男の声と金属同市がぶつかる音が近づいてきているのに気付いた。その意味を知って総毛立ち、少年の手を掴むのと同時に、木立の向こうにランタンの明かりが見えた。


「走って!」


 鋭く囁いて、森の中に逃げ込む。一瞬姿を見られたようで、「森だ!」と男の一人が叫ぶ。恐怖に心臓を握りつぶされるような心地になりながら、足を止めないまま少年に視線を向ける。


「ヴェールを貸して」


 少年が抱えていたヴェールを受け取り、二人の身体をすっぽりと覆って手を繋ぎ直し、そのまま森の中を走る。時間稼ぎにしかならないが、闇の中でも映える彼の髪や白い服をそのまま晒しているよりはましなはずだった。

 しかし、やがて目の前に現れた光景を見て、少年が落胆の呻きを漏らした。


「壁が……」


 高く高く聳える城壁。それは恐ろしい威圧感を持って、二人の行く手を阻むように夜空に向かって伸びている。しかし、アリシアは怯まず、ぎゅっと励ますように少年の手を握った。


「こっちよ」


 壁沿いに走り、月光を頼りにあたりを探る。その間にも後ろからは足音とカンテラの明かりが迫っているのがわかる。焦燥で地面に躓き転びかけたアリシアを少年が慌てて支えてくれた。一人じゃないと伝えてくれるその体温に、不安を宥められる。心配そうな彼に笑みを返して、前方に目を凝らした。


 そこにはまた壁があった。それは三方を壁に囲まれた窪みで、二人を追い詰めた背後の足音が緩む。ひきつった息を漏らし緊張する少年が、震える声で彼女を呼んだ。


「アリシア、もう……」

「追い詰めたぞ。我が鳥と忌まわしい小鼠め」


 低く、よく響く声。聴き覚えがある重厚な声音に、少年の身体が大きく震えた。

兵の掲げるカンテラの列が割れて現れたのは、先ほど遠目で見たばかりの領主の姿。幾度も戦場に立ったというたくましい体つきと壮年の頬に走る傷の数々が、場の空気を変えるほどの威圧感を彼に与えていた。


「よもや小娘にここまでの狼藉を許すとは。我が鳥の歌に酔い、立場も弁えず欲したか。この私から盗み出して無事に済むとでも思ったのか」


 嘲笑う強者の声音に、知らず足が震えてくる。けれど、自分以上に怯えて血の気を失い震えている少年の冷たい手が、かろうじて理性を繋ぎとめていた。

 領主の猛禽類に似た鋭い眼差しが、無残な姿になった少年を映して不快げに細められる。


「美しく整えてやっていたというのに、哀れなことだ。麗しさを妬んだ小娘に、唆されたのだろうな? 籠に籠められ私の望むまま囀っていれば、このような目には合わずに済んだものを。よくわかったであろう、外に出ても碌なことはない」


 アリシアにすべての責任を負わせ、彼を塔に戻すつもりだとわかった。領主はまだ“鳥”として彼を飼うつもりだ。尊厳を奪い、歌声だけを望んでまた籠に繋ぎ留めようとしている。


 つないだ手がより大きく震え出すのを感じて、たまらず声をあげようとする。けれど、一瞬強く握られた冷たい手に、言葉を遮られた。震えてかすれてはいても凛と澄んで響く声が、領主に告げた。


「わたしも、そう思っていた。逃げ場などなく、塔の中だけがわたしに許された居場所なのだと。外に出ることなど思いつきもしなかった」


 領主の唇に満足げな笑みが浮かんだ。


「賢き我が“鳥”よ、そうだとも。我が手にある限りは守ってやる。だから塔へ――」

「戻らない」


 きっぱりと、少年は告げる。領主の顔色が変わった。


「……なんだと」

「二度と、言いなりにはならない。お前のためには歌わない。わたしはもう、お前の“鳥”じゃない。誰にも囚われず奪われることのない新たな命を、彼女がくれた。わたしはこれから、この足でどこへだって行ける!」


 月と星が瞬く夜空に、その声は高らかに響いた。産声のように、誇り高く。彼の強張った白い頬にそれでも小さな笑みが浮かぶのを見て、アリシアの胸が鳴る。目を閉じ、浮かぶ喜びを噛みしめた。


 ああ、もう大丈夫だ。あの日と同じように、アリシアの“特別”な声が彼女を励ます。今なら、どんなことだって叶う気がした。


「何を、愚かな……!」

「愚かなのはあなたの方だわ、領主さま」


 睨みつけられても、もう怯みはしない。つないだ冷たい手に体温を分けるように強く握り返し、顔を上げた。


「人が人を繋いでおくことなんてできない。できるのは伝えることだけ。美しいものを愛おしく、慕わしく思う心を。それを知らないあなたに、彼は渡せない」


 にっと笑みをひらめかせ、アリシアは少年の手を取って踵を返す。壁に向かって走る彼女の思惑を計りかねて一瞬出遅れた追手の隙をついて、壁の下方、頭と肩がかろうじて通るくらいの小さな隙間に身体を滑り込ませた。


「……水路だ!」

「逃がすな!」


 兵たちが一拍遅れて気付いた頃には、二人は隙間を通り抜け、城壁の下からつながる水路へと逃げ込んでいた。隙間は大の男たちにはどうやってもすり抜けることは不可能で、すくみ上るような怒号が響いてもその手が届くことはない。

 そこでは暗闇の中、堀に面した壁に設けられた細い小窓から差し込む月光だけが頼りだった。足は膝まで冷たい水に浸かっているし、壁に付いた手にはぬるりと苔だか藻だかわからない何かがまとわりついてくる。


 それでもようやく息をつける場所に来ると、寒さのせいだけではなく足ががくがくと震えてきた。今更ながら、ぎりぎりの綱渡りをしていたことに恐怖を覚える。

 同時に極度の緊張状態を抜けたせいか、無意識に頬まで緩んできて慌てる。けれど、アリシアのものではない笑い声が先に響いた。


「……まさかこんな抜け道があるとは思わなかったから、もうおしまいかと思った。アリシアは本当に準備が良い」


 つられて、アリシアも笑ってしまう。


「あなたこそ、そのわりには豪快に啖呵を切っていたじゃない。私だって命を懸ける覚悟で来たとはいえ、無駄死にをする気はなかったもの。できる準備はしておくわよ」


 城に上がる機会があるたび、怪しまれないよう細心の注意を払いながら情報収集を重ねた。城下でも城の修復工事に関わったことがある者たちに話を聞いて、水路の構造を調べて回った。

 そうして周到に計画を立ててはいても、何か一つでも違っていたら、今こうして二人で笑い合っていることはなかっただろう。その事実に安堵と、やはり遅れてきた恐怖を覚える。


 しかし、壁を壊そうとしているのか鈍い金属音が響いているし、強固な城壁を回り込むのには相当の時間がかかるとはいえ、追われている立場であることに変わりはない。気持ちを引き締め、水路の構造を思い描きながら移動を始めた。


「こっちに、取水のために堀とつながる場所があるはずなの。そこからなら外へ出られるわ」


 説明しながら少し歩くと、情報の通りに取水口が見えてきた。十分な大きさで通り抜けるのに苦労はないが、段差が大きく、石組みの縁には手を伸ばしても届かない。すぐに少年が踏み台になると申し出て、躊躇はしたものの他に手はないと思い直し、アリシアは頷いた。

 それでも高さはぎりぎりで濡れた石組みは滑りやすく、ドレス姿でよじ登るのには相当の苦労を要した。息を切らしながら、今度は少年を引き上げるために水路の中へと手を伸ばす。


 彼は石組みの窪みを上手く利用してよじ登ってくるが、やはりひと一人を引き上げるのは大変だった。それでも両腕にかかる重みが彼がここにいることを伝えてきて、そんな場合ではないと思いながらも嬉しくなる。


 ふと思い出して、アリシアは手を滑らせないように気を付けつつ、荒い息の合間に問いかけた。


「ねえ! そういえば、あなたの名前を、まだ聞いていないわ」


 少年も息を切らしながら苦しそうに眉を寄せ、アリシアを見上げる。


「それって今、必要かな」


 苦笑する彼に向かってやはり切れ切れに、けれど当然のように微笑んで言った。


「必要よ。ここから先は、籠の外だもの。あなたは、もう、領主さまの“鳥”じゃないわ」


 少年が縁に両腕をつくところまで来て、あとは身体を引き上げるだけになった。そこで息を整えながら、彼は震える声で笑った。


「名前を聞かれるなんて、いつ以来だろう。神殿では洗礼で与えられた名で呼ばれたし、領主も客も、名前を聞くことなんて一度もしなかった」


 ひとりごちて、囁くように告げられたその名がアリシアに届く。


「……ルドヴィーク」


 美しく気高い、この上なく彼に似合う響きだと思った。

 遠く手が届かなかった“鳥”は少年の姿と声を持ち、今目の前にいる。この奇跡を、アリシアは生涯忘れないだろうと思った。あの星月夜と同じように、この先何度でも思い出す。その度にきっと、この瞬間の記憶が生きていく力をくれる。


「そう、ルドヴィーク。一緒に籠の外の世界へ行きましょう!」


 改めて差し出した手のひらを彼が握る。呼ぶ声に、見惚れるほど美しい晴れやかな微笑みが返る。彼の身体を引き上げると、息を切らして顔を見合わせ、声に出して笑った。

 そして再び手をしっかりとつなぎ、夜空のヴェールを被った二人は夜の中へと駆けていく。





 その夜以来、領主さまの“鳥”の歌声が響くことは二度となかった。病に弱りそのまま命を落としたと知らされた領民たちは落胆し、その歌が永遠に失われたことを嘆いた。


 けれど、同時に流れたとある噂がひっそりと、まことしやかに語られる。


 “鳥”が姿を消した夜、森の近くに住む者が、その奥から響く少女と少年の歌声を聴いたそうだ。その声の持ち主はどこにも姿が見えず、優しい風のように流れる幸福な歌は遠ざかり、やがて聴こえなくなったという。

 それは麗しの声持つ“鳥”の魂と夜風の精霊が戯れた、稀に見る美しい星月夜の奇跡だったのだろうと、長くおとぎ話のように語られることとなる。


 ✵Fin.✵

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星夜の鳥 @ito_m

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