第4話
◇ キキさんのアルバイト 第四話 ◇
第一章:愛情に包まれて
あの日以来。
キキさんは、たまにお酒を持ってハクの部屋を訪れるようになった。
キキさんが館で一人過ごすのが何となく寂しい日とか、あるいはハクに元気が無い時とか。
そんな夜に、キキさんは来る。
それも当たり前になってきた。
今夜も、キキさんがプライベートで訪ねてきていた。
晩春。
スヴェシの査察があってまだ間もない。
二人は、ハクお気に入りの強いライ麦の蒸留酒が入ったグラスをうちあわせた。
「乾杯」「かんぱーい」
ロックで一口飲んでから、キキさんは今年のスヴェシはどんな感じだったのか、とハクに聞いた。
キキさんも顔をあわせてはいるが、ハクほど長い時間をスヴェシと過ごすことはない。
「毎年、あまり変わりません。もう、何年前でしたっけ。スヴェシさんが左手を凍傷で失ったのって……。あの年はさすがに元気がない感じだったんですけど」
「あのおじさんも、いい根性してるわよね」
オジサン呼ばわりしているが、実際に生きた年月はキキさんの方がはるかに長い。
ただ、だいたい全ての生き物は、見た目と精神年齢が一致する。
その意味で、キキさんにとってもやはりスヴェシはオジサンなのであった。
ハクは以前に比べ、スヴェシの来る季節になってもあまり不安がらなくなった。
奉神礼でのハクやミティシェーリへの悪口雑言も、聞き流せている。
ハクは、国教会の精神的な戒めから、着実に抜け出しつつあった。
国教会が禁じている飲酒を、なんのためらいもなくしているのも、その証拠だろう。
いや、ただの酒好きなのかもしれないが。
自信が付いたのだ、とキキさんは思っている。
創りだす氷結晶は、国教会からも求められるレベルに達した。
一人前以上の仕事をしているという実感。
クークラという子供を持ち、それに対する責任感を自覚したこともまた、彼女を強くしたのだろう。
そして。
こうして、友人と一緒に飲み交わす時間があるということ。
それも少なからぬ影響を持っている。
キキさんは決してそれを計算しているわけではない。
しかし。
自分は一人ではない。味方が……それも心強い味方がいるという事は、ハクの精神によい働きかけをしたのである。
「スヴェシって、もう幾つくらいになったのかしら?」
「六十歳前後ですよね。その……人間の年齢ってあまり実感がわかないんですけど」
「そうね。でももう引退とか、あるいはもっと偉くなって、国教会でも別の職についていてもおかしくないような気がするんだけど……。主教って、べつに終身制じゃないと思うし」
「前の担当主教の方たちは、だいたい次の世代の人に譲って辞められていましたね。世襲でもなく、その都度、手続きを踏んで選定されるんだそうです。でももっとお年を召した方も居られましたよ。逆に、スヴェシさんより若い主教として来られた方は居ませんでした」
キキさんは、初めてスヴェシを見た時のことを思い出す。
彼は、自分を査定するために、あえて予定を早めて訪問してきた。
あれ以来、もう二十回近く顔をあわせている。
キキさんは別にスヴェシのことが嫌いではない。むしろ、その職務への忠実さや、左腕を失ってなお氷結晶を手で持ち帰る精神力を高く評価している。
ただ、ハクにとって敵の立場の人間である。
出会い方が違えば、もしかしたらお互いに尊敬することのできる関係を築けたかもしれなかったが。
そうはならなかった。それは少し残念かもしれない。
「優秀そうだし、若かったんだから、もっと上の地位に付いてさっさと居なくなるかと思っていたんだけど」
「……スヴェシさんは、その……」
「……? 何?」
「氷結晶が、好きなんじゃないかな? と、思うんですけど……」
「……」
「……ね?」
「……いや、それはないでしょ。確かに貴女の作る氷結晶は美しいわ。だけど、そのために、わざわざ出世の道を捨てて現職に留まるなんて……それも、あのスヴェシが」
「……ないですかね?」
ハクはそれ以上は言わなかった。
この実感は、多分、自分でなければ持てないだろうと思ったからだ。
年に一回会うだけとはいえ、付き合いは長く、深い。
鉄のような精神力に隠されたスヴェシの表情も、それなりに読めるようになってきた。
氷結晶を受領する時、必ず垣間見せる表情がある。
感情を制御できず、どうしても溢れさせてこぼしてしまうかのような、あの表情。
あれは。
喜び……いや、悦楽と言っていいものにしか見えないのだ。
「キキさん、最近、お酒をあんまり飲まなくなりましたよね」
ハクは話を変えた。
「……貴女に合わせるのをやめただけよ。わたしはね、これくらいのペースが丁度いいの」
キキさんは、最初の一杯だけをロックで飲み、あとはグラスの縁に塩を付け、グレープフルーツジュースで割って飲むようになっていた。
02.
「キキさん……応接室の掃除……終わりました……」
中央会議室の整理をしていたキキさんのもとに、クークラが割り当てられていた仕事を終えたと報告に来た。
今日に限って肩に小さな人形を乗せており、言葉に抑揚がなく、テンションが低い。
「お疲れ様です。今日はもう上がってもいいですよ。……本当に終わったのであれば」
「はい……お疲れ様です……」
「ところでクークラさん、その肩の人形は? 動いているようですが」
「……術の……。練習です……」
「なるほど。……少しお聞きしますが……そうですね、ハク様はいまどこに居られます?」
「……ハ……ピ……d……」
キキさんは目を細めて、しかし少し呆れたように肩をすくめた。
「本当に腕をお上げになられましたね」
キキさんの目線は、少女人形の肩に乗った小さな人形に向けられていた。
次の瞬間、少女人形が力を失い、その場にへたり込む。しかし膝をつく直前に眼に輝きが生まれ、体勢を持ち直した。
その肩から、座っていた小さな人形が落ちた。それも地面にぶつかる前に手で受け止め、それまでカタコトで喋っていた少女人形に宿り直したクークラが言った。
「やっぱりバレたか……。どの時点で気づいたの……気付きました?」
「最初から。喋り方が不自然すぎます」
「ハクの場所を聞いたのは……」
「命令されたこと以外の行動や受け答えが出来るのかどうか、試しただけです」
「喋り方は気になってたんだけど……やっぱりそこらあたりかぁ」
キキさんは内心で、私はアニメートを施した物品を喋らせることなんて出来ませんけどね……と、呟いた。
「クークラさん。イタズラもよろしいですが、掃除は本当に終わったのですか?」
「あ、はい。それは本当に。この……」
言って、クークラは自分が宿っている人形の身体を見た。
「この身体にアニメートをかけてやってみました。眼があるから、円形モップと違って拭き残しなく出来るので、思ったより早く終わったんです」
こうして考えると、生き物の身体ってよくできてますよね、とクークラは言う。
何かに特化しているわけではないけど、眼と手と脚と耳と。他の感覚器官も含めて。組み合わせれば本当に何でもできる。
そんな汎用性の高い運用なんて、わたくしには出来ませんわ。キキさんは心のなかで舌を巻く。
それがアニメートの術を施しやすい死体だったならばともかく、こんな複雑で繊細な構造の人形でやるのは、とても無理だ。
いつか、クークラに「免許皆伝です」と言ってあげたいと思っていたのだが、その機会を見極める前に、いつの間にかクークラはずっと先を行ってしまっていた。
そのくせ、まだキキさんの方が優れた術者だと思っているフシがあるから、余計に言い出せなくなっている。
「あ、そうだ。今日も夜、ちょっといいですか?」
「なんでしょう。ここの掃除もほぼ終わりましたので、難しいことでなければ今でも大丈夫ですが」
「実はその……最近、アニメートの憑依体と、自分の意識が重なる時があるんです。ええと、例えば今だったら、自分がこの小さな人形に憑いて、大気に満ちる魂で動かしている大きい人形の近くに居たりすると……」
「……大きい人形にも、自分が乗り移っているように感じる……と?」
「はい。アニメートで動いているはずの大きい人形が見ているものが分かる時があったり、あるいはアニメートの憑依体の動きを少しくらいなら操れたり。自分と、アニメートで動いているものが繋がっている感じなんです。大気に満ちる魂が動かしているはずのものを、さらにその外から自分が操作しているような感じ……です。キキさんはそういうことは?」
キキさんは静かに首を横に振った。
「それは恐らく、クークラさんの体質とも関連があるのではないかと思います。わたくしはそのような状態になったことはありませんし、書で見たこともない……」
「キキさんでも……わからない?」
「申し訳ありませんが。クークラさん以外には、誰もわからない領域の話かと」
「自分としては便利なのでいいんですけど……」
「そこはご自分の感覚で判断していただくしかありません。ただ、これだけは申し上げます。危険だと思ったら、即座に引き返してほしい。便利であっても、いえ、便利であるがゆえに、いつの間にか戻ることの出来ない危険に嵌り込んでしまっている、という事も、魔術の世界では少なからずございますので」
クークラは、わかりました、と言った。
もう少し、自分の制御できる範囲で色々と試してみることにします。
「……あ。あと、あの……」
「?」
「砦跡を取り巻く大気に満ちる魂の中に、異質なのが混じっていますよね」
「ええ。私が初めてここに来た時……思えばそれから、もう随分と経ちましたが、その時から感じております」
「あれって、何だと思います?」
「そう聞かれるということは、クークラさんも何らかの予想をお持ちですね?」
「はい」
「わたくしも、確認はできませんが、だいたいあの方だろうという考えはあります」
多分あれは……と、二人の言葉が重なる。
「魔王ミティシェーリ」「ハクのお母さん」
03.
「お母さんの……魂?」
「うん! ボクも、キキさんも、多分そうだと思うんだ」
……
…………
砦跡に残る異質な魂は、おそらくはミティシェーリだろうと言うことで意見が一致すると、クークラはキキさんが驚くほどの熱心さで、それをハクに伝えたがった。
クークラは、ハクは母親に会いたいはずだと力説した。
ハクは、ボクと違って親にかまって貰えないまま、死に別れてしまった。
「ボクだって……その、ハクが工房に篭ってしまっているときは、少し寂しい。ハクは、その何倍も寂しかったはずだと思うんだ」
キキさんは、ハクにそれを伝えることには反対しなかった。
ただし、ハクは大気に満ちる魂を感じ取る能力がない。
伝えたとしても、それは無駄になるかもしれない。
「わたくしやクークラさんのように、それを感じ取れるほうが珍しいのです。わたくしも、素質があった上で努力して身につけました。生まれつきその感覚を持っていたクークラさんには理解し難いかもしれませんが……」
「……解らなくはありません。ハクのお母さんの魂は、ハクが工房から出てくるたびに、いつも取り巻いていた。でも、ハクはまったく気づかなかったから」
それでも、その存在が砦跡を……ハクのまわりを取り巻いていると思えば、ハクは喜ぶと思う。
クークラの意見には、キキさんも同意した。
……
…………
「私が感じ取ることが出来ないだけで、お母さんはずっと私を、見守っていたのかもしれない……と」
「実際的な事を言うならば、おそらくそのような明確な意識はないでしょう。ミティシェーリ個人としての自我や記憶が残っているとはとても思えません」
「うん、確かに、もっと単純な、感情とか反応とか、そういうもので動いているようにも見える……」
「しかし、その独自の感情が残っているだけでも凄いことです。相当に精神力の強い女性だったのでしょう」
「キキさんに教えてほしいのですが、母のその状態は、あまり自然なことではないのでしょうか?」
「生きているものから離れた魂のほとんどは、ゆっくりと、しかし順調に大気に満ちる魂に混ざりこんでいきます。混ざり難いのは、普通は何か強烈な恨みのような、強い感情を持ったモノだけ。それは極少数ですから、自然なこととは言えませんね」
思っていたよりも淡々としているハクを見て、クークラは少し首を傾げた。
もっと「お母さんの魂が残っているのであればぜひ会いたい」という態度を取るかと思っていたのだ。
「……他と混ざりにくいというその魂は、辛くはないのでしょうか?」
「魂が何かを感じているのか、それすらわたくしには分かりません。まして、幸福とか不幸であるとか、そのような高度な感情を持っているのかなどは、なんとも。ただ、混ざらない魂には、負の感情を持って身体を離れたモノが多く含まれていると考えられます。これは、負の感情のほうが、より単純で、その分強いからだと言われています」
「母の魂は違う?」
「スヴェシへは敵意みたいな負の感情を持つけど、ハクの周りにいる時には、むしろ逆の感じになるよ」
キキさん以上に鋭敏な感受性を持っているクークラが答えた。
「だから、単純に負の感情だけで動いているわけではないのは確か」
「……どちらにせよ、幸福なのか不幸なのかは、肉体を持って生きている身では判断がつきませんね。もしかしたら、多くの魂が、大気に満ちる魂に練りこまれていく事の方に恐怖しているのかもしれませんし」
「最後に聞かせてください。お母さんがそのような状態になったのは……その、やはり私が心配だったからでしょうか?」
「……その可能性は、少なからずあります。子を思う母が皆、混ざらない魂のような存在になるわけではありませんが、しかしその気持ちは、とても強いものでしょう」
「ハクの周りにやってくるし、関係ないはずがないと、ボクも思う」
04.
「大体のところは理解できました」
ハクは静かに言った。
「ちょっと意外だったな。ハクは、もっとお母さんに会いたいって、単純にそう考えるかと思っていた」
「そうね。会いたいという気持ちは、もちろんあるけど……」
ハクは少し考えて言葉を継ぐ。
「そう、もうちょっと前だったら、今みたいに落ち着いて聞くことが出来なかったかもしれない」
「……もう、お母さんに対する想いが薄れちゃった?」
「いいえ。自分でも上手く言えないけど、忘れたわけでも、もちろん嫌いになったわけでもない」
「ハク様は、おそらく精神的にお母様に頼らなくなったのでしょう」
「それって? どういうこと?」
「しっかりとした自信をお持ちになり、心に余裕が出来たのです。言い方を変えれば……」
「うん」
「ハク様は、大人になられたのです」
「大人? ボクからすれば、ハクはずっと大人だけど……」
「それはクークラさんから見ればそうでしょう。なんと言いますか……親という、自分を守ってくれている存在に依存せずとも、一人で立ち、一人で行動できる、そういう大人になられたのです。ハク様は子供の頃、ミティシェーリ様を始めとした大人たちに、頼ることが出来ない状況にありました。だから、氷の種族として身体は成人されても、精神的には守ってくれる親に依存したいという欲求を捨てきれなかったのではないでしょうか」
ハクは、何やらこそばゆい気分になってきていた。
「そ……それはそうなのかもしれませんが……その……キキさん?」
「そういった精神的な親の庇護から、ハク様は自ら離れられたのでしょう。親元から離れるということは、親を忘れ、嫌いになるということではございません。もちろん、過程においてはその庇護をウザったく思うこともあるのかもしれませんが、人は、そこを離れて初めて一人で生きていく強さと、そして精神の自由を手に入れるもの。ミティシェーリ様の魂も、それを知ったら喜ぶのではないでしょうか。クークラさんの目から見ても、ハク様は変わられたでしょう?」
「どうだろう……わからないけど……でも確かに、前に比べて落ち着いた感じは、するかも」
「あの……キキさん……恥ずかしいんですけど……」
「あら、わたくしは褒めていたつもりなのですが……」
「それはそうなんでしょうが……、それよりも、もう一つ、母の魂のことで教えてもらいたいのですが」
「私に分かることであれば」
「いま、母の魂が喜ぶと言うのを聞いて思ったのですが、感情が残っているということは、それこそ喜ばせることも可能なんでしょうか?」
「おそらくは可能でしょう。ただ、その方法となると……」
「分かりました。今、少し考えたことがあります。申し訳ありませんが、暫くの間、工房に篭もる頻度が高くなるかと思います。仕事の差配など、その分お任せすることが多くなるかもしれません」
「承りました。何をされるおつもりかは分かりませんが、参謀本部内の事はお任せください」
「クークラも、寂しい思いをさせるかもしれないけど」
「大丈夫だよ。うん。例え寂しくても、ボクは大丈夫」
キキさんは、クークラのはっきりとした答えに、ハクとの強い絆を感じた。
信頼がなければ、クークラはもっと駄々をこねただろう。
「ねぇ、ハク」
「なに?」
「もしもハクが死んだら、ボクの周りに残って、見守ってくれる?」
「……それは……」
「……うーん、ハクは意思が弱そうだから、無理かなぁ……」
思わず、キキさんは吹き出した。
「あっ……酷い……」
ハクは心底キズついたような表情をした。
第二章:墓参り
01.
ある秋の夜長。
キキさんの姿が、BAR.ブレイブハートのカウンターにあった。
先ほどまでは店内も賑わっていたのだが、パタパタと客が帰り始め、今、店内はキキさんだけである。
ソファ席を片付けたマスターが、カウンターに戻ってきた。
その姿はどう見ても人間なのだが、しかしスヴェシと違い年をとって老けることがない。
何らかの呪いでも掛けられているのか。それとも精霊に取り憑かれているのか。
そのような事を聞くのは、社会通念上失礼に当たる。
キキさんは特に気にせず、今でもブレイブハートに通っていた。
「久しぶりだな、キキさん」
マンツーマンになった客であるキキさんに、マスターは笑いかけた。
「最近は、砦跡のハクと宅飲みすることも増えまして」
「それは良い。あの娘は外で知り合いを作ることも出来ない立場だから。交流を増やすのはいい事だ」
「ブレイブハートの客は減りますけど?」
「うちは何もキキさん一人で持っているわけじゃないさ」
キキさんの注文したカクテルを差し出しながら、マスターは聞いてきた。
「あの娘、国教会に酒は禁止されていたと思うが……。どんなのが好きなんだ?」
「ライ麦の蒸留酒を好みますね。だいたいロックで飲ってます。私が最初に飲ませたのが”望楼”だったせいもあるかもしれませんが」
「ああ、ミティシェーリが好んだ……よく手に入ったな。今じゃ作られていないだろう」
さすがに、酒の銘柄には詳しい。
「それに、氷の種族は押しなべて強い酒が好きだからな。よく飲むだろ」
「あのペースには付き合えませんね……それにしてもマスター、氷の種族の酒のことなんてよく知ってますね」
「まぁ、昔は色々あったからな」
「……? 戦争に参加されたんですか?」
「……ああ」
「……マスターは……」
キキさんは、ちょっと興味の出たことを聞いてみた。
「魔王ミティシェーリを見たことがありますか?」
「……あるよ。あれは美しい女性だった」
マスターは、戦時中のことを語るのを、それほど忌避していないようだった。
「彼女本人は特に戦闘能力があったわけではなかった。いや吹雪を操るから、一般的な人間から見れば脅威ではあるが、それでも戦場で一対一で向き合っても特に怖い存在ではない。だが……」
「だが?」
「彼女が前線に出てくると、氷の種族たちが沸き立つんだ。彼女を守ろう、あるいは彼女が見ていてくれると思うだけで、心が奮い立つんだろうな。見た目の美しさもそうだが、立居振舞いが格好良くて、とにかく意志が強かった。あれはまさにアイドルとかカリスマと呼ばれる存在だったな」
「娘のハクとは違いますね」
「そりゃ、そうだろう。カリスマ性なんて受け継がれるものでもない。いやそれ以前に、あの娘は戦後からずっと幽閉されているんだ。カリスマ性どころか、社交性すら育たんだろう」
「ハクと会ったことが?」
「ああ、一度だけ、会話をしたことがある。オレにも考えがあって、ちょっとしたものを渡した……それはそれとして、キキさん」
「なんでしょう?」
「最近、国教会からの支払いはどうだ? 滞ってたりはしないか?」
「いえ、今のところそれは一度もないです。この間、布を買いに行った仕立て屋の店主さんに聞いたのですが、むしろ最近は喜捨以外にもお金をかき集めていて、羽振りがいいとか」
「ふむ。だが、その店主はそれを快く言っていたわけではないだろう?」
「そうですね、むしろ批判的でした」
「最近なにかキナ臭い感じがする。国教会に限らず、国家運営の根幹に関わる者たちが、どうも私利私欲に走ってタガを外してしまっているような」
マスターはため息を付いた。
「キキさんの仕事に関わる事で何かあったら、遠慮なく言ってくれ。紹介した以上こちらも気になるし、場合によっては話を通すことも出来る」
「あてにしておりますわ」
本当に、この人は国教会の何なのだろう?
キキさんは、ライ麦酒をグレープフルーツとクランベリーのジュースで割ったピンクのカクテルに口をつけながら考えた。
答えは出なかった。
02.
ブレイブハートで飲んでからしばらく後。
その時に購入した酒瓶を手に、今度はハクの部屋で飲んでいた。
その日、キキさんがアルバイトを考えたきっかけを聞かれ、ブレイブハートのマスターの事を話し、先日の会話も話題になった。
その流れでキキさんは、ハクに今まで会った人のことを聞いた。
ハクは、その生涯で会ったことのある人の数を指折り数えて、氷の種族の仲間たちを除けば、本当に数える程度ですねと自虐的に笑った。
母であるミティシェーリやその護衛官だったゲーエルーはともかく。
著名な氷の種族としては、戦史書では死霊使いとして語られているヴァーディマや、シャドウサーバントの使い手であるチェーニが居る。
しかし、ヴァーディマは戦争が始まってからは近寄りがたくなっていき、チェーニはもともと別のグループの参謀格で、この砦に立てこもってから初めて会った。あまり話は出来なかったと、ハクは言った。
母亡き後は、まず下の大地の軍隊の人たちに連行された。
その時にあった人たちは皆、敵愾心がむき出しで、恐ろしいという心すら麻痺し、何も考えられずにただ怒鳴られていた記憶がある。
その後、自分の知らないところで勇者様が私を殺さないよう発言したらしく、ある日を境に境遇が一変した。
軍隊から私を引き取った国教会の人間達は、それまでに比べれば丁寧に対応してくれた。
しかし、終戦直後は絶望の中で慌ただしく過ぎたので、実際の所、会った人たちのことはあまりよく覚えていない。
その後、砦跡に幽閉されてからは、それこそ数えるほどしか人と会わなかった。
基本的には、担当主教。それのみ。
最初の頃は、クークラも話すことが出来なかった。でも、何か危なっかしい動きをしていたので目を離せなかった。
クークラが今の人形に入って会話をできるようになったのは、二代目の担当主教の時。おおらかな性格の人で、クークラのためにもっと良い人形が欲しいと頼み込んだ。
まさかあんなに精巧で高級な人形を贈られるとは思わなかった。
とは言え、そのお陰でクークラと話せるようになり、自分の精神もこの頃から随分と安定したように思う。
ああそれから、とハクは言った。
「言い忘れていましたが、勇者様とも、この砦に幽閉された直後に一度会ったことがあります」
「それって、クークラを渡されたとき?」
「はい。事前に、人形を作っておくようにと国教会の人から言われていて。勇者様は、水晶の中で眠ったようになっているクークラを、その人形に乗り移らせて目覚めさせました」
「どんな感じだったの?」
「実は、母が討たれた時にも眼にしていたのですが。ゲーエルーさんが言うクマのような人、というのが見た目の印象でした。でも、話してみたら全然ちがって、落ち着きのある優しい感じの人でした」
ハクは、基本的に勇者には様付けをして呼ぶ。
それは国教会からの指示でもあるのだろうが、この時の経験もそうさせているのだろうか。有徳な人物だったのは確かなようだ。
「だから、キキさんが初めてここに来た時……あの面接の日は、本当に緊張していたんですよ。久しぶりに知らない人と話す事になって」
ハクは笑いながら言う。
あの日のハクが緊張していたのはよくわかった。あまり目を合わせようとしなかったし、ちょっとしたアクシデントでもすごく焦っていた。
それにしても、とキキさんは思った。
Barのマスターに当たりそうな人が、話の中で出てこなかった。終戦直後のドサクサで出会った軍人の一人だったのだろうか。
「あ、そうだキキさん」
「ん? なに?」
「今度の休み……ちょっと付き合ってほしいことがあるんですけど……」
「いいわ。明日からのシフトが終わったらで良いなら……なに?」
「えーと……」
ハクは少し考えてから言った。
「墓参り……かな?」
03.
シフト三日目が終わり、普段ならば館に帰るキキさんだが、この時は砦跡に待機していた。
ハクは、ちょっと用があると言って、工房に入っていった。
キキさんは、墓参りとのことであらかじめ持ち込んでいた黒いスーツを着込み、供えるための酒瓶を手にしていた。
クークラにも黒い服を着せた。
これは以前、キキさんが趣味で仕立てたものだ。
クークラの人形の身体を採寸して作った服はまだ何着もある。
すっかり墓参りの格好をした二人が、三角屋根の工房の前で待っていると、ハクがいつもと変わらない服装で出てきた。
手には、氷結晶受領の時にしか使わない、金属製の箱を持っていた。
ハクは、二人が着替えているのを不思議そうに眺めていた。
氷の種族には、喪服という観念が無いようだった。
「わたしも、氷の種族の先祖供養の作法は知らないのだけど、どうするの?」
「私もよくわかっていません。北の台地に居た頃の記憶もほとんど無いから……」
「そもそも……墓参りって何?」
クークラの言葉に、ハクは寂しそうに笑いながら言った。
「こんな感じですし。それに母や仲間たちの墓もここにはありません」
「そうね……」
「でも、この砦跡は、ある意味で墓標と言えると思います」
すでに日没近く。
紫に変わりゆく夕日が、廃墟となっている砦跡全体を昏く映し出している。
それは、かつての激戦の跡でもあった。
「何年か前に母の魂がとどまっていると二人に聞いて、ずっと考えていたんです。母に感謝を表したいって。墓参りの作法はわからないけど、それを知っていても、ここではあまり意味を成さないんじゃないかって」
確かに、普通の環境ではない。
「だから私なりに、母や、その仲間たちに思いを馳せることを以って、砦跡での墓参りにしたいと思います」
ハクは、そう言いながら、手に持っていた箱の蓋を開けた。
凄まじい冷気が流れ出す。
ハクを中心に、下生えの草に白い霜が降り、登り始めた月の光を浴びてキラキラと輝いた。
ハクは、氷の種族としての能力でその冷気をコントロールして、箱のなかに押し留めた。
そして、箱の中身の氷結晶を取り出すと、調度よい大きさの石を見つけ、その上に置いた。
月光に照らされたその氷結晶は、キキさんがかつて見たことのあるものの中でも、最も繊細で、最も美しかった。
「あれ以来、工房に篭もる頻度を上げて、余計に手間を掛けて創った特別製の氷結晶です。自分が創ったものとしても最高傑作と言っていいものに仕上がりました」
と、ハクは少し誇らしげに言った。
「これを創れるほどになったということを、母に報告したいんです」
「それがお墓参り?」
「ここでは。それがお墓参りです」
「うん……」
ミティシェーリの魂が、ハクの周りに集まってくる。キキさんとクークラはそれを感じ取っていた。
「なるほどね、確かにこれは……」
お墓参りだわ、とキキさんは思った。
04.
ハクはミティシェーリの魂を感じ取ることは出来ないはずだ。
しかし、そう考えていたクークラの目の前で、ハクはまるでその魂が集まってくるのが分かっているかのように、宙に向かって話しだした。
お母さん。
今まで心配をかけてごめんなさい。
でも。
もう大丈夫です。
今の私は、一人ではなく、自分の子であるクークラと、助けてくれる友人に恵まれました。
ここには居ないけど、お母さんをずっと守ってくれたゲーエルーさんも元気です。
お母さんに教えてもらった氷結晶創りも。
私なりに技術を高めて、ここまで昇華することが出来ました。
まだまだ至らないところも多いけど。
でも昔みたいに。
泣いているだけ、我慢しているだけの。
そんな私ではなくなりました。
見守っていてくれてありがとう。
それを知った時、本当に嬉しかった。
ありがとう。
それを伝えたかった。
お母さん。
ありがとう。
本当に。ありがとう。
宙に向かって話すハクを、クークラはなぜか嬉しく思った。
その想いを共有したくなり、振り返ってキキさんを見る。
キキさんは、ハンカチで眼を抑えていた。
クークラはびっくりして、なぜか見てはいけないような気がし、慌ててハクに目線を戻した。
キキさんが「ハクは強くなった……」と独りごちる声が聞こえた。
ハクがひとしきり感謝の言葉を述べ終わり、二人の方に振り向いた。
月の明かりに照らされて微笑むハクは美しく、彼女の子であることを、クークラは誇らしく思った。
恐る恐るキキさんの方を見てみると、その顔には涙の跡など微塵も残っておらず、むしろ普段よりもキリっとした表情をしていた。
クークラは、なぜだか少しホッとした。
キキさんは、それでこそキキさんだと思った。
ハクは箱に氷結晶を戻した。
蓋を閉めると、クークラがハクに話しかけた。
「この氷結晶も提出しちゃうの?」
「これを創っていたことはスヴェシさんも知っているし、氷結晶は完全に管理されている以上、当然、これも提出します。まぁ墓参りのために創っていたとは思ってもいないでしょうけど」
「せっかくの記念の品なのに……」
国教会もスヴェシも嫌いなクークラは、不満を隠さなかった。
「墓参りは、モノが重要なんじゃなくて、自分が故人に何を伝えたかったのかが重要なのよ、多分。だから、これ自体にそんなに拘る必要はないの」
「それでも……墓参りのために心を込めて創ったものなのでしょう? 作品としても、以前のものにもまして美しいのに……」
キキさんがクークラの肩に手をおいて言った。
「キキさん。これからも氷結晶は創れますし、多分、これ以上のものも、そのうちモノにする事が出来ると思います」
ハクは自信を持って、そう答えた。
「だから、惜しくはないんです」
……
…………
翌日。
キキさんが館に帰った後。
ハクと二人きりになったクークラは言った。
「墓参りの時……」
「うん?」
「ボク、いつもよりもはっきりとミティシェーリの魂を認識できたんだ」
「お母さん、喜んでくれてたのかな?」
「多分。……それで……」
クークラは少しだけ言いよどんだ。
「……同じような機会があれば、ボクはミティシェーリの魂を選別して、モノに宿らせることが出来る……と、思う」
「それって……」
「生前のハクのお母さんが復活するってわけじゃないけど。でも……多分これはキキさんにも出来ない」
ハクは、ギュッとクークラを抱きしめた。
「ハクはどうしたい?」
「お母さんには会いたい。けど……」
ハクはクークラの額に自分の額を当てて言った。
「けど……それはしてはいけないことだと思う」
「なんで?」
「生と死には、きっと犯してはいけない境界があるの」
「それって……寂しくないの?」
「寂しいよ。でも……親しい人との別れに囚われてしまっては、生き物は前に進めない」
ハクはクークラの眼を見る。
「私は……そう、まだまだ先の話だけど、私は貴方より先に死にます」
「……そんな……」
「いい、クークラ。その時、貴方は、その悲しみを克服することで前に進みなさい。そうした後、たまに思い出してくれれば、私はそれで十分に満足すると思う」
ハクの言葉を聞き、クークラが黙ってしがみついて来た。
「皆が皆、同じ考えではないと思うけど。でもクークラ。私はそう考えているの」
ハクは、クークラの身体を、しっかりと抱きとめた。
第三章:ある春の一日
01.
夏への衣替えなどを終えた晩春のとある日。
季節の変わり目の慌ただしさから開放され、砦跡には虚脱感にも似た雰囲気が漂っていた。
その日。
キキさんは、日課である掃除をしていた。
普段は掃除と別の仕事を平行して行うのだが、一仕事終えた後である。今日は他にやることがない。
参謀本部の二階に並ぶ小部屋を、手際よく一つづつ片付けていく。
もう三十年近く……キキさんの時間感覚を人間の意識に直しても三年くらいはずっとここで仕事をしてきた。勝手知ったるとはこのことで、丁寧にやっても午前中に終わってしまいそうだ。
そうだ。と、キキさんは思い立った。
今日はヒカリムシの捕獲もしておきましょうか。
二階の部屋の掃除の後は、野良着に着替えて森の中からヒカリムシを採取してこよう。灯台の光量はさほど落ちていないが、今年はまだスヴェシが来ていない。
訪問の前に換えておいても良いだろう。
その頃。
クークラは別の部屋で、アニメートのテストを兼ねた掃除をしていた。
部屋一面に、小さな人形がいっぱい歩きまわり、玩具のような掃除道具を手にチョコマカと仕事をしている。
人形は、キキさんがプライベートで作ったものも幾つかあるが、多くはクークラとハクの手によるものだ。
キキさんに作り方を教えてもらい、クークラがアニメートのための魔道具として人形を作っているのを見て、ハクが興味を示し、手伝ってくれた。
人形は作り手によって作風が違い、それがさらに動きの違いにもなっている。
キキさんの人形は、グループを作って一定の範囲を協力して綺麗にしている。他の人形への指示も出しているようだ。
クークラが作ったものは、箒を水に浸したり、雑巾でゴミを掃き取ろうとしたりするなど、実験的なやり方を試しては失敗し、また別のやり方を模索することが多い。
ハクの作った人形は、基本的には真面目にやっているのだが、ある程度の時間が過ぎると休んでしまう。あまり掃除が好きではないのがわかる。
クークラは、メモを取りながらそれらを観察していた。
それにしても。
やはり自分は、アニメートで動くものが好きらしい。この小さな子たちの動きを見ているだけで、なにやら嬉しくなってくる。
自分が、アニメートで動くものや、自然発生的に生まれる付喪神と同質の生き物であることは実感として持っている。
ならば術を極めれば、自分と同じくらい高性能な存在も、アニメートで創りだせるようになるのではないだろうか。
命令と反応で動くだけではない、意思を持つような存在を創ることが、いつしかクークラの遠い目標となっていた。
もしも完成したら。
それはハクにおける自分のような存在……自分にとっての子供と言える存在となることだろう。
その夜。
キキさんがクークラの協力を頼んで、参謀本部内全部のヒカリムシの入れ替えを終えた。
ハクが工房からフラフラになって戻って来て、室内が明るくなっているとビックリしていた。
リビングとして設定してある一階の一部屋に三人が集まる。
お腹がすいたと言うハクのため、クークラは外にある冷温倉庫へと走った。
そこは崩れ落ちた尖塔を利用した小さく不格好な蔵で、崩れないように補強し、隙間を埋め、内部には棚を設置してある。
蔵の中央には、作成に失敗したという氷結晶が据えられており、内部は常に冷温に保たれていた。
キキさんの書いたメモを見ながら、クークラは肉とタマネギ、人参、キャベツ、そして真っ赤な丸い根菜であるビーツを手にとった。
食材を入れた手提げの籠を持つクークラが、月明かりの下、灰色で四角い参謀本部へと戻って行った。
02.
クークラの持ってきた食材を使い、キキさんは陶器製の小さな鍋を使ってボルシチを作った。
本来ならば竈に火を入れるのだが、今日はヒカリムシの採取を張り切りすぎて疲れたので……と、言い訳をしながら、魔術で熾した火を使っていた。
普通の炎ではない。闇のような真っ黒い炎だった。
キキさんに出された紅いスープと、丸いフカフカの小さな揚げパンを、ハクは美味しそうに頬張った。
身体を持たない生物であるクークラは、この食事を取るという感覚がよくわかっていない。ハクの表情を見るに、楽しく幸せなことなのだとは思うのだが、人形の身体は食物を食べられるようにはできていなかった。
もしも生物に乗り移ったら、何か新しい体験が出来るのだろうか。
七割方まで食べて、ハクもやっと一息ついたらしく、三人の会話が始まった。
「今年は、まだスヴェシさんが来ないんです。どうしたんだろう」
「いいよ、スヴェシなんて来なくても」
「そういう問題では無いと思いますわ、クークラさん。しかしまぁ、準備は出来ておりますし、案じていても仕方のないことではありますね」
「確かに。でも出来れば早く終わらせたいんですよね。この待っている間が一番イヤというか……」
「気持ちはわかるよ。あれだよね、ボクが何かイタズラをして、証拠は隠したけど見つからないかどうかドキドキしている期間みたいな……」
クークラの言葉に、大人二人は顔を見合わせた。
違わないのだろうが、肯定していいものなのだろうか?
「……あ、いや、今は何もしていないよ。本当に。……そうだ、音楽をかけよっか」
大人の沈黙にイヤなものを感じたクークラが、強引に話題を変えた。
「……まぁ……いいけど。ええと、私アレが聞きたいな。四月の曲」
「わかった。ちょっと待って」
クークラは、小さな本棚から一冊の本を取り出した。それは何年か前にキキさんがクークラの誕生日……初めて現在の身体に乗り移った日を記念してプレゼントしてくれた楽譜集の一冊だった。
クークラは、ガレキの中から見つけた小さなラッパを木製の書見台に括りつけた装置に、その楽譜集を置いた。
楽譜集には「四季」とタイトルが打たれており、季節の移り変わりがモチーフとなっている十二曲のピアノ用の楽譜が収録されていた。
曲のはじめにはそれぞれ詩が挟まれる。
四月の詩は、雪割草という題名だった。
クークラが装置にアニメートの術をかけると、楽譜集は勝手にページをめくり、ラッパから雪割草の詩が流れ出した。
明るい光が積もった雪を通してかすかに光り
こんなに青く清らかな雪割草が輝いている
古い運命への涙の最後
そして幸福の夢への最初のあこがれ
詩が終わると、楽譜に記された音楽が、ちょうどいい、心地良い音量で部屋を満たす。
クークラは、切れてしまっている自分の耳を少しだけ触った。裂けて行かないように縫い合わせてはいるが、キキさんの服飾技術をもってしても、傷口がわからないように修復するのは不可能だった。
だが、クークラはそれで良いと思っている。
今でも、何かに迷った時には耳に触る。それでいろいろと落ち着くことが出来るのだ。
ハクが食事を終えると、キキさんが
「もう夜も遅くなってきたので、お二人ともそろそろお休みください」
と言った。
風呂にはすでに冷水が張られており、ハクはそれに入った。
人形の身体のクークラは風呂には入らないが、キキさんに服を脱がされて身体を拭かれた。
二人がパジャマに着替えて寝室に入った後。
キキさんはついでに作っておいたボルシチを温めなおして食べ、ハクが入った後で凍りつく寸前になっていた冷水を、ブラックファイアの術で温めなおして浸かった。
そして歯を磨いた後は、自室に戻り、軽く読書をして眠りについた。
03.
早朝。
クークラがグラウンドへ出ると、黒いタンクトップにズボンという出で立ちのキキさんが、すでに型の練習をしていた。
クークラはしばらくそれを見ていた。その動きの美しさは、自分の腕が上がれば上がるほど分かってくる。
クークラも鎧に「着替え」て、手合わせを願った。
結果は、キキさんの猛攻の前に粘りながらも捌ききれず、負けた。
キキさんは、やはり自分しか練習相手が居ないのは良くない、伸び悩んでしまっている。本当はいろいろな相手といろいろな状況を想定して練習するのが良いのだが、と、少し息を切らしながら言った。
早朝の余暇の時間が終わり、キキさんが自室に戻ってスポーツウェアから仕事用のメイド服に着替えると、砦跡にノックの音が響き渡った。
スヴェシだろう。
やっと来たか。
キキさんが一階へ降りて、恭しい態度で鉄のドアを開けると、しかしそこにスヴェシは居なかった。
ノッカーを打ち鳴らしていたのはゲーエルーだった。
キキさんは肩透かしを食らった気になったが、お客であることには変わりない。
もてなすのが自分の仕事である……と、思った瞬間。
ゲーエルーは笑顔を見せていきなり抱きついてきた。
「な……! ちょっt!!」
「ついに……ついに時がきたぞ別嬪さん!!」
自分の身体を持ち上げて回転するゲーエルーの顎を、とりあえず掌底で打ち抜くが、ゲーエルーは効いた素振りも見せずに今度は両手を掴んで振り回す。
とにかく嬉しそうなのは確かだった。
何事かという顔をしたクークラと、寝起きのハクがやって来たが、ゲーエルーが今度はハクに抱きつきそうな気配を見せたので、キキさんは後ろから羽交い締めにして止めた。
ハクもその気配を感じたのか、ちょっと距離をおいた。
「な……何があったんです? ゲーエルーさん?」
ハクが怯えた感じで聞いた。
「ああ……すまんすまん。興奮のあまり、つい、な」
「とにかく、落ち着いて話そうよ。居間が良いんじゃない? ボク、とりあえず飲み物を持ってくるよ」
クークラが走って行くと、女性二人が少し警戒しながらゲーエルーをリビングへと導いた。
「いや。すまん」
笑いながらゲーエルーが言った。
「本当に……何があったんです? 陽気なのは知っていましたが、こんなに興奮しているのを見たのはわたくしも初めてです」
居間への道すがら、ゲーエルーの隣を歩きながら、キキさんは聞いた。
「うむ。まぁクークラが戻ってきたら話すよ。いやしかし、もっと細っこいのかと思っていたが、意外と柔らかいな別嬪さん」
キキさんはゲーエルーの向こう脛を蹴ったが、ゲーエルーは平気な顔をしていた。
鉄の塊のような足だった。
04.
国が倒れた。
クークラが持ってきたコップと水差しのうち、水差しの方を手に一気に飲み干してしまったゲーエルーが言った言葉がそれだった。
さすがにキキさんもハクも混乱した。
「……いえ、わたくしも最果ての森と迷いの森を行き来している生活ですから、さほど世情に明るいわけではありません。確かにここ何年かキナ臭い感じはありましたが……。え? 国が……倒れたと言われました?」
「おうよ。数日前にクーデターがあってな」
ゲーエルーは、コップの方の水も飲み干してから言葉を続ける。
「とにかく、オレの知っていることを話す。全員よく聞け」
数日前。
国教会の中央機関である総主教府が、軍の中核であり王都と第二都市グロードに駐留している第一、第二師団と共に武装蜂起した。
大義名分は、政府上層部の汚職。神と、神の遣わした勇者への、目に余る不信心。
堕落。腐敗。
それらの一掃のため、我々は立ち上がると、彼らは言った。
国教会の指摘する政治家たちの汚職問題のため機能不全気味だった政府は、これを抑えることが出来ずに一瞬で占拠され、中央政府は軍事的に掌握された。
象徴的存在とされ、政治とは一線を画していた王族も、その殆どが拘束されているようだ。
総主教府は、自分たちが動けばすべての地方主教区も追随すると考えていたようだが、しかし殆どの主教区がこれに反発。さらに地方の方面部隊も大部分が静観を決め込んだ。
一、二師団はよほど政治腐敗に対して不満をつのらせていたようで、意思統一に失敗した国教会を尻目に、クーデターは現在、軍部主導で進んでいる。
成功するにしろ、失敗に終わるにしろ、もう止まるつもりはなさそうだ。
その状況の中で、王都を脱出した政府残党が一部の地方軍と合流して、クーデターを糾弾。
現状では地方軍も各主教区も統一が取れていないため、クーデター側を引き摺り下ろせるような勢力は存在しないが、しかし旗頭になり得る皇太子が今もって行方不明。師団が捉えそこなったと噂されている。
さらにだ。
これまでは住処である山河の自治に徹して、開発の手には抗戦するものの、政治的には中立だった「森に住む者達」あるいは「山河の義勇軍」と呼ばれる人間ではない者達の勢力が、地方組織としては最も大きなオブラスト地域の方面軍に加勢することを表明した。
おそらくは、次の時代に山河の完全な独立を勝ち取るための布石だろう。
今まで森に住む者たちを率いていたリーダーは、カリスマ性はあったがもっと場当たり的な対応をする奴だったらしいから、この戦略は解せないといえば解せない。内部で何かあったのかもしれん。
それはともかく。
始まってから、わずか数日でこの状況だ。
師団側の計画が練りあげられていたのが大きい。
しかし、そんな大掛かりな準備を秘密裏に、しかも師団二つという大きな規模で。
気付かれもせずによくやったものだ。
政府の無能と怠慢、そして軍の不満。もともとあった火種が、一気に燃え上がった感じか。
現在のところ、クーデター側が圧倒的に優勢だが、地方勢力の離散集合によってはどうなるか先が読めん。
だが。
一つだけ、確実なことがある。
「それってつまり……」
クークラが首を傾げながら聞いた。
「国と国教会。ハクをこの砦に縛り付けている存在が壊れちゃったってこと?」
ゲーエルーが膝を打った。
「その……」
「その通りだ!」
しかし、最後まで言い切ったのは彼ではなかった。
声は部屋の外から聞こえた。
全員の眼が集中したリビングのドアが開けられる。
そこには、七十になった老年のスヴェシが。
血まみれの姿で立っていた。
第四章:ハクの旅立ち
01.
「……あんたが主教スヴェシか?」
ゲーエルーは突如現れた老人を見た。
「……貴様は……」
砦跡の住人以外の男性、それも氷の種族がいたことに、スヴェシは少なからず驚いたようだった。しかし、その冷静さを微塵も失わず、スヴェシはゲーエルーを観察した。
「その風貌……そうか。魔王の護衛官ゲーエルーだな。こんなところで出くわすとは……」
「ほう? 俺のことを知っているのか?」
「ある程度以上の地位にある神品(聖職者)ならば、誰でも分かるはずだ」
「まぁ確かに、そっちの刺客をまきながら逃げ続けているからな」
「それもあるが……勇者様の言語録に、ゲーエルーさえ居なければ、戦争はカニエーツの戦いで終わっていたと記されているのだ」
「カニエーツじゃ、オレは姉御を逃すために時間を稼ぐのが精一杯だったがな。それにしても、奴がそんなことを言っていたとは初耳だ」
「戦史書と矛盾するため、秘匿された文章となった。ある程度以上の神品でなければ、閲覧どころかその存在すら知らされておらん」
「そんなことより!」
男性二人の会話に、ハクが割って入った。
「傷の手当を! このままでは……!」
ハクは血を流すスヴェシに駆け寄る。
しかし、その傷は深かった。
「嬢ちゃん……その男はもう……」
「ハク様。……大変申し上げ難いのですが、すでに手遅れでしょう。スヴェシ……様はあとは死を待つのみの状態に見受けられます」
「そんな……」
スヴェシは、自分の身体がどうなっているのか把握していたのだろう。二人の言葉に落胆することもなく、ただ身体を支えきれなくなってその場に座り込んだ。
「スヴェシ様……何があったのです?」
「クーデターへの賛同を表明した。お陰で反クーデターの旗幟を鮮明にしたオブラスト方面軍に攻められた」
スヴェシは大きくため息を付き、誰に言うでもなく語り始めた。
「私も老いた。人生の最期に、自分の欲しかったものを手に入れようと総主教に加担したが……欲は出すものではないな。クーデターが成功した際の報酬としていただこうと思っていたが、結果はこれだ」
「クーデターに関わっていたのですか……」
「発端はあくまで若い総主教の狂信的な野心と、軍の不満。あるいはそれを呼び起こした政治家や王族の腐敗だ。まぁ私も多少は煽ったがな」
事もなげに言うスヴェシに対して、キキさんが聞いた。
「貴方ほどの方が、それほどまでに欲しかったものとは?」
「なに。単なる宝石よ。他の人間からしたら、なぜそこまで拘ったのかわからないだろうな」
スヴェシは自嘲気味に嗤った。
「そんなことより、なんでここに来たのさ」
スヴェシの事が嫌いなクークラが、不機嫌そうに言った。
「主教ならばそれらしく、信者たちに説教でも垂れながら死ねばいいのに」
全員の眼がクークラに注がれる。
「クークラ!」
叱るハクを片手を上げて制し、スヴェシはクークラに対して言った。
「そちらの仕事はすでに終わらせてきた、魔導生物。私の最後の仕事は、ここが舞台なのだ」
呼吸も苦しそうになってきたスヴェシが、最後の力を振り絞って立ち上がり、ハクに向き合った。
「ミティシェーリ。吹雪を意味する名の魔王。その娘であり、勇者様よりハクの名を与えられたモノに対し、担当主教として最後の仕事を果たしに来た。ハクよ。ハクよ。心して聞け」
02.
「下の大地に死と混乱の風雪をもたらしたミティシェーリ。その再来を防ぐため、我々は彼女の娘を拘束し、自由を奪った」
瀕死のスヴェシは、しかし朗々と声を響かせ、最後の説教を始めた。
「そなたを活かしたのは勇者様の慈悲であり、英断であった。怒りと復讐に飲まれること無く、命じられた誇り高い仕事を、我々は果たしてきた」
クークラは何か言いたそうに眉を釣り上げたが、スヴェシの声には口を挟ませない迫力があった。
「だが魔王の娘よ」
スヴェシはハクの頭に右手を載せて続ける。
「時が経ち、我ら国教会は力を失った。その身を束縛するものは消えた。そなた……貴女は、もはや我々の言葉に縛られる必要はない。自由を得たのだ」
命の最後の炎を燃やし尽くしたかのように、スヴェシは再び身体を支える力を失い、倒れかかった。
ハクが、もたれかかってきた老人の身体を抱きとめ、ゆっくりと床に座らせた。
「貴女の冬は終わった。風雪の時を耐えた雪割草よ。自由に花を咲かせるがいい」
ハクは右の人差し指で涙を拭い、スヴェシの言葉に答えた。
「貴方にしては珍しく、随分と詩的な表現ですね。いつもの説教は、もっと直接的な言葉を使われていたのに」
ハクの言葉を聞いたゲーエルーが、意外そうな表情を見せ、そして肩をがっくりと落とした。
「嬢ちゃん……忘れたのか……」
しかしゲーエルーが言い終わる前に、スヴェシは再び目を見開いた。
「貴女はそれすら忘れてしまったのか!」
屈みこむハクの肩を右手でつかみ、半身を起こす。
「え?」
「ミティシェーリ(吹雪)の娘、プリームラ(雪割草)」
スヴェシは大きく息を吐いた。
「それが貴女の本当の名前だ。勇者様が与えられたハクの名を名乗る必要すら、すでに無いのだ」
スヴェシの手がハクの肩から滑り落ち、その身体を床に伏せた。
「名をお返しする。それが私の、最後の仕事だ」
スヴェシの全身から力が抜けていく。
目をつぶり、沈黙したスヴェシに、突如キキさんが駆け寄った。
「スヴェシ、時間がないから手早く答えなさい。貴方は死後、どうされたい?」
「……この砦跡の片隅に……無銘の墓石でも立てて貰えれば、それ以上のことはない……」
か細く消えていくスヴェシの言葉に、ハクが頷こうとした時、クークラが怒声を上げた。
「なんでここに!? ここはハクのお母さんとその仲間たちの墓標だ! お前の入る余地なんて無い!」
「……聞かれたから答えたまで……。私はお前たちの敵だ、魔導生物。敵の亡骸など、どうしようとそちらの勝手……」
「では。勝手にさせてもらいましょう」
キキさんが死にかけているスヴェシを挟んで、ハクに向き合った。
「ハク様!」
「は……はい!」
「わたくしは考えておりました。貴女は一度ここを離れ、世界を見る旅をするべきです」
キキさんの言葉に、ハクはハッとした。
「確かに、ここに縛られる必要がなくなった以上、私は外の世界を見てみたい。クークラにも、見せてあげたい」
「されど、人には帰る場所が必要。貴女の帰る場所は、ここをおいて他にはありますまい。しかし、人の手がなければ、この砦跡は廃れていくでしょう」
「……では……キキさん、引き続きここの管理を……」
ハクの提案に、しかしキキさんは首を振った。
「わたくしの雇い主は、ハク様御自身ではなく、国教会でした。ですが、それはすでに分裂し、力を失ってしまったようです。
残念そうな顔をするハクに対し、キキさんは言葉を重ねた。
「わたくしが力になれるのはここまで。しかし……」
「しかし?」
「ここに、そろそろ死ぬであろう、敵の身体があります」
03.
キキさんの言葉に、ハクは混乱した。
「え? ……それはどういう意味……?」
二人の会話に、クークラが割って入って、キキさんの代わりに答えた。
「スヴェシの死体にアニメートをかけて、ハウスキーピングの仕事をさせるってことだよね、キキさん。……でも、ボクは反対だ!」
「クークラ……」
「ハクを苦しめた奴の死体に、この砦跡を歩きまわってほしくない!」
「クークラさん。わたくしはハク様に聞いております。また、ことの決定権を持っているのもハク様です」
キキさんはクークラの眼を見て言った。
不満を隠さないクークラの肩に軽く触れてから、キキさんはハクに問いかけた。
「ハク様。クークラさんの意見も含め、貴女はどうお考えに? 時間がありません。即答をお願いします」
ハクは一瞬だけ考えるような表情をした後、床に倒れ伏しているスヴェシに近づき、かがみこんで耳打ちした。
「もしもキキさんの意見を受け入れるのであれば、貴方は長い時を奴隷として過ごすことになるでしょう。ただしその場合は、砦跡に残して行く氷結晶の管理も任せることになります」
他の三人には聞き取れないくらいの小声で、ハクは囁く。
ほとんど意識のないスヴェシの顔に浮かんだ表情を、ハクは確認し、立ち上がった。
そして、確信のある口調で宣言した。
「キキさんの意見を受け入れ、スヴェシさんの亡骸を利用してこの砦跡の管理を任せます」
クークラは顔をしかめたが、しかしハクの言葉に嫌だとは言わない。
「ハクがそう考えるのであれば、ボクは従う。でも、ならばせめてそのアニメートは自分にかけさせて欲しい。最近になってボクはわかったんだ。自分のアニメートの術は、キキさんのそれをすでに凌いだ。今のボクならば、キキさん以上に上手く、アニメートをかけられる」
その言葉を聞いて、キキさんは笑顔を浮かべてクークラを手招きした。
「なんです? ……痛いッ!」
近づいたクークラの額を、キキさんは親指で押さえた中指を弾いて打った。
おでこを両手で押さえて痛がるクークラに、キキさんは言った。
「生意気をいいなさんな。貴方の術が私を上回ったのなど、もう10年も前の話です。今更になって気づくなど、それ自体が未熟の証。……それに、クークラさん、分かっているのでしょう?」
「……このアニメートの使い方は……死体を用い、生と死の境目を曖昧にする……禁術です」
「正解。いえ、あるいはそれ以上に悪い。尊厳ある死を許さず、その死体を奴隷へと貶める。いわば呪いの類です。道を踏み外したヴァーディマが用いたものと同質のものなのです」
キキさんは、クークラを見据えた。
「そんな汚れ仕事はね……」
長身のキキさんは、しゃがんでクークラと目線を合わせ、その額に手を当て、撫ぜる。そして肩を抱き、切れた耳のそばに唇を寄せて囁いた。
「そんな汚れ仕事は、大人に任せておきなさい」
クークラを離すと、キキさんはゲーエルーに目配せした。
ゲーエルーは無言でうなずいて、引き寄せてあった長剣を抜く。
鞘走りの音を聞いて、ハクが身をすくめた。
キキさんは、死を間近に控えた眠りの中に居るスヴェシに対して言った。
「精神を強く保ちなさい。強い感情、強い執着、強い意志。なんでもいい、その精神が強いほど、魂が身体から抜けだしても、生前の姿を保持しやすくなります」
スヴェシの表情はすでに死人のそれだが、魂はまだ身体に宿っている。
「強いほど。生前の記憶や性格を保ったまま、抜け出た魂をそのままの形で身体に還しやすくなります」
キキさんは眼をつむり、光をシャットアウトして、スヴェシの周りにある大気に満ちる魂を認識することに集中しはじめた。
準備が整ったと見たゲーエルーが、長剣でスヴェシの心臓を刺し貫いた。
04.
ゲーエルーの長剣が、素早く静かにスヴェシの心臓に達した瞬間。
身体から魂が抜けだした。
それを認識し、キキさんは操作する。
手応えが強い。
普通ならば、死の瞬間に、記憶や人格といった魂の表層は、大気に満ちる魂の中に霧散する。しかしスヴェシのそれは、不完全ながらも形を保ち、大いなる魂に練りこまれていくことを拒否していた。
キキさんは、スヴェシの精神力に舌を巻いた。
この心の強さ。
本当に、ハクの敵でなければ素直に感服できていたでしょうに。
キキさんは手早くアニメートの術式を完成させ、スヴェシの魂をその死体に通していく。
魂を失った身体でも、魂の回路は残っている。それに従ってアニメートを施していくのは、キキさんにとっても初めての経験だったが、想像していた以上に容易な作業だった。
これが禁術。
禁じられたのは、生と死の狭間を操る禍々しさ故ではない。
アニメートの術を使えるようになりさえすれば、あまりに簡単に死者の軍隊すら作ることが出来てしまう、その容易さこそが、この使用法が禁じられた理由であろう。
スヴェシの魂は、その自我を保ったまま、かつての自分の身体に編み込まれていった。
キキさんのアニメートの術式を通し、その魂は一つの意志を送りつけてきた。
早くせよ。
欲しかったものを手にする、最後の機会なのだ。
この環境では、自我を保つのすら難しい。
しかし、失ってなるものか。
私は身体へと還り、自我を保ったまま手にするのだ。
欲しかったものを。
生涯をかけて欲したものを。
お黙りなさい。
キキさんは、言葉にならない意思をもって、スヴェシの魂と遣り取りをする。
術に集中させなさい。
それにしても。
貴方の強い精神力の根源は、その執着力ですか。
一体……なににそこまで執着しているのやら。
魂の回路の隅々にまで、スヴェシの魂を通していく。
その過程で、キキさんは一つの命令を織り込んでいった。
ハク=プリームラに服従せよ。
スヴェシの身体に再び魂が宿る。
アニメートの術が完成した。
そこには、自我を失わずに復活したスヴェシが居た。
「……成功しました……」
キキさんは、術を終えて大きく息を吐きだした。
スヴェシは新たな自分を確かめるように、指先から肘、肩と順に動かしていき、腰を上げて上半身を起こし、片膝を立てて、そしてゆっくりと立ち上がった。
「ス……スヴェシ……さん?」
ハクがおずおずと声をかけると、スヴェシは無言のままその前にひざまづいた。
ハクは何事かと思い、キキさんを見る。
キキさんは微笑みながら、ただ頷いた。
ハクは仕方ないと覚悟を決め、一度天井を見上げてから大きく息を吸い、スヴェシを見つめた。
「これより、暫くの間、旅に出ます」
「御意」
「その間の砦跡の管理、そして残していく氷結晶の管理をお願いします」
「仰せのままに」
命令を受け答えるスヴェシから、こぼれ落ちるように浮かんだその表情を見て。
ハクは微笑んだ。
「ハクの決めたことだから、ボクは従うよ」
そう言うクークラの表情には、しかし不満の二文字がありありと浮かんでいる。
どうしてもスヴェシを許せないらしい。
「でもね……ボクの部屋には絶対に入っちゃダメだからね!」
ハクは肩をすくめて、スヴェシに話しかけた。
「それも命令に加えます」
スヴェシは抑揚のない声で答えた。
「指示を拝命いたします、プリームラ様」
05.
数日後の早朝。
かわたれ時。
まだ薄暗いながらもわずかな朝日が差し込み、下生えの草が朝露に濡れていた。
ハクはゲーエルーと揃いの、氷の種族の旅装として一般的な灰色のフード付きローブをまとい、クークラはサスペンダー付きのニッカーボッカーズにハイソックスを履き、上は暗い赤ワイン色のシャツに黒っぽいベスト、そしてハンチング帽という、動きやすいが男の子のような格好をしていた。
以前、キキさんが趣味で作った衣装の一つだった。
先導役としてゲーエルーが引率し、下の大地を旅することになっている。
アルバイトを正式に退職したキキさんが、旅立つ三人を見送りに来ていた。
新たな砦跡の管理人となったスヴェシも、高台にある参謀本部の入り口に立ち、彼女たちを見守っている。
「いつまで膨れているの? クークラ」
ハクが呆れたように言った。
ハクは、結局ハクの名を名乗ることにした。プリームラは母からもらった大切な名前だけれど、ハクと呼ばれていた期間のほうがずっと長い。
その間に、自分は挫折をし、成長し、そして再び自由を得た。
自分を自分として名乗るのであれば、ハクの方がしっくり来ると、彼女は考えた。
プリームラの名前は、自分の中に、大切に取っておこう。
キキさんから微妙に距離を取り、むくれていたクークラは、しかしますますそっぽを向いてしまった。
「だって、キキさん、ボクの意見を全然きいてくれないんだもん」
「それは申し訳ないと思っています。しかし……」
キキさんは毅然として答えた。
「わたしは最善の選択をしたと考えています」
クークラは、それを聞いて再び頬を膨らませた。
その姿を見て、大人たち三人の心の中に「反抗期」という言葉が浮かんだ。
これもまた、成長の一つの過程なのであろう。
ただ、別れの時にこうなってしまったのは残念だと、キキさんは思った。
「それでハク。旅の目的は決めたの?」
「ええ。まず最初は、世界を見回りながら、私のたった一人の友達の家を目指してみようかと思います」
ハクは笑いながら答えた。
「なるほどね。そこは歩きでは遠いから、到着するまでに長い時間がかかるけど、その分、色々な土地に寄ることが出来る。悪くない選択だと思うわ」
クーデターとその後に起こった内戦のため、世情は荒れているが、ゲーエルーが一緒ならば身の危険は無いだろう。
むしろ、自分やゲーエルーとの練習しかしてこなかったクークラが、素人相手にその棒術を振るい事故を起こさないかが心配である。
「キキさん!」
クークラが、挑戦的な眼をしながら、キキさんに話しかけた。
「次、会う時には、キキさんがビックリするくらいのアニメート使いになっているからね。覚悟しておいて」
それならば、覚悟ではなくむしろ喜ばしい。
キキさんは、しかしあえて素っ気無い感じで言った。
「楽しみにしていますよ」
そして、クークラを抱き寄せ、囁いた。
「貴方は自慢の弟子です。いつか、誰もたどり着かなかったところまで進みなさい」
クークラは少しだけ照れくさそうにして、キキさんから離れた。
「さて、それじゃそろそろ出発するぞ」
別れを惜しんでいる女性陣に、ゲーエルーが声をかける。
「お二人をお願いしますね、ゲーエルーさん」
「おおよ。任せておけ。じゃぁまたな別嬪さん」
ゲーエルーを追いかけ、振り向かずに、ボロボロのアーチを潜るクークラ。
最後まで手を振りながらこちらを見ているハク。
「では! 近いうちにまた!」
あの墓参り以来、日に日に薄くなっていったミティシェーリの魂の残滓が、彼女たちの周りを取り巻いているのを、キキさんは感じていた。
◇ 往きて還りしルサの物語 ◇
その3:山河の義勇軍
街に住む人間たちに聖域として崇められるようになり、森を侵略する脅威は消え去った。
森に住む者たちは団結して植林を行い、森はゆっくりと戦争のダメージを回復していった。
しかし、森の再生には、破壊にかかった時間の百倍もの年月が必要となる。
森がその力を蓄え直す間、ルサたちのもとには様々なモノが訪れた。
氷の種族を追い払い、意気を上げる人間たちは、国中のいたるところでその生息域を広げつつあった。
山河を拓き、そこに住む者たちを追い払いながら、フロンティアと呼ばれる開拓前線を形成した。
人間たちのフロンティアと接する山河の住民たちは、ルサたちに助力を願いに来ることが多かった。森を守り抜き、ついには侵攻を完全に押し返したルサたちは、彼らの間では有名だったのだ。
ルサは、来るものは拒まず、それぞれの山河の状況をよく聞いて、アドバイスをし、必要とあれば軍事的な指導者になる者たちを派遣した。
時には、自分が他の山河に出向くこともあった。
ルサ本人は深い戦略を立てていたわけではない。
ただ頼られるとそれに応えようとする性格だったし、さらに傍若無人な人間たちへの怒りも、彼女の義憤を煽った。
ルサは、長い眼で見て練らねばならない戦略を立てるのは苦手だったが、その場その場での戦闘に勝利するための戦術眼には優れていた。
状況を読み取る能力、部下たちの力を測る能力、そして周囲の仲間の士気を上げるカリスマ性はずば抜けていた。
だから。
派遣する人材は厳選し、自分もまた前線に出る機会を増やした。
開拓されている土地の者達の性格や、地勢、人間の開拓者たちの規模。それらを調査し、的確に人材を派遣し、それらの前線を見て回った。
先を考えずに人材を派遣し、適材適所の配置が出来なくなることもあった。
そこはルサの戦略面での弱点が出た。
それでも、むしろ戦略を立てるのがうまい参謀のペレギーニャなどの助言、あるいは苦言もあって、ルサ自身もまた自分が決めるべき事柄と、人の意見を聞くべき時を誤らなくなっていった。
もっとも、その直情径行は変わらなかったが。
山河をめぐる攻防戦は、勝つ時もあったし負ける時もあった。
勝てば、その山河にはさらに人員を派遣し、もはや人間に攻めさせないだけの防御を整える。
負ければ、そこは完全に明け渡し、住んでいた者たちを森で受け入れ、別の山河の攻防戦に参加させたり、勝ち取った山河に新たに住まわせるなどして、再配置を行った。
奪われた山河を攻めて取り返すことは厳禁とした。
負けは負け。
ルサはその点はあっさりとしていた。
負けた森のモノたちの恨みを買うこともあったが、ルサは取り合わなかった。
そもそも森に住む者達は人数が少ない。
攻防戦も、その土地の地形を頼りに行わねば人間の数と軍事力には対抗できない。
取り返すような余裕は無かったのだ。
そのような事を繰り返すうち、ルサたちは幾多の戦闘経験を積むことになる。
派遣する人員の軍事指導力も上がり、いわゆる歴戦の猛者たちが多く育っていった。
そして。
時が経つに連れて、戦後の勢いが、人間たちから失われていった。
新たなフロンティアはやがて生まれなくなり、人間たちの領域と、森に住む者達の領域は、だんだんと固定化されていく。
その頃には、森に住む者達は一つの勢力として人間たちに認識されるようになっていた。
人間たちの政治には積極的に関わらないものの、山河を侵す場合には徹底的に抗戦してくる第三勢力。それは山河の義勇軍と呼ばれた。
戦闘が絶えるようになり、人間たちとの関係は小康状態に入っていった。
かつての戦闘で深手を負った森も、百年を過ぎてついに回復した頃。
慌ただしい時期が、いつの間にか終わり。
戦時指導者として有能だったルサの立場が、その価値を失い始める。
時代が変わったが、まだ指導者は以前のまま。
政治を考えなければいけなくなってきたのに、リーダーとして立つルサの本質は軍事の指揮官だった。
見えないところで、様々な歪が生まれ始めていた。
そのような時期に、人間たちの国が突如、大波乱を迎える。
国の中心的な宗教である国教会が、若く狂信的な総主教のもとで、政府と王族の政治的腐敗、宗教的堕落を大義名分に、軍の中核であった第一、第二師団と共に決起。
クーデターを起こし、一夜にして政府中枢を軍事的に占拠したのである。
しかし、総主教府の思惑とは違い、各主教区にわけられる国教会勢力の多くはクーデターに反発。
それぞれが独自の主張を持ち出し、完全に分裂してしまう。
地方に置かれた軍隊もまた独自の動きを見せ、国は完全に内乱状態に陥った。
分裂により力を失った国教会を置き去りにする形で、クーデターは第一、第二師団が強力に主導し推し進めた。
腐敗した政治家の処刑、王族たちの拘束も厭わず、必要に応じて国民にも剣を向けた。
政治の腐敗を一掃するために行動した彼らは、例えクーデターが成功しようが失敗しようが、その最後まで走り切るつもりだった。
この事態に、森に住む者達も無関心ではいられない。
即時、各山河の有力者たちが集められ、今後の方針を定める会議が開かれるのだが。
それはまた別の話。
◇ 往きて還りしルサの物語 ◇
最終話:往きて還りしルサの物語
会議は、ルサ達の森の中にある三角屋根の木造建築で行われた。
百年前の攻防戦において、戦況を一変させたベレギーニャ発案の水攻め。
しかし、そのために森もまたダメージを負い、多くの樹々が失われた。
犠牲になった樹を、森に住む人達は製材し、平屋の建物を作った。
内部は部屋で区切られていない大きな広間になっており、中央に置かれた長机は、失われた樹々の中でも、最も大きく、崇められていたクリの樹で作られていた。
つい先日、人間たちの国でクーデターが起こった。
急報を受け、山河の義勇軍として今後の方針を決める会議を行うため、各地の山河からリーダー格となっている者たちが駆けつけた。
居並ぶ面々の前で、全体の総指導者であるルサが熱弁を振るっていた。
「我々は、かつて弱い存在だった。人間の都合で住処を追われかけ、それに唯々諾々と従おうとすらしていた。しかし、我々は反攻した。幾つもの戦を重ね、犠牲も払った。その過程で強さを得、その強さによって、同じく弱い存在だった同胞たちを守り、育てた」
ルサは続ける。
「我々はこの百年、この強さを、同胞を守るために振るってきた。だが。ただ同胞だから守ったわけではない。弱い者だったから守ったのだ。弱い者を守るために、力を養い、使ったのだ」
声に熱がこもる。
「人間たちが内乱状態に陥るのはもはや明らかだ。戦争によって泣くのは、常に弱い存在の者である。それは、人間であっても、同胞たちであっても同じだ」
しかし、ルサが期待したような反応が、居並ぶ面々から感じられない。どこか白けた空気が流れ始めている。
「我々は、内戦のために追われ泣く者があれば、人間であっても受け入れ、守る。そして戦乱に乗じて不義を成す者があれば、これを討つ。それをこれからの行動方針とする」
賛成の拍手はなかった。ルサは挑戦的な笑みを浮かべた。
「なんだ? 反応が薄いな? 人間を助けるのには反対か? しかし、これはただの正義感で言っているわけではないぞ。人間を助けておくことは、内戦が終わった後の我々の立場にも有利に働くはずだ」
ルサがそこまで言ったところで、彼女の参謀にして腹心、護岸の精であるベレギーニャが鋭く指摘した。
「私達が黙っているのは、人間を守る守らないのような問題が理由ではありません」
「ほう? では何が問題なんだベレギーニャ」
「このような重要な指針の変更を、貴女はなぜ独断でなさろうとする。私達はそれに戸惑い……いいえ、反感を感じているのです」
「しかしベレギーニャ。状況は急変した。今までと同じ方針でいいはずが無いだろう。性急かも知れないが、皆に諮る時間もなかった」
「貴女の言っていることは、方針としては正しい。内戦で泣く立場の人間を助ける。私達はそれを否とは言わない。内戦後の政治的発言力の確立に考えを及ばせる必要性も、確かにある」
「ならば!」
「ですが。その方法が問題なのです」
「……お前ならばどうする。聞かせろ」
「人間を取り込むのには賛成。しかし単に自由独立の集団として第三勢力になってしまっては、いたずらに状況を引っ掻き回し、内戦を長引かせるばかりになります。また、弱い立場の者を助けるだけでは、覇権を握った勢力への発言権など得られない。むしろ戦中戦後に敵対する可能性すらある」
冷静な口調のベレギーニャの語り口は、情熱的なルサとは対象的である。
「まずは内戦を勝ち抜くであろう集団を選定し、それに手を貸す。そしてその集団に出来るだけ早く覇権を握らせるよう協力し、最短時間で内戦を終結させるのです。それで初めて私達は政治的発言力を得ることが出来、また未来における、弱く泣く者の発生を防ぐのです」
「だが! そのやり方では実際に泣くことになる弱い者たちを守ることは出来ない」
「貴女のやり方は、目の前にある千の悲劇を救うでしょう。しかし内戦を長引かせ、将来的には万の悲劇を生み出すのです」
ルサは深くため息を付き、少し考えた。
もともとルサほどに弁が立つわけではないベレギーニャは、緊張した面持ちでルサを見つめた。
「どうやら、今回は私とお前で、考え方が違うようだ」
「私の意見を採択するつもりは、ないと?」
「私がこの集団のリーダーだ。最終的な決定権は私にある。そして、今は納得行くまで話し合う時間はない。目の前に。千の悲劇が生まれ始めているのだ」
「……いいえ。貴女は既にリーダーではない」
「ほう?」
「確かに貴女は私達の英雄だ。貴女が居なければ、私達は百年前にこの森を失い、その後、人間たちのフロンティアが各地の山河を蹂躙したでしょう」
ベレギーニャは、言いながら居並ぶ面々を見回した。その中には、ベレギーニャと共に最も早くルサを支持した盟友、レーシイ、ボジャノーイ、そしてマーフカも居た。
「しかし。私達はもはやあの頃とは違う。ただ抗うしか無かった、あの頃とは違うのです」
ルサは渋面を作りながらも、ベレギーニャの話を遮らなかった。
「貴女は解放者であり反抗者だ。我々に戦う力を与え、無法の侵略に反抗し、私達を解放した。だがもはや状況は変わった。私達は、実力を伴った一個の勢力として独り立ちする時期が来たのです。私達がこれからやることは、自らの解放でも、ましてや反抗でもない。自律なのです」
「簡単なことを難しく表現するのはお前の悪癖だベレ。つまりあれだ。親離れをするべき時が来たと、そう言いたいのだろう?」
ルサは、声を厳しくして言った。
「だがお前がどう言おうと、現在のリーダーは私だ! 誰からも辞めろと言われたことがないからな。そして親とは、子供がいくつになっても、その行動を気にする存在だ」
「子は、親の知らぬ間に大人になるもの。……皆に問う! ルサを今後ともリーダーとして認める者は起立せよ!」
ベレギーニャの声に、立ち上がったのは少数だった。
ルサを支持した少数派の中には山河の義勇軍の中核でもあるマーフカが居たが、ボジャノーイとレーシイは、下を向いたまま座っていた。
マーフカは、アレ? アレ? と言いながら、キョトキョトと周りを見回し、不思議そうな顔をして首を傾げた。
「ベレ……お前、この僅かな期間でどれだけのネマワシを……」
「……かつて貴女を排除しようとした長老たちは、植林の業を伝える際にこう言いました。能く枝葉を伸ばす樹は能く根を張っている、と」
尊敬する者への反抗を成功させたベレギーニャは。
しかし虚脱したように話しだした。
「樹を移植する際、あらかじめ広がった根は、根元を中心に残して切り、細根の発生を促します。そうすることによって、植え付け後の活着を促進し、結果としてより大きな樹に育つ……」
「だから言ったろう。お前は小難しく言い過ぎるんだ。リーダーってのは、果断に、瞬間的に、一発でわかりやすい言葉で話せ」
ルサの言葉には、棘はない。
むしろ明るさがあった。
「なるほど、私はすでに根の中心から外れてしまっていたようだ。根回しすら出来なかった。そんなリーダーに、これからの山河の民を任せることなど出来ん」
「ルサ……私は……」
「胸を張れベレギーニャ。お前は英雄に勝った」
人間との攻防戦でも、ルサは勝ち負けには拘ったが、負けた際には周囲が驚くほどあっさりとそれを認めていた。それでもこんなにも朗らかに負けを宣言したことはなかった。
「……私の負けだ。リーダーの座を辞し、引退する」
数日後。
ルサは密かに旅装を整え、森の外れまで歩いていた。
森の出口に、百年前に見出した、弟子であり仲間であり、家族以上の存在となっていたレーシイ、ボジャノーイ、マーフカ、そしてベレギーニャが待ち受けていた。
「黙って出ていこうと思っていたが……バレバレだったか」
「ルサ。そりゃバレバレですよ。せめて挨拶くらいさせてください」
ルサと同じ褐色の肌に金色の瞳を持つマーフカが言った。
「本当に行くんですか?」
魚の尾を持ち、動物を従える能力を使うレーシイが聞く。
「……寂しい……」
魚のような顔立ちをし、獣の四肢を持つボジャノーイが呟いた。異形のため、表情がよくわからない。
「悪いが、私の役目は終わった。立ち止まってみると……疲れがどっと出た。家に帰って、少し休むよ」
「私たちに……いえ、私には貴女のようなカリスマ性と実戦指揮能力はない。そもそもこれからは再び戦時となります。最有力の将が居なくなるのは大きな痛手なのですが」
「よく言うよ、ベレ。利用できるものを利用しようというその性根は認めるが……、言っただろ。私は家に帰る」
「では……」
…………
「……どうした。何を言いよどむ? どんな苦言でも躊躇わなかったお前らしくもない」
「……ルサ……あなたには私の妻として、側に居てほしい」
「……ベレ……そこまでして私を……いや、この種の話に手管を絡められるお前じゃなかったな」
「是非……是非!」
「……悪い」
ルサは、美しい女性の姿をしたベレギーニャに対して、あっさりと言った。
「私に百合趣味はないんだ。私の好みは、渋いナイスミドルだ」
「…………」
「黙るなよ」
「…………グス…………」
「泣くなよ!」
「だって……」
「だってじゃない! ……まったく……仕方ないな」
ルサは俯くベレギーニャに近寄り、その顎に人差し指をかけて上を向かせた。
そして、その唇を奪った。
「うわ。さすがルサ」
マーフカがなぜだか嬉しそうに言った。
「オレたちには出来ないことだな……」
レーシイが肩をすくめた。
「……ズキュウウン……」
ボジャノーイは表情を変えず、言葉だけで驚きを表していた。
「n……ちょ……ちょっと……」
ベレギーニャが驚きのあまりルサを押しのけるようにして身を引く。
「置き土産だ」
ルサは冷静な口調で言って、もう一度ベレギーニャを抱き寄せ、今度はさっきよりもずっと濃厚なキスをした。
ベレギーニャはもう、ルサのなすがままだった。
しばらくして。
ルサが唇を離すと、ベレギーニャは頬を上気させたまま、呟いた。
「……ズルい……」
「ああそうだ。どうせなら私も何か餞別がほしいな。いや、退職金か?」
「あ。だったらこれをあげます」
マーフカが、呆然としているベレギーニャを押しのけてルサの前に立ち、付けていた深い緑色のイヤリングを外した。
「魔の翠玉!? これは……さすがに受け取れん」
「いいんです。ルサが居なかったら、この運命石も人間の手に落ちていただろうし。国教会が資金調達に使っていたっていう、魔王の娘の氷結晶並の値段がつくと思う」
「むしろ換金なんて出来なさそうだな」
「売ってくれたほうがいいんだけど。縁があったらまた私の手に戻ってくる可能性が高くなるからね」
「お前らしい答えだ。では、受け取らせてもらおう。家で……ただ百年、家の維持を……意地でやっているだろうアホな後輩が居るんだ。いくらなんでも資産は半減しているだろうから、その維持費に当てさせてもらう」
「うん」
「さて、それじゃ本当に行くぞ」
「わかった! じゃぁね!」
「オレたちも頑張る。貴女のことは忘れない」
「……本当に寂しくなる……」
「……あの……もう一回……」
「欲張るなベレ。……じゃぁ」
ルサは手を振って、森の外に駆け出していった。
「またな!」
帰りの旅路。
ルサは一人、呟いた。
「それにしても。なんで私は女にばかりモテるんだろう? 今までにも言い寄られたことは何回もあったけど、八割方女からだったぞ? しかも今回は妻として、かよ」
ルサはため息を付いた。
「ああ、どっかに、フリーで、男らしくて、ダンディで、朗らかなナイスミドルは居ないものかな」
後輩の待つ最果ての森の館に。
こうしてルサは還って行った。
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